第一話 仕方なく呼んだ人
その噂を持ってきたのは、結月ゆかりだった。
放課後の学食には、昼のざわめきが少しだけ残っている。空いたテーブルの上では、誰かが置き忘れた紙ナプキンが一枚、冷房の風に端を震わせていた。
窓の外は灰色だった。雨が降りそうで、まだ降らない。そういう空は、教室の外の音まで湿らせる。
結月ゆかりのトレーには、小さなサンドイッチが置かれている。包装の端は少しだけ開いていたが、中身はほとんど減っていない。
代わりに、手元のメモ帳だけが開かれていた。
「旧講義棟の傘立てに、誰のものでもない黒い傘が増えるそうです」
向かいの席で、弦巻マキの箸が止まった。
「……それ、今からする話?」
「はい」
「なんでそんな嬉しそうなの」
「嬉しいわけではありません」
ゆかりのペン先が、メモ帳の端を軽く叩く。
こつ、こつ。
叩く間隔が、少し速い。
「興味深いだけです」
「それを嬉しそうって言うんだよ」
マキのため息が、テーブルの上を転がるように落ちた。
その隣で、東北ずん子が味噌汁の椀を置く。ことり、という音のあと、白い湯気が細く立ち上り、すぐに空気へ溶けた。
「ゆかりさん」
「はい」
「その傘を持って帰ると、どうなるんですか」
「話を進めないで!?」
マキの声が跳ねる。近くの席から視線が一つ二つ飛んできて、すぐに逸れた。
ずん子の手は、椀のそばに置かれたまま動かない。顔色も、声の温度も変わっていなかった。
「危険度の確認です」
「危険なら行かない方向にして!」
「危険なら、行くかどうかを慎重に判断します」
「行く前提じゃん……」
額に手が当てられる。その横で、メモ帳のページが一枚めくられた。
「噂では、黒い傘を持って帰ろうとした人は、帰り道が少しずつずれるそうです」
「ずれる?」
「はい。駅へ向かっていたはずなのに、旧講義棟の前に戻ってくる。階段を降りたはずなのに、同じ階の廊下に出る。そんな話がいくつか」
「普通にやばいじゃん!」
「まだ噂です」
「噂の時点でやばいんだよ!」
声を落とそうとしているのに、語尾だけが跳ねた。
マキは一度周囲を見てから、テーブルに身を寄せる。
「……で、どうするの」
「見に行くだけです」
「見に行くだけ、って言う人はだいたい近付きすぎる」
「私はそんなことは」
「ある!」
即答だった。
「絶対ある!」
紫色の視線が、ほんの少しだけ横へ逃げた。
「……少しだけ」
「ほら!」
窓の外で、雲が厚くなる。灰色の空の下、校舎と校舎の間を抜ける風が、植え込みの葉を揺らしていた。
「黒い傘が現れるのは、雨の日ですか?」
「正確には、雨の前だそうです」
ペン先が、閉じたメモ帳の表紙を撫でる。
「雨が降り出す直前。旧講義棟の三階、渡り廊下の傘立てに現れる、と」
椀の縁に、細い指が一度だけ触れた。湯気が揺れる。
「条件は合っていますね」
「合わなくていいのに……」
小さな呟きは、学食のざわめきに紛れかけた。
メモ帳が閉じられる。
ぱたり。
その音だけが、妙に軽かった。
「では、行きましょうか」
「行きましょうか、じゃない!」
「マキさん」
椅子が静かに引かれる。
「本当に危険だと判断したら、すぐに引きます」
「その判断、誰がするの」
「私が」
「……ゆかりじゃないなら、まだ安心かも」
「マキさん?」
不満そうな声が挟まる。
「ゆかりは好奇心で判断がずれる時あるでしょ」
「そんなことはありません」
「さっき少しだけって言った」
「……それはそれです」
「それって何?」
長いため息のあと、椅子がもう一つ引かれた。
「分かった。行く。でも、本当に危なかったら帰るからね」
「はい」
「ゆかりも」
「はい」
「はいって言ったからね?」
「言いました」
