――翌朝。新宿、極秘アジト。
女スナイパーの正体と目的を突き止め、萌美総理から任務完了の通達を受けた裏の掃除屋(PCU)たちは、アジトのリビングでくつろいでいた。
さて、問題なのは、詩織の命を狙う主犯――叔父と叔母の逮捕である。
「……反社や裏の人間への依頼は、何重にもダミー会社を噛ませるか、海外の幽霊会社からの暗号資産、あるいは足のつきにくいステーブルコインでの決済でしょうね」
モニカが、優雅にコーヒーを啜りながら、現状の証拠の薄さを指摘する。
「ええ。遺産を独占するために手を汚す以上、自分たちに足がつかないように徹底的にやるはずよ。逮捕されて遺産を国に没収されたり、他の親族に横取りされたりしては、元も子もないもの」
マリアが、PCの画面をスクロールさせながら同意した。
決定的な証拠(泥)がない。あの狡猾な叔父と叔母を確実に追い詰めるには、何らかの形で自白を引き出し、強引に家宅捜索の令状を叩きつける線しかないだろう。
「自白と言っても、この前のブラックウィドウみたいな感じ?」
リルが首を傾げる。
「今回はあくまで遺産争いで、本人が直接殺人をした訳じゃないしな〜」
メイコがネイルを見ながら呟く。
「……まぁ、一応は私たちに出番は終わりね。あとは総理や警察の仕事よ」
モニカが息を吐く。
「そうね。例のスナイパーはテロ関連の国の脅威ではなかったし、これ以上私たちが直接介入する正式な理由はないわ」
マリアもPCを閉じた。
「ええ〜っ! でも、詩織ちゃんの安全はまだ確保されてないんだよ!?」
リルが、ソファから身を乗り出して抗議する。
「まぁまぁ。山田相姦の部隊は優秀だし、ボディガードも屈強だから大丈夫っしょ」
メイコが軽く返す。
「…………」
スレイは、タバコを指に挟んだまま、無言で天井を見上げていた。
そして、火を消して低くしゃがれた声でポツリと呟いた。
「……サービス残業だな」
「えっ?」
リルが顔を輝かせる。
「……へ〜、柄にもなくお姫様を最後まで守ってやる気かしら?」
モニカが呆れたように笑うと、スレイはサングラスの奥で鋭い光を放ち、静かに立ち上がった。
「何かスレイ、気になることでもあるの〜? とりあえず私は学校行くから詩織ちゃんには会えるよ」
メイコが立ち上がる。
「報酬は出ないわよ?」
マリアが皮肉っぽく笑った。
スレイには、一つだけ、どうしても気になっていることがあった。
あの女スナイパーの腕は間違いない。
一撃必殺の超長距離狙撃は、裏社会でもトップクラスだ。
しかし……逆に言えば、敵(叔父たち)もバカではない。
すでに実行犯や刺客が二度も得体の知れないスナイパーによって排除されているのだ。自分たちの命を狙う邪魔な凄腕が1名いることくらい、とうに勘付いているはずだ。
もし、敵が1名の狙撃では絶対に不可能となる状況を作り出してきたら、どう考える?
あの孤高の女スナイパーは、どう動く?
