――翌日。新宿の繁華街。
「はい、スレちゃん! あ〜んして!」
休日のカフェのテラス席。
大きなつばの帽子とサングラスで完璧に変装した世界的歌姫・シルビアが、向かいに座る大柄な男の口元へ、スプーンに乗せたケーキを嬉しそうに差し出していた。
「……自分で食える。子供扱いするな」
「ダメよ。姉弟の休日は、あーんが基本でしょ?」
漆黒の私服に身を包んだスレイが、呆れたようにため息をつきながらも、渋々そのケーキを口に運ぶ。
すると、シルビアは「えへへっ」と、最高に幸せそうな笑顔を向けた。
「あっ、スレちゃん。ほっぺにクリームついてるよ。……ちゅっ」
「……ッ、おい!」
シルビアは身を乗り出し、スレイの頬にキスをするようにしてその汚れを舐めとる。
周囲の客からは完全に反社男と美女のバカップルにしか見えないだろうが、二人は血の繋がった正真正銘の実の姉弟である。
「……ねえ、スレちゃん。この後……ホテルでピュッピュッする?♡」
シルビアが、周囲には聞こえない甘く淫靡な声で、耳元で悪魔の囁き(お誘い)をしてくる。
「……しない」
スレイが、氷のように冷たく即答する。
他愛もないゲームセンターでのクレーンゲーム、カフェでのスイーツ、流行りの雑貨屋巡り。
スレイからすれば退屈な時間だ。
しかし世界中からパパラッチに狙われ、有名税のせいでなかなか普通の遊びができないシルビアにとっては、愛する弟とこうして普通の街を歩けること自体が、何にも代えがたい極上のエンターテインメントなのだ。
――数時間後。
「……今日は本当に楽しかったわ〜! 弟とのデート、最高!」
シルビアは満足げに身支度を整えながら、ふと思い出したように振り返る。
「……で、何だっけ? わざわざ私を呼び出して、何か用事があったのよね?」
「……ああ。姉さんに、少し見てほしいものがある」
スレイは冷徹な仕事の顔に戻ると、シルビアを連れて、環萌美総理の待つ首相感貞へと向かった。
――首相感貞・極秘地下作戦室。
「あーっ! シルビアお姉ちゃんだー!」
特別地下室に足を踏み入れたシルビアを見るなり、リルが駆け寄ってきた。
「リルちゃん! メイコちゃんも、昨日は武道館に来てくれてありがとね!」
シルビアが変装の帽子を取って、妹分のように可愛がっている二人にウインクを飛ばす。
「マジばいやー! 姉さん、ライブの翌日なのに、こんな国家のヤバい中枢に来ちゃっていいんすか〜!」
メイコが、極彩色のネイルで円卓やメインモニターを指差して笑った。
「あら、シルビアさん。こんなところまで来てくれるなんて。素晴らしいわ」
環萌美総理が、優雅に微笑んで出迎える。
「えっ……総理!? ここって一体なんなの!歌舞伎町のホテルみたいな悪趣味な外観じゃない!」
シルビアが、作戦室の謎の装飾(ピンクのネオンやエルフの置物)を見てドン引きする。
「えぇ、確かにそうなのよね……」
マリアが頭を痛める。
「深くは聞かないで欲しいわ。いや、私達が聞きたいぐらいよ……」
モニカが遠い目をする。
「……姉さん、悪いが急ぎだ。このデータを見てくれ」
スレイが円卓のモニターに、被害者である音響コンサルタントの自宅から持ち帰った一枚の楽譜のデータを映し出した。
「え? 楽譜? どれどれ……」
世界トップクラスの音楽の才能を持つディーヴァが、その音符の羅列に目を走らせる。
数秒後。
「…………ぶふっ! あははははっ!!」
シルビアは突然、腹を抱えて盛大に爆笑し始めた。
「な、なんだ? 何がおかしい」
スレイが怪訝そうに眉をひそめる。
「何これ? スレちゃん、これほとんど音楽になってないじゃない!」
シルビアは笑い涙を拭いながら、モニターの五線譜を指差して解説を始めた。
「見てよこれ。この曲のコード進行……F・A・C・A・D・Eよ? メジャーコード(長和音)ばかりが不自然に並んでいて、音楽的なまとまりもセオリーも完全に無視してる。こんなの、絶対に曲にならないわ」
「えっ……音楽じゃない?」
リルが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。それに加えて、この楽譜の異常なテンポを見て」
シルビアが、楽譜の左上に書かれた数字を叩く。
「異常なチ〇ポ!?」
リルが目を輝かせる。
「テンポよ! テンポ!」
マリアが、近くにあったバインダーでポカりとリルの頭を叩く。
「簡単に言えば、音楽の速度(速さ)のことよ!」
モニカが補足する。
