境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~   作:トナカイ粉砕

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引き継がれるもの編(中編)

――翌朝。

 

遺産争いの渦中にいる令嬢・天方詩織の、運命の通学が始まった。

 

「皆さん、よろしくお願いいたします」

詩織は、いかにも育ちがいいお嬢様という風に、PCUの面々に向かって丁寧に頭を下げる。

 

昨日の誘拐未遂の恐怖からか、その表情にはまだ少し不安の色が残っていたが、無理に作ったような小さな微笑みが浮かんでいた。学校を休む手もあるが、いつまでも休んでいる訳にはいかない。

叔父と叔母に関しては長期戦狙いの手もあるだろうが、どこかで証拠や犯人をあぶりだす必要があるのだ。

 

「アタシも同じ花弁大学の学生だし〜、先輩としてエスコートしてあげるっしょ!」

メイコが、派手なネイルを光らせながら、怯える詩織の腕を引く。

 

「うんっ! リルも一緒に行くよ!」

リルは学生証を持っていなかったが……以前と同じように大物議員Aが裏から手を回し、国家権力を駆使して一晩で完璧な偽造学生証(ID)を発行させた。

そして何の問題もなく学内へ潜入する運びとなった。

 

「リルさんとメイコさんがいると、安心します」

詩織が、二人の明るさに触れてホッと息をつく。

 

【挿絵表示】

 

詩織の周囲は、財閥が雇った数名の屈強な私設ボディガードたちが厳重に固めている。

 

叔父と叔母が放つ新たな刺客の襲撃。

 

……昨日の接近戦での誘拐未遂が失敗した以上、今度は遠距離からの狙撃による暗殺の可能性が極めて高い。

車の窓ガラスが防弾仕様であっても、車に乗り降りするその一瞬の隙を突かれれば終わりだ。

 

「また花弁大学に来ることになるとはね。またあの多様性教授のイカれた授業を聞かないといけないのかしら……」

マリアが、以前の潜入任務を思い出してげんなりとした顔をする。

 

「……メイコ、リル。学内の警護は頼んだぞ。俺は、外の巣(キルゾーン)を潰す」

スレイが、サングラスの奥で周囲のビル群を睨みつけながら指示を出した。

 

「私はスレイとは反対のほうのビルを抑えるわね」

モニカも優雅にヒールを鳴らし、それぞれの配置へと向かう。

 

講義は、何事もなく進んでいった。

 

広大な大学のキャンパス内は、リルとメイコが詩織の両脇を固め、不審者が近づかないよう目を光らせている。

マリアもアジトから大学の監視カメラシステムをハッキングし、死角がないか常にチェックを続けていた。

モニカは近くのビルから、周囲にスナイパーの影がないか警戒の目を向けている。

 

しかし。本当の勝負は、講義が終わり、花弁大学の校舎から出て送迎車に乗り込むまでの、わずか数メートルのデッドラインだ。

 

 

――夕暮れ。花弁大学・正門前。

 

下校する学生たちで賑わう中、詩織たちが校舎から姿を現した。

ボディガードたちが彼女を囲み、送迎車のドアを開ける。

 

『こちらモニカ、東のビルと東方のビルには異常なし』

インカムからモニカの冷徹な報告が入る。

 

その時。

 

正門を見下ろす、絶好の狙撃ポイントと思われる南向かいのビルの屋上。

スレイはすでにそこに先回りし、給水塔の物陰に気配を完全に消して潜んでいた。

 

サングラスの奥が、屋上の縁(ヘリ)で腹這いになり、正門前の詩織に向けてライフルを構えようとしている黒ずくめの男を捉えた。

(……やはり、叔父と叔母のスナイパーか。……素人だろうか。巣の選び方が甘い)

 

この距離ならば、懐のハンドガンで十分に眉間をブチ抜ける。

 

