新宿アジト。
「マリア! ネットでバスジャックのライブ配信が始まってるわ!!」
アジトのモニター前で情報収集をしていたモニカが、血相を変えて叫んだ。
「配信!? 犯人が自ら顔出しで!?」
マリアは驚愕しつつも即座にキーボードを叩き、そのライブ配信の接続元への逆探知(トレース)を開始した。
通信のアンテナを壊して姿を消した犯人が、自ら電波を発信してくれたのだ。これなら一瞬で現在地を割り出せるはずだ。
だが数秒後。天才ハッカーであるマリアが、忌々しげにデスクを叩いた。
「……くそっ!! ダメね! 発信元のIPアドレスが、Tor(オニオンルーティング)経由で何重にも海外のプロキシサーバーを経由して偽装されているわ! 配信プラットフォームも、ダークウェブの裏ルートを使ってる。……かなり手強いわ。私の腕でも、大元の座標まで完全に逆探知するには、相当な時間がかかる!」
顔出しで堂々と配信しながらも、通信経路だけは異常なまでに強固に秘匿する。
犯人たちは、ただの素人ではない。計画的で、ネットの闇にも精通した凶悪な劇場型犯罪者だ。
「マリア、逆探知と並行して、その犯人の顔の画像を拡大してちょうだい」
モニカが、モニターに映し出された年配の女と若い男の顔を、鋭い観察眼で食い入るように見つめた。
「この二人……おそらく、親子ね」と、モニカが推測を口にする。
「親子!? あの年配の女と、若い男が?」
マリアが手を止めて画面を見直した。
「ええ。絶対ではないけれど、遺伝学的に男の子は母親に、女の子は父親に似ることが多いわ。……見て。輪郭の骨格、目元の二重の入り方、そして鼻筋のライン。年齢も性別も違うけれど、顔のパーツの根本的な特徴が不気味なほど一致しているわ」
モニカが画面を指差しながら解説する。
「言われてみればそうね。そして、仕草なんかも何か共通するところがあるわね」とマリアも納得する。
「おそらく同じ環境で育ったせいね」
鋭いプロファイリング。
そこには、必ず家族(PCU)を救うという強い意志が垣間見える。
マリアは即座にその二人の顔面データを切り出し、警察機構と裏社会のブラックリスト、そして前科者のデータベースの顔認証システムへと放り込んだ。
しかし。
「……ノーヒットよ」
マリアの顔に、濃い疲労と焦りの色が浮かぶ。
「もし過去に犯罪歴があれば、一発で即ヒットするはずよ。でも、何も出ない。……つまりこいつらは、警察のリストにも裏社会にも存在しない、完全にまっさらな一般人の親子のようね」
母と息子という情報だけでは、日本の数千万人の一般市民の中から彼らを特定するには、あまりにも範囲が広すぎる。顔は完全に見えているのに、誰なのか全く分からない。そして、どこにいるのかも分からない。
「一旦、現状を大物議員Aとスレイに連絡しましょう」
モニカの提案に、マリアが「そうね!」と頷き、極秘回線で連絡を入れる。すぐに首相感貞にいる大物議員Aと萌美総理に繋がった。
『おおマリア君! 連絡を待っていたよ!』
大物議員Aの切羽詰まった声に、マリアは今までのわかったことを端的に伝える。
『犯罪歴のない一般人となると、認証は時間がかかるわね』
萌美総理が冷静に状況を受け止める。
「今わかっていることは、一般人の親子と思われるものが大宮インター過ぎてからバスジャックをし、それを配信しているというだけです」とモニカが補足した。
『映像を見る限り、メイコにリル君は無事のようだ』
大物議員Aが、配信映像を見て安堵の声を漏らす。
『問題は要求ね。金銭的な要求をするには、高速バスは理屈としてありえないわ。政治的メッセージか、犯罪者の解放か……』
萌美総理が冷徹に分析する。
