ようやくですが本編のはじまりとなります。
本日より、PCU(裏の掃除屋)のメインメンバーが総動員で挑む事件がスタートします!
今回の依頼人は、あの大物議員……の背後にいる「あの人」です。
平和なアジトに舞い込んだシリアスな誘拐事件。
そして、またしても日本の税金で作られたヤバすぎる新施設が登場します。
(※今回も挿絵表示にて現場の様子をお楽しみください!)
境界線007-児童誘拐編(前編)
「ただいまー! 新作のイチゴのタルト、買ってきたわよ!」
新宿の極秘アジト。
モニカがパン屋での仕事を終え、可愛らしいケーキの箱を提げてリビングへと入ってきた。
「わぁい! モニカの買ってくるスイーツ、いっつも絶品なんだよねー!」
リルが、ご主人様の帰りを待っていた子犬のように尻尾を振って飛びついていく。
パトロンとなった大物議員Aからの惜しみない報酬や、先日の「総理護衛」という特大ミッションの莫大なギャラもあり、裏の掃除屋(PCU)チームの経済状況はかつてないほど潤っていた。
命の危険さえなければ、これ以上ないほど平和で満たされた、甘いお茶の時間の始まりだ。
しかし。彼らが裏社会に生きる暗殺者である以上、完全な平穏など長くは続かない。
『♪〜』
テーブルに置かれたマリアのノートPCが、鋭い電子音を鳴らした。
暗号化された専用回線からの着信。画面に表示された発信元は、あの大物議員Aだった。
「……嫌な予感がするわね」
マリアが渋い顔をして、警戒しながら通話ボタンを押す。モニターに、恰幅の良い大物政治家の顔が映し出された。
『おお、繋がったか! 実は、君たちにぜひ頼みたい超VIP直々の依頼が舞い込んでね』
「超VIP?」
『うむ! なんと、あの環萌美(たまき もえみ)総理からの、名指しでの依頼なのだ』
その名前が出た瞬間。
スレイ、マリア、モニカの三人の顔から、スッと一切の表情が抜け落ちた。
彼らの脳裏に、卒業式の夜にかかってきた一本の電話と、美しき総理の口からふんわりと放たれた『 O m e c 〇 の時計 』という、国家レベルの最低なネーミングセンスが鮮明にフラッシュバックする。
「……断る。あの変態(総理)の依頼など、二度と御免だ」
スレイが、氷点下の声で即答した。
マリアも無言で深く頷き、迷いなく通話切断のキーへ指を伸ばす。
『ま、待て待て待てェェッ!! 早まるな君たち!!』
画面の向こうで、大物議員Aが必死の形相で叫んだ。
『卒業式のあの一件以来、萌美総理は君たち……特にスレイの、あの「音も立てずに暗殺者を処理する鮮やかな手腕(と逞しい肉体)」を、すっかり気に入ってしまってな!』
「知るか。正規のSPにやらせろ」
冷たく吐き捨て、今度こそ通信を切ろうとしたスレイだったが。
『――それが、申し訳ないが緊急事態なのだ。……誘拐事件だよ』
議員Aの声から、政治家特有の軽薄さが消え、重々しく切迫した響きに変わった。
マリアの指が止まる。
「……誘拐、だと?」
スレイの目が、サングラスの奥でスッと細められた。
『そうだ。詳しい話は直接したい。…… シュショウカンテイに来てほしい。住所は今、そちらの端末に送った』
ピロン、とマリアのPCに位置情報のデータが届く。
「……は? 首相官邸って、永田町(溜池山王のところ)じゃないの?」
マリアが怪訝な顔でマップの座標を開く。それを見たモニカが、優雅な顔に明らかな戸惑いを浮かべた。
「……ちょっと待って。この送られてきた住所って、私たちが今いる新宿の、すぐ近くじゃない!」
日本の政治の中枢であるはずの首相官邸が、なぜか歌舞伎町のネオンが瞬く新宿の目と鼻の先にあるという不可解な事実。
嫌な予感をひしひしと感じながらも、「誘拐事件」という言葉を見過ごせないスレイたち一行は、急ぎ武装を整え、指定された『謎のシュショウカンテイ』へと向かうのであった。
新宿の某所。
地図には決して載っていない、しかし異様なほどに豪奢で厳重な警備が敷かれた地下施設の入り口で、モニカが死んだ魚の目で煌びやかなネオン看板を見上げていた。
