――首相感貞・極秘地下作戦室。
シルビアから送られてきた『EDA(エダ)』と『ACABE(アカベ)』という二つの暗号名。
マリアが、すぐさま中野サンプラザの再開発に関わ3社の名簿データベースへハッキングをかけ、該当する人物を洗い出した。
「……出たわ。江田(エダ)と、赤部(アカベ)ね」
マリアがメインモニターに、二人の初老の男の顔写真と経歴を映し出す。
「どちらも、あの3社のうちの建設会社の重役よ。……江田が営業のトップ、そして赤部が現場の資材管理の責任者ね」
「……間違いなく、ここね。営業が裏金を動かし、資材管理が現場に粗悪品を搬入して中抜きをする。完璧な構図だわ」
モニカが、氷のような視線で二人の顔写真を睨みつけた。
一方、円卓の上では、リルとメイコが、カフェ・馬場のマスターから預かった茶封筒の中身――分厚い書類の束を広げていた。
「……ねえねえ。これって、あの工事のインチキ素材のデータ?」
リルが、ずらりと並んだ建材の成分表や発注書らしき紙を指差して首を傾げる。
「そうだねー。アタシの記憶(DB)にある正規の図面の数値と、この書類の数値、全然違うっしょ」
メイコがチート級の頭脳で瞬時に照合を行い、呆れたようにため息をついた。
「マジばいやー。こんなスッカスカの粗悪な素材で骨組み作ってたら、いつか絶対大事故になるよ」
音響設計師は、自らの命と引き換えに、この決定的な証拠を残してくれたのだ。
「……証拠も、対象の人物も揃った。直ちに奴らの事務所(本社ビル)へ乗り込むか」
漆黒のコートを着たスレイが、懐のハンドガンに手を伸ばしながら低い声で問う。
「いや、それは少し待ってもらおう」
大物議員Aが、腕を組みながら冷静に制止した。
「現在、私はすでに中野サンプラザのプロジェクトを引き継がせる、新しい建設会社を裏で見繕っているところだ。国の一大事業に穴を開けるわけにはいかんからな。……奴らを完全に社会から抹殺するためには、言い逃れのできない決定的な状況(現場)を作る必要がある」
「その通りね。ただ事務所に乗り込んで書類を突きつけても、末端の社員に罪をなすりつけて、トカゲの尻尾切りにされる可能性があるわ」
環萌美総理が、赤いルージュの唇を妖しく歪めて笑った。
「江田と赤部、そして彼らに違法なインチキ素材を卸している悪徳業者。……そいつらを一網打尽にするには、資材の受け取り現場を直接押さえるのが一番よさそうね」
「おそらく、反社の連中もそこに来るでしょうしね」
モニカが同意する。
「……なるほどな」
スレイはサングラスの奥で鋭く目を細めた。
マリアがインターセプトした江田たちの通信記録によれば。
『明後日の深夜、板橋区の工業地域にある寂れた倉庫』で、次の違法建材の大規模な受け渡しが行われる手はずになっている。
おそらく、資材を提供している業者側も、裏社会とズブズブのろくでもない連中に違いない。
「……明後日の夜、板橋の倉庫で現行犯(ホシ)を上げる。さらなる物証と共に、な」
最強の暗殺者の言葉に、チームの全員が静かに、そして力強く頷いた。
――そして、明後日。
深夜。板橋区の工業地域。
東京の端に位置する海風の冷たい倉庫街は、街灯もまばらで、ひどく重苦しい静寂に包まれていた。
その巨大なトタン屋根の第4倉庫を包囲するように、闇夜に溶け込むいくつもの黒い影が息を潜めている。
『……こちらスレイ。配置についた。山田相姦、そちらの状況は』
スレイがインカムのスイッチを押し、極めて静かな声で通信を入れる。
『……こちら山田。我が警視庁の裏部隊(SIT)も、倉庫の出入り口を完全に封鎖した。いつでも突入できる』