「犯罪者の解放?」とマリアが問い返すと、モニカが頷いた。
「ええ、ありえるわね。よくマフィアなんかが一般人を人質にして、今ブタ箱にいる連中の解放を要求してくる」
『その線も考えておく必要があるが、しかし見たところ反社関連ではない』と大物議員A。
『政治に限らず、メッセージの線が強いわね。……スレイは、大宮付近で待機するのよね』と萌美総理が確認する。
「その予定です。すでにアジトを出立しています」とマリア。
「念のため、機動力の高いものを用意しておいてください」
モニカが釘を刺すように要求した。
『わかった。こちらで手配する。山田相姦にも大宮付近をかためさせよう。スレイ……頼むぞ』
大物議員Aが力強く応じると、萌美総理が話をまとめた。
『あとは消防の手配をしなさい。私は、マスゴミのハイエナを対策しないといけないわ』
ネット上でのリアルタイム配信となると、マスゴミが入ってくるのも時間の問題である。
ネット上で爆発的に拡散され続ける狂気のライブ配信を前に、アジトの二人、そして大宮インター付近の道の駅で降りたスレイの苛立ちは、限界まで高まりつつあった。
政府が用意してくれたバイクに跨るスレイ。
どの方向に進んでいいかわからない。
しかし、スレイは信じている。
PCUというメンバーは、不可能を可能にするということを。
ただじっと、マリアとモニカの連絡を待っている。
スレイはジッポライターを取り出し、安物の煙草に火をつけた。
暗い森の中に停められた『スターライナー093号』の車内。
「ひっ……やめて、この子だけは……!」
乗客の母親が泣き叫ぶ。しかし、犯人の年配の女は、スマートフォンでライブ配信を続けながら、その母親から小さな子供を引き剥がし、細い首筋に冷たい刃物を突きつけた。
「いいかい、リスナーの皆さん! アタシたちの要求が通るまで、このガキの命は預からせてもらうよ!」
年配の女がカメラに向かって叫ぶ。
『うわあああ! マジで刃物突きつけてる!』
『警察何やってんだよ! 早く助けろ!!』
『これヤラセじゃないの!? 怖すぎる……』
『何がしたいんだよ! 要求を早く言えよババア』
子供の命を盾にした凶行に、全国のSNSとライブ配信のコメント欄は、かつてないほどの怒りと恐怖で埋め尽くされ、尋常ではない速度で書き込みが滝のように流れていく。
その後方座席。
震え上がる乗客たちの中で、肝の座りすぎたギャルのメイコは、全く動じることなく冷ややかな視線で犯人の母子を観察していた。
そして、その隣のリルは、自身の可愛いキャリーケースを抱きしめながら、必死に頭をフル回転させていた。
(……どうしよう。なんとかして、他の乗客の人たちだけでも逃がせないかな)
こんな時、愛するスレイならどうするだろうか。リルは一瞬だけ、最強の暗殺者の姿を脳裏に思い描いてみた。
(……うん。スレイなら、何も考えずにあの二人を物理でボコボコにして終わりだよね。今の丸腰のわたしには絶対無理だ)
「大丈夫だよ、リルたそ。こういう時こそ考え方を、いや見方を変えよう」
メイコが極小の声で囁きかけてきた。
「うんそうだね、メイコちゃん! もしもスレイならどうするか考えていた」とリルが答える。
「スレイならボコボコにして終わりだねー」
メイコがナハハと笑う。
「いや、ここはモニカならどうするか、どう導いていくかかも」とリル。
「そしてマリアならどうやって辿り着くかだね」とメイコ。
「そして総理ならどうやって制裁を加えるのか」
「配信をうまく使うしかないね」
二人の少女の目は、恐怖ではなく確かな勝機を見据えて笑っていた。
早々に武力制圧を諦めたリルは、小さく深呼吸をすると、意を決して立ち上がり、刃物を構える年配の女に向かって声を張り上げた。