メモ帳は鞄にしまわれた。ただし、ファスナーのすぐ近く。指を伸ばせば、すぐ取り出せる場所だった。
「……見てるから」
「分かっています」
食器の音が遠ざかる。
学食の扉が開くと、廊下へ湿った風が流れ込んできた。
まだ雨は降っていない。けれど、空はもう暗かった。
◇
旧講義棟は、大学の敷地の端にあった。
普段使われる新しい校舎から少し離れるだけで、人の声は一気に薄くなる。部活の掛け声も、誰かの笑い声も、ここまでは届きにくい。
外壁は黒ずみ、窓枠には古い雨染みが残っている。正面入口の横の掲示板には、去年の日付が入った紙が、端を丸めたまま貼られていた。
入口の前で、マキの足が止まる。
「……ほんとに入るの?」
「ここまで来ましたし」
ゆかりの手には、もうメモ帳が戻っている。
「引き返すなら今です」
ずん子の声は、さっき学食で聞いた時と同じ温度だった。
旧講義棟の窓は、外の薄暗さを映している。中は見えない。
風が吹く。
入口の上に残った古い案内板が、かた、と小さく鳴った。
「……行く」
鞄の紐が握り直される。
「ゆかりだけ行かせる方が怖い」
「信頼されていますね」
「されてないからね?」
少しだけ笑った声を背に、入口の扉へ手がかかる。
鍵はかかっていなかった。
扉は、思ったより重い音を立てて開く。
ぎい、と軋む音。
古いワックスの匂い。
少し湿った壁の匂い。
校舎の中は、外よりも暗かった。
三人分の足音が廊下に落ちる。
こつ。
こつ。
こつ。
音は、妙に遠くまで響いた。
「三階でしたね」
「はい。渡り廊下の傘立てです」
メモ帳が開く。
ペン先が紙へ触れる前に、横から低い声が飛んだ。
「ゆかり」
「はい」
「歩きながら書かない。転ぶ」
「……はい」
ペンが少しだけ下がる。
階段へ向かう途中、天井の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
ちか。
肩が跳ねる音まではしなかった。けれど、マキの鞄の紐が小さく軋んだ。
「今のは?」
「古い校舎ですから」
「古い校舎って便利な言葉だね……」
階段を上がる。
一階から二階へ。
二階から三階へ。
上へ進むほど、空気が少し冷たくなっていく。
廊下の窓は閉まっている。それなのに、どこかから雨の匂いがした。
「……濡れた匂いしない?」
「しますね」
ゆかりの声が少しだけ弾む。
「嬉しそうにしない」
「すみません」
「顔が謝ってない」
「少しだけ興味が勝っています」
「勝たせないで」
三階の廊下に出る。
渡り廊下は、その先にあった。
窓に囲まれた細い通路。夕方の暗い空が、ガラス越しに広がっている。
外はまだ降っていない。
けれど、奥から雨音が聞こえた。
ざあ、と。
屋根を強く叩くような音。
三人分の足音が止まる。
「……外、降ってないよね」
窓の向こうに雨粒はない。地面もまだ乾いている。
それでも、雨音は続いている。
ざあ。
ざあ。
渡り廊下の入口に、傘立てがあった。
錆びた鉄製の傘立て。
中には、何本かのビニール傘と、色褪せた折り畳み傘。
そして、その中に一本だけ、黒い傘が立っていた。
持ち手まで真っ黒な、古い長傘。
それだけが、異様に濡れている。
傘立ての下には、丸い水たまりができていた。
ペン先が、紙に触れる。
「……黒い傘。噂と一致」
声が小さい。楽しそうというより、息を潜めるような声だった。
一歩ぶん、靴底が床を擦る。
「見た。もう帰ろう」
「まだ何も確認していません」
「見たじゃん!」
「記録としては不十分です」
「十分怖い!」
黒い傘へ向けられたずん子の視線は、まだ外れない。
表情は崩れていない。けれど、鞄の紐を握る指に力が入っていた。
