怪異譚は放課後に   作:ゆゆゆい

1 / 8
仕方なく呼んだ人

第一話 仕方なく呼んだ人

 

 その噂を持ってきたのは、結月ゆかりだった。

 

 放課後の学食には、昼のざわめきが少しだけ残っている。空いたテーブルの上では、誰かが置き忘れた紙ナプキンが一枚、冷房の風に端を震わせていた。

 

 窓の外は灰色だった。雨が降りそうで、まだ降らない。そういう空は、教室の外の音まで湿らせる。

 

 結月ゆかりのトレーには、小さなサンドイッチが置かれている。包装の端は少しだけ開いていたが、中身はほとんど減っていない。

 

 代わりに、手元のメモ帳だけが開かれていた。

 

「旧講義棟の傘立てに、誰のものでもない黒い傘が増えるそうです」

 

 向かいの席で、弦巻マキの箸が止まった。

 

「……それ、今からする話?」

「はい」

「なんでそんな嬉しそうなの」

「嬉しいわけではありません」

 

 ゆかりのペン先が、メモ帳の端を軽く叩く。

 

 こつ、こつ。

 

 叩く間隔が、少し速い。

 

「興味深いだけです」

「それを嬉しそうって言うんだよ」

 

 マキのため息が、テーブルの上を転がるように落ちた。

 

 その隣で、東北ずん子が味噌汁の椀を置く。ことり、という音のあと、白い湯気が細く立ち上り、すぐに空気へ溶けた。

 

「ゆかりさん」

「はい」

「その傘を持って帰ると、どうなるんですか」

「話を進めないで!?」

 

 マキの声が跳ねる。近くの席から視線が一つ二つ飛んできて、すぐに逸れた。

 

 ずん子の手は、椀のそばに置かれたまま動かない。顔色も、声の温度も変わっていなかった。

 

「危険度の確認です」

「危険なら行かない方向にして!」

「危険なら、行くかどうかを慎重に判断します」

「行く前提じゃん……」

 

 額に手が当てられる。その横で、メモ帳のページが一枚めくられた。

 

「噂では、黒い傘を持って帰ろうとした人は、帰り道が少しずつずれるそうです」

「ずれる?」

「はい。駅へ向かっていたはずなのに、旧講義棟の前に戻ってくる。階段を降りたはずなのに、同じ階の廊下に出る。そんな話がいくつか」

「普通にやばいじゃん!」

「まだ噂です」

「噂の時点でやばいんだよ!」

 

 声を落とそうとしているのに、語尾だけが跳ねた。

 

 マキは一度周囲を見てから、テーブルに身を寄せる。

 

「……で、どうするの」

「見に行くだけです」

「見に行くだけ、って言う人はだいたい近付きすぎる」

「私はそんなことは」

「ある!」

 

 即答だった。

 

「絶対ある!」

 

 紫色の視線が、ほんの少しだけ横へ逃げた。

 

「……少しだけ」

「ほら!」

 

 窓の外で、雲が厚くなる。灰色の空の下、校舎と校舎の間を抜ける風が、植え込みの葉を揺らしていた。

 

「黒い傘が現れるのは、雨の日ですか?」

「正確には、雨の前だそうです」

 

 ペン先が、閉じたメモ帳の表紙を撫でる。

 

「雨が降り出す直前。旧講義棟の三階、渡り廊下の傘立てに現れる、と」

 

 椀の縁に、細い指が一度だけ触れた。湯気が揺れる。

 

「条件は合っていますね」

「合わなくていいのに……」

 

 小さな呟きは、学食のざわめきに紛れかけた。

 

 メモ帳が閉じられる。

 

 ぱたり。

 

 その音だけが、妙に軽かった。

 

「では、行きましょうか」

「行きましょうか、じゃない!」

「マキさん」

 

 椅子が静かに引かれる。

 

「本当に危険だと判断したら、すぐに引きます」

「その判断、誰がするの」

「私が」

「……ゆかりじゃないなら、まだ安心かも」

「マキさん?」

 

 不満そうな声が挟まる。

 

「ゆかりは好奇心で判断がずれる時あるでしょ」

「そんなことはありません」

「さっき少しだけって言った」

「……それはそれです」

「それって何?」

 

 長いため息のあと、椅子がもう一つ引かれた。

 

「分かった。行く。でも、本当に危なかったら帰るからね」

「はい」

「ゆかりも」

「はい」

「はいって言ったからね?」

「言いました」

 