「ちょっと、おばさん! その小さな子供を人質にするのは可哀想だよ、逃がしてあげて!」
「ああん?」
突然声を上げてきた金髪の少女に、若い男が苛立たしげに銃口を向けた。
「なんだてめぇ、引っ込んでろ! 撃ち殺されてえのか!」
銃口を向けられても、リルは全く怯まなかった。
そして、全国数百万人が見守るライブ配信のカメラの真正面で、おもむろに、そして満面の笑みで、とんでもないことを口走り始めた。
「ねえねえおばさん! オークとかゴブリンの精液ってね、すっごく濃厚でドロドロなんだよー!」
リルが突拍子もない言葉を放つと、メイコも悪乗りして追撃する。
「エルフのくっころもいいけど、最近は姫騎士がザーメンまみれにされて墜ちていくのもトレンドらしいよ!」
「「「…………は?」」」
犯人の母子も、怯えていた乗客たちも、そして画面の向こうの数百万人のリスナーも。全員の思考が完全にフリーズした。
小さな子供に刃物が突きつけられている、この日本中が固唾を呑んで見守る極限の異常事態に、この少女達は一体何を言い出しているのか。
『かわいそうに、怖くてメーター振り切ったんじゃね』
『ストックホルムなんたらか』
『姫騎士とはなかなか通だな』
『違う意味で放送事故やんけ』
SNSでも、意味不明な発言にざわついている。
「は、はあ……? お前、頭おかしいのか……?」
若い男が、ドン引きした顔で銃を下ろしそうになる。
だが、リルは止まらない。
リル「あ、あとね! こないだマリアが作ってくれたお味噌汁も、すっごく美味しかったんだー!」
「漬物も一緒に食べるのがうちの晩御飯なんだ〜!いいでしょ~?」
メイコも被せるように叫ぶ。
「……おい、お袋。こいつヤバいぞ。恐怖でおかしくなっちまったんじゃないか?」
若い男が困惑して年配の女(母親)を振り返る。
「なんだこのイカレた小娘は……」
年配の女も、気味悪そうにカメラをリルたちから逸らして眉をひそめた。
犯人の母子が『頭のおかしい少女』に気を取られ、ほんの一瞬だけ、カメラの画角から目を離した。
まさにその瞬間だった。
メイコが、画角の端に映り込むようにスッと手を伸ばし、ライブ配信のカメラに向かって無言で指を突き出した。
右手の指を7本(両手を使って)。そして、一拍置いて、指を3本。
極めて一瞬の、ギャル特有のピースサインか何かにしか見えない、不可解なハンドサインだった。
新宿アジト。
「音声を解析……やはり親子ね。お袋って言ったわね」
マリアが配信の音声を拾って確認する。
「……っ!」
アジトのモニターでその配信を血眼になって見つめていたモニカが、ガタッと椅子から立ち上がった。
「マリア! 今の聞いた!? リルが、私たちに何か暗号を伝えようとしているわ!」
「暗号!? あんな全国放送で、薄い本関連の精液がどうとかっていう下品な放送事故が!?」
マリアが信じられないといった顔をする。
「いいえ、あれはただのシモネタじゃない! 連想ゲームよ!」
モニカは目にも留まらぬ速さでタブレットにキーワードを書き出していく。
「濃厚な……白くてドロドロの液体。ミルク……違う、もっと濃厚なジャージー牛乳よ!」
「ジャージー牛乳?」とマリアが首を傾げる。
「そして、マリアが先日作ったお味噌汁! マリア、先週のアジトの晩ごはんで、お味噌汁の具に何を入れたか覚えてる!?」
マリアは虚を突かれ、必死に記憶を遡った。
「ええと……ネギ、さといも、豆腐、ゴボウ……」
「……茄子よ」
モニカが、確信に満ちた声で言い放った。
「メイコの漬物発言も考えると……茄子ね」とマリアもハッとする。
