――東京都内、某所。多様性坂69が所属するアイドル事務所。
「……悪いが、サヨリのビジネスについて、外部の人間にお話しすることはできない。お引き取り願おうか」
応接室のソファに座る恰幅の良い事務所の社長は、スレイたち裏の掃除屋を前にして、頑なに口を閉ざした。
所属タレントのプライバシーと契約を守る、芸能事務所のトップとしては当然の対応だ。
しかし、相手が悪かった。
「……そうか。ならば、これで話してもらうぞ」
顔面凶器スレイは、懐から一枚の紙切れを取り出し、ローテーブルの上にバシッと叩きつけた。
環萌美内閣総理大臣の裏権力によって、即座に特急で発行された捜査令状である。
「なっ……警察の、ガサ入れだと……!?」
令状の公印を見た瞬間、社長の顔色が劇的に変わった。
「……話してもらおうかしら。株式会社インビシブルカラーと、サヨリとの契約について」
モニカが、冷徹な視線で社長を射抜く。
完全に観念した社長が、重い口を開き、語り始めた顛末は……スレイたちの予想を裏切るものだった。
「……信じてくれ。我々も、完全に騙されていたんだ!」
社長は頭を抱えながら、デスクから契約書の束を引っ張り出した。
「株式会社インビシブルカラーは、次世代のEdTech(教育テクノロジー)ベンチャーを完璧に装って、我々に接触してきた。……資料には、有名な政治家との合成写真や、偽のクリーンな実績がズラリと並べられていたんだ」
「なるほどね。完全にホワイトな優良企業を装って、正規の広告スポンサーとして、事務所と堂々と契約を結んだわけか」
マリアが、その巧妙な手口に舌打ちをする。
「そうだ。我々事務所としては、次世代を担う教育系の素晴らしい企業案件だと完全に信じ込んでしまった。……サヨリがSNSで宣伝している内容が、まさかあんな高額で詐欺まがいのオンライン英会話の集金システムだったなんて、本当に全く知らなかったんだ!」
社長の必死の弁明の言葉に、嘘や誤魔化しは見られなかった。
「……どうりで、契約のスポンサー金額が異常に大きいと思った……。教育への未来の投資だと言われて納得してしまったが、まさか、うちのファンの養分(金)で成り立っていたなんて……!」
後悔に顔を歪める社長。その態度は、どう見ても演技には見えない。
「……モニカ。どう思う?」
スレイが尋ねる。
「ええ。社長の言っていることは本当よ。事務所は、完全に善意の第三者として騙されているだけだわ」
モニカがプロファイリングの結論を出す。
社長が更に続けて言う。
「というのは……この契約の話自体は、サヨリ自身が持ってきたのだよ」
「えぇっ〜?事務所の営業さんとかからじゃないの?」
リルが驚く。
「自分から、こんな詐欺会社の案件を事務所に持ってきたの? どんどん裏がありそうになってきたね。……脅されてる線が濃厚だ〜、マジばいやー」
メイコが腕を組む。
「そうなると……サヨリは、事務所の社長にすら相談できないほどの『ヤバい弱み』を握られて、あの宣伝塔の役割を、たった一人で抱え込んでいるということになりそうね……」
マリアが、痛ましそうに呟いた。
事務所に真実を話せば、莫大な違約金やスキャンダルで、大勢のスタッフやファンに迷惑がかかる。
そのアイドルの優しさや責任感すらも、見えない首輪として利用されているのだ。
「……事情はわかった。我々で対処する」
スレイが立ち上がり、アジトの女性陣と共に事務所から帰ろうと、応接室の扉へ向かった。
――その時だった。
『ガチャッ』
タイミングを合わせたかのように、応接室の重厚な扉が外から開かれた。
「社長、お疲れ様です。次のスケジュールの確認に――」
入ってきたのは。
疲労の色を濃く滲ませた、多様性坂69の絶対的エース。
規格外のグラマラスな体形を控えめな私服で包んだ、今回のターゲット本人であるサヨリだった。
「……あっ」
サヨリは、応接室から出てこようとしていた見知らぬ女性陣(リル、メイコ、マリア、モニカ)の姿を見て、一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにアイドルらしい礼儀正しさで「どうも」とペコリと頭を下げた。
そして。
顔を上げた瞬間に、サヨリの瞳に。
一番後ろに立っていたスレイの巨体が映り込んだ。
「…………えっ?」
サヨリの動きが、完全に停止した。
大きく見開かれた瞳が、漆黒のコートと、ヤクザ顔負けの傷だらけの強面を、信じられないものを見るように、じっと見つめている。
(……なんだ?)
