おかしな楽譜は奏でる編(前編)
地鳴りのような歓声が、日本武道館の屋根を震わせていた。
「――Thank you, TOKYO!! 愛してるわ!!」
まばゆいスポットライトの中心。ステージの上で銀色の髪を美しくなびかせ、圧倒的な声量と表現力で数万人の観客を魅了しているのは、世界的歌姫(ディーヴァ)である『シルビア・ギンスバーク』。
他ならぬ、最強の暗殺者・スレイの血の繋がった実の姉である。
「キャーーッ!! シルビアーッ!!」
「最高ーーっ!! ばいやーっしょ!!」
熱狂の渦に包まれたアリーナ席の最前列。
(※当然のごとく、身内用の関係者VIP特等席チケットである)
そこでは、リルとメイコが、色とりどりのペンライトを振り回してノリノリで飛び跳ねていた。
一方、その熱狂の裏側。
『……こちらマリア。アリーナ南側ゲート、異常なし。熱狂的なファン数名が柵を乗り越えようとしたけれど、黒服が処理したわ』
『こちらモニカ。監視カメラの映像クリア。不審な持ち込み物も、狙撃の兆候もゼロよ』
武道館の地下に特設されたセキュリティルームでは、マリアとモニカが、無数のモニターに目を光らせていた。
今回の任務は、シルビアの日本公演における『絶対的な護衛』。
国家予算クラスの破格のギャラが積まれているとはいえ、数万人規模の不特定多数が集まるライブ会場での警護は、裏の掃除屋にとっても神経をすり減らす大仕事だ。
「……こちらスレイ。了解した。引き続き警戒を怠るな」
ステージの袖。漆黒のコートに身を包んだスレイは、サングラスの奥で鋭い視線を巡らせながら、インカム越しに短く答えた。
実の姉の命を狙う不測の事態に備え、スレイの肉体は開演から数時間、一瞬の隙も見せない極限の緊張状態を保ち続けていた。
――数時間後。ライブ終了後のVIP楽屋。
「あ〜疲れた! スレちゃん、来てくれてありがとう〜! さっそくだけど、エッチする〜?♡」
汗を拭きながら、シルビアがとびきりの笑顔で実の弟に抱きつこうとする。
「やめんか! いきなり!」
マリアがすかさずハリセン(どこから出した?)で突っ込む。
「ファンが聞いたら、絶望してショック死するわよ!」
モニカが頭を抱える。
(……姉の変態性だけは、一生治らないな……)
スレイは、弟の貞操を狙う肉食獣(姉)の突進を片手でいなし、荒い息を吐きながら冷徹な頭で深々と溜め息をついた。
身内に対する変態性は、もはや手の施しようがない末期症状だ。
しかし数万人の魂を震わせたあのステージ上の音楽の才能、それは間違いなく世界一流の超本物なのだ。
――深夜。
興奮冷めやらぬシルビアを都内の超高級ホテルへと送り届け、破格のギャラを手にしたスレイたち5人は、新宿アジトへと帰還した。
「あーっ、楽しかったー! シルビアお姉ちゃん、すっごくキラキラしてたね!」
リルが、リビングのソファにダイブしながら、まだ夢見心地で足をバタバタさせる。
「マジで最高のライブだったっしょ! スレイ~、また日本公演の時はチケット取ってね(※タダで貰ってね)!」
メイコも興奮気味に、限定ライブTシャツをパタパタと扇いだ。
「あなた達は、任務そっちのけで最前列で踊ってただけでしょ!」
マリアが呆れ顔で突っ込む。
「はいはい、二人とも汗かいたんだから、先にお風呂に入ってきなさい」
モニカが呆れながらも優しい声で二人を風呂場へ追いやり、全員分の冷たいミネラルウォーターをテーブルに並べる。
スレイが水を一気に飲み干し、ようやく一息つこうとした、まさにその時だった。
『――プルルルルッ!』
マルチメディア室のメインコンソールから、特別指定の着信音が鳴り響いた。
画面に表示されたのは、日本の最高権力者の大元である、首相感貞からの直通通信のサイン。
「……休む暇もないな」
