やっぱりゆかりさんになるのかな、でも今だとずんだもん?
第三話 河川敷の影送り
黒い傘の一件から、三日が経っていた。
雨はすっかり上がり、夕方前の空には薄い雲が流れている。大学の正門を出ると、濡れたアスファルトの匂いはもう消えていて、代わりに少し乾いた風が頬を撫でた。
講義帰りの学生たちは駅の方へ流れていく。
その流れから少し外れた歩道の端で、結月ゆかりのメモ帳が開かれていた。
今日のページには、黒い傘ではなく、別の見出しが書かれている。
『影送り』
「……また怪異?」
弦巻マキの声には、まだ昨日の疲れが少し残っていた。
「はい」
「はい、じゃないんだよ」
「ですが、今回は学校ではありません」
「場所の問題じゃない」
ペン先が、見出しの横に小さな丸を付ける。
「大学近くの河川敷で、影送りをすると影が戻ってこないそうです」
「影が戻ってこない?」
「足元の影が薄くなる。動きが遅れる。自分とは違う影が重なる。噂としてはそのあたりですね」
「普通に怖い!」
通りすがりの学生がちらりとこちらを見る。
マキの肩が、すぐに縮こまった。
その隣で、東北ずん子の手が鞄の紐に触れる。
「影送り自体は、昔からある遊びですね」
「それは聞いたことあるけどさ」
「晴れた日に影を見つめてから空を見ると、空に影が残って見える、というものです」
「遊びで終わってればよかったのに……」
歩道の先には、川へ下りる坂道がある。
ガードレールの向こうに見える水面が、夕方前の光を細かく返していた。
ゆかりの視線は、すでにそちらへ向いている。
「目撃情報は、あの河川敷です」
「なんで怪異って、ちょうど行けそうな距離に出るの?」
後ろから、軽い声が混じった。
「近所付き合いがいいんじゃない?」
朔だった。
片手にコンビニの袋を下げている。中身は、菓子パンとカフェオレらしい。
ずん子の視線が、すっと冷える。
「先輩」
「はい」
「呼んでいません」
「うん。帰り道」
「帰り道にしては、こちらへ来るのが自然すぎます」
「偶然」
「怪しいですね」
「ずんちゃん、俺の信用低くない?」
「低いです」
「即答」
マキは朔とずん子のやり取りを見て、少しだけ息を吐いた。
黒い傘の時よりは、見慣れてきた。
けれど、慣れていいものなのかはまだ分からない。
ゆかりのペン先が、朔の方へ向きかける。
「ゆかりさん」
「まだ何も」
「その角度は書く角度です」
「角度で判断されるんですね」
「されます」
メモ帳が胸元へ引き寄せられる。
朔はコンビニ袋を軽く持ち上げた。
「河川敷なら、座って食べられるね」
「ピクニックじゃないんだけど」
「怪異調査ピクニック?」
「嫌すぎる」
「マキさん」
ずん子の声が静かに落ちる。
「無理に来なくても大丈夫です」
「いや、行く」
返事は早かった。
「ゆかりだけ行かせるのも怖いし、朔を放っておくのも怖いし」
「俺も?」
「うん」
「理由が増えた」
「増えるようなことしてるからでしょ」
朔は笑った。
ずん子は笑わない。
視線は、朔の足元へ落ちていた。
歩道に伸びる影。
夕方にはまだ早いが、太陽は少し傾いている。四人の影は、それぞれ足元から長く伸びていた。
朔の影も、そこにある。
普通の影。
ただ、ずん子の視線だけが、そこを少し長く確かめていた。
◇
河川敷へ下りる坂道には、乾いた土と草の匂いが混じっていた。
土手の上を自転車が通り過ぎる。車輪の音が遠ざかり、すぐに川の音へ溶けた。
水面は光を細かく砕いている。
川の向こうには住宅街。洗濯物が揺れているベランダや、低い屋根の並びが見えた。
怪異が出るような場所には見えない。
だからこそ、足元の影が妙に濃く見えた。
マキの靴先から伸びる影。
ゆかりのメモ帳を持つ手の影。
ずん子の髪が土手の草の上に落とす細い影。
少し後ろに立つ朔の影。
どれも、光の中でくっきりしている。
「明るいのに嫌な感じするの、反則じゃない?」
「怪異は暗い場所にだけ出るわけではありませんから」
「そういう正論、今はいらない」
「では、明るい場所の怪異は貴重です」
「もっといらない」
ゆかりのメモ帳が開かれる。
ペン先が紙に触れた。
「河川敷。時刻は十六時二十一分。天候は晴れ寄りの曇り。影は明瞭。噂の条件にはおおむね一致」
「おおむねって便利だね」
「断定は避けるべきですので」
「怪異相手にだけ慎重」
朔は土手の斜面を見下ろしていた。
足元の草が、風で揺れる。
その影も、地面の上で小さく揺れる。
「で、影送りってどうやるの?」
マキの声は慎重だった。