スレイは無言で銃に手をかけ、そのまま男を制圧して首謀者の証拠を吐かせるか、それとも、昨夜屋上に落ちていたあのウサギの小銭入れについて問い詰めるか……ほんの一瞬、思考を巡らせた。

 

男がライフルにバイポッドを装着し、詩織への照準(サイトイン)を合わせ始めた、その刹那。

 

『――シュンッ……!』

夜の静寂を切り裂くような、微かな消音(サプレッサー)の風切り音が響いた。

 

「…………ッ!?」

スレイは何もしていない。

しかし、スレイの目の前にいた黒ずくめの男の頭部が、まるでザクロのように弾け飛び、屋上のコンクリートへと無様に崩れ落ちたのだ。

 

「……何だと?」

どこからだ。東西南北、どのビルからも射線は通っていないはずだ。

 

スレイはサングラスの奥で目を細め、着弾の角度と男の倒れ方から、即座に弾道を計算する。

 

……遥か彼方。このビルよりもさらに高い、別の超高層ビルの屋上からの超長距離射撃。

昨日、東西のビルを洗った時、スレイですら流石にこの距離での狙撃は不可能だと除外したポイントからの、神業めいた一撃だった。

 

詩織を狙撃しようとしていた刺客が、さらにその影に潜むゴースト(狙撃手)によって、完璧に処刑されたのだ。

 

スレイは無言で、死体となった男の懐から携帯電話を抜き取ると、山田相姦の専用回線へ連絡を入れた。

「……山田相姦。花弁大学前の南ビルの屋上に、刺客の死体がある。回収しろ。……ええ、俺の仕業じゃない。……本物のゴーストだ」

そして即座にマリアへの通信を入れ、現場の保全を山田部隊に任せると、スレイは送迎車に乗り込んだリルたちと合流した。

 

安全を最優先し、詩織をペントハウスに送り届ける前に、一行は総理の待つ首相感貞の地下室へと向かった。

 

 

――夜。首相感貞・特別地下室。

 

「……私が見る限りでは、詩織の交際相手……あの違う財閥の御曹司。そこから何か裏社会の人間を雇ったような、金の動きや不審な通信履歴は……一切見つからないわ」

マリアが、困惑したような声でハッキングデータを報告する。

 

「ええ。こちらでも御曹司のほうの財閥を洗わせたけれど……そもそもトップの連中は、天方財閥の遺産争いのことなんて、いまいち把握していなかったわよ」

萌美総理が、冷徹な声で付け加えた。

 

「叔父と叔母は、外部の人間には遺産相続が円満に進んでいるように、適当にいい顔をして振る舞っていたようね」

モニカがプロファイラーとして分析する。

 

「御曹司の財閥が、メリットのためにスナイパーを雇う動機が、最初から存在しなかったのか」

大物議員Aが、腕を組んで深く息を吐いた。

 

「…………」

重い沈黙が降りた。

 

叔父と叔母の放つ刺客は、昨夜の誘拐犯も、そして今日のスナイパーも、謎の狙撃手によって排除された。

しかし、その雇い主は彼氏の財閥ではなかった。

 

「……じゃあ、一体誰が……? 誰が詩織ちゃんを守っているの……?」

リルが、怯える詩織の肩を抱き寄せながら、不思議そうに呟く。

 

「詩織ちゃんは、本当に誰か守ってくれる人とか思いつかないの?」

メイコが尋ねる。

 

「えぇ、彼氏以外には特に接点がなく、私も想像がつかないのです……」

詩織が、不安そうに首を横に振った。

 

「……さぁな。天涯孤独の令嬢を、四面楚歌の地獄から一方的に救い続ける、正体不明の幽霊……」

スレイは安物のタバコを深く吸い込み、紫煙を細く吐き出した。

 

「……さしずめ、四面楚歌のお姫様に仕える守護天使かしら」

萌美総理が皮肉っぽく笑う。

 