「……いいえ、モニカ。あなたの目は正常よ。……信じたくない現実だけど」
マリアもまた、頭を抱えながらその看板をひたすら睨みつけている。
そこには、重厚な筆文字で堂々とこう刻まれていた。
『 首相感貞 (しゅしょうかんてい) 』多様性推進中
「……官邸の『官』が感じるで、『邸』が貞操の貞。
……ねえ、国民の血税は一体何に使われているの? この国のトップは、税金で自分専用の超高級ラブホテルを建てたってわけ?」
「……考えるな、モニカ。真面目に納税するのが馬鹿らしくなるわ」
このバグった多様性国家に対する絶望を深める大人たちをよそに、スレイは無言で分厚い防音扉を押し開けた。
「わぁっ! なんかここ、すっごくいい匂いがするー!」
リルが無邪気な声を上げ、淫靡なアロマの香りが漂う施設の中へと元気に飛び込んでいく。
そこは、国家の危機を論じるにはあまりにも淫靡で、しかし最新鋭の防音設備と最高ランクのセキュリティを備えた、狂気と実用性が混在する謎の空間だった。
「……よく来てくれたわね、スレイたち」
施設のもっとも奥にある、不必要に広くてふかふかの円形ベッドが鎮座する豪奢なVIPルーム。
そこには、最高級の革張りソファに深く腰掛ける環萌美総理と、葉巻を燻らせる大物議員Aが深刻な顔つきで待ち構えていた。
「……さっそくだが、状況を説明していただこう」
スレイが部屋の異様さを完全に無視し、サングラスの奥の目を細めて単刀直入に切り出す。
「ええ。……被害者は、与党内でも極めて有力な議員の『息子』と『娘』よ」
萌美総理が手元のリモコンを操作すると、壁の巨大なメインモニター(おそらく普段は別の用途で使われているもの)に、二人の幼い子供の写真が映し出された。
総理の静かな説明によれば、事件は今日の昼間に起きたという。
二人の子供が通っているのは、政財界のVIPの子息ばかりが集まる、セキュリティの極めて厳重なはずの超名門幼稚園。しかし、そこで保育士や護衛のSPたちがほんの少し目を離した、わずかな隙を突いて、二人の子供はまるで煙のように姿を消してしまったのだ。
「そして先ほど、犯人から私たちのもとに『この動画』が送られてきたわ」
総理がモニターの画面を切り替える。
「……誘拐された子供たちのスマートフォンを使って撮影されたと思われる映像よ」
暗闇の中で、恐怖に怯えて身を寄せ合う二人の幼い子供の姿が映し出される。
マリアは即座に手元のノートPCを開き、専用ケーブルをモニターに接続して通信ログの解析を試みた。凄まじい速度でキーボードを叩く音がVIPルームに響き渡る。
しかし、数秒後。マリアは険しい顔で舌打ちをし、首を振った。
「……ダメね。発信元のIPアドレスはもちろん、ルーティングの経路まで何重にも偽装されているわ。プロのハッカーが噛んでる。今の段階では、動画が送られてきた場所(アジト)は全くの不明よ」
「そう……」
萌美が静かに目を伏せる。
正規の警察組織はおろか、天才ハッカーであるマリアの追跡すら瞬時に躱す、極めて手口の洗練された誘拐犯。
「首相感貞」の淫靡な空気は完全に消え失せ、部屋には重く冷たい緊張感だけが張り詰めていた。
首相感貞の特別地下会議室。
巨大なメインモニターに映し出された動画を、スレイ、マリア、リル、モニカの四人が食い入るように見つめていた。
再生された粗い映像の中に立っていたのは、安っぽい目出し帽を被った二人の男だった。
『……金持ちさんの子供は預かった。次の指示を待て』
男の一人が、変声機も使わずにドスを効かせた低い声でカメラに向かって凄む。
『いいか、絶対に警察に相談するな。もしサツの犬どもの匂いが少しでもしたら……このガキたちの命はないと思え』
もう一人の男が脅迫の言葉を口にすると、カメラの画角が乱暴に下へと向けられた。
そこには、手足をロープで縛られ、涙目で震え上がっている幼い兄妹の姿が痛々しく映し出されていた。そこで動画はブツリと途切れている。