「BPM 246よ? 1分間に246拍。……どこのヘヴィメタルか、ハードコア・テクノの曲よ! 音響設計のお堅いおじさんが書くようなテンポじゃないわ」
シルビアが断言する。
「……F・A・C・A・D・E。エフ、エー、シー……」
そのアルファベットの羅列を聞いた瞬間、マリアの紫色の瞳が、ハッと見開かれた。
「……英語の綴りね。そのまま読めば、FACADE(ファサード)よ!」
「ファサード……?」
リルが首を傾げる。
「建築用語だっけ。あるいは、一般名詞だよね」
メイコが言う。
「建物の正面外観。転じて……『うわべ、見せかけ、虚偽の表面』 という意味を持つ言葉よ」
モニカが、即座にプロファイリングの焦点を合わせ、冷え切った声でその意味を告げた。
「……ッ!!」
スレイの背筋に、電流のような直感が走った。
「……マジばいやー。つまりこれ、音楽の楽譜なんかじゃない」
メイコが、現場の骨組みの記憶を脳内でフラッシュバックさせながら、震える声で言った。
「音響設計師のおじさんが死ぬ直前に残した、建築会社に対するダイイング・メッセージ。……中野サンプラザの改築工事は、見せかけの偽装(ファサード)が行われているっていう、命懸けの告発っしょ……!!」
コード進行に偽装された英単語と、BPMに隠された数字の意味。
最強の暗殺者と美しきスペシャリストたちは、世界一の歌姫の頭脳を借りて、ついにおかしな楽譜が奏でる『巨大な不正の告発』を聴き届けたのであった。
一枚目の楽譜に隠された『FACADE(見せかけ・偽装)』という決死の告発を解き明かした世界一の歌姫に対し。
漆黒のコートを着たスレイが、タブレットを操作して、さらに二枚の画像データを提示した。
「……姉さん、悪いがもう2枚ある。これも見てほしい」
「ん? なぁに、まだあるの?」
シルビアは美しい銀糸の髪を揺らしながら、モニターに映し出された新たな五線譜へと視線を落とした。
そして、数秒でそのおかしなメロディの法則を完全に見抜く。
「……やっぱり。これも一枚目と全く同じ構成じゃない」
シルビアが呆れたようにため息をつく。
「メジャーコード(長和音)のアルファベットしか使われていないなんて、音楽として絶対におかしいわ。それに、指定されているテンポはどれも全く同じBPM 246よ」
シルビアは極彩色のネイルが施された指先で、二枚の楽譜のコードをそれぞれなぞりながら読み上げた。
「一枚目は『C・A・F・E』。……そして二枚目は『B・A・B・A』ね」
「シー、エー、エフ、イー……。ビー、エー、ビー、エー……」
モニカが、そのアルファベットの羅列を反芻し、ハッと顔を上げた。
「……待って。それって、もしかして……!」
「……CAFE(カフェ)と、BABA(馬場)っしょ!」
メイコが、脳内データベースを高速で検索するまでもなくモニカに続いた。
「で、全部の楽譜に共通しているBPM 246っていう数字! これ、音楽のテンポじゃなくて……国道246号線のことじゃない!?」
「……国道246号線沿いにあるカフェ馬場か!」
スレイのサングラスの奥で、鋭い光が閃いた。
偽装(ファサード)を告発した音響コンサルタントのおじさんは、中野サンプラザの改築工事に関する決定的な何か(証拠)を、国道246号線沿いにあるその喫茶店に隠した。
あるいは、そこで誰かと密会していたのだ。
「……明日、すぐに行ってみる必要があるな」
スレイが低い声で決断を下す。
「あちゃー……私としたことが、一生の不覚だわ」
その時、マリアが、コンソールに突っ伏して悔しそうに頭を抱えた。
「被害者の書斎を探索した時、まさかあの楽譜の束が暗号だとは思わなかったから……全部は持ち帰ってこなかったのよ。目についた数枚を写真に撮っただけで……」
「……マリアの言う通りね」
モニカも、被害者宅の書斎の光景をプロファイリング(記憶からの再構築)して顔をしかめた。
「机の上にあった五線譜の束……おそらく、今解読した3枚の下に、まだあと何枚か別にあったはずよ」
「あー、そうそう! あと数枚あったはずだよ!」
メイコの映像記憶DBが、鮮明にその事実を引っ張り出す。
証拠隠滅を図る建設会社の連中が、すでにあの楽譜の存在に気づき、回収してしまった可能性もある。急がなければならない。
「じゃあ、もう1度お家にお邪魔しないとだね!」
リルが、スタンガンを片手に元気よく手を挙げた。
「マリアっちたち大人組はお留守番してて! アタシがカメラ代わりに、残りの楽譜を全部一瞬で記憶してくるよー! 明日、リルたそと二人で行ってくるっしょ!」
