常識人なんでね、可哀そうですけど隊長さんとしてこれからも頑張ってもらいます
第四話 影のあとに残るもの
ファミレスの窓際の席には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
テーブルの上に伸びたグラスの影が、少し長い。氷の入ったアイスティー、半分ほど減ったオレンジジュース、ドリンクバーのカップ、追加で頼まれたポテトの皿。どれも昨日の河川敷とは違って、ただ光があって、物があって、そこに落ちているだけの普通の影だった。
それでも、弦巻マキの視線は何度もテーブルの下へ落ちていた。
「……昨日のあれ、やっぱり普通じゃなかったよね」
ポテトを一本つまみ上げた指が、途中で止まる。塩の粒が指先について、白く残っていた。
向かい側では、結月ゆかりのメモ帳が開かれている。ページの上部には、丁寧な字で『河川敷の影送り』と書かれていた。
「普通ではありませんね」
「そこは、ちょっとは否定してほしかった」
「否定する材料がありません」
「だよね……」
ポテトが皿に戻される。かり、と乾いた音がして、皿の上の塩が少し跳ねた。
東北ずん子は、窓の外を見ていた。
駅前の歩道を、人が行き交っている。夕方の光に照らされて、それぞれの足元から影が伸びていた。どの影も、本人についていく。遅れない。薄くならない。当たり前のことなのに、昨日からその当たり前が少しだけ頼りなく見える。
「影送りの怪異そのものについては、ある程度整理できます」
ゆかりのペン先が、紙の上で止まった。
「ですが、分からない点が一つあります」
マキの眉が寄る。
「……朔の方に行ったこと?」
「はい」
ペン先が、ページの端に小さな点を打つ。
「それと、ずん子さんがそれを予測していたように見えたことです」
氷が、グラスの中でからんと鳴った。
ずん子の手は、アイスティーのグラスに添えられている。ストローの先が氷の間で揺れ、薄い紅茶色の水面に細い波を作っていた。
「予測していたわけではありません」
「でも、朔に影を見るなって言ってたよね」
マキの声は、いつものツッコミより少し低い。
「それも、けっこう強めに」
「念のためです」
「その念のためが、ちょっと重いんだけど」
返事はすぐにはなかった。
ファミレスの店内BGMが、明るすぎるくらい軽い音で流れている。隣の席では高校生らしい二人組が笑っていて、レジの方から食器の重なる音がした。普通の場所。普通の夕方。なのに、このテーブルの上だけ、河川敷の風がまだ残っているみたいだった。
「黒い傘の時も、影送りの時も」
ゆかりの声が静かに続く。
「ずん子さんは、朔先輩の異変に気付くのが早かったです」
ペン先は動かない。書こうとしているのではなく、言葉を選んでいるようだった。
「以前にも、似たようなことがあったんですか」
ずん子の視線が、窓の外から戻る。
すぐに答えは返らない。代わりに、グラスの結露が指先に移り、小さな水滴になって光った。拭われないままのその水滴を、誰も見ていないふりをする。
「慣れているだけです」
「慣れてるって、何に?」
聞いたあとで、マキの視線がポテトの皿へ逃げた。少し踏み込みすぎたことに気付いたのだろう。皿の端についた塩を、意味もなく指で払っている。
ずん子の口が開く前に、軽い声が横から入ってきた。
「俺の悪口?」
朔だった。
片手にドリンクバーのカップを持っている。もう片方の手には、小さなチョコレートパフェの器があった。
マキの目が半分だけ細くなる。
「出た」
「出たって」
「噂をすればなんとやら」
「悪口だった?」
ずん子の声が冷たく落ちる。
「心当たりがあるんですね」
「ずんちゃん、第一声が強い」
「その呼び方はやめてください」
「はい」
「返事だけはいいですね」
「返事は大事だから」
「行動が伴っていません」
「厳しい」
いつものやり取り。
けれど、今日は少しだけ間が違っていた。朔が椅子に座る時、カップの中の氷が揺れる。その音に、ゆかりのペン先が小さく動いた。ページにはまだ何も書かれない。
マキはパフェの器を見た。
「それ食べるの?」
「食べるよ」
「昨日あれだけ大変だった翌日に、甘いものいけるんだ」
「甘いものは大事」
「その理屈、毎回雑だよね」
「美味しいから大丈夫」
「何が?」
「だいたい」
「だいたいで済ませないで」
朔が笑う。
その笑いは軽かった。でも、マキには少し引っかかった。昨日、影が足元から遅れた時。ずん子に名前を呼ばれた時。あの時の朔は、こんな顔をしていなかった。
今はいつも通りに戻している。
戻している、ように見える。
「心配寄りの話」
