一方。標高1,500メートルの廃道に停められたスターライナー093号の車内。
「アタシたちの無念が、これで少しでも伝われば……」
犯人の母親は、無数の偽の同調コメントが流れるスマートフォンの画面に向かって、悠然と過去の恨みを語り続けていた。
モニカとマリアの狙い通り、彼女の承認欲求は満たされ、わずかながら時間を稼ぐことには成功していた。
――しかし。狂気は最も最悪な形で牙を剥いた。
「……もういいだろ、お袋。言いたいことは全部話した。これで終わりだ」
若い男の犯人が、突然ひどく冷めた声で呟き、おもむろにバスの外へと歩み出た。
そして、彼は躊躇うことなく持っていた拳銃を構え、乗客が乗っているバスの車体そのものに向けて、残りの弾丸を乱射し始めたのである。
『――パーンッ! ガィィィンッ!!』
「「「きゃあああああっ!!」」」
銃弾が金属の車体を貫き、激しい火花が散る。
その火花が、男が外に撒いていたのか、あるいは漏れ出していたオイルに引火し、バスの車体下部から一気に激しい炎上が始まった。
「火だ! 逃げろ!!」
「開けてくれ! 早く!!」
密室での火災という極限のパニック。乗客たちは我先にと、唯一の出口である前方の扉へと殺到し、車内は完全に身動きが取れない阿鼻叫喚のカオスと化した。
その結果。後部座席に座っていたリルとメイコは、逃げ惑う人々の波に完全に阻まれ、退路を断たれてしまった。
「げっ……! 火が回んの早っ! さすがにまずいーっしょ!」
メイコが、迫りくる熱気と黒煙に顔をしかめながら叫ぶ。
「メイコちゃん! 前に行けないよ!」
リルも、煙を吸わないように口元をハンカチで覆いながら焦りの声を上げた。
パニックに陥る乗客たちを背に、ライブ配信のカメラの前に立つ母親は、逃げようともせずにただ狂ったように笑っていた。
「あははははっ! そうさ、アタシたちはどうせ助からない! お前らも、あの薄汚いバス会社の犠牲になりな!!」
それは、最悪の事態。
世間に恨みをぶちまけ、承認されたことで完全に満足してしまった母子による、何の罪もない乗客たちを巻き込んだ自暴自棄の自決(道連れ)だった。
『――ドガンッ!!』
その時、後部のタイヤか何かが熱で弾け飛び、軽い爆発が起きた。
その凄まじい衝撃で、車体のバランスを崩した巨大な長距離バスが、重々しい金属音を立てて真横に倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
「痛っ……!」
横倒しになった車内で、リルとメイコは座席の間に放り出された。
「メイコちゃん、大丈夫!? ……後ろの窓を割って外に出よう!」
リルはすぐさま立ち上がり、車内に備え付けられていた緊急用の脱出ハンマー(あるいは消火器)を引き抜くと、横倒しになって天井のようになった後部の窓ガラスに向かって、渾身の力で叩きつけ始めた。
ガンッ、ガンッ、と鈍い音が響くが、分厚い強化ガラスは簡単には砕けない。
窓の外では、炎の舌が生き物のように車体を這い上がり、バスの底にある巨大なガソリンタンクへと確実に迫っていた。
炎上する車体。蔓延する黒煙。
もしあの巨大な炎がガソリンと完全に混じり合えば、この長距離バスは乗客もろとも跡形もなく大爆発を引き起こす。
タイムリミットは、もうあと数分か、数十秒しか残されていなかった。
『――ドガンッ!!』
横転した車内で起きた二度目の軽い爆発。その衝撃で、リルとメイコの目の前にあった座席の椅子が、根元からへし折れて吹き飛んだ。
「……これだ!!」
リルは瞬時にその壊れた椅子の金属フレームを両手で掴み上げると、天井のようになっている後部の窓ガラスに向かって、渾身の力で叩きつけた。
『――ガシャァァァンッ!!』
少女の火事場の馬鹿力と、椅子の重量が合わさり、ついに分厚い強化ガラスが粉々に砕け散った。
夜の冷たい空気が、黒煙の立ち込める車内へと流れ込んでくる。
「メイコちゃん、早く!!」
「リルたそも、早くっしょ!!」
メイコが砕けた窓枠に手をかけ、器用な身のこなしで素早く車外へと抜け出す。
それに続いて、リルもキャリーケースを投げ捨て、何とか体を捻るようにして外の闇へと這い出した。
しかし、安堵している暇はない。
バスの車体を包む炎の舌は、完全にガソリンタンクのすぐそばまで達しており、破滅的な大爆発はもう、すぐそこまで迫っていた。
――その頃、那須の深い森の中。
「……あそこか!!」