スレイは、ターゲットであるアイドルと初対面を果たしたつもりで、訝しげに眉をひそめた。
次の瞬間。
「……あっ、ああっ……!!」
サヨリの大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は持っていたカバンを床に放り出すと、弾かれたようにスレイの胸元へと飛び込み、その太い腕に力強く抱きついて、子供のように声を上げて泣き出したのだ。
「……また……。また、あなたは……私を助けてくれるのね……ッ!!」
「「「「…………は?」」」」
事務所の応接室が、完全に時を止めた。
モニカが目を丸くし、マリアが絶句し、メイコが「ばいやー」と呟き。
リルが、般若のような顔で震え出す。
そして何より、抱きつかれたスレイ自身が、完全に呆気にとられていた。
(……待て。俺は、この女と会うのは『今日が初めて』のはずだぞ……!? )
初対面のアイドルからの、あまりにも重すぎる涙の抱擁。
裏の掃除屋たちは、この予想外すぎる展開に、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
大粒の涙を流し、すがりつくように抱きついてきた国民的グラビアアイドル。
しかし、漆黒のコートを着たスレイは、微塵も表情を変えることなく、自らの胸元に顔を埋めるサヨリの肩を掴み、静かに、しかし力強く引き離した。
「……悪いが、誰かと勘違いしているようだ」
「えっ……?」
サヨリが、涙に濡れた顔を上げて呆然とする。
「俺は、お前に会ったことはない。人違いだ」
スレイは、すがりつく少女を冷徹に突き放すと、そのまま踵を返し、応接室に残して颯爽と事務所を出て行った。
「あっ……待って……!」
背後から悲痛な声が聞こえたが、裏の掃除屋たちはそれに構うことなく、足早にビルを後にした。
――数分後。事務所の近くの路上。
「……しかし、あの子、相当落ち込んでいたね」
リルが、サヨリの今にも壊れそうな表情を思い出してポツリとこぼした。
「うん。なんか、限界ギリギリって感じで、すっごく切羽詰まってたっしょー」
メイコも、いつもの軽い口調を潜めて同意する。
「ええ。限界のSOSを発しながらも、事務所の社長には自分から話せる状況ではないみたいだし」
マリアが腕を組む。
「やはり、問題は彼女を縛り付けている『サヨリの弱み』ね。それを解き明かさない限り、彼女を根本から救うことはできないわ」
モニカが結論を出した。
……と、そこまで真面目な仕事の話をしたところで。
マリア、モニカ、メイコ、そしてリルの4人の女性陣は、一斉にクルリと振り返り。
背後を歩く大男に向かって、氷点下の冷ややかなジト目を向けた。
「「「「……で?」」」」
「…………」
スレイが、無言で足を止める。
「サヨリちゃんとは、いつ、どこで、どんな深い関係になったわけ? スレイ?」
マリアが、絶対に逃がさないという凄み(修羅場オーラ)を漂わせて尋問を開始する。
「リルがいるのに、浮気はダメなんだよーっ!」
リルがぽかぽかとスレイの背中を叩く。
「……誤解だ。俺は本当に関係ない。ああいう女と会った記憶は、本当にないんだ」
スレイは、数々の修羅場を潜り抜けてきた本能で『最大の危険』を察知し、珍しく早口で、かつ大真面目に否定した。
「……俺は裏社会で数え切れないほどの仕事をしてきた。過去の依頼人の家族であった可能性はあるが、個人的には知らない」
事実、スレイの脳内データベースをいくら検索しても、あの少女の顔と名前はヒットしなかったのだ。
「……ふーん。まぁ、スレイの心拍と発汗を見る限り、嘘をついているようには見えないけどね」
モニカが、プロファイラーの目でスレイの脈拍と瞳孔を観察し、ため息をついた。