「影を十秒ほど見つめてから、空を見るそうです」
「やらないよね?」
「確認としては」
「やる気だ!」
「私がやります」
ずん子の声が、会話を切った。
川の音が、一瞬だけ大きく聞こえた。
「ずん子が?」
「はい。ゆかりさんは記録を。マキさんは周囲を見ていてください」
「朔は?」
コンビニ袋が、かさりと小さく鳴る。
朔は軽く笑った。
「後ろ?」
「はい。後ろです」
「今回も?」
「今回こそです」
言い方が硬い。
マキには、その理由が分からない。
ゆかりのペン先も止まっている。
ずん子の視線は、また朔の足元へ落ちていた。
「先輩は、影を見ないでください」
「……ずんちゃん」
「見ないでください」
声は静かだった。
けれど、いつもの辛辣さとは違う。
朔は少しだけ黙った。
それから、いつものように笑う。
「分かった」
「本当に」
「本当に」
「絶対に」
「絶対に」
マキが小声でゆかりに寄る。
「この確認、また出た」
「今回は、黒い傘の時よりも理由がありそうですね」
「分かるの?」
「分かりません。ですが、ずん子さんが朔先輩の足元を気にしています」
ペン先が少し動きかけた。
けれど、紙には触れない。
書いていいことかどうか、迷っているようだった。
ずん子は河川敷の石段の上に立った。
夕方前の光が、足元に影を落とす。
その影は、階段の段差を跨ぎ、草の方へ伸びていた。
「始めます」
声は落ち着いている。
けれど、マキの手は自然と鞄の紐を握っていた。
ゆかりのメモ帳は開かれている。
朔は少し後ろで、川の向こうを見ていた。
地面は見ない。
そう決めているように。
十秒。
影を見つめるだけの時間は、思ったより長かった。
一。
二。
三。
数えているわけではないのに、全員の中で同じように時間が刻まれていく。
ずん子の影は動かない。
風が吹いても、髪が揺れても、影は地面に貼り付いたままだった。
川面の光が揺れる。
草が鳴る。
遠くで、子どもの笑い声がした。
七。
八。
九。
十。
ずん子が空を見る。
マキもつられて見上げそうになったが、すぐにゆかりの袖を掴んだ。
「見ていいの?」
「分かりません」
「分からないなら見ない!」
「ですが記録が」
「今は見ない!」
ゆかりの視線が、空へ行く寸前で止まる。
代わりに、メモ帳の白いページを見た。
ずん子だけが空を見ている。
青に近い薄い空。
その真ん中に、影が映った。
人の形をした、黒い染みのようなもの。
ほんの一瞬。
空の上に、ずん子の影があった。
次の瞬間。
足元の影が、薄くなった。
「ずん子!」
マキの声が跳ねる。
影は消えたわけではない。
けれど、さっきまでの濃さがない。まるで日差しが弱まったように、輪郭だけが曖昧になっていた。
だが、空は晴れている。
雲も太陽を隠していない。
ゆかりのペンが走る。
「足元の影の濃度低下。空への投影確認。本人に異常は?」
「ありません」
返事は早かった。
「気分は?」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
「ずん子、今のはいったん中止でいいよね?」
マキの声は少し強い。
「確認はできたし、もう十分でしょ」
「そうですね」
ずん子が頷く。
「これ以上は――」
その言葉が、途中で止まった。
足元の影が、動いた。
本人は動いていない。
それなのに、薄くなった影だけが、半歩ぶん遅れて揺れた。
そして、土手の斜面の下。
草の影に紛れるように、別の影が伸びてくる。
木の影ではない。
人の影だった。
誰も立っていない場所から、人の形だけがゆっくりと近付いてくる。
マキの手が、ゆかりの袖を掴んだ。
「ねえ、あれ誰の影」
「分かりません」
「分からないの怖いんだけど」
「私も怖いです」
「そういう時だけ正直!」
影は、ずん子の足元へ向かっていた。
薄くなった影に、別の影が重なろうとしている。
朔の声が、少し低くなる。
「ずんちゃん、下がって」
「先輩は動かないでください」
「でも」
「見ないでくださいと言いました」
その言葉の直後。
別の影が、進む向きを変えた。
ずん子ではなく、朔の方へ。
土手の草の上を、黒い人型が滑るように伸びていく。
マキの背中が冷たくなる。
さっきまでただの明るい河川敷だったはずなのに、足元だけが夕方を通り越して夜みたいに暗い。
「朔!」
呼ばれた本人は、影を見ていなかった。
見ていないはずだった。
けれど、気付いている。
肩の力が抜け、口元の笑みが薄くなっている。
「……こっちに来るか」
軽い声ではなかった。