スレイはサングラスを掛け直すと、PCUメンバーと共に、光るモニターの前へと歩み寄るのであった。
シャワーを浴びてさっぱりしたリルとメイコも合流し、裏の掃除屋たち5人は、メインモニターに映し出された日本の最高権力者たちと向き合っていた。
『――夜分に申し訳ない。少し急いだほうがいいかもしれない案件でね』
画面の向こうで、大物議員Aが険しい顔で腕を組み、重々しく口を開く。
『中野サンプラザの改築の件は、知っているわね?』
その隣で、環萌美内閣総理大臣が、妖艶な赤いルージュの唇を綻ばせた。
「あーっ! いろんな人がコンサートする有名な場所だよね!」
バスタオルで金髪を拭きながら、リルが無邪気にぽんっと手を叩く。
「今日のシルビア姉さんのライブ、マジで凄かったっしょ! 中野サンプラザも、新しくなったらあんな風にばいやーなライブやるのかなー」
メイコも、さっきまでの武道館の熱狂を思い出して目を輝かせた。
「……元々は、老朽化による建て直しよね。数々の名演が生まれた聖地だけれど」
マリアが、キーボードを叩いて中野駅前の再開発データをモニターの隅に引き出す。
「ええ。もう旧館の取り壊しは終わっていて、現在は巨大な複合施設として鋭意建築中のはずよ」
モニカが、現状のステータスを的確に補足した。
『その通り。既に建築は着手し、骨組みができあがりつつある』
大物議員Aが深く頷き、タブレットを操作して一枚の現場写真をモニターに転送した。
鉄骨が剥き出しになった、巨大な建設現場の深夜の光景。
そして、その冷たいコンクリートの床に、仰向けに倒れている一人の初老の男性の遺体。
『……被害者は、コンサートホールや公共施設の設計を専門に請け負う、アコースティック・コンサルタント(音響設計師)だ。……昨夜、建築中の現場の足場から落ちて、亡くなっているのが発見された』
「…………」
スレイは、サングラスの奥でその凄惨な遺体写真を静かに見つめた。
「パパさんが私達PCUにわざわざ相談してくるということは!」
リルが身を乗り出す。
「……ただの不運な転落事故ではないと、見ているのだな?」
スレイが、地を這うような低い声で結論を紡ぐ。
建設現場での転落事故など、表の警察と労働基準監督署が処理すれば済む話だ。
わざわざ深夜に裏の掃除屋を招集する理由がない。
『……ええ。山田相姦の裏の鑑識部隊の報告では、限りなく事故に見せかけた他殺という線が濃厚よ』
萌美総理が、冷たい声で事の真実を告げる。
「なるほどね。……まず、落ちた場所の真上の足場がおかしいわ」
マリアが現場の3D図面を展開し、遺体の位置から転落の軌道をシミュレーションして指摘する。
「そこは現在、重機が入っている危険な基礎エリアよ。いくら施設の音響設計師と言えど、視察とはいえ1人で立ち入るような場所じゃないわ」
モニカが同調する。
「しかも、深夜だもんね〜。ありえないっしょ」
メイコが言う。
「それに、遺体の状態も不自然だわ」
モニカが、遺体の損傷具合を示すデータをプロファイリングする。
「……彼は、後ろから落ちて背中を強打している。もし足を滑らせた単なる不注意の事故なら、とっさに前かがみになるか、手をつこうとするはず。この落ち方は……」
「……犯人と向き合った体勢で、正面から誰かに強く突き飛ばされた……っていうシミュレーションができるっしょ」
メイコがチート級の頭脳で、モニカの推理を物理的な計算で完全に裏付けた。
音響のスペシャリストは、深夜の建設現場で誰かに呼び出され、あるいは待ち合わせをし……そして、正面から突き落とされた。
「……だが、それだけ明白な殺人(他殺)の状況なら、表の山田相姦部隊でも動けそうだが?」
スレイが、大物議員Aに向かって鋭い問いを投げる。
『……表の警察が関与できない、巨大な理由があるのだ』