「……それとも、暗闇の奥に潜むオペラ座のファントム(幽霊)といったところか」

大物議員Aが重々しく呟く。

 

敵か味方かもわからない、しかし詩織を傷つける者は微塵も容赦しない、圧倒的な力を持った姿なきゴースト。

 

裏の掃除屋たちは、この不気味な守護者の真意と、ウサギの刺繍に隠されたドス黒い真実を暴くため、いよいよ天方財閥の遺産争いの核心部――主犯である叔父と叔母への直接的な接触へと、足を踏み入れていくのであった。

 

 

――夜。花弁大学周辺のビル群。

 

PCUの面々が詩織を送り届ける中、スレイは一人、再び現場へと戻ってきていた。

 

頭部を吹き飛ばされた刺客の死体があった傍らに立ち、サングラスの奥で周囲のビル群を見渡し、着弾の角度と弾道を冷静に再計算していた。

 

(……おかしい。射線が長すぎる)

圧倒的な超長距離狙撃。

その方角を辿ると、発砲地点は明らかに花弁大学のキャンパスから遠く離れすぎている。

 

つまり、あの謎のスナイパーは、最初から花弁大学にいる詩織を直接護衛する位置取りをしていたわけではない。……詩織を狙うであろうスナイパー(刺客)が現れるポイントをピンポイントで逆算し、最初から刺客の頭を標的にして待ち構えていたのだ。

 

「……御曹司の彼氏の財閥が雇った線は完全に消えた今」

スレイは紫煙を吐き出しながら呟いた。

 

これほどの異常な執念と殺意。

「単なる企業防衛のビジネスで雇われた人間の仕事ではない」

 

ある結論に、スレイは達していた。

 

 

――夜。天方詩織の超高級マンション(ペントハウス)。

 

詩織はPCUメンバーとボディガードに守られ、首相感貞からペントハウスに帰宅した。

 

そこにスレイが現場から戻り、裏の掃除屋は再び詩織の暮らすリビングへと集結していた。

 

「……直接、詩織と話がしたい」

スレイが低い声で切り出すと、女性陣から一斉にストップがかかった。

 

「年端もいかない女の子なんだから、脅かしたらダメじゃない」

マリアが睨む。

 

「いやいや、顔面凶器が直に話しかけたら、詩織ちゃんショックで倒れちゃうよ!」

メイコが両手でバツ印を作る。

 

「そうよ。この子は昨日から誘拐だの狙撃だので怯えきっているんだから」

モニカがたしなめる。

 

「スレイがかわいそう……大丈夫だよ、詩織ちゃんにスレイの事は話してあるし! 私たちも横にいるなら大丈夫じゃない?」

リルの援護射撃(?)を受け、マリアとモニカが優雅にため息をついて許可を出した。

 

スレイは無言で頷き、ソファで毛布に包まっている詩織の正面へと静かに腰を下ろした。

 

「……すまんが、一つ教えてくれ」

スレイが、極力威圧感を消した静かな声で尋ねる。

 

すると、詩織はコクリと頷き、少し頬を赤らめて不思議そうな顔で言った。

「えっーーと。……あなたは、リルさんの旦那様ですよね? リルさんが、いつも守ってくれてるって……」

 

「…………」

スレイの動きが、完全にフリーズした。

 

視線をずらすと、詩織の後ろで、リルが満面の笑みでピースサインを作っていた。

スレイの正妻を自称する彼女は、女子会の最中にしっかりとその設定(嘘)を詩織に刷り込んでいたのだ。

 

「あー……うん、まぁ。深い事情は気にしないで」

マリアが、頭を抱えながら誤魔化す。

 

スレイは気を取り直し、核心を突く質問を投げかけた。

 

「……単刀直入に聞く。……君は過去に、移植手術などを受けていないか?」

 

「……ッ!」

その言葉に、背後にいたモニカ、マリア、メイコの三人が、雷に打たれたように息を呑んだ。

 

