第二話 雨宿りと昔の知り合い
コンビニの自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気が四人を迎えた。
雨に濡れた髪と制服の裾。旧講義棟からここまで走ってきたわけではないのに、肩のあたりには細かな水滴が残っている。
入口のマットが、靴底の水を吸って黒くなった。
「……生きてる」
弦巻マキの第一声は、それだった。
すぐ横で、結月ゆかりがメモ帳を抱えたまま首を傾げる。
「生きていますね」
「そういう確認じゃなくて」
「では、どういう確認ですか?」
「怪異から帰ってきた後の、こう……命の確認」
「なるほど。記録しておきます」
「しなくていい!」
レジの近くで、店員が一瞬だけこちらを見た。
マキの声が跳ねたせいだ。気付いた本人は、慌てて口元を押さえる。
その横で、東北ずん子は傘売り場の方へ歩いていた。濡れた紙片は、いつの間にか鞄の奥へしまわれている。
朔は少し遅れて店内に入り、入口近くのガラス越しに外を見た。
雨は細い。
けれど、止む気配はない。
「ビニール傘でいい?」
「先輩が選ぶと、また変なものを選びそうなので私が見ます」
「傘で信用失ってる?」
「傘以外でも失っています」
「ひどい」
透明なビニール傘が、棚から四本抜かれる。
マキがそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「朔の分も買うの?」
「ここまで呼びましたから」
「優しい」
「必要経費です」
「言い方」
ゆかりのペンが動きかける。
ずん子の視線が横に滑った。
「ゆかりさん」
「はい」
「今のは記録しなくていいです」
「まだ何も書いていません」
「書く顔でした」
「皆さん、私の顔に厳しくありませんか?」
「顔に出てるからね」
マキの返しに、ペン先が少し止まった。
朔が笑う。
「ゆかりちゃん、分かりやすいね」
「先輩ほどではないと思います」
「会ってすぐ刺してくる」
「観察結果です」
「ゆかりさん」
今度はずん子の声が冷えた。
「この人を褒めると調子に乗ります」
「褒めてはいません」
「ならいいです」
「俺、今ちょっと傷ついたんだけど」
「気のせいです」
「傷も気のせいにされた」
マキの肩から、少しだけ力が抜ける。
旧講義棟の廊下で固まっていた表情が、ようやくいつもの形に戻り始めていた。
レジで傘を買い、ついでに温かい飲み物も買うことになった。
ゆかりはミルクティー。
マキはホットココア。
ずん子は温かい緑茶。
朔は迷わずカフェオレを取った。
「甘いやつ飲むんだ」
「疲れた時は甘いのがいいよ」
「さっき来ただけじゃん」
「怪異の中に入るのって疲れるんだよ」
「さらっと言うなぁ……」
マキの手が、ココアの缶を少し強く握る。
温かさが指に移る。けれど、さっきまで冷えていたのは手だけではなかった。
店内の蛍光灯は白い。
古い校舎の薄暗さも、傘の内側の黒も、ここにはない。
ホットスナックのケースから揚げ物の匂いがして、コピー機の低い動作音が奥で鳴っている。
全部が、どうしようもなく普通だった。
だからこそ、さっきの出来事が少し遅れて胸の奥に落ちてくる。
「……あのさ」
ココアの缶を両手で持ったまま、マキが口を開いた。
「さっきの、結局なんだったの?」
ゆかりの目が、すぐにメモ帳へ落ちる。
けれど、ページを開く前に一拍置いた。
今度は、周りを見た。
「簡単に言うなら、帰る場所を失った傘の怪異……でしょうか」
「傘が?」
「正確には、傘そのものか、傘に残った誰かの未練か、あるいは傘立てに付着した帰属意識か」
「簡単じゃなくなった」
「では、やや簡単に」
「やや」
ペン先がページに触れる。
けれど、走る速度は旧講義棟にいた時より少し遅い。
「持ち帰られることで帰ろうとしていた。でも、それをすると持った人間の帰り道を奪ってしまう。そういう怪異だったのだと思います」
「悪いやつだったの?」
マキの声は、さっきより少し低い。