大物議員Aが、苦々しい顔で首を振った。
『中野サンプラザの再開発は、国と都が莫大な予算を投じている超巨大プロジェクトだ。もしここで殺人事件として表の警察が本格的な捜査に乗り出せば、真っ先に疑われ、捜査のメスが入るのは……現場を仕切っている建設会社(ゼネコン)だからだ』
「……なるほどな」
スレイは、静かに息を吐き出した。
大手ゼネコンに殺人の容疑がかかれば、現場は即座にストップし、国の威信をかけた大事業が完全に頓挫する。株価は暴落し、経済的な損失は計り知れない。
だからこそ、表沙汰にせず、極秘裏に真犯人と殺意の根源(動機)をあぶり出す必要があるのだ。
「中野サンプラザの、新しい音響設計。……そこに、殺されるほどの何かが隠されているというわけね」
マリアが、紫色の瞳を細めて不敵に微笑んだ。
華やかな音楽の聖地を巡る、血塗られた利権と殺意。
最強の暗殺者と美しきスペシャリストたちは、深夜の新宿アジトで、姿なき犯人が奏でる謎解きへと、静かに足を踏み入れていくのであった。
『――該当の再開発プロジェクトに関わっている、建設会社の資料をそちらのサーバーへ送る。……だが、今のところ表の資金の動きに、特におかしいところは確認できない』
「了解した。すぐにマリアに解析させる」
漆黒のコートを着たスレイが頷くと。隣で妖艶に微笑んでいた環萌美内閣総理大臣が、赤いルージュの唇を舐めて補足を入れた。
『ええ。今回、現場の基礎と骨組みに深く関わっている元請けと下請けは3社よ。……長谷肛コーポレーション、マジメ建設、そして鹿島しい建設ね♡』
総理はそれだけ言い残すと、「ふふっ」と意味深な笑い声を残して、一方的に通信を切ってしまった。
「…………」
スレイは真っ暗になったモニターを見つめながら、サングラスの奥で深々と溜め息を吐いた。
(……もはやこの国に、まともな名前の優良企業は残っていないのかもしれない)
「んー、あむっ」
ソファの上では、お風呂上がりのリルが、棒付きのアイスキャンディーを美味しそうに齧りながら、無邪気に首を傾げていた。
「ねえねえ。お金に変な動きがないってことはさ……その音響を設計するおじさん、工事の現場で何かに気づいちゃった感じなのかな?」
「だねー。ペロッ……あ、美味しいこれ」
隣に座るメイコも、チョコミントのアイスを舐めながら、チート級の頭脳でリルの直感を論理に変換する。
「深夜の現場に呼び出されたか、自分から行ったかはわかんないけど。……そこで、見ちゃいけない何かを見ちゃったとか、そういうやばい線っしょ」
「……その線は大いにあるわね」
モニカが、二人の意見に同意して腕を組む。
「ただし」
マリアが、送られてきた3社の膨大な財務データにさっそく目を通しながら、冷静に付け加えた。
「大物議員Aが言うように、資料を見る限りでは、賄賂や裏金のようなお金の変な動きは一切ないわ。帳簿は綺麗すぎるくらいよ」
「……表の帳簿が綺麗なら、裏の口座や暗号資産(仮想通貨)のロンダリングルートなども洗う必要がありそうだな」
スレイが低い声で唸る。
「マリア、そっちのデータ解析は任せる。……だがどんな時も、まずは足を使うのが基本だ。明日は中野の現場、そして被害者の自宅へ向かう」
裏の仕事であっても、現場百回。それが最強の暗殺者の揺るぎない流儀である。
――翌日。
スレイたち裏の掃除屋の5人は、中野駅前の再開発エリア――中野サンプラザの建て替え現場へと足を踏み入れていた。
すでに旧館の解体は終わり、現在は巨大な鉄骨の骨組みが剥き出しの状態で、空へ向かって伸びている。
「……ひどい足場だな。明らかに、こんな未完成の状態で音響設計師が来るような場所とは思えない」
スレイは、ヘルメットを被って現場の構造を見上げながら、厳しい顔で呟いた。