「濃厚なジャージー牛乳が名産で、お味噌汁の具材でもある茄子……。そして極めつけは、犯人がよそ見をした一瞬の隙に、メイコがカメラに向かって提示した7と3のハンドサイン!」
モニカの言葉に、マリアが全てを理解して声を上げた。
「そうか! 先日の任務の帰りに立ち寄った温泉街ね! そこいらの看板を、メイコが見落とす訳ないわ」
7(な)
3(す)
「……那須(なす)だわ!! 奴らが乗ったスターライナー093号は今、栃木県の那須高原の森の中にいるのよ!!」
モニカが叫んだ。
マリアの全身に鳥肌が立った。
丸腰の少女たちが、狂気のライブ配信と犯人の動揺を逆手に取り、日本中が見ている前で、アジトの大人たちにしか絶対に解読できない完璧な暗号と座標を叩き送ってきたのだ。
「スレイ!!」
マリアは即座にインカムの通信スイッチを叩き割る勢いで押し込んだ。
『……どうした。何か分かったか』
大宮の道の駅で殺意のバグを煮えたぎらせていた最強の暗殺者から、地を這うような低い声が返ってくる。
「ええ、分かったわ! リルとメイコからのメッセージよ! バイクの進路を北へ向けなさい!! 目的地は――那須よ!!」
マリアが座標を叩きつける。
モニカは首相感貞へも同時に連絡する。
『さすが私の可愛い子達ね! 薄い本の布教のおかげね』
萌美総理が嬉しそうに笑うが、マリアとモニカがすかさずツッコミを入れた。
「あんたの子にするな!」
「そんなもん布教するな!」
スレイはバイクのエンジンをかけて、いきなりMAXのスピードで北上を開始する。
通信を切り、スレイは眼下に広がる漆黒のハイウェイを突き進みながら、少しだけ過去の記憶を遡っていた。
那須高原。最近任務で訪れたことのある場所だった。
血生臭い仕事の帰り。温泉につかったあと、サービスエリアで売られていた名物のジャージー牛乳のソフトクリームを、リルとメイコが美味しそうに、幸せそうに頬張っていた姿を鮮明に覚えている。
(……あの笑顔を、奪わせるものか)
最強の暗殺者の胸の奥で、冷たく、そして激しい怒りの炎が静かに燃え上がっていた。
新宿アジト。
モニカは首相感貞へと極秘回線を繋いだ。
「総理! 居場所は那須というところまではわかったわ。スレイがバイクで北上している」
『わかったわ! 近辺の警官には、黒コートの男のスピード違反は見逃すよう通達しておくわ』
萌美総理が即座に根回しを約束する。
「犯人の目的が不明なだけに、山田相姦部隊は刺激をしないようお願いします」
マリアが慎重に釘を刺す。
『ええ、勿論よ』
萌美総理はそう応じ、通信を切った。
一方、那須の深い森の中に停車したスターライナー093号の車内。
「さて……全国のリスナーの皆さん。お待たせしたね。それじゃあ、はじめようか」
年配の女は、スマートフォンを三脚に固定し、全国へ向けたライブ配信のカメラの真正面に立った。
一切の変装もせず、素顔を堂々と晒し続けているその姿から、彼女の異様な覚悟が透けて見える。
目出し帽すら被らないということは、最初から逃げる気などないのだ。
警察に顔が割れようが、逮捕されようが構わない。
あるいは――最悪、ここで人質もろとも死ぬ気であるという、自暴自棄の狂気がそこにあった。
「アタシたちが何故、このスターライナー093号をジャックしたのか。その理由を、今からこの国の人たち全員に教えてあげるよ」
女は、恨みと悲しみが深く刻み込まれた声で語り始めた。
「数年前……ある悲惨な長距離バスの事故が起きた。マスコミもこぞって報道した大事故さ。バス会社は、あの事故の原因を運転手の居眠り運転として処理し、死んだ運転手にすべての責任を押し付けた」
女の声が、ギリッと震える。
隣に立つ若い男も、拳銃を握る手を小刻みに震わせ、俯いていた。