マキは、カップのストローを指で弾いた。
「悪口じゃなくて、心配寄り」
「心配されるようなことしたかな」
「しました」
即答だった。
朔が少し目を丸くする。
「即答」
「即答できる内容です」
「そんなに?」
「そんなにです」
ずん子のカップが、テーブルに置かれる。
音は大きくない。けれど、軽くもなかった。カップの底がテーブルに触れた瞬間だけ、明るいBGMの音が少し遠のいたような気がした。
ゆかりの視線が、朔へ向く。
「朔先輩は、怪異に引かれやすいんですか」
まっすぐな問いだった。
メモ帳は開いたまま。けれど、ペン先は紙から浮いている。記録するためではなく、確認するための声。
朔はパフェのスプーンを持ったまま、少しだけ考えた。
「人より少し目立つだけかな」
「目立ちたがりみたいに言わないでください」
ずん子の返しは早い。
「じゃあ、目を付けられやすい?」
「軽く言わないでください」
空気が一段冷える。
マキの手が、ポテトの皿の上で止まった。ゆかりのペンも動かない。
朔はスプーンを下ろした。銀色の先が、パフェのクリームに少しだけ沈む。溶け始めた白いクリームが、チョコレートの上へゆっくり流れていった。
「軽く言ったつもりはないんだけどな」
「そう聞こえます」
「そっか」
笑った。
けれど、少しだけ遅かった。
その遅れが、マキには見えてしまった。昨日の河川敷で、影だけが足元に残った時と同じように、そこだけ時間が少しずれて見える。
「朔ってさ」
言ってから、少しだけ迷う。
でも、もう口に出していた。
「ずん子にそういう言い方されて、嫌じゃないの?」
店内BGMが、やけに遠く聞こえた。
ゆかりの指が、メモ帳の端に触れる。ずん子は何も言わない。
朔はスプーンを持ち直した。けれど、パフェには触れない。スプーンの先に残ったクリームが、ぽたりと落ちそうで落ちない。
「嫌じゃないって言ったら、嘘になるかな」
声は軽い。
いつもの調子に近い。
だからこそ、言葉だけが少し浮いて聞こえた。
「でも、まあ」
そこで一度、言葉が止まる。
スプーンの先が、溶けかけたクリームに沈んだ。
「そういうものだと思ってる」
氷が鳴った。
ずん子のグラスではない。マキのカップだった。指先が、無意識にストローを動かしている。
「そういうもの、ですか」
ずん子の声は静かだった。
でも、さっきまでの棘とは違う。冷たいのに、どこかでひっかかっている。薄い紙に爪を立てたみたいな、音にならない引っかかりがあった。
朔は笑おうとした。
けれど、口元が上がるまでに、ほんの一拍だけ間があった。ファミレスの明るい照明の下で、その遅れは妙に目立つ。昨日の影みたいに、表情だけが少し遅れてついてきたように見えた。
「うん」
軽い声だった。
軽く聞こえるように、整えた声だった。
それ以上、誰もすぐには言葉を続けなかった。
隣の席の笑い声が、一瞬だけ大きくなる。鉄板メニューを運ぶ店員の声。グラスの氷。明るいファミレスの音だけが、二人の間に落ちていく。
「……便利な言葉ですね」
グラスに添えられていた指が、ゆっくり離れた。結露した水滴が指先に残り、拭われないまま小さく光っている。
ずん子はそれを見ていなかった。見ているのは、テーブルの上に伸びたグラスの影でも、朔の顔でもない。どこか、その間にあるものだった。
「先輩は、何でもそれで片付けるので」
「便利かな」
「便利です」
「そっか」
また、その返事だった。
ずん子の眉が、ほんの少しだけ動く。
「そういうところです」
「何が?」
「……そういうところです」
続きは出てこなかった。
マキも、ゆかりも、そこで何か聞けるほど鈍くはなかった。
夕方の光が、グラスの影を長く伸ばしている。その影は、朔の手元の近くまで届いていた。昨日は影が離れていった。今日は影が近付いている。ただそれだけなのに、マキはその形を見ているのが少し嫌だった。
「ずんちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「うん」
「昔の話もしないでください」
「してないよ」
「しそうな顔でした」
「顔で止められるの、多いな」
「先輩は顔に出ます」
「そっか」
軽口に戻った。
戻ったはずだった。
でも、戻りきっていない。
マキにはそれが分かる。ゆかりにも、たぶん分かっている。分かっているから、メモ帳に何も書かない。
この場にあるのは、怪異の情報ではない。誰かの過去でも、まだない。名前をつけるには早すぎる何かだった。
「ゆかり」
マキは立ち上がった。
「飲み物取りに行こ」
「まだ残っていますが」
「いいから」