音響のテストや反響の計算を行うには、少なくとも壁や天井の材質が張られていなければ意味がない。
ただの鉄骨のジャングルに、音響の専門家が深夜に一人でやって来る理由は、仕事上では皆無なのだ。
「明らかに、誰かに呼び出されてやられたって感じだね」
リルが周囲を見回す。
「反響の計算なんて、これじゃ絶対にできないっしょ」
メイコがチート級の頭脳で断言する。
「ここが、転落した場所の真上の足場ね」
モニカが現場の足場をプロファイリングするが、争ったような明確な痕跡や、特におかしい点は発見されなかった。
「そこは危ないから、気を付けてね」
マリアの注意を受け、危険なのでモニカは少し身を引いた。
「……犯人はプロか、あるいはよほど念入りに証拠を隠滅したのだろう」
スレイが、綺麗すぎる現場を見て推測する。
次に一行が向かったのは、被害者である音響設計師の自宅だった。
「わぁ……すっごく立派なお家!」
都内の一等地にある瀟洒な戸建て住宅を見て、リルが目を丸くする。
「……すでに奥様は先立たれていて、彼の一人暮らしだったそうよ。音響コンサルタントの第一人者だったから、仕事柄、かなり裕福だったと言っていいわね」
マリアが、事前に調べていた被害者のプロフィールを読み上げる。
無人の被害者宅の内部へ潜入したスレイたちは、手分けして家の中の探索を始めた。
書斎、リビング、寝室。
「とりあえず、書類や配置の写真はすべて撮っておく」
スレイが、特殊な小型カメラで室内の状況をミリ単位で記録していく。
「あ、あの本棚の資料の背表紙と、デスクの上のメモね。おっけー、覚えたっしょ!」
メイコも持ち前の瞬間記憶能力をフル稼働させ、視界に入るあらゆる文字情報や違和感を、自らの脳内データベース(DB)へと焼き付けていった。
「……目ぼしい隠し金庫や、脅迫状の類は見当たらないな」
一通りの現場検証を終え、スレイはコートの懐にカメラを仕舞い込んだ。
「手掛かりは、資金洗浄ルートの解析と、俺たちが持ち帰る『この現場の記憶』の中にあるはずだ」
スレイたちは被害者宅を後にすると、集めた情報の欠片をパズルのように組み上げるため、環萌美総理と大物議員Aの待つ、首相感貞の極秘地下作戦室へと車を走らせるのであった。
深夜の首相感貞・極秘地下作戦室。
現場と被害者宅の捜索を終えたスレイたちは、円卓の上に持ち帰ったデータのすべてを展開し、手がかりの洗い出しにかかっていた。
「……裏の口座や、暗号資産のロンダリングルートも洗っているけれど。今のところ、建設会社から被害者へ裏金が流れたような形跡は一切ないわ」
マリアが、コンソールを叩きながら険しい顔で首を振る。
円卓の上には、被害者宅から撮影してきた大量の書類、日記、写真、音響設備の設計図、そしてクラシック音楽の楽譜のデータが並べられていた。
「やっぱり、この設計図に何か秘密があるかしら」
モニカが、中野サンプラザの新しいホールの図面を拡大して目を凝らす。
しかし、スレイたち裏の掃除屋のチームに、専門的な建築の知識を持つ者はいない。もしも図面に決定的な欠陥や、不正な手抜き工事の証拠が隠されていたとしても、素人の目にはただの複雑な線の集まりにしか見えなかった。
「……何か異常があれば、違和感として引っかかるはずだが」
スレイも漆黒のサングラスの奥で図面を睨みつけるが、誰もその違和感の正体に気づくことはできない。
「んー……ドー、ソ、ミ……えーっと、ファ?」
傍らでは、リルが、被害者のデスクに残されてい手書きの楽譜のデータを指でなぞりながら、一生懸命に音符を拾い読みしていた。
「……なんか、変なメロディだねぇ」
「あー、それね」
メイコが、極彩色のネイルでその楽譜をツンと突く。