(……俺が敵の指揮官なら、そうする。……2名の狙撃手を配置して、完璧な狙撃手対策を敷いてくるはずだ)
プロフェッショナルの直感。
スレイは静かにコートを羽織り、再び花弁大学の周辺へと急行した。
――同時刻。花弁大学周辺、高層ビルの屋上。
いつものように詩織が通学を終え、今は講義を受けている真っ最中だ。
その安全を遠くから見守るため、女スナイパーはいつものように屋上に身を潜め、高倍率のスコープで大学の正門周辺をクリアリングしていた。
(……異常なし。今日も、あの子の心臓は無事ね)
そう安堵の息を吐きかけた、その時だった。
彼女のスコープが、正門を挟んで対角線上に位置する二つのビルの窓の奥に、不自然な黒い銃口の反射光を捉えた。
「……ッ!」
向かいのビルの屋上でスコープを構える女スナイパーは、その敵の陣形の意味を瞬時に理解し、一瞬にして全身の血の気が引いた。
「……狙撃手対策(クロス・ホステージ)ね……っ!」
敵の暗殺者たちは、正門を挟んで完全に独立した二つのポイントに展開し、お互いの死角を完璧にカバーし合っていた。
もし、女スナイパーがAの暗殺者を撃ち抜けば、離れているBが即座に異変を察知し、詩織の心臓を撃つ。
逆にBを撃ち抜けば、背後のAの指が反射的に引き金を引き、詩織の頭を吹き飛ばす。
こちらがどんなに凄腕だろうと、弾丸は一度に一つしか撃てない。
自分をあぶり出し、確実にターゲット(詩織)を殺害するために組まれた、スナイパー封じの絶対的な悪魔の陣形。
一人では、物理的に不可能。
二人だからこそ、可能な陣形。
「……しまった……。これは、まずい……っ」
女スナイパーの額から、冷たい汗が滝のように流れ落ちた。
いつも通りに講義が終わり、詩織が校舎から出てくる下校時間まで、あとわずかしかない。
それまでに、この完璧なクロス・ホステージを同時に打破しなければ、愛する娘の心臓は、二方向からの凶弾によって確実に抉り取られてしまう。
手が震える。スコープ越しの世界が、絶望に染まっていく。
四面楚歌の令嬢と、窮地に立たされた孤高の守護ファントム。
――昼下がり。花弁大学を見下ろす、高層ビルの屋上。
女スナイパーの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けていた。
正門を挟んで対角線上に配置された、二人の暗殺者(クロス・ホステージ)。
講義が終わり、詩織が校舎から出てくる前までに、あの二人を同時に始末するしかない。
しかし、敵もプロでありバカではないのだ。
ターゲットが姿を現すまでは、絶対に射線が通る窓際(キルゾーン)には立たず、奥でじっと身を潜め、警戒している。
(……くそっ。何か、打開策はないか……!)
今からあのビルへ直接向かって急襲をかけたとしても、二人を同時に無音で殺すことは物理的に不可能だ。
もたついていれば、下校時間が来てしまう。
焦燥に駆られる女スナイパーは、傍らに置いたウサギの小銭入れをギュッと強く掴んだ。
自分は孤高の幽霊だ。
誰の連絡先も知らない。
あの黒ずくめの男たち(掃除屋)への通信手段もない。
(……やれることとすれば、ただ一つ。講義が終わっても、あの子を校舎から絶対に出さないこと……!)
女スナイパーは震える指でスマートフォンを取り出し、花弁大学の事務局へと直接電話を入れた。
そして、親族を装う強引なハッタリで、どうにか講義中の天方詩織本人へと電話を繋がせた。
『……もしもし?』
電話口から聞こえた、少し不安げな少女の声。
女スナイパーは、自分の素性を一切明かさず、ただ「今、外にあなたを狙う人間が二名潜んでいる」という現在の絶望的な状況だけを手短に説明した。
「……だから、お願い。とりあえず、講義が終わっても絶対に校舎から出ないでちょうだい。……絶対に」
祈るような声で告げる女スナイパー。
すると。電話の向こうの詩織は、少しの沈黙の後、優しく、そして確信に満ちた声で尋ねた。
『……わかりました。……あなたは、私に心臓を提供してくれた女の子のお母さんですよね?』
「…………ッ」
その言葉に、女スナイパーは息を呑み、何も言えなくなった。
張り詰めていたプロの糸が切れ、声が喉の奥でつかえて、ただ静かに涙が溢れそうになる。
……言えるわけがない。「ええ、そうよ」と、こんな血塗られた人間の口から、そんな母親の言葉を。
しかし、詩織は電話越しに、自分の左胸をそっと押さえながら、温かい声で紡いだ。
『……あの子は、ここにいます。私の中で、元気に動いています』
「…………ぁ……」
嗚咽が漏れそうになるのを、女スナイパーは必死に堪えた。
『……そして、ありがとう。……少しの間、安全な図書室にいるようにしますね』
『ツーツー……』と切れた通話音。
女スナイパーは、ウサギの小銭入れを額に押し当て、ただ一度だけ、深く深く深呼吸をした。
――花弁大学
詩織はそこで考えた。
今の状況を、どうにかして誰かに伝えないといけないと。
ずっとこのまま図書室にいる訳にはいかない。
そんな時に大学の館内放送が流れた。
『ピンポンパンポーン!』
『詩織ちゃんいる〜? いたら視聴覚室でE級映画を見るからおいで〜!』
詩織(メイコ先輩!!)