通信の向こうから、表の警察トップである山田相姦の低く頼もしい声が返ってくる。
今夜は裏の掃除屋だけでなく、山田が率いる完全武装の特殊部隊も待機し、逃げ場のない鉄壁の布陣が敷かれていた。
スレイの傍らには、スタンガンを握りしめたリルと、タブレットで倉庫内の熱源反応を監視するメイコ、マリア、モニカの姿がある。
『……来たわ。大型のトラックが2台、倉庫の中に入っていく』
少し離れた監視ポイントから、マリアの凛とした声がインカムに響く。
『倉庫の中の熱源反応、およそ十数人。……おそらく、江田と赤部、そして違法建材の納入業者の連中ね』
「……了解した」
スレイは漆黒のコートの懐からハンドガンを抜き放ち、安全装置(セーフティ)を静かに外した。
「……そろそろ、受け渡しが始まる」
カチャリ、と微かな金属音が夜の空気に溶ける。
巨大な不正の証拠と、音響設計師の無念を晴らすため。
裏と表の最強部隊が、板橋の冷たい闇の中で、悪党どもの喉元へ一気に牙を剥こうとしていた。
深夜。板橋区・第4倉庫。
冷たいトタン屋根の下で、違法建材を積んだ大型トラックの荷台が開かれ、分厚い札束の入ったジュラルミンケースが闇業者から建設会社へと渡されようとしていた。
『……受け渡しが、始まったわ』
少し離れた監視ポイントから、マリアがインカム越しに鋭く告げる。
『作戦――開始!』
その合図と同時だった。
「……こんばんは。夜分遅くに精が出ますな」
暗闇の中から、警視庁トップである山田相姦とその部下たちが、足音を響かせながら悠然と(しかし威圧感たっぷりに)歩み出てきた。
「な、なんだお前ら!?」
「警察……!? なぜこんな所に!」
突如現れた武装集団に、闇業者と建設会社の人間たちは何が起こったのかわからず、完全にパニックに陥った。
「逃げるぞ! トラックを出せッ!」
業者の男が運転席へ飛び乗ろうとした、その瞬間。
『――パァンッ!! パァンッ!!』
闇夜を引き裂く鋭い銃声が連続して響き渡り、大型トラックの巨大なタイヤが次々と破裂(パンク)して車体が大きく傾いた。
「……車は使えないぞ」
銃煙を上げるハンドガンを構えながら、スレイとリルが、退路を塞ぐようにしてゆっくりと姿を現す。
「さて」
山田相姦が、懐から一枚の紙切れ(警察の捜査令状)を取り出し、蒼白になっている男たちの目の前へと突きつけた。
「荷物の中身と、その違法建材の仕入先、そして中野への搬入先……。すべて、確認させてもらえますかな?」
警察のトップ直々の令状と、逃げ場のない完全包囲。
完全に「やばい」と悟った闇業者と建設会社の人間たちは、絶望に顔を歪ませた。
「くそっ、散れ! 逃げろ!!」
数人の闇業者が、闇雲に倉庫の奥へと逃げ出そうと駆け出す。
「……無駄だ」
スレイが冷酷な目で逃走者を見張る中、山田相姦の部下たちが瞬時に倉庫の入り口に分厚いバリケードを築き上げた。
「あっちだ! 柵を越えろ!」
強引に金網の柵をよじ登って逃げようとする男たちがいたが、下から相姦の部下たちに足を掴まれ、無惨に引きずり下ろされる。
「逃がさないよーっ! えいっ!」
『――バチバチバチッ!!』
引きずり下ろされた男たちの首筋に、リルが容赦なく高出力のスタンガンを押し当てていく。
「ぎゃあぁぁぁっ!」
悲鳴と共に白目を剥いて痙攣する男たちを、相姦の部下たちが次々と手錠で拘束し、無力化していった。
『……江田の現在位置を確認。スレイ、あの積まれたパレットの裏よ』
インカムから、モニカの的確なナビゲートが飛ぶ。
「……了解した」