「触らないでください」
「触りません」
返事が早い。
早すぎる。
「本当に?」
「本当に」
「少しだけとか言わない?」
「言いません」
「ならいいけど……」
その時、黒い傘が動いた。
誰も触れていない。傘立ての中で、ゆっくりと持ち手がこちらへ向く。
まるで、差し出されるように。
喉が小さく鳴った。
「……帰ろう」
今度は、はっきりした声だった。
「ずん子、これ、危ないやつだよね」
返事はすぐにはない。
傘の周りの水たまりが、少しずつ広がっている。床を伝い、三人の足元へ細い線のように伸びてくる。
雨音が強くなる。
ざああ、と。
廊下の向こうが、薄く歪んで見えた。
「戻ります」
低い声が落ちる。
「ゆかりさん、マキさん、階段へ」
「うん!」
すぐに返事があった。
メモ帳も閉じられる。
けれど、来た道へ戻ろうとした瞬間。
廊下の景色が、揺れた。
階段へ続くはずの廊下が、渡り廊下の入口に戻っている。
傘立て。
黒い傘。
雨音。
「……え?」
声が震えた。
「今、戻ったよね」
「戻されました」
落ち着いた声だった。けれど、鞄の紐を握る指は離れない。
メモ帳の角が少し持ち上がる。
すぐ横から伸びた手が、その上に重なった。
「今は書かない!」
「でも」
「今は!」
指が止まる。
雨音が、さらに近くなる。
窓の外はまだ乾いている。なのに、廊下の床だけが濡れていく。
黒い傘が、ゆっくり開いた。
ばさり。
乾いた音。
傘の内側は真っ黒だった。
光が入らない。
その黒の奥から、小さな声がした。
「かえりたい」
呼吸が止まる。
メモ帳を握る手が強くなる。
黒い傘を見つめたまま、鞄の中へ手が入る。
取り出されたのは、小さな紙片だった。白い紙に、緑色の細い線が引かれている。
だが、紙片を構えた瞬間、雨音が跳ねた。
床の水が、足元をかすめる。
一歩、後ろへ引く。
紙片の端が濡れた。緑色の線が少し滲む。
「ずん子!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ!」
返事はない。
もう一度紙片を構えようとして、動きが止まる。
黒い傘の内側から伸びた水の線が、行く手を遮っていた。
まるで、帰り道そのものを塗りつぶすように。
ほんの少しだけ、表情が変わる。
迷い。
それは一瞬だけだった。
すぐに消える。
鞄の奥から取り出されたのは、札ではなくスマホだった。
「誰に電話するの?」
声が少し上ずる。
親指が、画面の上で止まった。
連絡先の一つ。
そこに表示された名前が、横から見えてしまう。
朔先輩。
知らない名前だった。
「……頼れる人?」
ゆかりの声は小さかった。
雨音が、間を埋める。
ざあ。
ざあ。
「頼れるかどうかで言えば」
硬い声だった。
「頼れます」
少しだけ、空気が緩みかける。
けれど次の言葉で、すぐに戻った。
「呼びたくはありません」
「なんで!?」
「色々あります」
「色々って何! 今その色々を気にしてる場合!?」
親指は、まだ画面の上で止まっている。
押したくない。
でも、押さないわけにはいかない。
それが、顔ではなく指先に出ていた。
黒い傘の内側から、また声がする。
「かさを、もって」
床の水が、さらに広がる。靴先に触れかける。
息を呑む音。
その直後、親指が画面を押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回目の途中で、通話が繋がった。
『もしもし、ずんちゃん?』
軽い声だった。
場違いなくらいに。
ずん子の眉がぴくりと動く。
「その呼び方はやめてください」
『久しぶりなのに冷たいなぁ』
「怪異です」
軽口が止まった。
電話の向こうの空気が変わる。