詩織はそのまま急いで視聴覚室に向かった。
「やっほ〜詩織ちゃん、待ってたよ〜!」
「今日も大学に侵入しちゃったよ〜」
メイコとリルが、呑気な笑顔で出迎える。
「メイコ先輩〜リルさん、実はさっきこんな電話が……」
詩織は、女スナイパーからの電話の内容を簡潔に二人に伝えた。
「なるほど! スレイの予想が当たっていたね〜、しつこい叔父と叔母だなぁ」
メイコが納得したように頷く。
「大丈夫だよ詩織ちゃん! 裏掃除屋がついているからね!」
そう言って、リルは即座にマリアに連絡を入れる。
『スレイ! やはり狙撃手は2名いるみたい。別々のビルね』
マリアの報告がインカムに響く。
『おそらく、お互いが死角になるように配置しているはず』
モニカが続く。
「わかった」
スレイは、女スナイパーがいるビルを目指した。しかし、正確にどこにいるかわからない。
敵の狙撃手を同時に葬る必要がある。
『おそらく、2名の狙撃手の位置は大体わかる。そうなると……』
『女スナイパーが全てを見渡せる位置は、このビルね』
マリアとモニカの正確なナビゲートにより、スレイは迷いなく歩を進めた。
――昼下がり過ぎ。花弁大学を見下ろす、高層ビルの屋上。
(……時間を延ばしたのはいい。しかし、根本的な打開策が何もない)
娘の心臓は図書室(に繋がる安全な場所)にいる。
しかし、このままでは埒が明かない。
(今からビルに行くか……? いや、間に合うかどうかの賭けになる。……それに、詩織が外に出てこない限り、やつらは絶対に射線に入ってこない……!)
ジリ貧だ。どうやってあの二人を同時に引きずり出し、同時に殺す?
スコープから目を離し、絶望に歯を食いしばった、その時だった。
『――ガチャリ』
背後の重い鉄扉が開き、重厚な足音が屋上のコンクリートを踏み鳴らした。
女スナイパーがハッとして振り返ると、そこには、いつの間にか漆黒のコートを着た大男が立っていた。
スレイは無言のまま彼女の隣へと歩み寄り、背負っていた巨大なガンケースを開いた。
そして、巨大な対物ライフルの組み立てを、コンクリートの縁に静かに、そして恐るべき手際で据え付けたのだ。
「……あ、あんたは……?」
昨日、廃ビルで出会ったあの無骨な男。女スナイパーが呆然と声を漏らす。
スレイは、タバコに火をつけてぶっきらぼうに呟いた。
「…………サービス残業だ」
そのたった一言で、女スナイパーはすべてを理解した。
この男は、自分の窮地(クロス・ホステージ)を察知し、自分と同じ狙撃手(スナイパー)として、肩を並べるためにここへ来てくれたのだ。
最強の掃除屋による、完璧な加勢。
女スナイパーの唇に、不敵なプロフェッショナルの笑みが戻った。
「……右のバカ(暗殺者B)は私がやる。……あんたは、左のクズ(暗殺者A)をお願い」
「……承知した」
スレイは対物ライフルのスコープを覗き込みながら、懐のインカムでマリアへと通信を開始した。
「……俺だ。校内にいるリルとメイコに伝えろ。……詩織を護衛しながら、校舎から外へ出るフリをさせろ。敵をキルゾーンに引きずり出す」
『了解。……最高のタイミングで、お姫様の影武者(リル)を躍り出させるわ』
準備は整った。
女スナイパーは、自分の愛銃のスコープに全神経を集中させる。
そこには、先ほどまでの絶望や焦りはない。ただ純粋な娘の命を絶対に守り抜く母親としての、絶対的な殺気と覚悟だけが満ちていた。
「……息を合わせてね、色男」
スコープから目を離さず、女スナイパーが静かに口の端を上げる。
「……カウントしろ、親バカ」
スレイもまた、サングラスの奥でスコープの十字(クロスヘア)を敵の隠れ潜む窓枠へとピタリと合わせた。