「……ええ」

詩織は、自分の胸――服の上から左胸のあたりにそっと手を当て、静かに頷いた。

「3年程前ですが……私、生まれつき心臓が悪くて。ずっと入院していたんですが、奇跡的にドナーが見つかって、心臓の移植手術を受けました」

 

その告白がリビングに響いた瞬間。

バラバラだったすべてのピースが、残酷なほど美しく、一つの真実へと繋がった。

 

なぜ、天涯孤独の令嬢を、無償で、圧倒的な暴力で守り抜く正体不明のゴーストが存在するのか。

なぜ、血と硝煙の匂いがする冷酷なスナイパーの巣(狙撃ポイント)に、子供が使うようなウサギの刺繍の小銭入れが落ちていたのか。

 

「……おそらく。君を守り続けている守護ファントム(狙撃手)の正体は」

スレイが、サングラスの奥で、悲しき復讐者の幻影を見据える。

 

「……君に移植された元の心臓の持ち主(ドナー)の、親だ」

 

「……えっ」

詩織が、驚きに目を見開く。

 

「……そうか。自分の子供は死んでしまったけれど……子供の心臓は、今も詩織ちゃんの中で元気に動いている……」

リルが、泣きそうな顔で両手を胸の前で組む。

 

「だから、だね。……自分の命に代えても、娘の心臓(いのち)がどこかで生きている限り、絶対に守り抜くって……そういうことっしょ……」

メイコが、震える声でその凄絶な親の愛と執念を代弁した。

 

詩織は、呆然としたままスレイの言葉を反芻していた。

「……私、提供してくれた方については、プライバシーの観点から深くは知らされていませんでした。ただ、事故に遭われて……偶然、私の型に適合したのだと聞いています」

 

姿なきスナイパーは、知っているのだ。

 

自分の愛する娘の心臓が、天方財閥の令嬢の胸の中で、今もトクトクと鼓動を打って生きていることを。

そして、その引き継がれた大切な心臓(娘)が今、遺産相続の醜い争いのせいで、心無い大人たちによって奪われようとしていることを。

 

だからこそ、血塗られたライフルを手に取り、娘の心臓を狙う悪党どもを闇から排除し続けているのだ。

ウサギの小銭入れ――亡き娘の形見を、お守り代わりに強く握りしめながら。

 

「……詩織が手術を受けた、大学付属病院の記録を洗えば、確実にドナーの身元がわかるわ」

モニカが、プロファイラーの目を鋭く光らせてマリアに合図を送る。

 

「ええ。すぐに病院のデータベースにハッキングをかけるわ。……天方詩織の中で動いている心臓。その元の持ち主の父親、それが例のファントムの正体よ」

マリアが、PCを開きながら即座に行動を開始した。

 

天方財閥の遺産ではなく、ただ我が子の心臓を守るためだけに引き金を引く、哀しきスナイパー。

 

裏の掃除屋たちは、このあまりにも切なく、ハードボイルドな真実を胸に秘め、まずはファントムの正体(ドナーの親)の身元特定へと急ぐのであった。

 

――深夜。極秘アジト。

 

天方詩織の胸で脈打つ、引き継がれた心臓。

 

その衝撃的な真実を掴んだスレイたちは、即座に首相感貞の環萌美総理へと通信を繋いだ。

 

『……なるほど。娘の心臓を守るための、親の執念。……それなら、得体の知れないスナイパーが詩織を無償で守護し続けている理由にも、完全に説明がつくわね』

モニター越しの萌美総理が、深く納得したように頷く。

『こちらで直ちに、詩織が手術を受けた大学付属病院の記録に直接問い合わせるわ。国家権力を使えば、ドナーの親の身元を特定するのは一瞬よ』

 

「……しかし、遺産相続の骨肉の争いに完全な決着をつけるには、主犯である叔父と叔母の逮捕しか、今は状況(ゴール)がないわね」

モニカが、優雅にコーヒーカップを置きながら現状を整理する。

 