ゆかりが答える前に、緑茶の缶が小さく鳴った。
ことり。
ずん子の指が、缶の縁から離れる。
「明確な悪意は薄かったと思います」
「悪意は薄いけど、こっちは閉じ込められたんだけど」
「はい。だから危険です」
「……怪異って面倒くさいね」
「そうですね」
ずん子は淡々と頷いた。
「悪意があるから危険とは限りません。悪意がないから安全とも限りません」
店内の冷房が、濡れた袖を少し冷やす。
マキはココアを一口飲んだ。
甘さと熱さが、喉を通って落ちていく。
「じゃあ、さっきの傘は……置いていかれたくなかっただけ?」
朔のカフェオレの缶が、指の中で少し回った。
「たぶんね」
「たぶん」
「怪異に絶対はあんまりないから」
「便利な言葉だなぁ」
「古い校舎よりは便利じゃない?」
「その便利さは嫌」
そこで、小さく笑いが落ちた。
ほんの少しだけ。
でも、旧講義棟を出てから初めて、四人の間に普通の音が戻った気がした。
ゆかりのペンが、再び動く。
「しかし、興味深い点がいくつかあります」
「出た」
「一つ。ずん子さんの紙片が、帰る場所を示す目印として機能したこと」
「それはずん子がすごいんじゃない?」
「すごいかどうかは別として、準備していたことは重要です」
「ずん子、あんなの普段から持ってるの?」
視線が、緑茶の缶を持つ手元へ集まる。
少しの間。
「念のためです」
「念のためであれ出てくるんだ」
「出ます」
「普通は出ないよ」
「普通ではないので」
「自覚あるんだ……」
マキの声に、ゆかりが小さく頷く。
「二つ目。朔先輩は、帰路が歪められている旧講義棟の中へ、外から入って来られた」
メモ帳のページが、少しだけ朔の方へ向く。
「どうやって来たんですか?」
「呼ばれたから」
「それは先ほども聞きました」
「答えも同じかな」
「つまり、説明する気がないと」
「説明が難しいというか」
「雑に誤魔化そうとしていますね」
「ゆかりちゃん、意外と刺してくるね」
缶のプルタブが、親指で軽く押される。
朔の笑みは軽い。
けれど、答えはそれ以上出てこない。
ずん子の緑茶の缶が、わずかに傾いた。
「この人は、そういうものです」
「紹介が雑」
「正確です」
「いや、正確に雑」
「雑で十分です」
マキの視線が、二人の間を行き来する。
ずん子は冷たい。
朔は笑っている。
でも、さっき旧講義棟で電話をかけるまでの迷いを思い出すと、そのやり取りをただの仲の悪さとは思えなかった。
「昔の知り合いって言ってたよね」
ココアの缶を持つ指が、少しだけ動く。
「幼馴染?」
雨音が、ガラスの向こうで細かく跳ねた。
答えたのは朔だった。
「そうだね」
「違います」
すぐに重なった。
マキの目が丸くなる。
「どっち?」
「幼馴染です」
「昔の知り合いです」
「だからどっち!?」
ゆかりのペンが、メモ帳の上で止まる。
「興味深いですね」
「ゆかり、今はやめとこう」
「ですが」
「やめとこう」
「……はい」
ページの端が、名残惜しそうに閉じられる。
ずん子の目が、朔を見た。
「先輩も、余計なことを言わないでください」
「幼馴染って事実じゃない?」
「昔の話です」
「昔があるから幼馴染なんじゃ」
「先輩」
「はい」
「カフェオレ、冷めますよ」
「話題の切り方が強い」
缶の中身を一口飲む音がする。
それ以上、踏み込むなという線が引かれたのは、マキにも分かった。
ゆかりも、たぶん分かっている。
けれど、分かったからといって気にならないわけではない。
メモ帳を持つ指が、閉じた表紙の上で一度だけ止まった。
その時、入口の自動ドアが開いた。
濡れた傘を持った学生が二人、笑いながら入ってくる。
普通の傘。
普通の雨。
普通の会話。
さっきまでの黒い傘のことを知らない人たちが、普通に店内を歩いていく。
マキの肩が、少しだけ落ちた。
「……普通ってありがたいね」
「いきなりどうしたの」
「さっきの後だと、コンビニがすごい安心する」
「分かります」
ゆかりが真面目に頷いた。
「照明、商品棚、店内BGM、レジ横の揚げ物。現実感の塊です」