正門に、詩織の服を着た金髪の影武者(リル)が姿を現した瞬間。
敵の暗殺者たちが、獲物を仕留めるために一斉に窓際へと身を乗り出す。
狙撃手と狙撃手。
親の愛と、掃除屋の流儀。
二つの銃口が、完全に同じタイミングで死神の照準を定めた。
「……3、」
「……2、」
「……1――」
『――ズガァァァァァァンッ!!』
二つの銃口から放たれた、重低音の狙撃音が街に溶け込んだ。
結果は、言うまでもない。
クロス・ホステージの陣形を敷いていた敵の暗殺者二人は、自分たちが狙われていることに気づく暇すらなく、その頭部を同時に完全に吹き飛ばされて絶命した。
スコープから目を離した女スナイパーは、肩で大きく息を吐き、隣で静かに対物ライフルを片付ける大男を見つめた。
スレイはインカムの通信を開き、校内のリルたちへ安全確保を連絡する。
やがて、遠く離れた正門から、本物の詩織が無事にボディガードたちに囲まれて車に乗り込む姿を、二人は無言で見届けた。
「……あとは、叔父と叔母の遺産争いの決着だけだ」
スレイが、ジッポライターをカチャリと鳴らしながら低い声で呟く。
「……役に立つかは不明だが。これを使ってちょうだい」
女スナイパーは、タクティカルウェアのポケットから、小型のデータ端末を取り出してスレイへと手渡した。
「私がこの数日間、向かいのビルから詩織を見張っている時に集めた、叔父と叔母の周辺の写真と音声データだ。……何か、裏の繋がりが映っているかもしれない」
詩織を守っている最中に偶然にも手に入れた証拠品である。
スレイは無言でそれを受け取ると、即座にアジトのマリアへとデータを転送した。
「……あの。あんたらには、何とお礼していいか……娘の心臓を、救ってくれて……」
凄腕の女傭兵が、目を潤ませて深々と頭を下げる。
そんな彼女に対し、スレイはタバコの紫煙を細く吐き出し、サングラスの奥でじっと彼女を見つめ返した。
「……じゃあ、俺の言うことを聞いてくれないか」
「……ッ!」
その低くしゃがれた、男の色気と硝煙の匂いが混じった声に、女スナイパーの肩がビクッと跳ねた。
彼女の頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「あ、あたい……やだ……っ。こんな、45歳のオバさんでいいのかい……っ?」
頬に手を当て、モジモジと体をよじる女スナイパー。
凄腕の傭兵の顔はどこへやら、完全に何かを盛大に勘違いしているようだったが、スレイは死んだ魚のような目で無言のまま、彼女の背中を押してビルを降りた。
――同時刻。新宿、極秘アジト。
『……こいつら(暗殺者)が持っていた通信機器のログから、大元の雇い主が探れないかしら……。おっ、ちょうどスレイからデータが届いたわね』
マリアが、送られてきた写真と音声データを展開する。
そこには、叔父と叔母がダミー会社の人間(反社)と密会している決定的な瞬間が、クリアな画質と音声でバッチリと記録されていた。
「……あら。これは最高に使えるわね。すぐに総理に連絡よ」
モニカが、優雅な笑みを浮かべて通信を繋ぐ。
画面越しに映し出された環萌美総理は、マリアから送られたデータを一瞥すると、わざとらしく小首を傾げた。
『……あら? スレイたちの任務は、すでに終わったはずよ?』
そう言って、美しくドSな笑みを深める。
「あっ! スレイがね、残尿だって言ってたよ!」
アジトに戻ってきたばかりのリルが、総理のモニターに向かって元気よく報告した。
「……リルたそ〜、それ違う! 字面は似てるけど残業っしょ! ばいやー!」