 メモ帳は鞄にしまわれた。ただし、ファスナーのすぐ近く。指を伸ばせば、すぐ取り出せる場所だった。

 

「……見てるから」

「分かっています」

 

 食器の音が遠ざかる。

 

 学食の扉が開くと、廊下へ湿った風が流れ込んできた。

 

 まだ雨は降っていない。けれど、空はもう暗かった。

 

   ◇

 

 旧講義棟は、大学の敷地の端にあった。

 

 普段使われる新しい校舎から少し離れるだけで、人の声は一気に薄くなる。部活の掛け声も、誰かの笑い声も、ここまでは届きにくい。

 

 外壁は黒ずみ、窓枠には古い雨染みが残っている。正面入口の横の掲示板には、去年の日付が入った紙が、端を丸めたまま貼られていた。

 

 入口の前で、マキの足が止まる。

 

「……ほんとに入るの?」

「ここまで来ましたし」

 

 ゆかりの手には、もうメモ帳が戻っている。

 

「引き返すなら今です」

 

 ずん子の声は、さっき学食で聞いた時と同じ温度だった。

 

 旧講義棟の窓は、外の薄暗さを映している。中は見えない。

 

 風が吹く。

 

 入口の上に残った古い案内板が、かた、と小さく鳴った。

 

「……行く」

 

 鞄の紐が握り直される。

 

「ゆかりだけ行かせる方が怖い」

「信頼されていますね」

「されてないからね?」

 

 少しだけ笑った声を背に、入口の扉へ手がかかる。

 

 鍵はかかっていなかった。

 

 扉は、思ったより重い音を立てて開く。

 

 ぎい、と軋む音。

 

 古いワックスの匂い。

 

 少し湿った壁の匂い。

 

 校舎の中は、外よりも暗かった。

 

 三人分の足音が廊下に落ちる。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 音は、妙に遠くまで響いた。

 

「三階でしたね」

「はい。渡り廊下の傘立てです」

 

 メモ帳が開く。

 

 ペン先が紙へ触れる前に、横から低い声が飛んだ。

 

「ゆかり」

「はい」

「歩きながら書かない。転ぶ」

「……はい」

 

 ペンが少しだけ下がる。

 

 階段へ向かう途中、天井の蛍光灯が一度だけ瞬いた。

 

 ちか。

 

 肩が跳ねる音まではしなかった。けれど、マキの鞄の紐が小さく軋んだ。

 

「今のは?」

「古い校舎ですから」

「古い校舎って便利な言葉だね……」

 

 階段を上がる。

 

 一階から二階へ。

 

 二階から三階へ。

 

 上へ進むほど、空気が少し冷たくなっていく。

 

 廊下の窓は閉まっている。それなのに、どこかから雨の匂いがした。

 

「……濡れた匂いしない?」

「しますね」

 

 ゆかりの声が少しだけ弾む。

 

「嬉しそうにしない」

「すみません」

「顔が謝ってない」

「少しだけ興味が勝っています」

「勝たせないで」

 

 三階の廊下に出る。

 

 渡り廊下は、その先にあった。

 

 窓に囲まれた細い通路。夕方の暗い空が、ガラス越しに広がっている。

 

 外はまだ降っていない。

 

 けれど、奥から雨音が聞こえた。

 

 ざあ、と。

 

 屋根を強く叩くような音。

 

 三人分の足音が止まる。

 

「……外、降ってないよね」

 

 窓の向こうに雨粒はない。地面もまだ乾いている。

 

 それでも、雨音は続いている。

 

 ざあ。

 

 ざあ。

 

 渡り廊下の入口に、傘立てがあった。

 

 錆びた鉄製の傘立て。

 

 中には、何本かのビニール傘と、色褪せた折り畳み傘。

 

 そして、その中に一本だけ、黒い傘が立っていた。

 

 持ち手まで真っ黒な、古い長傘。

 

 それだけが、異様に濡れている。

 

 傘立ての下には、丸い水たまりができていた。

 

 ペン先が、紙に触れる。

 

「……黒い傘。噂と一致」

 

 声が小さい。楽しそうというより、息を潜めるような声だった。

 

 一歩ぶん、靴底が床を擦る。

 

「見た。もう帰ろう」

「まだ何も確認していません」

「見たじゃん!」

「記録としては不十分です」

「十分怖い!」

 

 黒い傘へ向けられたずん子の視線は、まだ外れない。

 

 表情は崩れていない。けれど、鞄の紐を握る指に力が入っていた。

 