ゆかりは少しだけ目を伏せた。
それから、メモ帳を閉じる。
「……分かりました」
椅子が二つ、静かに引かれる。
ドリンクバーの方へ歩き出すと、店内の明るい音が少しだけ近くなった。コーヒーマシンの低い動作音。氷が落ちる音。紙ナプキンを引き抜く乾いた音。さっきまで同じ店内にいたはずなのに、席を数歩離れただけで、呼吸が少し戻る。
マキはカップを持ったまま、低い声で言う。
「あれ、聞いてていいやつじゃないよね」
「そうですね」
「ゆかり、書かないよね」
「書きません」
「ほんとに?」
「少なくとも、そのままは」
「そのままじゃなくても駄目な時あるよ」
ゆかりはドリンクバーの機械の前で足を止めた。
オレンジジュースのボタンに指をかける。押す前に、少しだけ振り返った。
席では、ずん子と朔が向かい合ったまま黙っている。テーブルの上のポテトから立っていた湯気は、もうほとんど見えなくなっていた。
「……記録しない方が残ることもあるんですね」
「それ、ちょっと言い方が重い」
「そうでしょうか」
「うん。今のはちょっと」
「では、言い直します」
ゆかりは少し考えた。
「書き方が分からないこともあります」
「それなら分かる」
ジュースがカップに注がれる音がした。
◇
テーブルに残された沈黙は、思ったより長くなかった。
けれど、長く感じた。
朔はパフェにスプーンを入れた。クリームが少し崩れ、底の方のチョコレートソースが白い部分に混ざっていく。甘い匂いがするのに、その席だけ妙に冷めていた。
ずん子はそれを見ているわけではない。
見ているのは、朔の手元の影だった。
「昨日のこと」
ずん子の視線は、テーブルの下へ落ちたままだった。
「また、何もなかったみたいな顔をするんですね」
「何かあった顔って、どんな顔?」
「そういう返しです」
「ああ」
朔はそこで笑った。
けれど、いつもより少しだけ声が小さい。
「ごめん」
「謝ってほしいわけではありません」
「うん」
「その返事も、嫌です」
「うん」
「……だから」
言葉が止まる。
ファミレスの照明は明るい。隣の席では、学生らしい二人組がメニューを見ながら笑っている。そこに混ざれない沈黙だけが、テーブルの端に残っていた。
ずん子の指先が、グラスの水滴に触れる。
拭うでもなく、ただ少しだけなぞった。
「先輩は、いつもそうです」
「そうかな」
「そうです」
「そっか」
「ほら」
朔はスプーンを置いた。
金属が皿に当たる音は、思ったより小さかった。
「言い返した方がいい?」
「そういう話ではありません」
「じゃあ、黙ってた方がいい?」
「それも違います」
「難しいな」
「簡単にしないでください」
ずん子の声には棘があった。
でも、朔はその棘を避けなかった。刺さっていないふりもしなかった。ただ、少しだけ目を伏せて、次の言葉を待っている。
その待ち方が、ずん子の表情をまた固くした。
「……そういうところです」
「うん」
「私が何を言っても、そうやって」
そこで止まる。
続きは出てこなかった。
朔は急かさない。茶化さない。笑わない。
ただ、溶けかけたパフェの器を少しだけ脇へ寄せた。
「昨日、怖がらせたのは分かってる」
言い訳はついてこなかった。
ずん子の指が止まる。
「誰が、怖がったんですか」
「誰だろうね」
「はぐらかさないでください」
「うん」
「その返事もです」
「……うん」
いつもなら、そこで軽口がもう一つ入った。
けれど、今日はなかった。
その空白が、かえって目立つ。
ずん子は窓の外を見る。夕方の歩道に、人の影がいくつも伸びていた。どれもちゃんと足元についている。
「先輩は」
声が少し落ちる。
「分かっているみたいな顔をするくせに、何も分かっていません」
「そうかも」
「そうです」
「うん」
「……違います」
自分で言った言葉を、自分で打ち消すみたいだった。
朔は何も言わない。
グラスの氷が、からんと鳴った。
「分かっていない方が、よかったのかもしれません」
ずん子の声は、さっきより小さかった。
朔は少しだけ目を伏せる。
「それは、たぶん無理かな」
「でしょうね」
「うん」
「だから、嫌なんです」
嫌い、ではなかった。
けれど、その近くにある言葉だった。
朔は笑わなかった。
ずん子も、こちらを見なかった。
ただ、テーブルの上で伸びたグラスの影だけが、二人の間に細く残っていた。
「次に同じことがあったら」
ずん子の声が戻る。
少しだけ、いつもの硬さを取り戻していた。
「先に言ってください」
「同じことって?」
「影が変だとか、声が聞こえるとか、足が動かないとか。そういうことです」
「心配?」