「そうなると、今私たちが優先して解くべき問題は、やはりサヨリの弱みだ。……一旦、アジトに戻る」
これ以上の追及を避けるため、スレイは半ば強引に話を打ち切り、全員を新宿へと帰還させた。
――新宿アジト。PCルーム。
「さて。弱みってなんだろうな〜」
リルが、コンソールチェアの背もたれに寄りかかって唸る。
「んー、アタシの予想だけど。若いアイドルで、しかもあの規格外のグラマラス体形っしょ? 一番多いのは、エロ関係(リベンジポルノやパパ活の証拠)だろうねー」
メイコが、現代のSNS社会における、最もありがちな見えない鎖を推測した。
「確かに。あられもない映像や写真を握られているという可能性は、非常に高いわね。それが世に出れば、アイドルとしての生命は完全に終わるもの」
モニカも、そのゲスな推測に同意する。
「……もう一度、徹底的に交友関係と通信履歴を洗ってみるわ」
マリアが猛烈な勢いでキーボードを叩き、サヨリのスマートフォンやSNSの裏アカウント(があればの話だが)、さらには過去の出会い系サイトへの登録履歴などを、ハッキングの網の目で掬い上げようとする。
しかし、数十分後。
「……ダメね。やはり交友関係にも、本人のお金の使い方やプライベートにも、何も問題(黒いところ)はないわ。完全にシロよ」
マリアが降参したように両手を上げた。
「……うーん」
手詰まり感が漂う中。リルがふと、マリアのサブモニターに映し出されていた実家の写真を指差した。
「ねえねぇ、この小料理屋は?」
「あー、田無にあるご両親のお店っしょ。こういう昔ながらの街の料理屋って、アタシすっごくおいしいと思うんだよね〜」
メイコが呑気に食い意地を張ったコメントをする。
しかし、その何気ない会話を聞いた瞬間、モニカの紫色の瞳が鋭く光った。
「……待って。本人が完全にシロだとしたら、弱みを握りやすいのは……家族よ。反社がよく使う、脅しの常套手段だわ」
モニカのプロファイリングが、一つの恐るべき仮説へと辿り着く。
「……マリア! サヨリ本人じゃなくて、そのご両親(小料理屋)の財務状況と、過去の口座履歴を洗って!」
「了解! ……なるほど、そういうことね!」
マリアの指が再びキーボードの上で踊り、裏社会のデータベースから強引に情報を引っこ抜く。
数分後。
モニターに表示された真っ赤な数字の羅列を見て、マリアはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……わかったわ。両親の借金よ」
マリアが、忌々しそうに真実を吐き出した。
「数年前、あの小料理屋の経営が傾いた時に、ご両親が手を出してしまったみたいね。……それも、雪だるま式に膨れ上がる、トイチどころじゃない違法な高金利の、不当な借金(ヤミ金)よ」
「……なるほどな」
スレイが、安物の百円ライターを弄りながら低く唸った。
親の莫大な借金の肩代わり。それも、裏社会のヤミ金からの脅迫。
「もし娘が言うことを聞かなければ、実家の小料理屋に火をつけるか、両親を海に沈める」
……そんな風に脅されていれば、心優しい一人娘が、自らを犠牲にして、悪質な詐欺の広告塔(ピエロ)を演じ続けるには十分すぎる理由になる。
「……これなら、恐喝や出資法違反の罪状がとれるわね。その不当な借金の債権者を辿れば、間違いなくあのオンラインスクールを運営している株式会社インビシブル・カラー(詐欺組織)へと繋げられるはずよ」
モニカが、冷徹な笑みを浮かべて反撃の道筋を示した。
見えない鎖の正体は、エロやスキャンダルなどではなく。
親を想う娘の純粋な「愛情」を逆手に取った、最も卑劣な悪意だった。
最強の暗殺者は、その薄汚い鎖を根元から完全に粉砕するため。