「触らないでください」

「触りません」

 

 返事が早い。

 

 早すぎる。

 

「本当に?」

「本当に」

「少しだけとか言わない?」

「言いません」

「ならいいけど……」

 

 その時、黒い傘が動いた。

 

 誰も触れていない。傘立ての中で、ゆっくりと持ち手がこちらへ向く。

 

 まるで、差し出されるように。

 

 喉が小さく鳴った。

 

「……帰ろう」

 

 今度は、はっきりした声だった。

 

「ずん子、これ、危ないやつだよね」

 

 返事はすぐにはない。

 

 傘の周りの水たまりが、少しずつ広がっている。床を伝い、三人の足元へ細い線のように伸びてくる。

 

 雨音が強くなる。

 

 ざああ、と。

 

 廊下の向こうが、薄く歪んで見えた。

 

「戻ります」

 

 低い声が落ちる。

 

「ゆかりさん、マキさん、階段へ」

「うん!」

 

 すぐに返事があった。

 

 メモ帳も閉じられる。

 

 けれど、来た道へ戻ろうとした瞬間。

 

 廊下の景色が、揺れた。

 

 階段へ続くはずの廊下が、渡り廊下の入口に戻っている。

 

 傘立て。

 

 黒い傘。

 

 雨音。

 

「……え?」

 

 声が震えた。

 

「今、戻ったよね」

「戻されました」

 

 落ち着いた声だった。けれど、鞄の紐を握る指は離れない。

 

 メモ帳の角が少し持ち上がる。

 

 すぐ横から伸びた手が、その上に重なった。

 

「今は書かない!」

「でも」

「今は!」

 

 指が止まる。

 

 雨音が、さらに近くなる。

 

 窓の外はまだ乾いている。なのに、廊下の床だけが濡れていく。

 

 黒い傘が、ゆっくり開いた。

 

 ばさり。

 

 乾いた音。

 

 傘の内側は真っ黒だった。

 

 光が入らない。

 

 その黒の奥から、小さな声がした。

 

「かえりたい」

 

 呼吸が止まる。

 

 メモ帳を握る手が強くなる。

 

 黒い傘を見つめたまま、鞄の中へ手が入る。

 

 取り出されたのは、小さな紙片だった。白い紙に、緑色の細い線が引かれている。

 

 だが、紙片を構えた瞬間、雨音が跳ねた。

 

 床の水が、足元をかすめる。

 

 一歩、後ろへ引く。

 

 紙片の端が濡れた。緑色の線が少し滲む。

 

「ずん子!」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないでしょ!」

 

 返事はない。

 

 もう一度紙片を構えようとして、動きが止まる。

 

 黒い傘の内側から伸びた水の線が、行く手を遮っていた。

 

 まるで、帰り道そのものを塗りつぶすように。

 

 ほんの少しだけ、表情が変わる。

 

 迷い。

 

 それは一瞬だけだった。

 

 すぐに消える。

 

 鞄の奥から取り出されたのは、札ではなくスマホだった。

 

「誰に電話するの?」

 

 声が少し上ずる。

 

 親指が、画面の上で止まった。

 

 連絡先の一つ。

 

 そこに表示された名前が、横から見えてしまう。

 

 朔先輩。

 

 知らない名前だった。

 

「……頼れる人?」

 

 ゆかりの声は小さかった。

 

 雨音が、間を埋める。

 

 ざあ。

 

 ざあ。

 

「頼れるかどうかで言えば」

 

 硬い声だった。

 

「頼れます」

 

 少しだけ、空気が緩みかける。

 

 けれど次の言葉で、すぐに戻った。

 

「呼びたくはありません」

「なんで!?」

「色々あります」

「色々って何! 今その色々を気にしてる場合!?」

 

 親指は、まだ画面の上で止まっている。

 

 押したくない。

 

 でも、押さないわけにはいかない。

 

 それが、顔ではなく指先に出ていた。

 

 黒い傘の内側から、また声がする。

 

「かさを、もって」

 

 床の水が、さらに広がる。靴先に触れかける。

 

 息を呑む音。

 

 その直後、親指が画面を押した。

 

 呼び出し音が鳴る。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回目の途中で、通話が繋がった。

 

『もしもし、ずんちゃん?』

 

 軽い声だった。

 

 場違いなくらいに。

 

 ずん子の眉がぴくりと動く。

 

「その呼び方はやめてください」

『久しぶりなのに冷たいなぁ』

「怪異です」

 