スレイはハンドガンを懐に仕舞うと、パレットの裏で震えていた初老の男――営業トップである江田の胸ぐらを、片手で軽々と掴み上げ、宙に吊るした。
「ひっ……! な、なんだ貴様は! 私は、中野サンプラザの再開発を仕切る――」
「……お前が音響設計師を直接殺したわけではないだろうが」
スレイは、命懸けの告発を残して死んでいった男の無念をその巨大な拳に乗せ、江田の言葉を遮るようにして、男の顔面の中央へと容赦のない右ストレートを叩き込んだ。
『――メキョッ!!』
「あぎゃっ……!!?」
わざと鼻骨が完全にへし折れる角度で入れられた強烈な一撃。江田は鼻から大量の血を噴き出しながら、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
『……もう一人の幹部、赤部は……あそこよ、リル』
モニカのナビゲートが続く。
「おっけー! モニカ!」
現場の資材管理責任者である赤部は、腰を抜かして這いずりながら、物陰へと逃げ込もうとしていた。
そこへ、金髪の少女がふわりと軽やかに立ち塞がる。
「ひっ、く、来るな……ッ!」
赤部が恐怖に顔を引きつらせる中、リルは愛用のスタンガンのスイッチを入れ、青白い火花を散らしながら、にっこりと天使のように微笑んだ。
「スレイは鉄拳制裁だったけど……私の場合は、スレイの鉄拳正妻(てっけんせいさい)だよ〜っ!」
『――バチバチバチバチッ!!』
「あばばばばばばっ……!!!」
可愛いダジャレ(殺意高め)と共に、数万ボルトの電流が赤部の全身を駆け巡る。
違法建材を現場に流し込み、暴利を貪っていた男は、口から泡を吹いて完全に気絶した。
「ふふっ。上手いこと言うじゃない、リル」
少し離れた場所で、マリアがクスッと笑いながらコンソールのキーボードを叩き、インカムの全回線へと通信を入れる。
『……対象の確保、および現場の掃除完了よ』
中野の闇に隠された「見せかけ(ファサード)」。
そのすべての元凶である悪党たちは、裏の掃除屋たちと警察の完璧な連携の前に、誰一人逃れることなく一網打尽にされたのであった。
リルによる鉄拳正妻の余韻が残る中、警視庁の山田相姦率いる裏部隊が、手際よくトラックの荷台から違法建材と裏金のジュラルミンケースを押収していく。
「……間違いないな。中野の骨組みに使われていた、あのビスケットのように劣悪なスッカスカの資材と完全に一致する」
漆黒のコートを着たスレイが、ライトで照らされた建材の断面を確認し、静かに頷いた。
インカム越しに、首相感貞の極秘地下作戦室から声が飛ぶ。
『ご苦労さま、スレイ、リル。完璧な制圧だったわ』
モニカが、安堵の息を吐きながら二人を労う。
『マジばいやー! よかったー、これでやっと安心だね!』
『うんっ! これで中野サンプラザが新しくなっても、シルビアお姉ちゃんのライブを安心して見れるよ!』
メイコとリルが、無事に大事件を解決に導いた喜びに声を弾ませた。
その時、マリアが、ふと円卓の奥で優雅に紅茶を飲んでいる最高権力者たちに向かって、純粋な疑問を投げかけた。
「……しかし、総理。一つだけお聞きしたいのですが」
「なぁに? マリア」
「今回の件、私たちは暗号を解読して犯人の名前に辿り着きましたけれど……。総理や大物議員Aは、事件の最初から、なぜこの建設会社が怪しいと当たりをつけていたんです?」
そう、萌美総理たちは、スレイたちが捜査に乗り出す前から、この会社(マジメ建設)に的を絞り、すでに代わりの業者まで手配する準備を進めていたのだ。
どんな高度な政治的情報網を使ったのか。マリアが固唾を飲んでその答えを待つと……。