メイコがリルの肩を抱き寄せ、若手コンビでの再潜入任務をノリノリで買って出た。
「……わかった。被害者宅の再捜索は、リルとメイコに任せる」
スレイが二人の提案を了承し、漆黒のコートの懐で愛用のハンドガンの感触を確かめた。
「俺は、カフェ馬場を洗う前に。……それと同時に、もう一度あの現場(中野)へ行く必要がある」
ファサード(見せかけ・偽装)。
そのダイイング・メッセージが意味する、巨大な骨組みに隠された不正の正体。それを見破るためには、やはり現場の構造を直接この目で確かめるしかない。
「……スレイ、気をつけてね。一応、警察発表では事故死としてカモフラージュしているけれど、昨夜あなたに石を落としてきた連中は、完全に裏の掃除屋(私たち)を警戒しているわ」
マリアが、心配そうに紫色の瞳を向ける。
「ああ、わかっている」
スレイは静かに頷いた。
建設現場の闇に潜む、姿なき暗殺者。
シルビアという最高の「鍵」によってこじ開けられたおかしな楽譜の導きに従い、裏の掃除屋たちは、東京をまたにかけた三面作戦へと打って出るのであった。
――翌日。
太陽が昇ると同時に、裏の掃除屋たちは三面作戦へと動き出した。
まずはリルとメイコの若手コンビが、被害者である音響設計師の自宅へと再び潜入した。
「……よかったぁ。犯人側も、あの楽譜が暗号だとは気づかなかったみたいだね」
リルが書斎のデスク周りを確認し、ほっと胸をなでおろす。
昨日から一切手付かずの状態のまま、重なった五線譜の束が残されていた。
「だね。アタシたちの読み通り、別にまだ二枚隠れてたっしょ」
メイコがスマートフォンを取り出し、残っていた4枚目と5枚目の楽譜を鮮明な写真に収める。
「おっけー、アタシの脳内(DB)にも完璧に記憶した! スレイ、シルビアお姉ちゃんにメールで画像送っておくねー!」
「他のは246ってやつじゃないから関係なさそうだね!」リルが続く。
二人は速やかに現場を離脱し、解読の鍵を握る天才ディーヴァのスマートフォン宛てに、残りの五線譜のデータを送信した。
――そして、同日の夕刻。中野駅前・再開発エリア。
「……18時か」
スレイは、現場の周囲を覆う仮囲いの陰に身を潜め、漆黒のサングラスの奥で時計を確認した。
重機の音が止み、ヘルメットを被った作業員たちが次々と現場から引き上げていく。
完全に無人となったのを見計らい、スレイは音もなく中野サンプラザの巨大な骨組みの中へと侵入した。
(……落下点(下)には何もないことは、すでにわかっている)
スレイは1階の基礎部分を一瞥し、すぐに鉄骨の足場を上へと登り始めた。
(ならば、被害者が突き落とされた上を直接確認するしかない)
モニカが見た時は特に何もなかったし、あの時は危険なので詳しくは見れていなかった。
高所での暗闇の探索は危険が伴うため、マリアたちには待機を命じ、スレイ一人の単独潜入である。
冷たい風が吹き抜ける、高層階の骨組み。
スレイが、被害者が立っていたであろう足場の突端へと身を乗り出し、太い鉄骨に足をかけた――その時だった。
『――ボロッ……、ミシィッ!』
「……ッ!?」
足元から。到底、頑丈な鉄骨とは思えないひどく鈍く脆い音が鳴り響き。
スレイの体重を支えていた梁(はり)の一部が、ボロボロと崩れ落ちたのだ。
「危な……ッ!」
スレイは間一髪で前方に跳躍し、隣の強固な足場へと飛び移って、なんとか体勢を立て直した。
眼下の暗闇へと、崩れた破片が吸い込まれるように落ちていく。
「……なんだ、今の感触は」
スレイは冷や汗を拭いながら、今自分が足をかけて崩れた箇所を、懐中電灯で照らし出した。
そこは奇しくも、一昨日の夜、スレイが頭上から石を落とされた際に、とっさにハンドガンで銃撃した場所だった。
ライトの光の先には、銃弾が命中してえぐれた鉄骨の断面が見える。
「…………いや、待て」
スレイは、その断面を見て戦慄した。
9ミリパラベラム弾とはいえ、ただのハンドガン程度で、巨大建築を支える強固な鉄骨がここまで深くえぐれ、軋み、大人の体重をかけただけで崩れ落ちるなど、絶対にあり得ない。
モニカの軽い体重ならば問題なくとも、スレイの大きな体躯で建築が悲鳴をあげたのだ。
スレイはナイフを取り出し、その鉄骨の表面をガリガリと削ってみた。
分厚い塗装(見せかけ)の下から現れたのは、基準を満たす強靭な鋼材などではなく、スッカスカで粗悪な、まるでビスケットのように脆い安価な違法建材だった。
(……FACADE……見せかけ(偽装)!!)