 軽口が止まった。

 

 電話の向こうの空気が変わる。

 

『場所は』

「旧講義棟、三階の渡り廊下です。黒い傘の怪異。帰路をずらされています」

『怪我は?』

「今のところありません」

『何人?』

「私を含めて三人です」

『分かった。すぐ行く』

 

 その声に、さっきまでの軽さはなかった。

 

 通話が切れる。

 

「……今の人、誰?」

「昔の知り合いです」

「昔の知り合いを、こんな時に呼ぶ?」

「呼びたくはありませんでした」

「それは聞いた」

 

 少し離れたところで、メモ帳の表紙がきゅっと押さえられた。

 

「ですが、声が変わりましたね」

「変わりましたね……」

 

 最初は軽かった。

 

 ずん子をからかうような、柔らかい声。

 

 それが、怪異と聞いた瞬間に変わった。

 

 短く、早く、余計な言葉が消えた。

 

「大丈夫なの?」

 

 黒い傘を見たまま、返事が落ちる。

 

「大丈夫かどうかは分かりません」

「えっ」

「ただ」

 

 濡れた紙片が、指の中で少し歪んだ。

 

「来ます」

 

 その声には、妙な確信があった。

 

   ◇

 

 待っている時間は、長く感じた。

 

 実際には、十分も経っていないのかもしれない。

 

 それでも、旧講義棟の廊下では時間がうまく進まない。

 

 スマホの時計は、さっきから十七時五十六分のまま止まっている。窓の外の空は、ずっと雨の直前の暗さを保っていた。

 

 外では雨が降っていないのに、廊下の雨音だけが続いている。

 

 黒い傘は開いたまま。

 

 その内側の黒は、少しずつ大きくなっているように見えた。

 

 壁際で、マキの鞄の紐が何度も握り直される。

 

 ゆかりのメモ帳は閉じられたまま、両手で抱え込まれていた。

 

 その半歩前に、ずん子が立っている。

 

「ずん子」

 

 小さな声。

 

「はい」

「その人、本当に来られるの?」

「来ます」

「出口、ずれてるんだよね?」

「はい」

「じゃあ、どうやって」

 

 少しだけ沈黙が落ちる。

 

「呼ばれたので」

「答えになってなくない?」

「この人に関しては、それで答えになることがあります」

「何それ……」

 

 雨音の奥から、別の音が混じった。

 

 濡れた床を歩く音ではない。

 

 普通の靴音。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 まっすぐ近付いてくる。

 

 メモ帳を抱える手が上がる。

 

 ずん子の指が、わずかに動いた。

 

 廊下の奥から、一人の青年が現れた。

 

 肩に鞄をかけ、息を少しだけ切らしている。けれど、表情は軽い。

 

 まるで、遅れて待ち合わせに来たような顔だった。

 

「お待たせ」

 

 片手が上がる。

 

「ずんちゃん、久しぶり」

 

 廊下の空気が、すっと冷えた。

 

「その呼び方はやめてください」

「第一声それ?」

「第一声を言わせたのは先輩です」

「辛辣」

「本当に来た……」

 

 マキの呟きが、雨音に混じる。

 

 ゆかりの視線は足元へ落ちていた。

 

 廊下は濡れている。

 

 黒い傘から伸びた水が、こちらまで届いている。

 

 なのに、朔が歩いてきた後ろの床だけ、水が薄く割れているように見えた。

 

「どうやってここへ?」

「呼ばれたから」

「それ、答えになっていますか?」

「なってない?」

「なってない!」

「そっか」

 

 朔は笑った。

 

 それから、黒い傘を見る。

 

 笑みが少しだけ薄くなる。

 

「これか」

 

 声の温度が変わった。

 

 さっきの電話と同じだった。

 

 軽く見えて、怪異を前にすると変わる。

 

 それを、ずん子は当然のように見ている。

 

「状況は」

「帰路をずらされています。黒い傘は開いたまま。こちらに持ち帰らせようとしています」

「触った?」

「触っていません」

「偉い」

「先輩に褒められる筋合いはありません」

「ずんちゃん、厳しい」

「先輩」

「はい」

「触らないでください」

「まだ何も」

「手が動きました」

 

 朔の手は、黒い傘の方へほんの少し伸びかけていた。

 

「触る気だったの!?」

「反応を見るだけ」

「自分の手で見ないで!」

「正論だ」

「正論言わせないで!」

 

 苦笑と一緒に、手が引っ込む。

 