アイドルの実家がある田無の街へと、静かに狙いを定めるのであった。
<6年前>
乾いた風が吹き抜ける、放課後の中学校の屋上。
まだ中学生だったサヨリは、赤く染まり始めた夕焼け空の下で、たった一人、絶望の淵に立たされていた。
『――サヨリちゃん。このままだと、内申点が足りなくて志望校には行けないよ? 』
脳裏にこびりついて離れないのは、担任の男教師の、ねっとりとした爬虫類のような声。
進路相談という名目で誰もいない教室に呼び出され、そこから始まったのは、教育者の皮を被った獣による、卑劣極まりない身体の強要だった。
『ね? 先生もサヨリちゃんのこと特別に思ってるんだ。いいじゃん、1回くらい』
『痛くしないし、ちゃんと避妊するからさ。……秘密にしておけば、進路のことは先生がなんとかしてあげるから』
吐き気がするような甘言。サヨリは恐怖で震えながら、必死に断り続けていた。
しかし、大人の男の腕力と進路という絶対的な権力を前に、中学生の少女が抗える限界は、もうとうの昔に超えていた。
こんなこと、絶対に誰にも言えない。
毎日汗水流して小さな小料理屋を切り盛りしている、大好きなお父さんとお母さん。
二人に、「担任の先生からこんなことをされている」なんて、相談できるはずがなかった。
優しい両親を悲しませたくない。トラブルに巻き込みたくない。その優しさが、サヨリ自身を深い孤独へと追い詰めていた。
(……気持ち悪い、気持ち悪い……ッ!)
思い出すだけで、全身に鳥肌が立つ。
昨日、ついに担任の男教師は強硬手段に出た。
背後からサヨリの細い腕を力任せに掴み、逃げられないように押さえつけると、制服の襟元に顔を埋め、首筋を直接舐め回してきたのだ。
『ひっ……! いやぁッ!!』
サヨリはパニックになり、突き飛ばすようにしてなんとかその場から逃げ出した。
しかし、次の日。学校に来たサヨリの机の中には、担任から
『昨日のこと、校長や親に言ったらどうなるかわかってるよね? 明日の放課後、準備室で待ってるから』という、さらなる露骨な脅しのメモが入っていた。
もう、逃げ場はなかった。
どうすればいいんだろう。誰か助けて。でも、誰も助けてくれない。
明日になれば、あの男にすべてを奪われる。
「……お父さん、お母さん……ごめんなさい……」
サヨリは、ポロポロと涙を溢しながら、屋上の冷たいコンクリートの上にローファーを綺麗に揃えて脱いだ。
裸足のまま、高くそびえ立つ金網のフェンスに足を掛ける。
冷たい金属の感触。
ガシャリ、ガシャリと音を立ててフェンスをよじ登り、その最上段へと身を乗り出した。
下を見下ろせば、目が眩むような高さのコンクリートの地面が広がっている。
怖い。足が震える。
でも、あの男に身体を弄ばれながら生きていく地獄に比べたら。
(……ここからフェンスを越えて飛び降りれば、 私は自由になれる)
サヨリが、覚悟を決めて目を閉じ、冷たい空の底へと身を投げ出そうとした、その時だった。
『――ガチャッ』
背後で、普段は施錠されているはずの屋上の重厚な鉄扉が、乱暴に開け放たれる音が響いた。
「…………え?」
サヨリが驚いて振り返る。
生徒指導の先生だろうか。それとも、あの担任が自分を探しに来たのだろうか。
怯えるサヨリの視界に飛び込んできたのは、そのどちらでもない、完全に異質の存在だった。
「…………チッ」
舌打ちと共に屋上に入ってきたのは。身長2メートルに迫る巨体と、ヤクザ顔負けの傷だらけの強面を持った、漆黒のコートを着たぶっきらぼうな男であった。
彼はサヨリの存在など全く気にも留めていないかのように、無骨な手で懐を探り、咥えたタバコにジッポライターで火を点けようとしている。
(……だ、誰……!?)