木々の隙間から、夜の空を赤く染め上げる禍々しい炎の光と、黒煙の柱が見えた。
スレイは、その炎の揺らめきを見て、間違いなくバスの現在地であると確信した。
漆黒の大型バイクは、もはやエンジンの限界を超えた駆動音を上げ、マフラーやタイヤの摩擦から物理的な火を吹き出すほどの異常なスピードで、岩だらけの廃道を駆け上がっていく。
急がなければならない。
炎の勢いを見れば、一瞬の遅れが致命傷になることなど、暗殺者の直感が痛いほどに告げていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
一方。横転したバスから抜け出したメイコは、引火の危険から逃れるために、無我夢中で少し離れた岩場まで走り抜けていた。
そして、息を切らしながら振り返った、その瞬間。
「……えっ?」
隣にいるはずの親友の姿が、そこにはなかった。
「リルたそ!? どこ!?」
メイコが血相を変えて視線を戻すと。炎上するバスの後部、砕けた窓ガラスのすぐ傍に、リルがへたり込んでいるのが見えた。
窓枠から外へ這い出す際、鋭く尖った強化ガラスの破片で、深く足を切り裂いてしまったのだ。
傷口からは大量の血が流れ出し、リルは顔を歪めながら立ち上がろうとするが、思うように足に力が入らず、その場から動くことができない。
「リルたそぉぉぉっ!!」
メイコが悲痛な声を上げ、炎の壁に向かって駆け出そうとする。
バスの前方では、黒煙の中で狂ったように笑い続ける犯人の母親と、虚ろな目で炎を見つめる若い男の姿があった。
乗客を道連れにするという、彼らが望んだ自暴自棄の結末。
その狂気の笑い声が、パチパチという炎の音に混じって夜の森に響き渡る。
ガソリンの匂いが、空気を重く満たしていく。
炎が、ついにタンクの金属を舐め上げた。
「……リルたそ、逃げて!! お願いだから!!」
メイコの絶叫が、暗い森の木霊となる。
しかし、動けないリルは、涙目で叫ぶ親友に向かって、静かに、そして気丈に微笑んでみせた。
「……大丈夫だよ、メイコちゃん」
少女の小さな声は、爆発の轟音を予感させる不気味な静寂の中に吸い込まれていった。
業火に包まれたスターライナーの最後の大爆破は、もうすぐそこにまで迫っていた。
火を噴くような速度で夜の山道を駆け上がりながら、スレイの脳裏には、ある少女との記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
(……思い出す)
あれは、公園だった。雨が降っていた。
顔に傷痕があるせいで周囲から凄惨なイジメを受け、親戚中をたらい回しにされた挙句、ついには居場所を失って放り出された、小さな傷だらけの少女。
最初、スレイが彼女を拾い上げた時に抱いた感情は、
ただ「自分と同じ、社会の鼻つまみ者(透明人間)か」という、暗い同調と微かな哀れみでしかなかった。
出会った頃のリルは、ひどく恥ずかしがり屋で、いつも引っ込み思案だった。
自分という存在に全く自信が持てず、少しでも目を離せば、そのまま透明になって消えてしまいそうなほどの危うさと儚さがあった。
街の小さなケーキ屋で、なんの変哲もないケーキを買って帰ってやるだけで、彼女はボロボロと大粒の涙を流して喜んでくれた。
しかし。同じアジトで暮らし、不器用ながらも少しずつ心を通わせていくうちに、彼女はみるみるうちに明るい笑顔を取り戻していった。
今ではすっかり、裏の掃除屋チームに欠かせない、最大のムードメーカーだ。
突拍子もない行動に出てはマリアにこってりと怒られることも多いが、一向にめげる気配はなく、勝手にスレイの正妻を名乗る。
その無垢な純粋さゆえに、変態スポンサーや周囲の大人たちから変な知識やシモネタばかりをよく覚えてくる。
だが、本人は全く自覚していないものの、彼女には他人の懐にスルリと入り込む天才的な素質があった。
そして何より。ただの裏掃除屋の道具としてではなく、一人の等身大の女の子として、彼女にはメイコという命を懸けて心配し合える親友ができたのだ。
(……あいつから、これ以上何も奪わせるものか)
スレイの回想が、限界まで張り詰めた殺意と決意と共に途切れる。
愛する妹分達を救い出すため、漆黒のバイクはついに那須の森の麓を抜け、燃え盛る光の元へと肉薄した。
しかし。無情にも、暗殺者の悲痛な願いを嘲笑うかのように。
『――ドゴォォォォォォォォンッ!!!!!』
那須の夜の森を激しく揺るがし、漆黒の空を禍々しい業火で染め上げる、凄まじい大爆発が起きた。