 メモ帳の角が持ち上がる。

 

 すぐに横から視線が刺さった。

 

「今書く?」

「少しだけ」

「ゆかり!」

「……後で書きます」

 

 黒い傘の内側から、また声がする。

 

「かえりたい」

 

 朔の目が、少しだけ細くなった。

 

「帰りたいのか」

「そう言っていますね」

「でも、持って帰ってもらうと帰り道を奪う」

「迷惑な傘だね」

「先輩ほどではありません」

「俺、傘以下?」

「場合によります」

「場合によるんだ……」

 

 軽口の間にも、視線は黒い傘から外れない。

 

 床の水が、朔の足元へ伸びる。一歩だけ横へずれると、水は追ってこなかった。

 

「追いかける感じじゃないね」

「こちらを積極的に害する気配は薄いです」

「持たせたいだけ?」

「おそらくは」

「置いていかれたくないのかな」

 

 その言葉に、雨音が少しだけ弱まった。

 

 息を呑む音がする。

 

「反応しました」

「したね」

 

 朔がしゃがみ込む。

 

 すかさず声が飛んだ。

 

「触らないでください」

「触らない」

「本当に」

「本当に」

「絶対に」

「絶対に」

 

 マキの小声が落ちる。

 

「何この確認」

「かなり日常的なものに見えます」

「この二人、何なの……?」

 

 返事はない。

 

 ゆかりの視線は、二人の間に置かれていた。

 

 距離は近い。

 

 けれど、近いからこそ柔らかいわけではない。

 

 ずん子の言葉は冷たく、朔はそれを笑って受け流している。

 

 その奥に何があるのか、初対面の二人には分からない。

 

 ただ、本当に嫌なら、電話などしなかっただろう。

 

 マキの口が、少しだけ閉じた。

 

 朔の指先が、床に落ちた水の道をなぞるように動く。

 

 触れてはいない。

 

「ずんちゃん、さっきの紙片、まだある?」

「あります」

「もう一枚」

「先輩が使うんですか」

「置くだけ」

「傘には?」

「触らない」

 

 少しだけ睨むような間のあと、鞄から新しい紙片が出てきた。

 

 白い紙に、緑の細い線。

 

 それを受け取る指先が、触れるか触れないかの距離で止まる。

 

 一瞬だけ、ずん子の手も止まった。

 

 すぐに離れる。

 

 朔は何も言わない。

 

 紙片が、黒い傘の足元へ滑っていく。

 

 水の道に触れた瞬間、緑の線が淡く光った。

 

 雨音が乱れる。

 

 黒い傘の内側で、何かが揺れた。

 

 小さな影。

 

 子供のようにも見える。

 

 でも、顔はない。

 

「かさを、もって」

 

 声がする。

 

 朔は静かに息を吐いた。

 

「持って帰るのは無理だよ」

 

 黒い影が揺れる。

 

「かえりたい」

「うん」

 

 声はもう軽くなかった。

 

「帰りたいんだよね」

 

 マキは、少しだけ目を見開いた。

 

 怪異に話しかけている。

 

 当然のように。

 

 怖いものを追い払うのではなく、聞いている。

 

 もう一枚の紙片が、床へ置かれた。

 

 帰り道を示すように、傘立ての方へ向かって。

 

「帰る場所は、誰かの家ではありません」

 

 ずん子の声が廊下に落ちる。

 

「あなたの場所は、そこです」

 

 傘立て。

 

 錆びた鉄の枠。

 

 他の傘と一緒に立っている場所。

 

 黒い傘が、小さく軋んだ。

 

 雨音が弱まる。

 

 ざあ、から、しとしとへ。

 

 しとしと、から、ぽつぽつへ。

 

「置いていかれたくなかったんだね」

 

 黒が少しずつ薄くなる。

 

「でも、無理に誰かへついていったら、その人が帰れなくなる」

 

 影が小さくなる。

 

「だから、ここに戻ろう」

 

 最後の雨音が落ちた。

 

 ぽつり。

 

 黒い傘が、ゆっくりと閉じていく。

 

 ばさり、ではない。

 

 濡れた布を畳むような、静かな音。

 

 床に広がっていた水が、傘立ての方へ戻っていく。

 

 雨音が消える。

 

 廊下の蛍光灯の唸りが戻る。

 

 窓の外から、学生の声が遠く聞こえた。

 

「……終わった?」

 

 大きく吐き出された息に続いて、声が落ちる。

 

「終わりました」

「本当に?」

「今は」

「今はって言わないで……」

 