「言い方」
「では、現世の砦」
「重い」
「日常の防壁」
「もっと重い」
朔が吹き出した。
「ゆかりちゃん、表現が強いね」
「褒めていますか?」
「褒めてる」
「この人を褒めないでください」
「ずん子、ゆかりにまで厳しい」
「先輩にだけです」
「今俺が怒られたの?」
「はい」
「理不尽」
マキの口元が、少しだけ緩む。
気付けば、ココアの缶は半分ほど空になっていた。
手の震えも、さっきよりずっと小さい。
ゆかりはようやくサンドイッチのことを思い出したように、鞄の中を少し探った。
「……学食に置いてきました」
「えっ」
「サンドイッチを」
「食べてないのに?」
「はい」
「怪異よりそっちの方が心配なんだけど」
マキの声に「!」が戻りかけた。
ずん子の緑茶の缶が、静かに置かれる。
「何か食べてください」
「今ですか?」
「今です」
「でも、記録が」
「食べてから書いてください」
「ずん子までマキさんのようなことを」
「私を基準にしないで」
棚の方へ視線が動く。
おにぎり。サンドイッチ。パン。ゼリー飲料。
ゆかりは少し迷って、ゼリー飲料を手に取った。
「軽く済ませます」
「それ、ご飯?」
「エネルギーにはなります」
「ご飯?」
「……なります」
「今ちょっと間あったよね」
レジへ向かう背中を、マキがじっと見る。
「ゆかりって、放っておくと怪異優先でご飯抜くタイプ?」
「そう見えますね」
ずん子の返事は早かった。
「ずん子もそういうとこありそうだけど」
「私は抜きません」
「本当?」
「本当です」
「顔見ていい?」
「見なくていいです」
「怪しい」
朔が横で笑う。
「ずんちゃんは昔から、食べる時はちゃんと食べるよ」
緑茶の缶が止まった。
ほんの少しだけ。
「先輩」
「ん?」
「昔の話をしないでください」
声は静かだった。
けれど、今までの軽い冷たさとは違った。
コンビニの蛍光灯の下で、雨音だけが少し強く聞こえる。
朔の笑みが、すぐには戻らなかった。
「……ごめん」
それだけだった。
マキはココアの缶を持ったまま、何も言えなくなった。
ゆかりも、レジ前でゼリー飲料を持ったまま振り返らない。
聞こえていたのか、いなかったのか。
分からない。
ただ、メモ帳は鞄の中に入ったままだった。
店内BGMが、やけに軽い音で流れている。
旧講義棟より明るいはずの場所で、ほんの少しだけ空気が冷えた。
それを崩したのは、レジの機械音だった。
「袋はご利用ですかー」
「あ、いえ、大丈夫です」
ゆかりの返事が、いつもの丁寧な声で戻ってくる。
その声に、止まっていた時間が少しだけ動いた。
マキが小さく息を吐く。
「……とりあえず、食べよ。話はその後」
「マキちゃん、隊長みたい」
「隊長じゃないけど、今はそういうことにする」
「頼もしい」
「からかわない」
「はい」
ゆかりがゼリー飲料を持って戻ってくる。
蓋を開ける音が、小さく鳴った。
「では、補給しながら記録を」
「食べてから」
「飲みながらなら」
「飲んでから!」
「……はい」
ずん子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
朔はそれを見て、今度は何も言わなかった。
◇
雨は、しばらく止みそうになかった。
コンビニの軒下に四人分のビニール傘が並ぶ。
透明なビニール越しに見える夜は、旧講義棟の廊下よりずっと普通だった。
車の音。
横断歩道の信号。
濡れた道路に映る街灯。
どれも、ちゃんと現実の方にある。
「で」
傘を一本広げながら、マキが言った。
「朔は、これからどうするの?」
「帰るよ?」
「そうじゃなくて」
透明な傘の下で、視線がまっすぐ向けられる。
「また、こういう時に呼ばれるの?」
ゆかりも、傘を開きかけた手を止めた。
ずん子の表情は変わらない。
けれど、緑茶の空き缶を捨てた手が、少しだけ遅れた。
「呼ばれたら来るよ」
朔の返事は軽かった。
「呼ばれたら、ね」
「……呼びたくありません」
「だろうね」