「だねー。捜査と証拠固めは政府(総理たち)に任せてよさそうっしょ」

メイコが、派手なネイルを眺めながら同意した。

 

「ええ。ここは私たちが、叔父たちの放つ刺客から詩織ちゃんを守ることがまず先決ね」

マリアが、PCの画面に花弁大学周辺の監視カメラ映像を展開し続ける。

 

『一応、状況としての辻褄は合っていると思うわ。しかし、そのスナイパーが国家にとって害悪な存在なのかは未だ不透明よ』

萌美総理が、最高権力者としての懸念を口にする。

 

「あぁ、その点についても承知している」

スレイが短く答えた。

 

「持久戦という訳ではないけれど……叔父と叔母の逮捕の瞬間が、このミッションの最終的な決着になるわ」

モニカがプロファイラーの目を細める中、リルがテーブルの上に置かれたあの遺留品をそっと両手で包み込んだ。

「…………ウサギさん小銭入れ、返してあげないと」

 

不器用にウサギの刺繍が施された、薄汚れた小銭入れ。

 

それは間違いなく、事故で亡くなった娘が愛用していた、あるいは親の手作りであった娘の形見なのだろう。

冷酷な狙撃手が、ただ一人で暗闇の巣(ネスト)に潜む時、祈るように握りしめていたに違いない大切なもの。

 

「……ああ。接触(コンタクト)を図る」

スレイが、ジッポライターをカチャリと鳴らし、紫煙を吐き出しながら頷いた。

 

 

――そして、翌日の通学。

 

花弁大学へと向かう詩織の足取りは、昨日までの怯えきったものとは少し違っていた。

 

彼女は知っている。遠く離れたビルの屋上から、自分(の心臓)を命懸けで守ってくれている守護ファントムが、必ず今日もスコープ越しに見守ってくれていることを。だから、敵の狙撃については心配ない。

 

「大丈夫だよ、詩織ちゃん!」

リルが元気に笑いかける。

 

「皆が守ってくれてるから!」

メイコがウインクする。

 

花弁大学の校門前に到着した詩織は、車から降りると、くるっと振り返った。

 

そして、ボディガードたちが怪訝な顔をする中、スレイから預かったウサギさんの小銭入れを両手で高く掲げ、その場でゆっくりと360度回転してみせた。

 

はるか遠くの狙撃ポイントから、高倍率のスコープで詩織を視認しているであろうファントムに、はっきりと『あなたの落とし物を拾った』というメッセージを伝えるために。

 

さらに、夕方。講義が終わり、帰り車に乗る前のデッドライン。

 

詩織は再び校舎の前で立ち止まり、朝と同じように、小銭入れを高く掲げてゆっくりと360度回転した。

(……見てくれていますか。あなたの、大切なものですよね)

 

その詩織の後ろで。

「メイコちゃん、もっとピンと張って〜!」

「わかってるっしょ! 風が強くて飛ばされそうだよ〜!」

リルとメイコが、画用紙を何枚も繋ぎ合わせた巨大な紙(カンペ)を、空の彼方に向けてバサリと広げていた。

 

そこには、極太のマジックで、ある場所の座標軸(緯度と経度)と今夜0時という指定時間が、バカみたいにデカデカと記されていた。

 

最新鋭のスナイパーと、女子大生たちによる、あまりにもアナログで力技なスコープ越しの交信。

 

もし詩織を狙う者が今いたとしても、スナイパーとスレイが排除しているはずである。

 

果たして、守護ファントムは見てくれているだろうか。そして、あの指定した座標軸に、形見を取り戻すために現れるだろうか。

 

 

――その夜。指定された座標軸。

 

そこは、花弁大学から数百メーター離れた、人影の少ない再開発予定地の廃ビルだった。

 