漏れ出したガソリンに炎が完全に引火し、乗客と犯人を乗せた巨大なスターライナー093号が、ついに限界を迎え、周囲の木々や岩肌を巻き込んで跡形もなく爆破したのである。
――数日前のことだ。
アジトのソファで、リルはスレイの広く分厚い胸の中に、まるで最初からそこにあったパズルのピースのように、すっぽりと収まっていた。
「すー、すー……」
一切の警戒心を持たず、絶対的な安心感に包まれた平和な寝息。
血の匂いしか知らなかった暗殺者の腕の中に収まるその小さな温もりは、いつしか彼にとって、何よりも守るべき尊い命になっていた。
顔の傷や小さな胸をコンプレックスとして抱え、俯く彼女に「本当の価値はそんなことではない」と不器用に言い聞かせた夜。
彼女がふと見せたはにかむような笑顔が、今も胸の奥に焼き付いている。
――そして、現在。
熱い。
背後から迫りくる、ひどく暴力的な熱のうねり。
「……っ!!」
足を怪我して動けないリルは、背中に迫る業火の気配に、ギュッと強く目を閉じた。
那須の夜空を焦がす、スターライナーの凄まじい大爆破。
世界が灼熱の光に呑み込まれ、粉々に吹き飛んだ鋭いガラス片と、命を奪う致命的な熱風が、容赦なく彼女の小さな体へと襲いかかる。
(……もう、ダメだ……っ!)
この至近距離での爆発では、絶対に助からない。
リルは死の恐怖に震えながら、覚悟を決めた。
――しかし
彼女の体を焼き尽くすはずだった業火は、唐突に遮断された。
ドンッ、と。
突如として、リルの視界が真っ暗になる。
いや、違う。
何か巨大で、分厚くて、たまらなく安心する温もりが、リルの全身をすっぽりと包み込んだのだ。
間一髪だった。
熱い。 背中が、ひどく熱い。
業火のすべてを引き受けていたのは、リルではない。
彼女を抱きすくめた、スレイの背中だった。
炎がガソリンに引火し、すべてが吹き飛ぶコンマ数秒の隙。
バイクから飛び降りたスレイは、後部ガラスの傍で動けなくなっていたリルを抱え起こし、爆発の瞬間、自らの巨大な体躯を壁にして彼女を業火から完全に隔離したのである。
リルの体は、あの数日前の夜と同じように、彼の胸の中にすっぽりと収まっていた。
爆発の衝撃で四散した鋭いガラス片がコートを容易く突き破り、分厚い背中や腕の筋肉に容赦なく深々と突き刺さる。
吹き荒れる熱の爆風によって、髪の毛までもがチリチリと焼かれていく。
背中を焼く激痛と、肉に食い込むガラスの感触。
だが、スレイは微塵も動かなかった。
大爆発の炎も、殺傷力を持った破片も、致命的な爆風も。すべてを、己の背中ひとつで受け止める。
視界の端で、メイコが安全な岩陰に身を隠したのが見えた。
(……この命だけは。何があろうと、俺が守り抜く)
炎の熱さも、ガラスの痛みも、死の恐怖さえも。
スレイという絶対的な防壁の中にあるリルには、ただの一欠片も届かせない。
(俺の命がどうなろうと、お前だけは生かす――!!)
血を吐くような暗殺者の祈りと共に。
やがて、鼓膜を破るような爆発の轟音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
嵐のような熱風が通り過ぎ、後には木々を燃やす炎のパチパチという音だけが残された。
爆破は、終わったのだ。
「リルたそぉぉぉぉっ!! スレイぃぃぃぃっ!!」
耳鳴りのする黒煙の向こう側から、喉が張り裂けんばかりの、メイコの悲痛な叫び声が聞こえてきた。
その声に、スレイはわずかに安堵した。これで大物議員Aとの約束も果たせそうだ。
腕の中に抱きかかえたリルから、トクン、トクンという確かな心臓の鼓動が伝わってくる。
(……よかった)
守り抜けた圧倒的な安心感に包まれながら、スレイは深い深い意識の底へと落ちていった。
どれだけ時が経過のしたのだろうか。
スレイは、ゆっくりと重い瞼を開けた。
視界に広がるのは、ぼんやりとした真っ白な光だった。
(……ここが、地獄というところだろうか)
数え切れないほどの命を奪ってきた暗殺者だ。
仮に天国という場所があったとしても、自分がそこへ行けるなどとは微塵も思っていない。
しかし、血の池も針の山もなく、地獄というのは案外白いものなんだなと、ひどく霞んだ頭で場違いなことを考えていた。
ふと、すぐ傍で微かな啜り泣きが聞こえた。
視線を向けると、一人の少女が泣いている。その周りにも、何人かの人影が立っていた。
(……なんだ、あれは。地獄の使者か?)