ずん子の紙片が、鞄から出る。
黒い傘の時と同じ、白い紙に緑の細い線。
だが、影は速い。
土手の斜面を越え、乾いた草の上を滑り、朔の足元へ伸びる。
「先輩、下がって!」
「見てないよ」
「見ていなくても駄目です!」
声が強くなる。
マキは初めて、ずん子の声に焦りを聞いた気がした。
ゆかりのペンは止まっている。
記録より先に、目の前の出来事が大きすぎた。
朔の足元の影が揺れた。
本人より少し遅れて、黒い形が伸びる。
そこへ、別の影が重なろうとする。
ずん子の紙片が、地面へ落ちた。
緑の線が、乾いた土の上で淡く光る。
「ここは、あなたの影ではありません」
静かな声。
けれど、さっきまでとは違う強さがある。
「戻りなさい」
影が止まる。
一瞬だけ。
その一瞬に、朔が半歩下がった。
けれど、遅れて動いた朔の影だけが、その場に残る。
まるで足首を掴まれたように。
マキの喉が鳴る。
「影だけ残った……?」
「先輩!」
ずん子の声が飛ぶ。
朔の顔から、完全に笑みが消えた。
足元を見るなと言われていた。
それでも、分かるのだろう。
自分の影が、自分についてきていないことを。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃありません!」
強い声だった。
川沿いの風が、一瞬だけ止まったように感じる。
ずん子はもう一枚、紙片を取り出す。
指先が少し震えているのか、紙の端が小さく揺れた。
「ゆかりさん、マキさん。先輩を見ていてください。影ではなく、先輩本人を」
「本人?」
「足元を見ないでください」
マキは迷った。
けれど、黒い傘の時で分かっている。
分からない時は、分かっている人の言葉に従うしかない。
視線を朔の顔へ向ける。
ゆかりも同じようにした。
メモ帳は閉じられた。
朔の顔色は悪くない。
ただ、さっきまでより少しだけ遠い。
声をかければ返ってきそうなのに、一歩向こう側にいるような。
「朔」
マキが呼ぶ。
「こっち見て」
「見てるよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ、あたしが何持ってる?」
「……鞄」
「雑!」
でも返事はあった。
ゆかりの声も続く。
「朔先輩」
「ん?」
「今日、コンビニで買っていたものは?」
「パンとカフェオレ」
「甘いものばかりですね」
「今そこ?」
「現実側の認識確認です」
「賢いけど緩い!」
朔の口元が、少しだけ動いた。
ほんの少し笑った。
その間に、ずん子の紙片がもう一枚、土の上へ置かれる。
緑の線が、朔の影と足元の間へ走った。
「先輩の影は、先輩のものです」
低い声。
「あなたの帰る場所ではありません」
黒い人型が、ゆっくり歪む。
影なのに、苦しそうに見えた。
泣いているようにも見えた。
マキは足元を見ないようにしているのに、それでも視界の端で黒いものが揺れるのが分かる。
ゆかりの手が、メモ帳を握りしめる。
「……これは、誰かの影なんでしょうか」
「かもしれないね」
答えたのは朔だった。
声はまだ少し遠い。
「空に送られて、戻れなかった影」
「そんなことあるの?」
「怪異だから」
「便利な言葉で片付けないで」
「便利じゃないよ」
その声が、少しだけ掠れた。
ずん子の視線が鋭くなる。
「先輩、話さないでください」
「ずんちゃん」
「話さないで」
紙片が、三枚目。
土の上に置かれる。
影がじり、と下がった。
けれど、まだ消えない。
朔の足元に残っていた影が、本人の足へ戻りきらない。
ほんの少しだけ、ずれている。
「マキさん」
「な、なに」
「先輩の名前を呼んでください」
「朔?」
「もっとはっきり」
マキは息を吸う。
「朔!」
声が河川敷に響いた。
朔の肩が少しだけ動く。
ゆかりも続く。
「朔先輩」
メモ帳を抱えたまま、丁寧な声がまっすぐ届く。
「戻ってきてください」
朔の目が、ほんの少しだけ揺れた。
最後に、ずん子が口を開く。
「朔先輩」
その呼び方は、いつもと同じはずだった。
でも、声の底が違う。
「戻ってください」
命令のようで、願いのようだった。
朔の影が、足元へ戻る。
ぴたり、と。
黒い人型は、土手の草の上で小さく揺れた。
そして、日差しの中へ溶けるように薄くなっていく。
最後に、川面で光が跳ねた。
その眩しさで、河川敷の明るさが戻った。
風が草を揺らす。
水の音がする。
遠くの道路を、車が一台通っていく。
「……終わった?」
マキの声は、かなり小さかった。
「終わりました」