「……簡単なことだ。明らかに、この会社名が多様性に即していないからね」
大物議員Aが、極めてシリアスで重々しい顔つきのまま、信じられない理由を口にした。
「その通りよ。今のこの日本で、まともな名前のまま公共事業に入り込もうだなんて、裏に何か黒いことを隠しているに決まっているじゃない」
環萌美内閣総理大臣が、赤いルージュの唇を妖しく歪めて笑う。
「……やっぱり、国のトップたるもの、そういった事前調査はキッチリしておかないとダメね。うふふっ」
「「「……えっ、そこなの!?」」」
マリア、モニカ、メイコの三人の声が、見事にハモって響き渡った。
監視カメラの映像の向こう側。
板橋の倉庫から、山田相姦の部下たちによって押収されていくトラックのボディには、デカデカと『マジメ建設』というロゴがプリントされていた。
長谷肛コーポレーション。
鹿島しい建設。
3社のうち、唯一多様性に染まっていなかった、ごく普通の名前の企業。
ただそれだけの理由で、彼らは国家の最高権力者から、真っ先に「クロだ」と目をつけられていたのである。
(……この国のトップは、本当にどうかしている)
スレイはインカム越しにそのやり取りを聞きながら、そっと通信を切り、深い、深いため息を夜風に溶かした。
――数日後。
事件の事後処理は、速やかに、そして厳正に行われた。
中野の現場で音響設計師を突き落とした直接の殺害実行犯は、マジメ建設に雇われていた違法建材の闇業者の男たちだったことが判明した。
営業トップの江田、資材管理の赤部、そして数名の幹部と社員も、癒着と裏金作りの容疑で一斉に逮捕された。
その捜査の中で、あの闇業者の現場監督が、音響設計師を直接突き落としたこともわかってきた。
死の間際、親友のマスターに証拠を託し、天才的な『おかしな楽譜』を残した音響設計師。
彼の決死の告発のおかげで、中野の再開発を揺るがす巨大な不正は、未曾有の大事故を引き起こす前に完全に断ち切られたのだった。
そして、よく晴れた休日の昼下がり。
スレイたち裏の掃除屋の5人は、中野のサブカルチャーの聖地中野ブロードウェイへと遊びに来ていた。
「わぁーっ! メイコちゃん、見て見て! この時計、すっごくかっこいいよ!」
「リルたそ、こっちの服屋さんもマジばいやーっしょ! 行こ!」
「ちょっと二人とも、走らないの」
モニカが優しく窘める。
はしゃぐ若手二人を追いかけていく、平和な光景。
その最後尾を歩いていたスレイは、ふと、駅前の巨大な工事現場の方へと目を向け、足を止めた。
マジメ建設などの幹部の逮捕により、見せかけ(ファサード)の粗悪な骨組みはすべて解体され、現在は新たな建設業者たちの手によって、いちから頑丈に組み直されている真っ最中だった。
(……そういえば、大物議員Aが、すでに別の安全な業者を手配していると言っていたな)
スレイが現場を囲う白いフェンスに沿って歩いていると、一枚の巨大な『工事のお知らせ』の看板が目に留まった。
スレイが立ち止まったことに気づき、前を歩いていたマリアとモニカも「どうしたの?」と戻ってくる。
そして。大人組の3人は、同時にその看板を見上げ――完全に絶句した。
そこには、大物議員Aと萌美総理が厳選した、現在の日本を代表する『超優良・多様性ゼネコンの連名』が、誇らしげに記されていたのである。
――――――――――――――――――――
【 中野チンプラザ 開発計画 】
施工業者共同企業体(JV)
長谷肛コーポレーション
鹿島しい建設
大性建設
――――――――――――――――――――
「…………」
(……サンプラザですら、なくなっているじゃないか……ッ!)