スレイとリルは、その廃ビルの薄暗いフロアに指定の座標ポイントを定め、コンクリートのドラム缶の上に、あのウサギさんの小銭入れをポツンと置いていた。

 

周囲は完全な静寂に包まれている。

 

スレイは壁の影に身を潜め、気配を殺している。リルも息を殺してスレイの隣にしゃがみ込んでいた。

離れたアジトからは、マリア、モニカ、メイコがインカム(小型通信機)を通じてリアルタイムで繋がっている。

 

『……スレイ。周辺の監視カメラに、異常な動きはないわ。……来るかしら』

インカムから、マリアの緊張した声が漏れる。

 

『そろそろ時間ね。来るといいのだけれど』

モニカが静かに言う。

 

「……来るさ。あれは、奴の心そのものだ」

スレイが、極小の声で返す。

 

夜中の0時を回った、その時だった。

 

『……カツッ』

瓦礫を踏む、微かな足音が響いた。

 

スレイがサングラスの奥で目を細め、リルがハッと息を呑む。

 

月明かりが差し込む廃ビルのフロアに、音もなく、一つの影が滑り込んできた。

ライフルケースを背負い、黒いタクティカルウェアに身を包んだ、プロフェッショナルの佇まい。

 

【挿絵表示】

 

しかし、そのドラム缶の上の小銭入れへと真っ直ぐに手を伸ばしたシルエットは、屈強な大男などではなかった。

 

「…………」

そこへ現れたのは、冷たい凄みと、深い哀しみを帯びた瞳を持つ一人の女性だった。

 

ウサギの形見を回収しに来た、凄腕の狙撃手。

それは、娘の心臓を守るために修羅の道に落ちた、一人の母親の姿であった。

 

月明かりが差し込むフロアに、音もなく降り立った黒いタクティカルウェアの女性。

その姿を視認した瞬間、スレイのインカムに、アジトでハッキングを続けていたマリアからの報告が飛び込んできた。

 

『……スレイ、ビンゴよ。大学病院の履歴と、裏社会のデータベースを照合したわ』

マリアの声には、対象への畏敬と、微かな痛ましさが混じっていた。

 

『彼女の年齢は45歳。自衛隊などの公的機関の出身ではなく、完全な裏社会(アンダーグラウンド)の民間の傭兵で、常にトップの成績を収めてきた生粋のプロフェッショナルよ』

 

『戦場で男性の圧倒的な力(フィジカル)には及ばない壁を越えるため、ひたすらに狙撃の道だけで生き抜いてきたのよ。そして狙撃に関してはエリート中のエリートね』

モニカが補足する。

 

スレイは壁の影に潜んだまま、ドラム缶の上の小銭入れを見つめる女スナイパーの横顔を観察した。

冷徹な凄みの中に、深い喪失感を宿した瞳。

 

『……彼女は、夫を早くに亡くし、女手一つで一人娘を育ててきたわ。しかし……その最愛の娘が、3年前の事故で帰らぬ人となった』

インカム越しに、モニカが静かに言葉を継ぐ。

 

『でも、臓器提供(ドナー登録)を、亡くなった娘さん自身も生前に強く望んでいたのよ。そこで、奇跡的な確率で偶然にも適合したのが……生まれつき心臓の悪かった、天方詩織だった』

マリアがハッキングで引き出した真実を語る。

 

天方財閥の遺産など、彼女には一ミリも関係ない。

ただ、自分の命よりも大切な娘の心臓が、醜い大人たちの都合で止められようとしていることだけが、絶対に許せなかったのだ。

 

その時だった。

 

「はいっ! ウサギさん小銭入れのお届けです!!」

「……ッ!」

 

緊張感など微塵もない、リルの明るい声が廃ビルに響き渡った。

 

リルが物陰からひょっこりと飛び出した瞬間、女スナイパーの纏う空気が一変し、目にも留まらぬ速度でホルスターからハンドガンを抜き放ち、リルの眉間へと真っ直ぐに銃口を突きつけた。