メイコが、腹を抱えて笑いながら即座にツッコミを入れる。
マリアが苦笑しながら、女スナイパーから得た決定的な証拠データを、正式に総理の端末へと譲渡する。
『……ふふっ。素晴らしいサービス残業ね。これで、あのハイエナ共を完全に社会から抹殺できるわ』
萌美総理のルージュの唇が、冷酷な三日月型に吊り上がった。
――一方、その頃。
天方詩織が暮らす高級マンションの、広大な地下駐車場。
スレイは、隣の助手席に女スナイパーを乗せ、自分のワゴン車を静かに停車させていた。
密室の車内。薄暗い地下駐車場。そして、意味深に「俺の言うことを聞いてくれ」と彼女を連れ出した大男。
「…………ここ(車)で、するのかい……?」
女スナイパーは、顔を真っ赤にしてスレイの太い腕にすがりつき、上目遣いで懇願した。
「……すまないが、年齢が年齢だからね……避妊はしてほしいんだ……」
「……いや。……待て」
スレイが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
しかし、歴戦の女傭兵の暴走(勘違い)は止まらない。
「……恥ずかしい話だが、今日はちょうど危険な日なんだ……! だから、すまない……生だけは勘弁してほしい……っ!」
顔を真っ赤にして両手で顔を覆う女スナイパー。
「……いや、だから、違う……」
スレイは、深く、深く絶望的なため息をつき、死んだ魚のような目で助手席のドアのロックを解除した。
「……いや、だから、待て……。とりあえず、車を降りろ」
スレイの疲労困憊の声に促され、顔を真っ赤にした女スナイパーは、そわそわしながら言われた通りにワゴン車の助手席から降り立った。
「……一体、何を盛大に勘違いしているんだ」
スレイは、死んだ魚のような目で、駐車場の奥のある一点を顎でしゃくった。
「俺のお願いは……そいつだ」
女スナイパーがハッとしてその視線の先を向くと。
薄暗い駐車場のコンクリートの柱の陰で、一人の少女が、両手を胸の前でギュッと握りしめて待っていた。
……天方詩織だった。
「…………ッ!!」
女スナイパーは息を呑み、反射的に顔を背けてしまった。
合わせる顔なんてない。自分はただの、娘の死を受け入れられずに裏社会で人殺しを続けている、独りよがりで身勝手な親バカなのだから。
表の世界で真っ直ぐに生きるこの美しいお嬢様に、薄汚れた傭兵の顔など見せてはいけない。
踵を返し、逃げるようにその場を去ろうとした、その時だった。
「……待って」
詩織が、ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩み寄ってきた。
そして、顔を背けて立ち尽くす女スナイパーの背中に、そっと、柔らかく抱き着いたのだ。
「…………ぁ……」
女スナイパーは、何も言えず、振り払うこともできなかった。
背中に回された少女の細い腕。そこから伝わる、確かな体温。
「……ありがとう。……お母さん」
詩織のその震える声を聞いた瞬間。
45歳の凄腕の傭兵の目から、せき止めていたダムが決壊したように、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
背中に密着した詩織の左胸から、トクン、トクンと……力強く、規則正しい心音が伝わってくる。
(ああ……生きている)
間違いなく、愛する娘の心臓が、この少女の中で元気に動いている。
血の繋がりはなくても、命は、想いは、確かに引き継がれているのだ。
女スナイパーは、顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