サヨリは、フェンスに身を乗り出したまま、完全に思考が停止した。
ここは、ごく普通の中学校の屋上だ。まるで裏社会からそのまま抜け出してきたような、凶悪なオーラを放つ大男が、一体何をやっているのだろうか。
男はタバコを咥えたまま、フェンスの上に立つ裸足の中学生の少女をチラリと一瞥し、極めて面倒くさそうに、そして低い地鳴りのような声で呟いた。
「……おい。そこで何をしている」
男は、咥えていたタバコを携帯灰皿に捨てると、背負っていた細長い黒いケースをコンクリートの床に置き、慣れた手つきでガチャガチャと黒塗りのライフルを組み立て始めた。
そして、信じられないものを見るように固まっているサヨリの方をチラリと一瞥し、微塵の感情もこもっていない無表情のまま、こう言い放った。
「……そこは、俺の射線だ。邪魔だから別の場所にいけ」
フェンスを乗り越え、今まさに飛び降りようとしていた中学生のサヨリ。
「…………え?」
あまりにも理不尽で、あまりにも冷たい、命の重さなど微塵も感じていないプロフェッショナルの言葉。
普通なら「早まるな!」と駆け寄ってくるはずの場面で、突きつけられた極限のドライさ。
その常軌を逸した異常性に、サヨリは完全に毒気を抜かれてしまった。
(……この人、なんなの……?)
恐怖や絶望よりも先に、得体の知れない困惑が勝り、ポロポロと溢れていた涙がピタリと止まった。
サヨリはフェンスにしがみついたまま、ただ呆然と、男の流れるような作業を立ち尽くして見ていることしかできなかった。
『――カチャッ』
男はサヨリの存在など完全に無視し、ライフルのスコープを覗き込むと、遥か遠くの街のどこかへ向けて、静かに引き金を引いた。
微かな発射音。
ターゲットがどうなったのか、サヨリの位置からは見えなかったが、男は「仕事」を終えると、再び無駄のない動きでライフルを解体し、ケースに収めた。
その淀みない一連の動作から、彼が明らかに誰か(人)を殺したのだと、中学生の少女にも本能で理解できた。
男は黒いケースを背負い直し、そのまま踵を返して屋上の扉へ向かって帰ろうとする。
「……待って!」
我に返ったサヨリが、フェンスから降りて必死に声を上げた。
「……なんだ?」
扉に手を掛けた男が、面倒くさそうに首だけで振り返る。
「私のこと……消さないでいいの?」
サヨリは震える声で尋ねた。殺しの現場を一般人に見られたのだ。映画やドラマなら、目撃者である自分も口封じのために殺されるはずだ。
しかし、男は表情一つ変えずに、平然と嘘をついた。
「……俺はただ、鳥を見ていただけだ」
「嘘よ! さっき、遠くの誰かを撃ったでしょ!」
「……そう見えるだけだ。気のせいだ」
あくまでもしらばっくれる男の底知れないオーラに、サヨリの胸の奥で、一つの強烈な感情が湧き上がった。
この人なら。法も、道徳も、常識も通用しないこの異常な男なら、私の地獄を終わらせてくれるかもしれない。
「お願い……! お願いだから、私の依頼を聞いて……ッ!」
サヨリは、立ち去ろうとする男の漆黒のコートの裾を必死に掴み、涙ながらに訴えかけた。
そして、自分がなぜ屋上から飛び降りようとしていたのか、あのセクハラ教師からどんな卑劣な脅迫を受けているのかを、堰を切ったようにすべて語り始めた。
男は無言のまま、少女の悲痛な吐露を最後まで聞き終えると、低く冷徹な声で一つの条件を突きつけた。
「……俺はプロだ。依頼を受けるには、金が必要だ」
「お金……」