 メモ帳が、今度こそ開かれる。ペン先が紙を走った。

 

「黒い傘の怪異。持ち帰りではなく、置き場所への帰属を求める性質。帰路を歪めるが、明確な害意は薄い。対処として帰るべき場所を示すことが有効――」

「ゆかり、元気になったね」

「はい。非常に興味深かったので」

「怖かったんだからね!?」

「怖さも含めて」

「含めないで!」

 

 朔は立ち上がり、膝を軽く払った。

 

「二人とも無事?」

 

 頷きが二つ返る。

 

 視線がずん子へ移る。

 

「ずんちゃんは?」

「問題ありません」

「紙片、濡れてたけど」

「問題ありません」

「足」

「問題ありません」

「ずんちゃん」

 

 目が少しだけ細くなる。

 

「先輩に心配される覚えはありません」

「俺はあるんだけど」

「捨ててください」

「ひどい」

 

 冷たい声。

 

 軽い返事。

 

 けれど、朔が来た時、確かに空気が変わった。

 

 呼びたくなかった、と言った。

 

 それでも、呼んだ。

 

 そして、呼ばれた方は迷わず来た。

 

 メモ帳の上で、ペンが止まっている。

 

「ゆかりさん」

「はい」

「今、何を記録しようとしましたか」

「いえ」

「いえ、ではありません」

「怪異とは別件です」

「余計に駄目です」

 

 メモ帳が、そっと閉じられた。

 

 空気が少し緩む。

 

「とりあえず、帰ろう。もう十分」

「そうですね」

「黒い傘には触らないでください」

「誰に言ってる?」

 

 ずん子の視線は、まっすぐ朔へ向いた。

 

 両手が上がる。

 

「触らないって」

「信用できません」

「俺、今日ちゃんと触らなかったよ?」

「今日だけです」

「厳しいなぁ」

 

 四人は渡り廊下を離れた。

 

 今度は廊下が戻されることはない。

 

 階段も、来た時と同じ場所にあった。

 

 スマホの時計も動き始めている。

 

 一階へ降りる頃、外では本物の雨が降り始めていた。

 

 細かい雨が、旧講義棟の入口を濡らしている。

 

「うわ、降ってる」

「傘、持ってきていませんでしたか?」

「持ってない」

「私もです」

 

 入口の外では、雨粒が細かく跳ねていた。

 

「コンビニ寄る?」

「なんで?」

「傘買えるし、温かい飲み物もある」

 

 少しの沈黙。

 

「……それは、あり」

「私も賛成です。記録をまとめたいので」

「コンビニで怪異記録まとめるの?」

「温かい飲み物と共に」

「図太いなぁ……」

 

 雨が、旧講義棟の屋根を叩いている。

 

 さっきまでの怪異の雨音とは違う。

 

 ちゃんと外から聞こえる、本物の雨だった。

 

「先輩」

「ん?」

「今回は、助かりました」

 

 声は小さい。

 

 雨音に紛れそうなくらい。

 

 けれど、確かに聞こえた。

 

 朔が少しだけ目を丸くする。

 

 それから、いつものように笑った。

 

「どういたしまして、ずんちゃん」

 

 空気が一瞬で冷える。

 

「その呼び方をしたので、やはり呼ぶんじゃありませんでした」

「早い。評価下がるの早い」

「当然です」

 

 小さな笑いが、雨音に混じった。

 

 四人は雨の中へ出る。

 

 先頭を歩く背中の少し横に、緑の髪が並ぶ。

 

 その後ろで、メモ帳を濡らさないように鞄が抱え直される。振り返るたび、旧講義棟の窓に灰色の空が映った。

 

 渡り廊下の傘立てには、黒い傘がまだある。

 

 けれど、もう誰かを呼んではいない。

 

 ただ、他の傘と同じように、静かに置かれていた。

 

「……初対面でこれって、濃すぎない?」

 

 朔が笑う。

 

「慣れるよ」

「慣れたくない!」

「ですよね」

 

 ゆかりは嬉しそうに頷いた。

 

 雨の中、声が弾ける。

 

 ずん子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 朔はそれを横目で見たが、何も言わなかった。

 

 言えば、また冷たく返される。

 

 けれどその沈黙は、悪いものではなかった。

 

 雨はまだ弱い。

 

 四人は、校舎の明かりを背にして歩いていく。

 

 これが、朔とずん子たちが共に怪異を追うことになる、最初の夜だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。