「ですが」
雨が、ビニール傘を叩く。
ぱらぱらと細かい音が、四人の間に落ちる。
「必要なら、呼びます」
朔は少しだけ目を丸くした。
それから、笑う。
「うん」
「調子に乗らないでください」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っていました」
「顔で怒られるの、多くない?」
「先輩なので」
「理由になってる?」
「なっています」
マキが小さく笑った。
ゆかりも、メモ帳を抱え直しながら口元を緩める。
「では、今後は朔先輩も調査協力者として記録しておきます」
「調査協力者」
「怪異対応経験者。ずん子さんの昔の知り合い。呼ばれると来る人」
「最後だけ雑じゃない?」
「正確では?」
「正確だけど」
ずん子の傘が開く。
透明なビニールの向こうで、雨粒が細かく弾けた。
「ゆかりさん」
「はい」
「余計なことは記録しないでください」
「余計かどうかは後で精査します」
「今、消してください」
「まだ書いていません」
「書く顔です」
「皆さん、本当に私の顔に厳しいですね」
また笑いが落ちる。
さっきより自然な音だった。
四人はコンビニを出た。
雨は弱い。
ビニール傘に当たる音は、旧講義棟の奥で聞こえた雨音とは違っていた。
黒い傘の声は、もう聞こえない。
代わりに、マキの靴が水たまりを避ける音と、ゆかりのメモ帳が鞄の中で揺れる音が、夜道に混じる。
先頭を歩く朔の少し横に、ずん子が並ぶ。
距離は近い。
けれど、間にはまだ何かがある。
マキはその後ろから、二人の背中を見た。
「……ねえ、ゆかり」
「はい」
「このメンバー、大丈夫かな」
「非常に不安ですね」
「そこは大丈夫って言ってよ」
「ですが、興味深いです」
「それも言うと思った」
傘の下で、メモ帳の角が少しだけ持ち上がる。
「これから、忙しくなりそうです」
「やめて、その予言」
前を歩く朔が振り返る。
「二人とも、雨強くなる前に帰ろう」
「誰のせいで寄り道したと思ってるの」
「黒い傘?」
「正論っぽく怪異に投げないで!」
雨の中、声が弾ける。
ずん子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
朔はそれを横目で見たが、何も言わなかった。
言えば、また冷たく返される。
けれどその沈黙は、悪いものではなかった。
雨はまだ弱い。
けれど、コンビニを出る前とは違って、誰も旧講義棟の方を急いで振り返らなかった。
黒い傘は、もう遠い。
代わりに、透明な傘の下で、メモ帳の角が少しだけ持ち上がる。
「……今日の記録、長くなりそうです」
「やめて、思い出すから」
「忘れないための記録ですので」
「今すぐ忘れたい人もいるんだけど」
マキの声に、朔が小さく笑う。
「じゃあ、マキちゃんのところだけぼかして書いてもらう?」
「絶対変な書き方されるじゃん」
「しませんよ」
「今の間は何!?」
雨粒が、透明な傘の上で細かく跳ねた。
ずん子の歩幅は、朔の半歩前にある。
近い。
けれど、並んでいるとは少し違う。
追い越すでもなく、待つでもなく、ただ昔からそこにあった距離を測り直すみたいに、二人の足音は雨の中で重なったり、ずれたりした。
「先輩」
「ん?」
「次に呼んだ時も、余計なことはしないでください」
「次も呼ぶ前提なんだ」
「必要ならです」
「そっか」
「調子に乗らないでください」
「まだ乗ってないよ」
「乗る前に止めています」
そのやり取りを、後ろから二つの傘が見ていた。
「……ねえ、ゆかり」
「はい」
「あの二人、やっぱり変だよね」
「はい」
返事は早かった。
「非常に」
「そこは否定しないんだ」
「観察対象としては、かなり」
「記録しないであげて」
「善処します」
「それ、絶対書くやつ」
メモ帳は開かれなかった。
けれど、鞄の中で小さく揺れる音がした。
雨は弱いまま、夜道を濡らしている。
黒い傘の声は、もう聞こえない。
それでも四人の間には、さっきまでなかったものが一つ増えていた。