スレイは無言のまま、安物のタバコを深く吸い込み、二人の親子の再会を邪魔しないよう、紫煙を細く天へと吐き出した。
そしてそっとその場を立ち去った。
――数日後。新宿、極秘アジト。
スレイたちの持ち帰った決定的な証拠データにより、遺産を狙っていた叔父と叔母は、警察によって完全に逮捕された。
これで、天方詩織を脅かす危険はすべて排除され、彼女は真の意味で安全を手に入れた。
同時に、詩織には天方財閥のトップとして、莫大な遺産が入ったということになる。
そして、あの女スナイパーは裏社会から身を引き、そのまま詩織の専属用心棒として正規に雇われることになったらしい。
引き継がれた心臓と、引き継がれた遺産。二人はこれからは、本当の家族のように寄り添って生きていくのだろう。
「……うんっ! これにて、一件落着! めでたしめでたし、だね!」
アジトのソファで、リルが満面の笑みでバンザイをした。
「まぁ、鶴の恩返しとは、全然違う結末になったけどね〜」
メイコが、タピオカミルクティーを飲みながらケラケラと笑う。
「……しかし。あの女スナイパーが撃ち殺した暗殺者たちの件は、また政府か山田相姦が揉み消したの?」
モニカが、優雅に呆れたように尋ねる。
「ええ。どうせ撃たれたのは反社の雇われクズ人間だしね。あの母親、プロの傭兵だけあって手際が良すぎて証拠不十分だったのよ。警察も、面倒な死体は抗争で処理したみたい」
マリアが、PCを叩きながらあっけらかんと答えた。
本来ならば殺人の罪になるが、国家の敵ではないと判断されたのだろう。
クズはどうでもいいという萌美内閣の柔軟性には恐れ入る。
平和を取り戻した、裏の掃除屋(PCU)の日常。
すると、リルがまたしても、どこからか見つけてきた怪しげな電子書籍の童話を朗読し始めた。
「じゃあ、次のお話を読むね! タイトルは……はなさか自慰(じい)」
「……は?」
マリアの動きがピタリと止まる。モニカに冷や汗が流れる。
リルは無邪気な声で、とんでもない物語を紡ぎ出した。
「昔々、心優しい老夫婦が、道端で弱っていたバター犬を見つけました。ある時、バター犬が裏山で、ここ、マイニング・ワンワン!と吠えました」
「……ちょっと待って。マイニングって言った?」
モニカがコーヒーを吹き出しそうになる。
「老夫婦がそこを掘ってみると、なんと、たくさんのビットコインが出てきました!」
「仮想通貨じゃねーか!!」
メイコが大爆笑する。
「それを見ていた隣の欲張りなお爺さんは、バター犬を無理やり連れ去り、今度はイーサリアムを探させました。しかし、バター犬が指し示した場所から出てきたものは……なんと、大量のホモ同人誌でした!」
「なんでだよ!!」
マリアが頭を抱えて叫ぶ。
「隣のお爺さんは、そのホモの同人誌を見て興奮し……自慰をしているところを、通報されて警察に逮捕されました。おしまい!」
リルが満面の笑みで読み終えた瞬間。
アジトの空気が、これ以上ないほどの特大のツッコミを求めて極限まで圧縮された。
「…………ちょっと待てェェェェーーッ!!!」
マリアとモニカの悲鳴にも似たツッコミが、新宿の空に響き渡った。
「なんで心臓とか遺産とか、あんなに綺麗に引き継がれた感動の後に、こんな最低の話を聞かされなきゃならないのよ!!」
「童話こそ!! 童話こそ、ちゃんと正しいものを後世に引き継がないとダメだろ!!」
スレイは、うるさすぎるアジトの喧騒の中で、死んだ魚のような目でそっと耳栓をした。
莫大な遺産と、温かい心臓。
美しい命のバトンは確かに引き継がれたが……政府が蔓延らせた最低の多様性パロディ童話のせいで大事なものが引き継がれていない世界であった。