スレイの脳内で、シルビアが解き明かした暗号の意味と、目の前の脆い鉄骨が完全に結びついた。
「……そうか。音響設計師は、この現場で音の反響を確かめた時に、材質の密度がおかしいことに気づいたんだ」
だから彼は、深夜の現場に呼び出され、この偽装された違法建材の足場から突き落とされたのだ。
中野サンプラザという、国と都を巻き込んだ巨大プロジェクトで、ゼネコンが中抜きのために使用していた、恐るべき手抜き工事の決定的な証拠。
――数十分後。首相感貞・極秘地下作戦室。
「……安価な違法建材だ。中野の骨組みは、表面だけを塗装で誤魔化した見せかけ(ファサード)の粗悪品で組み上げられている」
スレイは円卓のモニター越しに、採取してきた違法建材の破片を環萌美総理と大物議員Aへと提示し、事の真実を報告した。
「……マジばいやー。そんなんで巨大なコンサートホール建てたら、地震が来たら一発で崩壊するっしょ……」
メイコが青ざめた顔で呟き、マリアとモニカも怒りに顔をしかめる。
「……長谷肛、マジメ、鹿島しい。この3社のうちのどこか、あるいは複数が、莫大な資材費を中抜きして裏金に回しているということね」
萌美総理が、妖艶な笑みを完全に消し去り、冷酷な国家元首の顔つきで言った。
「あとは、国道246号線沿いのカフェ馬場に隠された証拠と、残りの楽譜の暗号を解くだけだが……」
スレイは報告を終え、私用のスマートフォンを取り出した。しかし、画面には何の通知もない。
「……まだ、姉さんからメールの返信はないな」
スレイが怪訝そうに呟くと、傍らでタブレットを操作していたマリアが、呆れたようにため息をついた。
「そりゃそうよ、スレイ。シルビアは今頃、横浜アリーナで追加公演のステージの真っ最中だもの。いくら極度のブラコンでも、ライブ中にスマホは触れないわよ」
「あ……ああ、そうか。ただ単に本業(ライブ)で忙しいだけか」
「結論としては。中野の現場に関わっているあの3社のうちのどこか、あるいは複数が、安価な違法建材を使って莫大な利益を中抜きしているということよ」
マリアが、3社の財務データを睨みつけながら唸る。
「表の資金の流れには出てこないけれど、どこかで帳簿を操作して支出をごまかし、裏金を作っているはずだわ」
「……マリア、引き続きその金の流れ(裏帳簿)を探ってくれ」
スレイが指示を出し、懐の時計に目を落とす。
「シルビアのライブが終わって、残りの楽譜の暗号(コード)の解読結果が送られてくるまで、まだあと数時間はかかる。……この間に、俺たちは国道246号線沿いのカフェ・馬場へ向かう」
――深夜。国道246号線沿い。
ネオンの光が落ちた大通りにひっそりと佇む、アンティーク調の小さな喫茶店『カフェ・馬場』。
店の外の暗がりに車を停め、スレイは運転席で深く帽子を被り直した。
「……俺は入らない。外で待機する」
スレイが低い声で告げると、凄腕プロファイラーのモニカが苦笑しながら頷いた。
「懸明な判断ね。スレイのその風貌(どう見ても裏社会の殺し屋)で深夜の喫茶店に乗り込んだら、十中八九、犯人側の差し金だと思われて警戒されるわ」
「何かあった時は、すぐに踏み込める用意はしておく。……頼んだぞ」
スレイの援護を受け、モニカ、リル、メイコの女性陣3人が、静かにカフェの扉を開けた。
『カランコロン……』
「いらっしゃい……もう閉店の時間なんですが」
店内でグラスを磨いていた、初老の人の良さそうなマスターが、少し驚いたように3人を出迎えた。
モニカが素早く店内を見回すが、コインロッカーなどの物を隠せる場所は特に見当たらない。しかし、壁には古いギターやサックスなどの楽器が大切に飾られていた。
(……なるほど。被害者である音響設計師(音楽のプロ)の友人像に完璧に当てはまるわね)
モニカがそう直感した通り、被害者はコインロッカーなどの無機質な場所ではなく、このマスターという親友そのものに、命懸けの証拠を託した可能性が高い。
「あのね、マスター」
リルがとてとてとカウンターへ近づき、真っ直ぐな青い瞳で尋ねた。