「……見た目も内容も、ひどく月並みね」
動画を見終えたマリアが、呆れたように小さく息を吐き出した。要求も脅し文句も、まるで三流映画の誘拐犯のテンプレをなぞったかのような陳腐さだ。
その言葉に、スレイの隣に立っていたリルがパッと顔を輝かせた。
「えっ、馬並み? 犯人の人たち、馬並みにおっきいの!?」
「ちがーう!!」
極度の緊張感に包まれた感貞の地下室に、マリアの容赦ないツッコミが響き渡った。
「なんでこのシリアスな状況でシモの方に変換するのよ! 『ありきたりで平凡』って意味よ、このおバカ!」
「あうっ……ごめんなさい……」
マリアに軽く頭を小突かれ、リルは涙目でスレイの広い背中に隠れた。
「……マリアの言う通り、あまりにも典型的な誘拐事件だ」
スレイは妹分の頭を軽く撫でながら、サングラスの奥でモニターの数値を睨んだ。
「この動画は、被害者である有力議員のプライベート用アドレス宛に送られてきたものよ。送信元は、誘拐された息子のスマートフォンそのものからね」
萌美総理が手元の資料をテーブルに放り投げながら補足する。
「モニカ。映像から場所は割り出せるか」
スレイの問いに、情報屋であるモニカは険しい表情で首を横に振った。
「厳しいわ。背景はおそらく木造の『どこかの小屋』の中みたいだけれど、照明が暗すぎて特徴的なものが何も映っていないの。周りの環境音も全く入っていないし……私の観察眼をもってしても、これだけの情報では場所を特定する手がかりは何も掴めないわ」
「そうか」
スレイは短く応えると、ピエールと総理へ向き直った。
「それで、俺たち『裏の掃除屋』に依頼が来たというわけか」
「その通りだ、スレイ」
大物議員Aが苦渋の表情で頷く。
「被害者の親である有力議員は、次期政権の要職にも名が挙がっている人物でね。彼自身に何らかのダーティなスキャンダルがあって狙われた可能性もある以上、この事件を公にして堂々と警察を動かすわけにはいかないのだよ。……子供たちの命を最優先しつつ、秘密裏に事態を収拾するには、君たちの力が必要だ」
表の権力では決して解決できない、泥沼の事情を孕んだ誘拐事件。
スレイは無言で頷くと、漆黒のコートの裾を翻して踵を返した。
「マリア、モニカ。アジトに戻るぞ」
「ええ。犯人からの『次の指示』がいつ来てもいいように、通信の逆探知網を張っておくわ」
「私も、裏社会のルートから『子供を攫うような組織』の動向を洗ってみる」
「スレイ、わたしも! わたしも準備する!」
リルが慌ててスレイの背中を追いかける。
犯人の目的は金か、それとも政治的な要求か。そして子供たちの居場所はどこなのか。
未だすべてが闇の中にある状態だが、スレイたち裏の掃除屋チームは、犯人からの次なる接触に備え、いつでも出立できるようアジトでの戦闘準備と情報収集を急ぐのであった。
新宿のアジト
メインモニターの前でマリアが深く頭を抱えていた。
「……ダメだわ。さっきの動画をフレーム単位で解析しているけれど、さすがにヒントがなさすぎる。背景のノイズも意図的に消されているし、お手上げよ」
天才ハッカーからの珍しい弱音に、リルが呑気に首を傾げる。
「うーん、よくテレビのドラマとかである、お金持ってこーい! ってやつだよね、こういうのって。でも動画じゃ何も言ってなかったし……」
「そうね。犯人の目的すらまだ見えないのが一番厄介だわ」
マリアがため息をつくのを見て、スレイは漆黒のコートをハンガーに掛けながら短く言った。
「仕方ない。今は動こうにも動けん。……コーヒーでも淹れよう」
スレイがキッチンへ向かい、豆を挽き始めたその時だった。
マリアの手元の専用端末に、環萌美総理からの直通電話が鳴り響いた。
「……私よ。何か進展が?」
マリアがスピーカー通話に切り替える。
『ええ。犯人から、有力議員のアドレス宛に新しい動画が届いたわ。……ようやく要求を口にしたわよ。彼らの目的は、身代金よ』
「身代金!」
総理の言葉に、スレイはコーヒーの準備を止めてモニターの前へと戻った。