『場所は』
「旧講義棟、三階の渡り廊下です。黒い傘の怪異。帰路をずらされています」
『怪我は?』
「今のところありません」
『何人?』
「私を含めて三人です」
『分かった。すぐ行く』
その声に、さっきまでの軽さはなかった。
通話が切れる。
「……今の人、誰?」
「昔の知り合いです」
「昔の知り合いを、こんな時に呼ぶ?」
「呼びたくはありませんでした」
「それは聞いた」
少し離れたところで、メモ帳の表紙がきゅっと押さえられた。
「ですが、声が変わりましたね」
「変わりましたね……」
最初は軽かった。
ずん子をからかうような、柔らかい声。
それが、怪異と聞いた瞬間に変わった。
短く、早く、余計な言葉が消えた。
「大丈夫なの?」
黒い傘を見たまま、返事が落ちる。
「大丈夫かどうかは分かりません」
「えっ」
「ただ」
濡れた紙片が、指の中で少し歪んだ。
「来ます」
その声には、妙な確信があった。
◇
待っている時間は、長く感じた。
実際には、十分も経っていないのかもしれない。
それでも、旧講義棟の廊下では時間がうまく進まない。
スマホの時計は、さっきから十七時五十六分のまま止まっている。窓の外の空は、ずっと雨の直前の暗さを保っていた。
外では雨が降っていないのに、廊下の雨音だけが続いている。
黒い傘は開いたまま。
その内側の黒は、少しずつ大きくなっているように見えた。
壁際で、マキの鞄の紐が何度も握り直される。
ゆかりのメモ帳は閉じられたまま、両手で抱え込まれていた。
その半歩前に、ずん子が立っている。
「ずん子」
小さな声。
「はい」
「その人、本当に来られるの?」
「来ます」
「出口、ずれてるんだよね?」
「はい」
「じゃあ、どうやって」
少しだけ沈黙が落ちる。
「呼ばれたので」
「答えになってなくない?」
「この人に関しては、それで答えになることがあります」
「何それ……」
雨音の奥から、別の音が混じった。
濡れた床を歩く音ではない。
普通の靴音。
こつ。
こつ。
まっすぐ近付いてくる。
メモ帳を抱える手が上がる。
ずん子の指が、わずかに動いた。
廊下の奥から、一人の青年が現れた。
肩に鞄をかけ、息を少しだけ切らしている。けれど、表情は軽い。
まるで、遅れて待ち合わせに来たような顔だった。
「お待たせ」
片手が上がる。
「ずんちゃん、久しぶり」
廊下の空気が、すっと冷えた。
「その呼び方はやめてください」
「第一声それ?」
「第一声を言わせたのは先輩です」
「辛辣」
「本当に来た……」
マキの呟きが、雨音に混じる。
ゆかりの視線は足元へ落ちていた。
廊下は濡れている。
黒い傘から伸びた水が、こちらまで届いている。
なのに、朔が歩いてきた後ろの床だけ、水が薄く割れているように見えた。
「どうやってここへ?」
「呼ばれたから」
「それ、答えになっていますか?」
「なってない?」
「なってない!」
「そっか」
朔は笑った。
それから、黒い傘を見る。
笑みが少しだけ薄くなる。
「これか」
声の温度が変わった。
さっきの電話と同じだった。
軽く見えて、怪異を前にすると変わる。
それを、ずん子は当然のように見ている。
「状況は」
「帰路をずらされています。黒い傘は開いたまま。こちらに持ち帰らせようとしています」
「触った?」
「触っていません」
「偉い」
「先輩に褒められる筋合いはありません」
「ずんちゃん、厳しい」
「先輩」
「はい」
「触らないでください」
「まだ何も」
「手が動きました」
朔の手は、黒い傘の方へほんの少し伸びかけていた。
「触る気だったの!?」
「反応を見るだけ」
「自分の手で見ないで!」
「正論だ」
「正論言わせないで!」