ずん子の返事も短い。
けれど、さっきより少しだけ息が浅い。
朔は足元を見た。
今度は止められなかった。
影は、普通にある。
本人の動きと一緒に動く、ただの影だった。
「ごめん」
軽口ではなかった。
ずん子は紙片を拾わない。
地面に置かれた三枚は、淡い光を失って、ただの白い紙に戻っていた。
「謝るくらいなら、最初から後ろにいてください」
「いたよ」
「足りません」
「後ろの後ろ?」
「可能なら」
「厳しい」
「先輩にはそれくらいでいいです」
いつものやり取り。
けれど、マキにはそれがいつものものに聞こえなかった。
ゆかりも、まだメモ帳を開かない。
書けることはたくさんある。
影の動き。
空への投影。
朔への反応。
ずん子の紙片。
それなのに、ペン先は動かなかった。
何から書けばいいのか、分からないのかもしれない。
あるいは。
書いていいことと、まだ書いてはいけないことの境目を、探しているのかもしれない。
◇
河川敷を離れる頃には、夕方の色が少しずつ濃くなっていた。
土手の上の道には、四人分の影が伸びている。
マキは何度も足元を見た。
自分の影がちゃんとついてくることを確認するたび、少しだけ息が抜ける。
「……影って、普段意識しないけどさ」
坂道を上がりながら、声が落ちる。
「なくなりかけると怖いね」
「そうですね」
ゆかりの返事は静かだった。
メモ帳は閉じられている。
「記録しないの?」
「します」
「今じゃないんだ」
「今書くと、余計なことまで書きそうなので」
「余計なこと?」
紫色の視線が、少しだけ前を歩く二人へ向いた。
朔とずん子。
並んではいない。
でも離れてもいない。
ずん子は半歩前を歩いている。まるで、足元の影を確認するように。
朔はそれに気付いているのか、いないのか。
いつもの軽い調子で声をかけた。
「ずんちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「影、ちゃんと戻った?」
「先輩の影は戻りました」
「ずんちゃんのは?」
「問題ありません」
「本当に?」
「本当です」
「見てもいい?」
「駄目です」
「影なのに?」
「駄目です」
「信用ないなぁ」
「ありません」
やり取りはいつも通りに聞こえる。
けれど、ずん子の歩幅はほんの少しだけ遅い。
朔の足元を確認できる距離を、保っているように見えた。
マキはそれを見て、何も言わなかった。
ゆかりも、メモ帳を開かなかった。
土手の上の道に、夕方前の光が四人分の影を落としている。
黒い傘の時は、朔は「呼べば来る人」だった。
今日は、それだけではないと分かった。
怪異に近付ける人。
怪異に呼ばれやすい人。
そして、それを誰より早く止めようとする人がいる。
「……このメンバー、大丈夫かな」
マキの小さな呟きに、隣からすぐ返事があった。
「非常に不安ですね」
「そこは否定してよ」
「ですが、放っておく方がもっと不安です」
「それは……まあ、そう」
メモ帳の表紙が、鞄の中で少しだけ揺れる。
「今日の記録、長くなりそうです」
「やっぱり書くんだ」
「書きます」
「余計なことは?」
「善処します」
「それ、絶対書くやつ」
前を歩く朔が振り返る。
「二人とも、駅までこの道でいい?」
「誰のせいで予定が狂ったと思ってるの」
「影?」
「怪異に責任押し付けるな!」
マキの声が土手の道に響く。
遠くで散歩中の犬がこちらを見た。
ゆかりのメモ帳が、口元を隠す。
「マキさん、声がよく通りますね」
「今それ言わないで!」
笑いが少しだけ戻る。
ずん子の目元も、ほんの少し緩んだ。
朔はそれを見て、何も言わなかった。
土手の下では、川が光を流している。
草の上には、もう何もいない。
それでも、足元に影があることを、四人はさっきより少しだけ意識して歩いていた。
黒い傘の時とは違う。
影送りの怪異は、何かを持って帰らせようとはしなかった。
ただ、戻れない影が、戻る場所を探していただけなのかもしれない。
けれど、その影は朔の足元へ向かった。
それを、ずん子は最初から恐れていた。
その理由は、まだ誰も聞けない。
メモ帳にも、まだ書かれない。
夕方へ傾く光の中、四つの影が土手の上を進んでいく。
そのうち一つだけが、ほんの少し遅れて見えた気がして、マキは思わず目を凝らした。
次の瞬間には、もう普通に戻っている。
見間違いだったのかもしれない。
そう思うことにした。
今はまだ。
ツンデレとは違うめんどくさい関係ってのが私は好きなんだ…
刺さってくれる人がいればいいな