いや、違う。
徐々に焦点を結び始めた視界が、その金髪の少女の顔をはっきりと映し出した。
「スレイ……っ、スレイ……ううううっ……!!」
ボロボロと大粒の涙をこぼし、顔をぐしゃぐしゃにして号泣しているのは、他でもないリルだった。
鼻を突く消毒液の匂いと、微かに響く規則的な電子音。
(……病院のベッド、か。俺は、生きていたのか)
「……まったく、無茶するんだから」
ベッドの傍らで腕を組んでいたマリアが、呆れたように、しかしその声に隠しきれない安堵と涙の震えを滲ませて言った。
「さすがは死神ね。あの大爆発の至近距離で、女の子一人を完璧に庇いながら生き延びるなんて」
モニカも目元を赤く腫らして、心底ホッとしたように微笑んでいる。
「ばいやー……スレイ、マジで死んじゃうかと思ったっしょ……ぐすっ」
いつもは底抜けに明るいメイコまでが、ギャルメイクが崩れるのも構わずに泣きじゃくっていた。
アジトの仲間たちが全員、スレイの生還を心から心配し、そして泣いてくれていたのだ。
「……リル。お前の、足の怪我は」
火傷と煙でひどく掠れた低い声でスレイが問うと、マリアがハンカチで目元を拭いながら静かに答えた。
「ガラスで少し派手に切っただけで、靭帯には影響ないわ。傷痕も残らない。……あなたが命懸けで爆風を受け止めたおかげよ」
(……そうか。よかった)
全身を包む分厚い包帯の奥で、経験したことのないような激痛が脈打っている。
だが、スレイの胸の中には、それ以上の深く静かな安堵が広がっていた。
裏の掃除屋として、ただ汚れ仕事をこなし、いつ野垂れ死んでもおかしくないと思っていた自分の命。
けれど、この小さな命を、未来ごと守り抜くことができたのなら。
(……少しだけ、俺が生きている意味があったのか)
スレイは、点滴の繋がれた重い腕をゆっくりと、本当にゆっくりと持ち上げると、シーツに顔を伏せて号泣するリルの頭に、ぽんと優しく、大きな手を置いたのであった。
自暴自棄の道連れを図った犯人の男は、自らが引き起こした業火に呑まれ、その狂気と復讐の連鎖ごと灰となった。
母親はスレイが乗り捨てたバイクに弾き殺されたようだが、今となってはどうでもいい。
横転したバスから逃げ惑った乗客たちには重軽傷者こそ出たものの、リルやメイコの機転、そして暗殺者の命懸けの行動もあり、奇跡的に死者は一人も出なかった。
そして、あの狂気のライブ配信によって過去の隠蔽を全国に暴露されたスターライナーの運行会社は、世間から猛烈な責任追及の嵐を受け、警察のメスが入り事実上の崩壊へと追い込まれることとなった。
「スレぢゃぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
スレイが意識を取り戻した翌日。
ワールドツアーのスケジュールを全てぶん投げて(あるいは超音速で終わらせて)アメリカから飛んできたシルビアが、病室のドアを吹き飛ばす勢いで飛び込んできた。
彼女は包帯だらけの最愛の弟の姿を見るなり、それまでスレイの傍に張り付いていたリルと「どっちがより多く涙を流せるか」を本気で競い合うレベルで、大号泣しながらスレイの首に抱きついたのだった。
――そして、数日後。
「その怪我で、自力で歩いて退院するなど……医学的にあり得ない……」
担当医たちが幽霊でも見るかのようにドン引きして震える中、スレイは全身の火傷と裂傷を抱えながらも、バグじみた回復力で早々に退院を果たし、新宿のアジトへと帰還していた。
「ほらスレイ、ゆっくり座って。傷が開くわよ」
マリアが世話を焼いてくれる。
「ほら、私がコーヒーを淹れるから休んでて」
モニカも気遣ってくれる。
マリアとモニカに過保護に世話を焼かれながら、スレイはリビングのソファに腰を下ろした。
ふと、つけっぱなしになっていた大型テレビの画面に目をやると、どのチャンネルのワイドショーも、ある一つの映像を狂ったようにループで流し続けていた。
『――続いてのニュースです。先日発生した深夜バスジャック爆破事件。その悲惨な現場で、一人の少女の命を救った名もなき英雄の姿が、日本中の感動を呼んでいます』