ずん子の眉が少しだけ動いた。
「確認です」
「そっか」
「確認です」
「うん」
また、少しだけ間が空く。
朔はパフェの器を手前に寄せた。
「分かった。先に言う」
「本当に?」
「本当に」
「信用できません」
「だと思った」
「なら、信用できるようにしてください」
「努力する」
「努力では足りません」
「厳しい」
「先輩なので」
いつもの言葉だった。
いつものやり取りに戻ったようにも見えた。
けれど、ずん子の指はまだグラスを離していない。朔も、パフェを食べる手を再開しない。
テーブルの下で、二人の影はちゃんと床に落ちている。
何も遅れていない。
何も薄くなっていない。
それを確認してから、ずん子はようやくグラスを置いた。
「食べないなら、溶けますよ」
「食べるよ」
「早くしてください」
「ずんちゃんが急かすから味が分からなくなる」
「味わう余裕があるなら大丈夫ですね」
「判定が厳しい」
「先輩なので」
「それ、便利だね」
「便利にしたのは先輩です」
朔はスプーンを持ち直した。
今度は少しだけ笑った。
さっきより、ほんの少し自然に見えた。
そこへ、トレーを持った二人が戻ってきた。
マキの手には追加のポテト。ゆかりのカップには、新しいオレンジジュース。
席の空気が少しだけ違うことは、戻ってきた瞬間に分かった。
でも、マキは何も聞かなかった。
皿をテーブルの真ん中へ置く。
「……ポテト、追加したけど食べる?」
朔が顔を上げる。
少し遅れて、いつもの笑みが戻った。
「食べる」
ずん子の声も戻る。
完全ではない。
でも、戻ろうとしている。
「先輩はさっき甘いものを食べていました」
「ポテトは別腹」
「別腹の使い方が違います」
「しょっぱいもの枠」
「枠を作らないでください」
「マキちゃんは分かってくれる」
「分かるけど、今味方するとずん子に怒られそう」
「賢明です」
「ほら!」
少しだけ笑いが戻る。
ゆかりは席へ座りながら、メモ帳に手をかけた。
けれど、開かない。
マキの視線が横から飛ぶ。
「今のは書かない」
「分かっています」
「ほんと?」
「はい」
ゆかりの指が、閉じた表紙を一度だけ撫でる。
「書き方が分からないので」
その言い方に、マキは少しだけ引っかかった。
書かない。
でも、なかったことにはしない。
そう聞こえた。
◇
ファミレスを出る頃には、外の影が長く伸びていた。
駅前の歩道には人が多い。会社帰りの人、部活帰りの学生、買い物袋を持った親子。誰もが当たり前のように自分の影を連れて歩いている。
昨日と同じように、影はちゃんと足元についてきていた。
それでも、マキは一度だけ朔の影を見た。
遅れてはいない。
薄くもない。
普通の影だ。
ただ、ずん子の視線も同じ場所へ落ちていた。
それに気付いてしまって、何も言えなくなる。
「マキさん?」
ゆかりの声に、慌てて顔を上げる。
「……なんでもない」
「影を見ていましたか」
「見てた」
「私も見ました」
「そっか」
少し前を、朔とずん子が歩いている。
並んでいるようで、少しずれている。ずん子の方が半歩だけ前。朔はその斜め後ろ。その距離が、今日の二人には一番自然なのかもしれない。
「ねえ、ゆかり」
「はい」
「あれ、何なんだろうね」
返事はすぐにはなかった。
ゆかりの視線は、前を歩く二人ではなく、歩道に伸びる四人分の影へ向いていた。
「分かりません」
「ゆかりでも?」
「はい」
メモ帳の角が、鞄の中で少しだけ動いた。
けれど、出てこない。
「まだ、分かりません」
「そっか」
前方で、朔が振り返った。
「二人とも、駅こっちでいい?」
「誰のせいでこんな時間になったと思ってるの」
「俺?」
「ちょっとは自覚あるんだ」
「影?」
「怪異に押し付けるな!」
マキの声が駅前に響く。
周囲の何人かがこちらを見て、すぐに通り過ぎた。
ゆかりが口元を押さえる。
「マキさん、今日も声がよく通りますね」
「今それ言わないで!」
軽い笑いが落ちる。
ずん子の目元も、ほんの少しだけ緩んだ。
朔はそれを見て、何も言わなかった。
言えば、また冷たく返される。
それでも、何か言いかけたように見えた。
結局、言葉にはならない。
夕方の歩道に、四つの影が伸びている。
どれも、ちゃんと本人についてきている。
それでも、影送りのあとに残ったものは消えていなかった。
足元ではなく、会話の切れ目に。
グラスの水滴を拭わなかった指先に。
途中で止まった言葉のあとに。
それはまだ、誰のメモ帳にも書かれていない。
敬語で毒舌な後輩系ヒロインっていいですよね…
関係ないですけど私は曇らせ物が大好きです、関係ないですけどね