「……でもね、本当は違うんだよ! あれは居眠りなんかじゃない! 会社ぐるみの度重なる整備不良とコストカットが招いた、必然の事故だったんだ!! それを隠蔽するために、あの会社は、真面目に働いていたアタシの……!」
女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「アタシの夫を、泥棒猫みたいに切り捨てて、名誉まで奪ったんだ!! そして、その薄汚い隠蔽体質のバス会社こそが……今アタシたちが乗っている、このスターライナーの運行会社さ!!」
配信のコメント欄が、一瞬だけピタリと止まり、そして次々に『マジかよ』『あの事故のことか!』という驚きの声で埋め尽くされていく。
(……なるほど。そういうことね)
新宿のアジトで配信をモニターで監視していたモニカが、静かに息を吐いた。
運転手に全ての罪を被せられた遺族の復讐。となれば、あの若い男は、死んだ運転手の息子ということになる。
「同情の余地はあるわね……」
マリアが少しだけ悲しげに目を伏せる。
だが、すぐにその瞳に天才ハッカーとしての鋭い光を取り戻した。
「でも、どんなに悲しい過去があっても、犯人の特定や同情なんて今はどうでもいいわ。問題は、あの親子が完全に自暴自棄になっていること。……このままじゃ、自決のような最悪の結末に、リルやメイコたち罪のない人間が巻き込まれることになる!」
今はとにかく、一秒でも早くバスの正確な場所を特定することが先決だ。
スターライナー093号が指定のルートを外れ、大宮インターを降りてからここまでの経過時間は、数十分以上。
「大宮インター付近からの移動時間と、バスの平均速度を計算……那須の森の中でも、到達可能な範囲はこのエリアに限られるわ!」
マリアがキーボードを叩き、メインモニターの地図上に赤いサークルを描き出す。
「さらに周辺の携帯基地局が受信した、あのライブ配信の微弱な電波強度から……三角計測で現在地を絞り込む!」
モニカがロジカルに座標を詰めていく。
「モニカのデータをもとに、私は別の角度からアプローチするわ」
マリアが猛烈な速度でタイピングを連打する。
「配信の映像に映り込んでいる、窓の外の星の配置と月明かりの角度……そこからバスが停まっている方角を割り出して、範囲をさらに限定する!」
敏腕プロファイラーのロジックと、天才ハッカーの空間解析。
二人のプロフェッショナルによる執念の連携が、闇に包まれた那須の森の中から、一台のバスの影を確実にあぶり出そうとしていた。
『ふざけんな! 関係ない乗客を巻き込むな!!』
『お前らの事情なんて知るか! 子供を解放しろ!』
『同情はするけど、やり方がクソすぎる』
全国に拡散されたライブ配信の画面には、犯人たちの悲痛な告白に対する同情の声も一部あったものの。
圧倒的多数を占めていたのは、「罪のない人間を巻き込むな」という至極真っ当な批判と罵倒のコメントだった。
「……まずいわね」
新宿のアジトでその濁流のようなコメント欄を監視していたモニカが、険しい表情で呟いた。
「この手の自暴自棄になった犯人は、世間から否定され、追い詰められると一気に凶行に走る傾向があるわ。今は何よりも時間稼ぎが必要よ。……マリア、犯人に同情するコメントや、バス会社を批判する書き込みを意図的に増やせないかしら?」
相手の「世間に真実を訴えたい」という承認欲求を逆手に取り、気分を良くさせて語らせ続ける。
それが最も安全に現場を停滞させる手段だと、プロファイラーのロジックが弾き出したのだ。
「フッ……任せなさい。こんなこともあろうかと、丁度いいウイルス(ボットネット)を組んであるわ」