スレイは漆黒のサングラスの奥で、心の中で絶叫した。
「ちょっと待って。大性建設って……」
マリアが、あまりのネーミングの酷さに額を押さえて天を仰ぐ。
「……総理の言う『多様性に即した優良企業の選定基準』って、要するに最低なシモネタパロディになっているかどうかだけなんじゃないの?」
モニカが氷のように冷え切った声で吐き捨てる。
「……ええ。そして何より致命的なのは、施設名が『中野チンプラザ』になっていることよ。どさくさに紛れて、施設名まで変えたでしょこれ!」
マリアが絶望する。
「……音楽の聖地としての面影すら、跡形もなく消え去っているわ。この国のネーミングセンスとモラルは、完全に底を打ったようね」
「……あのおっさん(音響設計師)が命懸けで守りたかったのは、こんなふざけた名前の建物だったのか……」
スレイが、あまりの惨状に天を仰ぐ。
「スレイ、やめなさい。それ以上言うと、彼の決死のダイイング・メッセージが虚しすぎるわ……」
音響設計師の命懸けの告発によって、建物の物理的な安全性は完璧に確保された。
しかし!
この国の名称の安全性(モラル)は、やはり完全に崩壊の底に沈んでいたのである。
「……スレイー! マリアにモニカ! 早く早くー!」
ブロードウェイの入り口から、何も知らない無邪気なリルとメイコの呼ぶ声がする。
「……行くぞ」
「ええ。もう見なかったことにしましょう」
最強の暗殺者と美しき常識人たちは、新しく生まれ変わる中野チンプラザの看板からそっと目を逸らし。
騒がしくも愛おしい家族(チーム)の待つ場所へと、深い、深いため息をつきながら歩き出すのであった。
事件が解決し、平穏を取り戻したアジトのリビングでは。
いつものように、頭を抱えたくなるような光景が繰り広げられていた。
「ねぇ、スレちゃん♡ みんなが見てる前で、私の中にピュッピュッしちゃう?」
「……やめんか!!」
スレイが、自分の腕にタコのように絡みついて離れない実の姉を引き剥がそうと、青筋を立ててツッコミを入れる。
「むーっ……」
その向かいの席では、スレイの正妻を自称するリルが、シルビアの圧倒的なスキンシップを見せつけられて、ぷくっと頬を膨らませてむくれていた。
日本ツアーの大成功を収め、今日一日だけ完全なオフを満喫しているシルビアは、明日からまた海外での仕事に戻る予定だ。
そのため、今のうちに愛する弟成分を補給しようと必死なのである。
「……はいはい、そこ。いちゃつくなら他所でやってちょうだい」
コンソールに向かい、今回の事件のデータを整理していたマリアが、呆れたようにため息をついた。
「あ、そうだ。シルビア、ちょっとこれ見てくれない?」
マリアは、被害者である音響設計師の自宅から持ち帰った大量のデータの中から。例の暗号楽譜とは別のファイルに紛れ込んでいた、一枚の古い手書きの楽譜をモニターに映し出した。
「ん? なあに?」
シルビアがスレイの腕に抱きついたまま、プロの音楽家の顔つきになってモニターを見つめる。
「……ああ、これね。これはあのFACADEみたいな、不自然な暗号(メジャーコードの羅列)じゃないわ。……完全に、一つの『美しい曲』として成立している」
シルビアは、その五線譜に振られたコード進行を指でなぞりながら読み上げた。
「C 、Am 、F 、Em9 。そして、B7 、A 、Bsus4からの……AonD」
「シー、エーマイナー、エフ、イーマイナーナインス……」
マリアがその頭文字を無意識に拾い上げ、ハッと息を呑む。
「……C・A・F・E・B・A・B・A……これもカフェ・馬場のスペルね!」
「ええ。でもこれは見せかけの暗号じゃない。マイナーコードやテンション、分数コードを巧みに使って、本当に綺麗なメロディラインが作られているわ。……きっと、すごく大切な曲なんでしょうね」
シルビアが、天才ディーヴァの顔で優しく微笑んだ。