苦笑と一緒に、手が引っ込む。
メモ帳の角が持ち上がる。
すぐに横から視線が刺さった。
「今書く?」
「少しだけ」
「ゆかり!」
「……後で書きます」
黒い傘の内側から、また声がする。
「かえりたい」
朔の目が、少しだけ細くなった。
「帰りたいのか」
「そう言っていますね」
「でも、持って帰ってもらうと帰り道を奪う」
「迷惑な傘だね」
「先輩ほどではありません」
「俺、傘以下?」
「場合によります」
「場合によるんだ……」
軽口の間にも、視線は黒い傘から外れない。
床の水が、朔の足元へ伸びる。一歩だけ横へずれると、水は追ってこなかった。
「追いかける感じじゃないね」
「こちらを積極的に害する気配は薄いです」
「持たせたいだけ?」
「おそらくは」
「置いていかれたくないのかな」
その言葉に、雨音が少しだけ弱まった。
息を呑む音がする。
「反応しました」
「したね」
朔がしゃがみ込む。
すかさず声が飛んだ。
「触らないでください」
「触らない」
「本当に」
「本当に」
「絶対に」
「絶対に」
マキの小声が落ちる。
「何この確認」
「かなり日常的なものに見えます」
「この二人、何なの……?」
返事はない。
ゆかりの視線は、二人の間に置かれていた。
距離は近い。
けれど、近いからこそ柔らかいわけではない。
ずん子の言葉は冷たく、朔はそれを笑って受け流している。
その奥に何があるのか、初対面の二人には分からない。
ただ、本当に嫌なら、電話などしなかっただろう。
マキの口が、少しだけ閉じた。
朔の指先が、床に落ちた水の道をなぞるように動く。
触れてはいない。
「ずんちゃん、さっきの紙片、まだある?」
「あります」
「もう一枚」
「先輩が使うんですか」
「置くだけ」
「傘には?」
「触らない」
少しだけ睨むような間のあと、鞄から新しい紙片が出てきた。
白い紙に、緑の細い線。
それを受け取る指先が、触れるか触れないかの距離で止まる。
一瞬だけ、ずん子の手も止まった。
すぐに離れる。
朔は何も言わない。
紙片が、黒い傘の足元へ滑っていく。
水の道に触れた瞬間、緑の線が淡く光った。
雨音が乱れる。
黒い傘の内側で、何かが揺れた。
小さな影。
子供のようにも見える。
でも、顔はない。
「かさを、もって」
声がする。
朔は静かに息を吐いた。
「持って帰るのは無理だよ」
黒い影が揺れる。
「かえりたい」
「うん」
声はもう軽くなかった。
「帰りたいんだよね」
マキは、少しだけ目を見開いた。
怪異に話しかけている。
当然のように。
怖いものを追い払うのではなく、聞いている。
もう一枚の紙片が、床へ置かれた。
帰り道を示すように、傘立ての方へ向かって。
「帰る場所は、誰かの家ではありません」
ずん子の声が廊下に落ちる。
「あなたの場所は、そこです」
傘立て。
錆びた鉄の枠。
他の傘と一緒に立っている場所。
黒い傘が、小さく軋んだ。
雨音が弱まる。
ざあ、から、しとしとへ。
しとしと、から、ぽつぽつへ。
「置いていかれたくなかったんだね」
黒が少しずつ薄くなる。
「でも、無理に誰かへついていったら、その人が帰れなくなる」
影が小さくなる。
「だから、ここに戻ろう」
最後の雨音が落ちた。
ぽつり。
黒い傘が、ゆっくりと閉じていく。
ばさり、ではない。
濡れた布を畳むような、静かな音。
床に広がっていた水が、傘立ての方へ戻っていく。
雨音が消える。
廊下の蛍光灯の唸りが戻る。
窓の外から、学生の声が遠く聞こえた。
「……終わった?」
大きく吐き出された息に続いて、声が落ちる。
「終わりました」
「本当に?」
「今は」
「今はって言わないで……」
メモ帳が、今度こそ開かれる。ペン先が紙を走った。