画面に映し出されたのは、あのバスジャック犯が自ら回していたスマートフォンのライブ配信のアーカイブ映像だった。
横転したバス。迫りくる炎。
カメラが爆発の瞬間に呑み込まれる、そのコンマ数秒前。
逃げ遅れた金髪の少女(リル)の背後に、漆黒のコートを着た巨大な男が猛スピードで飛び込み、自らの体を盾にして、全ての爆風と炎から少女を完璧に守り抜く決定的な瞬間が、世界中に生配信されていたのだ。
『自分の命を顧みず、逃げ遅れた少女を庇った黒コートの男……! まさに映画のワンシーンのような自己犠牲に、日本中が涙しています!』
コメンテーターたちが目を赤くしながら熱く語り、SNSでも「この男は誰だ」「本物のヒーローだ」と、スレイの決死の行動が美談として日本中を席巻していた。
「……目立ちすぎだ」
スレイはテレビを睨みつけ、忌々しげに舌打ちをした。
これほど顔の割れない黒コート姿とはいえ、ここまで全国的に話題になってしまっては、裏の掃除屋としての仕事に支障が出かねない。
「まあ、気にすることないわよスレイ」
モニカが笑いながらタブレットを操作する。
「当然だけど、至近距離であの大爆発を背中に受けたんだもの。世間やマスコミは全員、この黒コートの男は確実に死んだと思っているわ。……裏の世界で生きる私たちにとって、表向きに死人として扱われるのは、一番都合がいい隠れ蓑じゃない」
確かに、モニカの言う通りだ。
死んだ英雄を探す物好きはいない。スレイは深く息を吐き、少しだけ安堵して背もたれに体を預けた。
「あああっ! 何度見ても最高! 私の弟は世界一クールだわっ!!」
アジトが静かな日常を取り戻そうとする中、シルビアだけはテレビの画面を録画したスマホを掲げ、謎のハイテンションで一人ドヤ顔をキメていた。
(……頼むから、ハリウッドで言いふらさないでくれよ)
スレイの密かな願いを他所に、世界一クールな暗殺者と、彼を愛するアジトのヒロインたちの騒がしくも温かい日常が、再び幕を開けたのであった。
スターライナーの凄まじい爆発から数週間。
退院を果たしたスレイの全身を覆っていた痛々しい火傷と裂傷は、バグじみた回復力によって、驚くべきスピードで癒えつつあった。
新宿のアジトの自室。上半身裸でベッドに横たわるスレイの背中を、リルが一生懸命に濡れタオルで拭き、丁寧に新しいガーゼを当てていく。
「……スレイ、痛くない? 優しくするからね」
再び自分の命を救ってくれた二度目の命の恩人。その巨大で傷だらけの背中を見つめるリルの瞳には、深い愛情と感謝が宿っていた。
「えへへー。スレイの筋肉、おっきくて硬いなーっ♡」
午後。スレイは暗号化された通信ラインで、環萌美総理へと電話を繋いだ。
『本当に素晴らしい活躍だったわ、スレイ。あなたのおかげで、日本の未来と私の支持率は完璧に守られたわ』
電話の向こうで、総理が絶賛の言葉を口にする。
「あんたの変態恍惚部隊の手を煩わせずに済んで何よりだ。……総理、一つ頼みがある。今もワイドショーで騒がれている黒コートの男だが……あの爆発で逃げ遅れて完全に死んだと、政府主導で正式に発表してほしい」
『ふふっ、なるほどね。裏の掃除屋に世間のスポットライトは不要、というわけね。いいわ、了承したわ。適当な遺留品をでっち上げて、名もなき英雄の美しいお葬式を挙げてあげる』
一方、その頃。
大物議員Aは、愛娘のメイコが無事に生還したことで、広大な屋敷で顔をぐしゃぐしゃにして「メイコたぁぁぁん!! よかったぁぁぁ!!」と大号泣していた。
スレイを溺愛する肉食姉のシルビアは、泣く泣くアメリカへととんぼ返りし、世界的歌姫としてのレコーディングとハリウッド女優の撮影という超多忙な日々に忙殺されている。
モニカは、しばらく大きな事件もないため、表の顔であるパン屋のカウンターで、焼きたてのパンの香りに包まれながらゆっくりと働いていた。
そしてアジトのリビングでは、マリアが最新機種のマルチメディアシステムと睨めっこしながら、「ふふふ……最高のスペックね」とご機嫌な笑みを浮かべていた。
ようやく裏の掃除屋PCUにも休息が訪れた瞬間だった。