怪異譚は放課後に   作:ゆゆゆい

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日常回です、ほのぼのです。

明言で来ていませんでしたが朔の年齢はずん子たちの一つ上です、お兄ちゃんですね
朔くんには友達の世話を焼くのが好きという設定があるんですが生かされることがあるかはわかりません、予定は未定!


怪異のない放課後

第五話 怪異のない放課後

 

 放課後の正門前には、学生たちの声がゆるく流れていた。

 

 講義を終えた人の波が駅の方へ向かっていく。誰かの笑い声、スマホの通知音、自転車のブレーキの音。先日の河川敷で聞いた川の音とは違う、いつもの夕方の音だった。

 

 足元には、薄い影がついている。

 

 弦巻マキは、それを一度だけ見た。

 

 遅れていない。薄くもない。ちゃんと自分の足元にある。

 

 確認してから、わざとらしく大きく息を吐いた。

 

「はい、今日は怪異禁止」

 

 隣で、結月ゆかりのメモ帳が半分ほど開きかけていた。

 

「まだ何も言っていません」

「開いてる時点でだいたい言ってる」

「これは日常の記録です」

「日常を記録しなくていい」

「日常も大切です」

「その言い方、怪異がない日の方が珍しいみたいで嫌なんだけど」

 

 メモ帳の角が、少しだけ下がる。

 

 その横で、東北ずん子は鞄の紐を持ち直した。

 

「マキさんの意見に賛成です」

「ずん子……!」

「毎日、怪異の話をする必要はありません」

「そう、それ! そういうのが聞きたかった!」

「ただし、影送りの件で確認すべきことは残っています」

「裏切りが早い!」

 

 マキの声が跳ねた。

 

 前を歩いていた学生が振り返りかけ、すぐに駅の方へ向き直る。ずん子は顔色一つ変えないまま、駅前へ続く道の先を見ていた。

 

「確認する必要があることと、今するべきことは別です」

「じゃあ今は?」

「帰ります」

「よし!」

「寄り道せずに」

「それはちょっと」

 

 勢いが弱くなる。

 

 ゆかりの視線が、通りの向こうへ動いた。商店街の入口に、クレープ屋の看板が出ている。焼けた生地の甘い匂いが、風に乗って少しだけ届いた。

 

 マキの視線も、同じ方へ吸われていく。

 

「……寄り道せずに」

 

 ずん子がもう一度言った。

 

 けれど、その声はさっきより少し遅かった。甘い匂いが届いたせいか、あるいは看板の写真が目に入ったせいか。マキはそこに気付いて、口元を少しだけ緩める。

 

「いや、怪異禁止って言ったけど、甘いもの禁止とは言ってないし」

「マキさん」

「糖分は大事じゃん? この前あんなことがあったばっかだし」

「理由をつけないでください」

「ずん子だって、別に嫌いじゃないでしょ」

「何がですか」

「甘いもの」

「普通です」

「普通って言う時のずん子、だいたい嫌いじゃないよね」

 

 少しだけ、返事が遅れた。

 

「……普通です」

「ほら」

「ほら、ではありません」

 

 メモ帳の角が、また少し持ち上がる。

 

「ずん子さん、甘味への反応に遅延あり」

「ゆかりさん」

「まだ書いていません」

「書く言い方でした」

「皆さん、私の未来の行動を読みすぎではありませんか」

「読みやすいんだよ」

 

 マキは笑って、それからふと思い出したようにスマホを取り出した。

 

 画面に指を滑らせる。昨日の影送りの時、朔の影が足元から遅れた光景が、ほんの少しだけ頭をよぎった。あれを思い出すと、甘い匂いの中でも、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。

 

「……朔も誘う?」

 

 ずん子の足が止まった。

 

 ほんの一瞬だったが、マキは見逃さなかった。

 

「なぜですか」

「いや、この前一番危なかったの朔だし。普通に様子見たいじゃん」

「先輩には先輩の予定があります」

「聞くだけ聞けばいいじゃん」

「必要ありません」

「ずん子が必要ないって言う時、だいたい必要なんだよね」

「マキさん」

「はい」

「余計な判断です」

「でも送る」

 

 画面を操作する音が、小さく鳴った。

 

 ゆかりが少しだけ身を乗り出す。

 

「朔先輩は、今どちらに?」

「知らない。普通に講義じゃない?」

「朔先輩にも、普通に講義があるんですね」

 

 ずん子の視線が横に滑る。

 

「あります。先輩を何だと思っているんですか」

「怪異対応経験者です」

「分類が雑です」

「黒い傘と影送りを経た印象としては、妥当かと」

「妥当ではありません」

 

 マキのスマホが震えた。

 

 画面を見て、少し笑う。

 

「五限終わったら行けるって」

 

 ずん子は何も言わなかった。

 

 ただ、鞄の紐を握る指が少しだけ緩んだ。

 

「ほら、予定あったじゃん。今は講義中」

「だから言ったでしょう」

「でも来るって」

「……そうですね」

 

 返事は短かった。

 