『今、そっちの端末にその動画を転送したわ。確認してちょうだい』
マリアが即座にファイルを開き、再生する。
画面に映し出されたのは、やはり先ほどと同じ暗い小屋のような部屋と、目出し帽を被った男たちの姿だった。相変わらず照明が暗く、背景の詳細は極めて分かりづらい。
動画の中の男は、ただ「指定の口座に金を振り込め。さもなくばガキの命はない」とだけ繰り返し、具体的な金額には言及していなかった。
「……どうする? マリア」
スレイの問いに、マリアは鋭い目つきでキーボードに手を置いた。
「相手は誘拐された子供のスマホから、このビデオメッセージを送ってきているのよね。だったら……」
マリアは、被害者である有力議員の端末を遠隔で操作し、犯人側のアドレスに向けて、直接メッセージを打ち込み始めた。
「焦らし合いは時間の無駄よ。こちらから、動画の送信元に直接テキストメッセージを送るわ。……『具体的にいくらだ?』とね」
マリアがエンターキーを叩き、犯人への直接的なコンタクトを試みる。
数秒の重い沈黙の後。
アジトのモニターに、犯人からの短い返信テキストがポップアップで表示された。
そこに記されていたのは、極めてシンプルで、かつ生々しい要求だった。
【1億円】
「……一億、か」
スレイがサングラスの奥で、その無機質な文字列を静かに睨みつけた。
『受取場所は指定する。次の指示を待て』
1億円という具体的な数字の提示に続き、犯人からはそれだけを告げる短いメッセージが送られてきた。
新宿のアジトで、スレイ、マリア、モニカの三人は、その無機質なテキストから現状の情報を整理し、ロジカルな推論を組み立てていた。
「1億円……。身代金目的の、コテコテの誘拐事件ね」
マリアが腕を組みながら呟く。
「ええ。金額から考えても、ある意味で金持ちを相手にした『極めて現実的な金額』と言えるわ」
モニカも同意した。もし犯人の目的が政治的なメッセージや、有力議員に対する個人的な恨みであった場合、身代金1億円という妙にリアルで具体的な数字を要求してくる可能性は低い。
「つまり、裏の組織やテロリストによる大掛かりな政治的陰謀ではない、ということだ」
スレイがサングラスの奥で目を細める。
「シンプルに『金持ちの子供が集まる幼稚園』を狙って犯行に及び、たまたま攫ったのが、あの有望議員の子供だった。……その偶然の線が強くなったな」
「次、犯人からビデオメッセージが来たら、こう伝えろ。『暗くて顔が見えない。子供たちの無事と安否を確認するために、部屋の灯りをつけろ』と」
それは、犯人との交渉における極めてロジカルな布石だった。
第一の目的は、やり取りを増やすことによる「時間稼ぎ」。
そして第二の目的は、部屋を明るくさせることで、モニカの観察眼やマリアの空間解析に引っかかる「ヒント(背景情報)」を強引に引きずり出すことである。
(……どんな僅かなヒントでもいい。情報さえあれば、このチームなら必ず居場所にたどり着ける)
スレイの胸の中には、マリアやモニカ、そしてリルたちのアジトのメンバーに対する、絶対的で揺るぎない『信頼』があった。
――翌日。首相感貞(かんてい)。
犯人からの次なる接触に備え、スレイ達は再び首相感貞の地下へと足を運んでいた。
そこには大物議員Aも待機していたが、なぜか今日は、彼の愛娘であるギャル大生・メイコの姿もあった。
萌美総理は別件でここにはいないようだ。
「……おい、なぜお前がここにいる」
「えへへー、パパの付き添いっしょ! リルたそに会いたかったし!」
ついに、犯人側から指定のアドレス宛に新たなメッセージが届いた。
スレイが事前に指示していた通り、すかさず時間稼ぎと要求のメッセージを送信する。
『一億円という大金だ、すぐには用意できない。準備に時間がかかる』
『子供たちが無事か確認したい。暗くて顔が見えないから部屋の灯りをつけろ。そして、子供の無事な声が聴きたいから、動画の音量を上げろ』
数分の重い沈黙の後。