「マスターは、被害者の音響設計師のおじさんのお友達ですか?」
その名前を出した瞬間。
温和だったマスターの顔つきがサッと強張り、グラスを磨く手がピタリと止まった。
明らかな警戒のサイン。無理もない。親友が不審な死を遂げた直後に、夜更けに突然やって来た見知らぬ女たち。
証拠を隠滅しに来た、犯人側(建設会社)の使いだと疑うのは当然の反応だった。
「……いいえ。ただの常連客ですよ。彼とは、もう随分会っていません」
マスターは目を伏せ、冷たく突き放すように嘘をついた。
「えぇ〜、本当にぃ〜?」
メイコが疑いの目を向ける。
「それは多分嘘だよ!」
しかし、リルはふわりと優しく微笑むと、自分の小さなポシェットの中から1枚の古い写真を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
「……えっ?」
マスターがその写真を見て、息を呑む。
そこに写っていたのは、若い頃のマスターと、被害者である音響設計師が、楽しそうにこの店でセッション(楽器の演奏)をしている姿だった。
「リルたそ、それ……」
メイコが驚いて目を丸くする。
「えへへ。昨日、おじさんの家を調べた時に、あの五線譜(暗号)の束の一番下から見つけたの。いつの間にか持ってきちゃってたんだ」
音響設計師は、自分が殺されるかもしれないと悟った時。
この写真の上に暗号の楽譜を重ねて残すことで、「カフェ馬場にいる親友を頼れ」というメッセージを、見えない誰か(あるいは警察)に託したのだ。
「……音響設計師のおじさんから、託されて来ました。マスターは、おじさんの大切な親友なんでしょ?」
リルの純粋で、一切の嘘がない真っ直ぐな言葉。
張り詰めていたマスターの警戒心が、その一枚の写真と少女の優しさによって、ゆっくりと解けていく。
(……このリルという少女の、人の懐に入る天才的なスキル。本当に恐れ入るわ)
モニカは背後で静かに息を吐き、微笑んだ。
「私たちは警察じゃないけど! 似たようなものだから安心してね!」
メイコがウインクをする。
「……ああ。彼は、私の無二の親友でした」
マスターは目頭を熱くしてその写真を撫でると。カウンターの奥の金庫を開け、厳重に封をされた一つの茶封筒を取り出してきた。
「彼が亡くなる数日前。……『もし俺に何かあったら、これを信頼できる人間に渡してくれ』と、私にこれを預けたんです」
マスターの震える手から、モニカがその茶封筒を静かに受け取る。
中に入っているのは間違いなく、中野サンプラザの違法建築と裏金に関する決定的な証拠だ。
――数十分後。首相感貞・極秘地下作戦室。
カフェでの首尾を終え、無事に茶封筒を回収したスレイたちが地下室へと戻ってきた、まさにその時だった。
『――♪〜』
スレイのスマートフォンが鳴り、横浜アリーナでのライブを大成功で終えたばかりのシルビアから、解読結果のメールが届いた。
「……姉さん(シルビア)からだ。残りの4枚目と5枚目の楽譜のコード進行が解読された」
スレイがモニターにその文字列を転送する。
「えーっと。1つ目のコード進行が……『E・D・A』。そして2つ目のコード進行が、『A・C・A・B・E』ね」
マリアがそのアルファベットを読み上げ、はっと息を呑んだ。
「E・D・A……エダ? A・C・A・B・E……アカベ?」
リルが不思議そうに首を傾げる。
「マジばいやーっ! これ、英語(英単語)じゃない! そのままローマ字読みの日本人の名前(苗字)っしょ!」
メイコのチート頭脳が即座に反応する。
「……江田(エダ)と、赤部(アカベ)……!」
スレイは漆黒のサングラスの奥で、鋭く目を細めた。
FACADE(見せかけ・偽装)。
BPM246(国道246号線沿いの隠し場所)。
そして、EDAとACABEという名指しの告発。
亡き音響設計師が奏でた「おかしな楽譜」の全貌が、ついに巨大な建設会社の闇に潜む二人の標的(元凶)の姿を、鮮明に暗闇へと浮かび上がらせたのであった。