「黒い傘の怪異。持ち帰りではなく、置き場所への帰属を求める性質。帰路を歪めるが、明確な害意は薄い。対処として帰るべき場所を示すことが有効――」
「ゆかり、元気になったね」
「はい。非常に興味深かったので」
「怖かったんだからね!?」
「怖さも含めて」
「含めないで!」
朔は立ち上がり、膝を軽く払った。
「二人とも無事?」
頷きが二つ返る。
視線がずん子へ移る。
「ずんちゃんは?」
「問題ありません」
「紙片、濡れてたけど」
「問題ありません」
「足」
「問題ありません」
「ずんちゃん」
目が少しだけ細くなる。
「先輩に心配される覚えはありません」
「俺はあるんだけど」
「捨ててください」
「ひどい」
冷たい声。
軽い返事。
けれど、朔が来た時、確かに空気が変わった。
呼びたくなかった、と言った。
それでも、呼んだ。
そして、呼ばれた方は迷わず来た。
メモ帳の上で、ペンが止まっている。
「ゆかりさん」
「はい」
「今、何を記録しようとしましたか」
「いえ」
「いえ、ではありません」
「怪異とは別件です」
「余計に駄目です」
メモ帳が、そっと閉じられた。
空気が少し緩む。
「とりあえず、帰ろう。もう十分」
「そうですね」
「黒い傘には触らないでください」
「誰に言ってる?」
ずん子の視線は、まっすぐ朔へ向いた。
両手が上がる。
「触らないって」
「信用できません」
「俺、今日ちゃんと触らなかったよ?」
「今日だけです」
「厳しいなぁ」
四人は渡り廊下を離れた。
今度は廊下が戻されることはない。
階段も、来た時と同じ場所にあった。
スマホの時計も動き始めている。
一階へ降りる頃、外では本物の雨が降り始めていた。
細かい雨が、旧講義棟の入口を濡らしている。
「うわ、降ってる」
「傘、持ってきていませんでしたか?」
「持ってない」
「私もです」
入口の外では、雨粒が細かく跳ねていた。
「コンビニ寄る?」
「なんで?」
「傘買えるし、温かい飲み物もある」
少しの沈黙。
「……それは、あり」
「私も賛成です。記録をまとめたいので」
「コンビニで怪異記録まとめるの?」
「温かい飲み物と共に」
「図太いなぁ……」
雨が、旧講義棟の屋根を叩いている。
さっきまでの怪異の雨音とは違う。
ちゃんと外から聞こえる、本物の雨だった。
「先輩」
「ん?」
「今回は、助かりました」
声は小さい。
雨音に紛れそうなくらい。
けれど、確かに聞こえた。
朔が少しだけ目を丸くする。
それから、いつものように笑った。
「どういたしまして、ずんちゃん」
空気が一瞬で冷える。
「その呼び方をしたので、やはり呼ぶんじゃありませんでした」
「早い。評価下がるの早い」
「当然です」
小さな笑いが、雨音に混じった。
四人は雨の中へ出る。
先頭を歩く背中の少し横に、緑の髪が並ぶ。
その後ろで、メモ帳を濡らさないように鞄が抱え直される。振り返るたび、旧講義棟の窓に灰色の空が映った。
渡り廊下の傘立てには、黒い傘がまだある。
けれど、もう誰かを呼んではいない。
ただ、他の傘と同じように、静かに置かれていた。
「……初対面でこれって、濃すぎない?」
朔が笑う。
「慣れるよ」
「慣れたくない!」
「ですよね」
ゆかりは嬉しそうに頷いた。
雨の中、声が弾ける。
ずん子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
朔はそれを横目で見たが、何も言わなかった。
言えば、また冷たく返される。
けれどその沈黙は、悪いものではなかった。
雨はまだ弱い。
四人は、校舎の明かりを背にして歩いていく。
これが、朔とずん子たちが共に怪異を追うことになる、最初の夜だった。