犯人から、苛立ったような短いテキストと共に、新しい動画ファイルが送られてきた。そして、それを最後にパツンと通信が途絶えた。
「……来たわ。再生するわよ」
マリアが即座に動画をメインモニターに投影する。
要求通り、小屋の中の安っぽい裸電球が点けられていた。そして、スマートフォン自体のマイク感度(音量)も最大まで引き上げられている。
明るくなった画面の中には、相変わらず目出し帽を被った男たちと、手足を縛られて床に転がされている子供たちの姿がはっきりと映し出されていた。
「おい、泣くな! 殺すぞ!」
男の怒声と、怯えて啜り泣く子供たちの声。
その痛々しい映像を食い入るように見つめていたリルが、ふと不思議そうに首を傾げ、モニターの前に歩み寄った。
「ねえ、マリア。……この子たちの手足が赤く腫れてるの、ただの擦り傷じゃないみたい。これって『漆(うるし)アレルギー』のかぶれじゃないかな?」
「漆?」
マリアは即座に手元の端末で、有力議員の子供たちのカルテや健康診断のデータをハッキングして照合した。
「……本当だわ。この子たちは裕福な家庭で育ちも良く、皮膚疾患やアレルギーの既往歴は一切ない。誘拐されてから、急激に肌がかぶれたということね」
「ということは、その小屋のすぐ近くに『ウルシ科』の植物が群生している可能性が高いわ」
モニカの極めて優秀な観察眼が光る。彼女はモニターの隅を指差した。
「マリア、動画の開始から3秒のところ。犯人が動いた瞬間に、一瞬だけ窓の外の『木』が映っているわ。拡大して解析を!」
マリアの指がキーボードの上で踊り、不鮮明な窓の外の映像を極限まで鮮明化していく。
「……ビンゴよ、モニカ! 特徴的な羽状複葉。間違いなく『ウルシ(漆の木)』だわ!」
マリアはさらにデータベースを叩き、即座に地理情報を割り出した。
「ウルシの木は、現在では日本国内のどこにでも生えているわけじゃない。樹液を採るために、岩手県の二戸市(にのへし)など、ごく一部の限られた地域でしか本格的に栽培されていないのよ!」
「岩手県、二戸市……!」
大まかなエリアが、ついに絞り込まれた。
その報告を聞いたスレイは、間髪入れずにインカムの通信を開いた。
「萌美総理。岩手へ飛ぶ。今すぐ軍用ヘリを手配しろ」
だが、二戸市周辺の山林というだけでは、まだ正確なピンポイントの座標までは特定しきれない。
アジトの大人たちがさらに地図を絞り込もうとしていた、その時だった。
「ねえねえ」
要求通りに『音量』が最大まで上げられた動画の音声を聴いていたギャル大生・メイコが、ふと思い出したように声を上げた。
「動画の背景から、かすかに『虫さん』の鳴き声が聴こえない? リーリーってやつ。これ、気温とか分からないのかな?」
「気温?」
スレイが怪訝そうに眉をひそめると、メイコは「ばいやーっしょ!」と指をパチンと鳴らした。
「アタシ、詳しい計算式までは覚えてないんだけど……昔読んだ本に書いてあったの! 『ドルベアの法則』って言って、コオロギの鳴く回数を数えれば、その場所の正確な『気温』が分かるんだって!」
「……ドルベアの法則!!」
マリアとモニカが、同時にハッと息を呑んだ。
そうだ。コオロギの鳴き声のペースは気温に完全に比例する。音量を上げさせたことで、動画にはその鳴き声がはっきりと記録されている。
これこそが、一度見た膨大な知識を脳に焼き付ける瞬間記憶能力を持つ、花弁大学首席・メイコの真骨頂であった。
「……頼んだぞ、マリア、モニカ」
スレイはアジトの仲間たちに後を託し、環萌美総理が手配した軍用ヘリコプターへと単身乗り込んだ。
凄まじいローターの爆音と共に、漆黒の機体が新宿の夜空から北の空へと飛び立つ。眼下に遠ざかるネオンの光を見下ろしながら、スレイはどこか心の中で、自身のチームをひどく誇らしげに思っていた。
(……大した奴らだ)
誘拐という極限の状況下で、誰一人として取り乱すことなく、それぞれの特技を完璧に噛み合わせて正解を導き出す。マリアの解析、モニカの観察眼、そしてメイコとリルの思わぬ直感と記憶力。