サヨリは慌てて、制服のポケットからウサギのキャラクターがプリントされた小さな財布を取り出した。
震える手で中身を確認する。中学生の、なけなしのお小遣い。
千円札が3枚と、百円玉が5枚。十円玉が4枚、一円玉が8枚。
……合計、3,548円。
「…………あっ……」
サヨリの目から、再び絶望の涙がボロボロと溢れ出した。
「……ごめんなさい……。私、お金なんて……これっぽっちしか、持っていないの……ッ」
暗殺を依頼する金額など、到底あるはずもない。
自分がどれだけ惨めで無力な存在かを思い知り、サヨリは財布を握りしめたまま、その場に泣き崩れようとした。
しかし。
男の巨大で無骨な手が、サヨリの小さな手のひらに乗せられた小銭と札を、すべて無造作にかき集めた。
「えっ……?」
男は、その3,548円をコートのポケットに無造作にねじ込むと、サヨリの頭越しに、眼下の学校の敷地を鋭い眼光で見下ろした。
「……依頼を承った」
「……え?」
「今、体育館裏にいる男だな」
男の視線の先には、女子生徒を物色するように歩き回る、あの爬虫類のような担任教師の姿があった。
「……安心しろ。お前の人生の障害は、明日からなくなる」
男は短くそう告げると、狩りに向かう獣のような足取りで、再び屋上の扉へと向かって踵を返した。
その時だった。
『――カランッ』
男が勢いよく翻したコートのポケットから、銀色に光る年季の入ったジッポライターが、ポロリとコンクリートの床に転がり落ちたのだ。
「あっ……!」
サヨリは慌ててそのジッポライターを拾い上げ、「落としましたよ!」と渡そうと顔を上げた。
しかし、すでに屋上の扉は閉ざされており、あのぶっきらぼうな大男の姿は、まるで最初から幻だったかのように、どこにもなくなっていた。
――翌日。
体育館裏で、その担任教師が正体不明の暴漢よって顔面の骨を粉々に砕かれ、両手足を骨折に内臓破裂。
二度と教壇に立てないほどの再起不能の重傷を負って病院送りになったというニュースが、学校中を駆け巡ることになる。
あの男は、たった3,548円で、サヨリの命と人生を救ってくれたのだ。
――そして、現在。
『……また……。また、あなたは私を助けてくれるのね……ッ!』
サヨリが、アイドルの生命を懸けて、たった一人で見えない首輪と戦いながら。
今日まで決して心を折ることなく、耐え抜いてこられた理由。
それは、彼女の胸に大事に忍ばせている、あの日の銀色のジッポライター(お守り)の存在があったからに他ならなかった。
――新宿アジト。PCルーム。
「……なるほど。そういうこと……完全にわかったわ」
猛烈な勢いでキーボードを叩き、サヨリの実家である田無の小料理屋の財務データと、過去の従業員記録を洗っていた天才ハッカーのマリアが、忌々しそうに声を上げた。
「……どういうことだ?」
スレイが尋ねると、マリアはメインモニターに数枚の書類データと、ある若い女の顔写真を映し出した。
「すぐに、萌美総理と大物議員Aの極秘回線に通信を繋ぐわ。……これは、最高に胸糞の悪い話になるわよ」
数秒後、モニターに環萌美内閣総理大臣と、大物議員Aの顔が映し出される。
マリアは、集まった裏の掃除屋たちと国家のトップに向けて、見えない首輪の本当の恐ろしさを語り始めた。
「サヨリのご両親は、自分たちで借金をしたわけじゃない。……数年前、店が忙しかった時期に雇った、あるアルバイトの女によって、完全に罠に嵌められたのよ」