 

一切の淀みもない、完璧な殺意と射撃体勢。

 

しかし、リルは怯えることなく、えへへと笑ってドラム缶の上の小銭入れを指差した。

 

そこへ、スレイが、両手をゆっくりと頭の高さまで上げながら、暗闇から姿を現した。

 

「……敵意はない」

スレイは、自分に向けられた銃口に動じることなく、低くしゃがれた声で告げた。

「俺たちは、詩織の側(味方)だ」

 

「そうそう! アタシたち、詩織ちゃんと一緒に大学いってるよ!」

リルが、呑気にピースサインを作ってアピールする。

 

あのデッドライン(校門前)で、詩織の傍にピタリと張り付いていた規格外の護衛たち。

女スナイパーは、スコープ越しに彼らの姿をすでに確認していたのだろう。

 

「……あなたが、あの子の警護をしてくれている方ね」

女スナイパーは、スレイたちの目に敵意がないことを読み取ると、ゆっくりと銃を下ろし、警戒を解いた。

 

スレイとリルは両手を下ろし、現在の状況を彼女に手短に説明した。

 

遺産を狙う叔父と叔母の企み。

そして、国家権力(萌美総理)が動き、証拠が固まり次第叔父と叔母の逮捕という形で、この血生臭いゲームが決着を迎えるということ。

 

女スナイパーは、ドラム缶の上に置かれていたウサギの小銭入れを、愛おしそうに両手で包み込んだ。

それは、凄腕の傭兵の顔から、ただの一人の母親の顔へと戻った瞬間だった。

 

「……娘の心臓が、あの子の中で動いてる」

女スナイパーは、月明かりを見上げながら、ポツリと呟いた。

「……私はただ、あの子の鼓動が止まるのが、どうしても耐えられないのよ」

 

不器用に縫われたウサギの刺繍を撫でる指先が、微かに震えている。

 

どれほど手を血に染めようとも、娘の命が続く限り、この幽霊(ファントム)は暗闇から詩織を守り続けるつもりだったのだ。

 

「……私を、逮捕しないの?」

女スナイパーが、自嘲気味に笑ってスレイを見つめた。

 

すでに四人の誘拐犯と、一人の狙撃手を射殺している身だ。

表の法律に照らし合わせれば、彼女は立派な連続殺人犯である。

 

しかし。スレイは安物の紫煙を細く吐き出すと、背を向けて歩き出した。

「……俺には、関係ないことだ」

 

裏の掃除屋(PCU)のルール。

依頼されていない仕事はしない。

そして、娘を守ろうとする親の執念を、野暮に裁く趣味も持ち合わせてはいない。

 

「お母さん! これからも、詩織ちゃんを守ってね!」

リルが、女スナイパーに向かって大きく手を振る。

 

女スナイパーは、少しだけ驚いたように目を見開き……やがて、憑き物が落ちたような、優しく、静かな微笑みを浮かべて小さく頷いた。

 

 

――数分後。廃ビルの外へ出たスレイは、暗号回線を繋いだ。

 

「……萌美総理。報告だ」

画面越しに、ワイングラスを傾ける最高権力者が映し出される。

「……例のスナイパーの正体を確認した。結論から言うと、あれは国の脅威ではない。……ただの、過保護な親だ」

 

スレイのその短い報告に、すべてを察した萌美総理は、優雅にふっと微笑んだ。

『……そう。それなら、あなたたちの任務完了ね』

 

謎のスナイパーの正体と目的を暴くという、PCUへの直接の依頼はこれにて完遂された。

 

残るは、遺産に目が眩んで少女の命を狙った、薄汚い叔父と叔母への鉄槌のみ。

 

政府の包囲網が狭まる中、天方財閥の遺産相続争いは、いよいよ最後の決着(クライマックス)へと向かっていくのであった。

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