ただの殺し屋の集まりではない、彼らだからこそ届く真実があるのだと、スレイはサングラスの奥で静かに目を細めた。
一方、その頃のアジト。
「コオロギごいす〜! アタシの記憶力もマジでばいやーっしょ!」
メイコがピースサインを決めてはしゃいでいたが、ふと周囲を見回して首を傾げた。
「……あれ? リルたそは?」
先ほどまでそこにいたはずの、金髪の親友の姿がどこにもない。
そんなメイコの疑問をよそに、メインモニターに向かっていたマリアが、ついに完璧な座標を弾き出した。
鳴き声の回数 N = 40 分子の引き算(40 - 40)・・・約10℃
「出たわ! 動画から抽出したコオロギの鳴き声のテンポ……ドルベアの法則に当てはめて計算した結果、動画が撮影された場所の気温はかなり低いわ」
マリアは即座に上空のスレイへと通信を繋ぐ。
「スレイ、聞こえる!? 気温とウルシの植生分布から考えて、場所はおそらく岩手と青森県の県境ね。……ターゲットは、国道241号線付近の山林よ!」
『ああ、了解した』
上空を飛ぶヘリの中で、スレイがマリアからの座標を受信した、その時だった。
背後の、機材が積まれた後部座席の毛布の下が、もぞもぞと不自然に蠢いた。
「……ん?」
スレイが怪訝に思い、毛布をバサリと捲り上げる。
「えへへ〜。見つかっちゃった」
そこには、毛布にくるまれ満面の笑みを浮かべたリルが丸まっていた。
「お前……いつの間に乗り込んだ」
「だって、スレイ一人じゃ心配だもん!」
リルは毛布から這い出すと、躊躇なくスレイの懐に滑り込んだ。
完全な密航である。しかし、ここまで飛んできてしまっては新宿に引き返すわけにもいかない。
スレイは深くため息をつき、「……仕方ない」と早々に諦めて彼女を座席に座らせた。
スレイは無線のスイッチを入れた。
「……マリア。リルが密航していた。このまま二人で現地へ向かう」
『はあ!? あのバカ……まあいいわ、足手まといにならないようにね』
マリアの呆れた声に混じって、通信の向こうからメイコの明るい声が響く。
『リルたそー! スレイの邪魔しちゃダメっしょ! あと、帰りに岩手のお土産お願い〜!』
緊張感のないアジトからの通信を切り、スレイとリルは犯人からの次なるメッセージを待った。
しかし、いくら待てども、身代金の受け渡し場所に関する具体的な指示は一向に送られてこない。
相手も警戒しているのか、あるいは夜が明けるのを待っているのか。
「……このまま起きていても体力を消耗するだけだ。少し仮眠をとるぞ」
スレイの言葉に頷き、リルはスレイの広い肩に頭を預けて静かな寝息を立て始めた。
【お知らせと次回予告】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
姿の見えない誘拐犯に対し、マリアの解析、モニカのプロファイリング、そして思わぬ伏兵(メイコとリル)の直感が冴え渡る、PCUの完璧なチームワーク回でした。
敵の居場所を突き止め、北へ飛んだスレイ。
明日(20時更新)の後編では、いよいよスレイの圧倒的な力による「お掃除」と、萌美総理が仕掛けたえげつない罠が発動します。結末をぜひ見届けに来てください!
『境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~6月は毎日20時更新』
6月は毎日20時に最新話を公開していきます。明日の20時もぜひお待ちしております!
▼イラスト・設定資料について▼
劇中の挿絵や、キャラクターの詳細な設定資料をPixivにて公開しています。
【Pixiv】https://www.pixiv.net/users/124951524
もし「面白かった」「続きが気になる」「温度差で風邪ひいた」と思っていただけましたら、下部の☆マークからの評価や、お気に入り登録、ご感想などをいただけますと、毎日の執筆の最大の励みになります!