「被害者が死ぬ直前に残した、意味不明な音符の羅列。……ミステリー的に言えば、絶対に暗号が隠されてるパターンっしょ。でも、アタシのチート頭脳と照らし合わせても、アルファベットへの置き換え法則とかは……ないね。ただの音符の羅列だよ」
「……おそらく、怪しいのはあの3社のうちの1社ね」
円卓の奥で、環萌美内閣総理大臣が妖艶な瞳を細めて呟いた。
「長谷肛コーポレーション、マジメ建設、鹿島しい建設。……まさか、巨大ゼネコン3社が完全に結託して不正を行っているなんていう、恐ろしいことはないでしょうけれど」
「…………」
スレイは黙って立ち上がり、コートの懐に愛用のハンドガンを滑り込ませた。
「……スレイ?」
「図面や楽譜を見ていても埒が明かない。……俺はもう一度、現場へ向かう」
スレイは短く告げると、マリアたちの制止を聞かずに、足早に特別地下室を後にした。
――深夜。中野駅前・再開発エリア。
スレイは闇に紛れ、再び中野サンプラザの巨大な骨組みの中へと一人で足を踏み入れた。
冷たい夜風が、剥き出しの鉄骨を吹き抜け、不気味な風切り音(まるで狂った管楽器の音)を響かせている。
スレイは警戒を怠らず、被害者の落下点である1階の基礎部分へと歩み寄った。
懐中電灯の光を極限まで絞り、コンクリートの床や周囲の鉄骨を照らす。
(……やはり、何もない。血痕も、争った跡も完全に清掃されている)
深夜の静寂の中で調査をすれば何かわかると思ったが、そうでもなさそうだ。
スレイがそう判断し、視線を上に向けようとした――まさに、その瞬間だった。
『――ヒュッ!!』
頭上から、空気を切り裂くような異音が降ってきた。
(上か……ッ!)
スレイの人間離れした暗殺者の直感が、極限の警鐘を鳴らす。
スレイは考えるよりも早く、バネのように巨体を横へと弾き飛ばした。
『ドガァァンッ!!』
直前までスレイが立っていたコンクリートの床に、頭上の高所から落下してきた巨大な石(コンクリートの塊)が激突し、粉々に砕け散った。
「……ッ!」
完全に直撃は避けたものの、鋭く弾け飛んだ破片の一つが、スレイのこめかみを鋭く掠めた。
単なる足場からの落下物ではない。
スレイの真上から、スレイを正確に狙い澄まして落とされた、明確な殺意。
「……そこか!」
スレイは体勢を崩したまま、懐からハンドガンを引き抜き、暗闇の骨組みの上方へ向けて数発の銃弾を連続で撃ち放った。
『パァン! パァン! パァンッ!』
銃弾が鉄骨に当たり、甲高い金属音と共に火花を散らす。
しかし、上層の足場からは悲鳴も、足音すらも返ってこない。不気味なほどの無反応だった。
「……チッ」
スレイの頬を、こめかみから流れた一筋の血が、赤く冷たく伝い落ちていく。
最強の暗殺者である彼に傷を負わせるほどの、恐るべき奇襲。
スレイは血を拭うこともせず、銃を構えたまま、音もなく鉄骨の足場を駆け上がった。
数秒で石が落とされたはずの上層階へと到達するが……そこには、もはや誰の姿もなかった。
(……行き違いになったか。それとも、よほどこの現場の構造を熟知しているのか)
吹き抜ける夜風の中。
スレイは、自分を殺そうとした見えない敵が潜む中野の巨大な骨組みを見下ろしながら、サングラスの奥で静かに、そして激しく怒りの炎を燃え上がらせるのであった。
――首相感貞・極秘地下作戦室。
重厚な扉が開き、そこへ姿を現した漆黒のコートの男を見て、円卓を囲んでいたメンバーの空気が一瞬で凍りついた。
「……スレイ! どうしたの、その血!」
マリアが、血相を変えて椅子から立ち上がる。
「スレイッ! 大丈夫!? すっごく血が出てるよぉっ!」
リルが、半泣きになりながら救急箱を抱えてスレイの元へと駆け寄った。
スレイの右側のこめかみからは、一筋の赤い血が頬を伝い、コートの襟元を濡らしていた。
「……騒ぐな。ただの掠り傷だ」