 けれど、帰ろうとは言わなかった。

 

   ◇

 

 商店街の入口で待っていると、五限終わりの学生たちがぽつぽつと通り過ぎていった。

 

 空はまだ明るい。けれど、店の看板には少しずつ灯りが入り始めている。八百屋の前では、段ボールに詰まれたみかんが夕方の光を受けて濃い色に見えた。

 

 マキはスマホを見ながら、クレープ屋のメニューをちらちら確認している。

 

 ゆかりはメモ帳を取り出していない。けれど、看板のメニューを目で追う速度が少し速かった。

 

 ずん子は少し離れたところで、歩道の端に立っている。人の流れを避ける位置だった。

 

 その場所を選んだことに、マキは気付いた。

 

 邪魔にならないように、というだけではない。

 

 朔が来た時に、すぐ見える場所。

 

 そう思ってしまってから、口元が少し緩みそうになる。

 

 言えば怒られるので、言わない。

 

「お待たせ」

 

 講義棟の方から、朔が歩いてきた。

 

 肩には鞄。片手には、授業で使ったらしいプリントの束が入ったクリアファイル。もう片方の手には、大学の購買で売っている紙パックのコーヒーがあった。

 

 普通に授業を受けて、普通に荷物を持って、普通に歩いてくる。

 

 黒い傘の廊下に現れた時や、影送りで怪異に引かれかけた時とは、少し違って見えた。

 

「本当に講義だったんだ」

 

 マキの声に、朔は首を傾げる。

 

「そりゃそうだよ」

「いや、なんか怪異の近くにいるイメージ強くて」

「俺、学生なんだけど」

「知ってるんだけどさ」

 

 ゆかりが真面目に頷く。

 

「怪異対応経験者という印象が先行していました」

「ゆかりちゃんまで?」

「すみません」

「謝るほどではないけど、ちょっと複雑」

 

 ずん子の声が低く落ちる。

 

「先輩は普通の学生です」

「ずんちゃんが言ってくれると説得力あるね」

「ただし、怪異への対処だけが普通ではありません」

「即落とす」

「事実です」

「まあ、否定はしにくい」

 

 朔は苦笑して、クリアファイルを鞄へしまった。

 

 その動作は普通だった。

 

 普通の学生が、授業終わりに友人たちと合流するだけの動き。

 

 それなのに、マキの頭には昨日の影が一瞬よぎる。

 

 朔の足元には、ちゃんと影があった。

 

 薄くない。

 

 遅れていない。

 

「で、今日は怪異禁止なんだっけ?」

「そう!」

 

 マキが勢いよく指を立てる。

 

「怪異の話も、調査も、記録も禁止。今日は普通に寄り道する」

「記録もですか」

 

 ゆかりの声が少しだけ沈む。

 

「記録も」

「日常の記録なら」

「それもなし」

「厳しいですね」

「昨日の影送りの後だからね!」

 

 朔は笑った。

 

「じゃあ、甘いもの?」

「そういう流れ」

「マキちゃん、さっきからクレープ屋見てたしね」

「見てない!」

「見てましたね」

「ゆかりまで!?」

 

 ずん子が小さくため息をつく。

 

「食べるなら早くしてください。店先で騒ぐと迷惑です」

 

 そう言いながら、ずん子の足は商店街の方へ向いている。

 

 マキはそれを見て、何も言わなかった。言わなかった代わりに、少しだけ笑って先に歩き出す。

 

   ◇

 

 商店街のクレープ屋は、小さな店だった。

 

 白いテントの下に、写真付きのメニューが並んでいる。いちごクリーム、チョコバナナ、キャラメルナッツ、抹茶あずき。店先の鉄板からは、薄く焼ける生地の甘い匂いがしていた。

 

 マキの足が、自然と少し速くなる。

 

「……別に、見てただけだからね」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

 朔の声に、マキは少しだけ顔をそむけた。

 

「言いそうだった」

「マキちゃん、チョコバナナ?」

「なんで分かるの」

「さっきから写真の前で止まってる」

「見てたの?」

「見えてた」

「そういうの、さらっと言うなぁ……」

 

 店員が鉄板の上に生地を広げている。丸く伸ばされた生地の端が少しずつ色づいて、甘い匂いが強くなった。注文を待つ間、マキの視線は店員の手元とメニューの写真を何度も往復している。

 

 ゆかりは隣で、紙包みの折り方を妙に真剣に見ていた。

 

 朔はメニューの端を指でなぞる。

 

「ゆかりちゃんは、甘すぎないやつの方がいい?」

「なぜ分かるんですか」

「前にミルクティー、甘すぎるって顔してたから」

「顔に出ていましたか」

「ちょっとだけ」

「私の顔、便利に使われすぎではありませんか」

「便利というか、分かりやすいというか」

「どちらもあまり良い響きではありませんね」

 

 ゆかりはメニューを見上げ、少し考える。

 

「では、ベリー系にします」

「酸味あるしね」

「はい」

「記録する?」

「味の記録なら」

「今日は怪異禁止だけど、クレープの記録は禁止されてないからね」

「マキさんの許可が出ました」

「なんか私が記録係の上司みたいになってない?」

 