天才ハッカーの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
マリアがエンターキーを力強くターンッと叩き込んだ瞬間。世界中の裏サーバーを経由した無数の偽装アカウントが一斉に起動し、配信のコメント欄を凄まじい勢いで自作自演し始めた。
『バス会社許せねえ!』
『お前らは悪くない! もっと真実を暴露してくれ!』
『会社ぐるみの隠蔽とかマジで胸糞! 徹底的にやれ!』
『みんなでこの親子を応援しようぜ!!』
ほんの数秒で、コメント欄の空気は一変した。
批判的な書き込みはマリアのウイルスによって次々と非表示にされ、画面は『犯人を擁護し、バス会社を叩く』という熱狂的な同調コメントで完全に埋め尽くされた。
「……ほら、見てごらん!」
スマートフォンを握りしめていた年配の女の顔に、歪んだ歓喜の色がパッと広がった。
「やっぱり、みんな分かってくれるじゃないか! アタシたちの苦しみを!」
「当たり前だ。親父を殺して隠蔽した、あの薄汚いバス会社が悪いんだからな……!」
若い男も、画面を埋め尽くす大量の擁護コメントを見て、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、得意げな笑みを浮かべた。
よし、食いついた。
犯人たちはすっかり気を良くし「あの会社がどれだけ非道だったか」というさらなる暴露話を、カメラに向かって意気揚々と語り始めた。
マリアとモニカの機転により、乗客の命を繋ぐための決定的な時間稼ぎを成立させたのだ。
「……よし、二人が配信に夢中になっている隙に、一気に場所を絞り込むわよ!」
モニカが、三角計測で絞り込んだ那須の森のエリアマップと、配信の映像を睨み比べる。
犯人たちが自ら顔を照らすために点けているスマートフォンのライト。そのわずかな光が、夜の闇に沈むバスの窓の外の背景を、うっすらと照らし出していた。
「マリア、映像の右上の背景を極限まで拡大して。……あの木、普通の杉やヒノキじゃないわ」
ノイズ走る映像の中、モニカの人間離れした観察眼が、岩肌にへばりつくように生えている独特な植物のシルエットを捉えた。
「これは……ハイマツ(這松)よ」
「ハイマツ?」
「ええ。厳しい風雪に耐えるために、岩場に這うように生える松の一種。……この植物は、標高1,500メートル以上の高山帯にしか生息しないわ。つまり、バスが停まっているのは那須の森の麓ではないわね。」
モニカはマップの等高線を一気に引き上げ、特定のエリアを指差した。
「那須岳の標高1,500メートル以上、かつ岩場が露出していて、大型バスがギリギリ進入できる廃道……。そしてマリアがはじき出した条件に合う場所は、ここしかないわ!!」
「完璧よ、モニカ!!」
マリアが即座にその座標データを抽出し、インカムの通信回線を開いた。
『スレイ!! バスの正確な現在地が特定できたわ! 那須岳の高山帯、標高1,500メートル付近の廃道よ!! 今からあなたのナビに座標を送る!!』
那須インターを降り、総理が手配した最高速の漆黒の大型バイクに跨っていた最強の暗殺者のヘルメットに、ピロリと電子音が響く。
「……ああ。受け取った」
エンジンの爆音と共に、スレイの低く、獲物を狩る絶対的な殺意を孕んだ声が返ってきた。
「待っていろ、リル、メイコ。……今すぐ、そこへ行く」
深夜の那須の山道を、漆黒の大型バイクが物理法則を完全に無視したような異次元のスピードで駆け上がっていく。
スレイは、はやる気持ちをどうしても抑えきれずにいた。
メーターの針はとっくに限界を振り切っており、もし地元の警察がこの爆音と速度を目撃すれば、取り締まるどころか恐怖で道を譲って退避するレベルの狂気の暴走である。