スレイは平静な声で答えながら円卓の席につき、中野サンプラザの骨組みの中で起きた落石(暗殺未遂)の一部始終を報告した。
「……なるほど。おそらく、昼間に中野サンプラザの現場をウロウロと調査していたのが、連中にバレたのね」
環萌美総理が、赤いルージュの唇を引き結んで不快そうに呟いた。
現場を嗅ぎ回る裏の掃除屋たちを排除しようと、犯人が仕掛けてきた明確な殺意。
「……ここはひとまず、表の警察発表を、ただの不運な転落事故として大々的に報道させるしかないですな」
大物議員Aがシリアスな顔つきで腕を組み、政治的な情報操作を提案する。
「ええ。その案でいきましょう」
萌美総理も深く頷く。
「警察の捜査の結果、他殺の線は消えて事故だった……そう発表すれば、尻尾を掴まれまいと焦っている犯人も、一旦は安心して大人しくなるはずよ。泳がせるには丁度いいわ」
「……痛くない? スレイ、ごめんね……」
円卓の端では、リルが消毒液を含ませたガーゼで、スレイのこめかみの血を優しく、愛おしそうに拭き取っていた。
「……少し染みるが、大丈夫だ。ありがとう、リル」
スレイはリルの献身的な手当てを静かに受け入れながら、サングラスの奥で冷徹な思考を巡らせていた。
(……もし相手が裏社会のプロの暗殺者ならば、確実に銃火器や刃物を使うはずだ。いくら高所とはいえ、上からコンクリート塊を落とすなどという、不確実で古典的な方法は取らない)
スレイの脳内で、犯人像が急速に構築されていく。
深夜の建設現場の足場を音もなく移動し、資材を凶器として利用できる人間。
(……間違いない。俺を殺そうとしたのは、プロの殺し屋じゃない。あの現場の構造を熟知している、建設会社の人間だ)
長谷肛、マジメ、鹿島しい。あの3社のうちのどこかに、音響設計師を突き落とし、スレイの頭上に石を落とした実行犯が潜んでいる。
『――♪〜』
スレイが犯人像を絞り込んだその時、彼の内ポケットに入っていたプライベート用のスマートフォンが、場違いに明るい着信音を鳴らした。
画面に表示された発信者は『姉さん』。
「……こんな夜中に、なんだ」
スレイが通話ボタンを押して耳に当てると、電話の向こうから、甘ったるくもどこか不機嫌そうな、世界的な歌姫の声が響いてきた。
『……スレちゃん。もしかして今、別の女と浮気していない?』
「……は?」
『なんだか今、別の泥棒猫(リル)に触られているような、すっごく嫌な予感がしたのよッ』
遠く離れた場所からリルの手当て(スキンシップ)を感知するという、実の姉・シルビアの恐るべきブラコンセンサーに、スレイは深々と溜め息を吐いた。
「……仕事中だ。用がないなら切るぞ」
『ああっ、待って待って! 切らないでスレちゃん! ……私、珍しく日本ツアー中でこっちにいるじゃない? 明日は完全なオフだから、二人きりでデートしに行こ〜?♡』
普段ならば、この身内への変態性が極まった姉の誘いなど「忙しい」の一言で一蹴するところだ。
しかし、スレイの視線が、円卓の上に広げられたままの一枚のデータ――被害者が残した、誰も解読できない意味不明な音符の羅列(楽譜)――を捉えた瞬間。
(……そうだ。このおかしな楽譜について。世界トップクラスの音楽の才能を持つ人間に聞いてみたい)
「……姉さん」
スレイは電話を切るのをやめ、驚くマリアたちを手で制しながら、極めて真剣な声でシルビアへと告げた。
「明日、少しだけ時間を取ってくれないか。……姉さんに、ちょっと見てほしいものがあるんだ」
『えっ……スレちゃんからの、お誘い……っ!?』
電話の向こうで、世界的歌姫が歓喜に咽び泣く声が聞こえる。
不本意ではあるが、被害者が残したおかしな楽譜を読み解くため。最強の暗殺者は、世界で最も厄介で愛の重い天才ディーヴァを巻き込む決断を下すのであった。