――その日の夜。
夕食を終えたスレイは、自室に戻って一人静かに愛用の銃火器のメンテナンスを行っていた。
メイコは「明日一限からだー!」と自宅へ帰り、モニカも、表の顔であるパン屋に戻っていった。
「ふぅ、データ整理も終わったわ。……あれ?」
リビングでコーヒーカップを片付けていたマリアが、ふと周囲を見回す。
「リルはどこ行ったのかしら? ……まぁいいか、コンビニにアイスでも買いに行ってるんでしょう」
マリアは特に気にかけることもなく、自室へと戻っていった。
――同時刻。国道246号線沿い。
『カランコロン……』
夜の闇にひっそりと佇むアンティーク調の喫茶店『カフェ・馬場』の扉が開き、金髪の少女が、元気よく店内に顔を出した。
「マスター! お届けものでーーーす!」
「おや」
カウンターでコーヒー豆を挽いていた初老のマスターが、目を丸くして、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「……あら、いつぞやのお嬢さん。いらっしゃい」
マスターはすでに、ニュースや警察からの連絡で、江田や赤部たち悪徳業者が一網打尽にされたことを知っていた。
そして、目の前にいるこの不思議な少女たちが、亡き親友の無念を晴らしてくれたのだということも。
「これね、おじさんのお家にあったの。きっとマスターに渡したかったんだと思うな」
リルはカウンターにトテトテと近づき、マリアのPCから密かに印刷して持ってきた一枚の楽譜をマスターの前に差し出した。
「じゃあ、またね! 美味しいコーヒー、今度飲みに来るね!」
リルはそれだけ言うと、マスターが止める間もなく、夜風と共に足早に店を立ち去っていった。
「……これは」
マスターは、少女が残していった五線譜を手に取り、そこに書かれたコード進行(C・Am・F・Em9・B7・A・Bsus4・AonD)を目にして、息を呑んだ。
「……この曲は。あいつと二人で酷く酔っ払った夜に、ふざけて作った曲じゃないか……」
若かりし日。まだ何者でもなかった二人の青年が、互いの夢を語り合いながら、自分たちの店の名前『CAFE BABA』のアルファベットを使って、夜通し笑い合いながら作った、懐かしい思い出の曲。
(……あいつ、こんなのまだ大事に取ってやがったのか)
マスターは、壁に飾ってあった愛用のオールドギターをゆっくりと手に取り、アンプのスイッチを入れた。
シールドを繋ぎ、静まり返った店内で、楽譜に記されたコードを優しく爪弾き始める。
『――ジャァーン……、ジャラン……』
温かく、少しだけ切ない『カフェ・馬場』のコード進行。
マスターがそっと目を閉じると――誰もいないはずの店内に、自然と『あの音』が聴こえてきた。
『――プァァァーーッ!!』
音響設計師だった親友が吹く、魂を揺さぶるような熱く分厚いサックスの音色。
「……ふっ、負けねえぞ」
マスターの指弾きが熱を帯び、ギターのトーンがぐっと上がる。
それに呼応するように、幻のサックスがさらに天高く咆哮を上げる。
『ギュイィィィィンッ!!』
マスターの足元でエフェクターが踏み込まれ、オーバードライブのGAIN(歪み)が全開になる。
アンティークなカフェに、似つかわしくないほど激しく、最高にロックなギターソロが炸裂する。
幻の親友は、昔と同じようにエビ反りになりながら、顔を真っ赤にして最高のサックスを吹き鳴らしている。
「……あぁ。最高だぜ、お前とのセッションは……ッ」
激しいギターの音色が夜の国道246号線へと溶けていく中。
目を閉じて弦を弾き続けるマスターの皺の刻まれた頬を、熱い、大粒の涙が、いくつもいくつも溢れ落ちていった。
おかしな楽譜が最後に奏でたのは、誰かを告発するための冷たい暗号などではない。
生涯の友への、愛と情熱に満ちた、極上のアンサンブルだった。