マリアが、モニターの女の顔写真を指差す。
「そのアルバイトの女は、ご両親が厨房や買い出しで留守にした隙を狙って、店の奥から実印と運転免許証を盗み出した。そしてそのまま役所へ行き、本人になりすまして印鑑登録証明書を不正に取得したのよ」
「……マジばいやー。それって、つまり……」
メイコが顔を青ざめさせる。
「ええ。その偽造した証明書と実印を使って、サヨリのご両親を、自分(アルバイト)の莫大な借金の連帯保証人にでっち上げたのよ。そして全ての手続きが終わると、その女は一切の連絡を絶って完全に姿を消したわ」
マリアのプロファイリングに、モニカも冷たい声で同意する。
「……そして翌日には、柄の悪い借金取りが、サヨリのご両親の家に押し寄せてくる。……判子も証明書も完璧に揃っている。法律上、あんたらに返済義務がある、とね。……素人の老夫婦なら、パニックになって反論すらできないわ」
「……つまり。そのアルバイトの女は、最初から株式会社インビシブルカラーが仕込んでいた、プロの詐欺師(潜入工作員)だったということだな」
スレイが、安物のライターを弄りながら、ドス黒い殺気を放った。
サヨリのグラマラスな肉体とアイドルとしての影響力に目をつけた反社組織が。
彼女を脅迫の材料(広告塔)にするために、わざわざ実家の小料理屋に工作員を送り込み、両親を借金地獄に突き落としたのだ。
そのあまりにも卑劣で周到な悪意に。
『……よし、死刑で』
通信越しの古参オタクが、ブチギレた。
大物議員Aが、かつてないほど低く、そして本気の殺意を込めた声で断言した。
『サヨリたんを泣かす者は、全員死刑で!!』
普段の情けない姿はどこへやら、推しを傷つけられたオタクの底知れない怒りが、地下室から爆発している。
『……なるほど。教育ベンチャーなどと嘯いているけれど、完全に反社の仕業ね』
萌美総理も、赤いルージュの唇を冷酷に歪め、氷のような声で同意した。
「よしっ! じゃあ、今からそこに会社にドドーン! と乗り込んじゃうの!?」
リルが、スタンガンをバチバチと鳴らしながら元気よく立ち上がる。
「でもリルたそ。暴れるのはいいけど、ちゃんと逮捕(立件)できるの? 書類上は、ご両親が連帯保証人になってるってことでしょ?」
メイコが冷静なツッコミを入れる。
「ええ。だから、今回の胡散臭いオンライン詐欺の線から攻めるより、まずはこの詐欺による脅迫と公文書偽造の罪状からいくべきね」
モニカが、的確な反撃の糸口を提示する。
「マリアが引き抜いたこのデータと証拠があれば、言い逃れはできない。……そこは完全に、表の警察である山田相姦の部隊が動けるでしょ?」
モニカの視線を受け、モニターの向こうの大物議員Aが頷く。
『そうだな。ただ、相手は高額のオンラインセミナーを隠れ蓑にしている狡猾な連中だ。証拠隠滅を図られる前に、一気に制圧する必要があるが……』
『……ふふっ。そこは私に任せておきなさい』
環萌美総理が、すべてを掌握する魔女のような笑みを浮かべた。
『警察上層部への根回しと、特例の令状は、今すぐ用意させるわ。……あなたたちは、武器の準備でもしておきなさい』
「……了解した」
スレイが漆黒のコートを翻し、銃の弾倉をガチャリと確認する。
偽りの借金で両親を縛り、愛する娘から夢を搾取し続ける見えない鎖。
その鎖を断ち切るための罪状が確定した瞬間――。
最強の暗殺者たちによる、容赦のない制裁の突入(カチコミ)が始まろうとしていた。