 メモ帳は出ない。

 

 その代わり、ゆかりの目は少しだけ楽しそうだった。

 

 ずん子は少し後ろで、メニューを見るともなく見ていた。

 

 視線が止まったのは、抹茶あずきの写真だった。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも、朔の指はその前に移っていた。

 

「ずんちゃんはこれ?」

「頼んでいません」

「聞いただけ」

「いりません」

「そっか。じゃあ、俺が食べる用に買う」

「先輩は甘いものを食べすぎです」

「半分なら?」

「いりません」

「了解」

 

 朔はそれ以上何も言わなかった。

 

 注文をまとめて、店員へ伝える。

 

 マキのチョコバナナ。ゆかりのベリークリーム。抹茶あずき。それからカスタードを一つ。

 

 店員が金額を読み上げる前に、朔は財布を出していた。

 

 小銭ではなく、紙幣を一枚。

 

 店員がレジを打つ音がして、マキが慌てて鞄を開ける。

 

「ちょ、待って。自分の分は出すって」

「じゃあ今度おごってよ」

「軽っ」

「軽い方が返しやすいでしょ」

「いや、そういう問題?」

 

 レシートが渡される。

 

 朔はそれを見ずにポケットへしまった。マキはまだ財布を持ったまま、少しだけ口を尖らせている。

 

「今度って、何を」

「じゃあたい焼き」

「たい焼きとクレープじゃ釣り合わなくない?」

「じゃあ、いつか」

「もっと曖昧になった」

 

 横から、ずん子の視線が刺さる。

 

「先輩」

「ん?」

「そういう払い方は、相手が断りづらいです」

「じゃあ、ずんちゃんは今度抹茶のやつ」

「私は頼んでいません」

「じゃあ俺が勝手に期待してる」

「勝手にしないでください」

 

 そう言いながら、ずん子の財布は鞄の中へ戻っていった。

 

 焼き上がった生地にクリームが乗せられ、紙に包まれていく。甘い匂いが強くなるたび、マキの表情が少しずつ明るくなった。

 

「こういうの久しぶりかも」

 

 受け取ったチョコバナナを手に、マキがつぶやく。

 

「マキちゃん、普段あんまり寄り道しない?」

「する時はするけど、最近わけわかんないことが多すぎて」

「慣れてないならそうかもね」

「慣れたくないんだけど…」

 

 朔は笑いながら、受け取ったクレープを配っていく。

 

 マキにはチョコバナナ。

 

 ゆかりにはベリークリーム。

 

 そして、抹茶あずきの包みだけが、少しだけ宙で止まった。

 

「食べなかったら俺が食べるから」

 

「……そうですか」

 

 ずん子はすぐには受け取らなかった。

 

 マキの視線が横から飛ぶ。

 

 ゆかりも、クレープに口をつける前にそちらを見ている。

 

 包み紙の先から、抹茶クリームが少しだけ見えた。

 

「溶けるよ」

「急かさないでください」

「急かしてないよ」

「急かしています」

「じゃあ、俺が食べる?」

 

 ずん子の手が、少しだけ早く伸びた。

 

 紙包みが、朔の手からずん子の手へ移る。

 

「もったいないので」

「うん」

「勘違いしないでください」

「してないよ」

「絶対しています」

「してない」

「顔がしています」

 

 朔は少しだけ笑った。

 

「顔で判断されるの、多いなぁ」

「先輩は顔に出ます」

「ずんちゃんも出てるよ」

「出ていません」

「今ちょっと嬉しそう」

「出ていません!」

 

 声が少しだけ跳ねた。

 

 マキの口元が緩む。

 

「ずん子、今日ちょっと元気じゃない?」

「普通です」

「また普通って言った」

「普通です」

「普通を二回言う時って、だいたい普通じゃないよね」

「マキさん」

「はい」

「食べないと溶けます」

「話題逸らした」

「逸らしていません」

 

 ずん子は抹茶あずきのクレープを見下ろす。

 

 食べるまでに、少し時間がかかった。

 

 紙包みの端を整え、クリームがこぼれないように角度を変え、一口ぶんだけ小さくかじる。

 

 ほんの少しだけ、眉間が緩んだ。

 

「どう?」

 

 朔の声は軽い。

 

 けれど、返事を急かさない。

 

「……普通です」

「そっか」

「甘すぎません」

「うん」

「でも、あずきが少し多いです」

「次は少なめにする?」

 

 ずん子の手が止まった。

 

 次。

 

 その言葉だけが、少しだけ空気に残った。

 

 マキはクレープを食べるふりをして、視線を逸らす。ゆかりは紙包みの端を指で整えながら、メモ帳を出さないようにしていた。

 

「次がある前提で話さないでください」

「じゃあ、もし次があったら」

「同じです」

「少なめ?」

「……同じでいいです」

 

 朔は、そこで笑わなかった。

 

 ただ、小さく頷く。

 

「分かった」

 

 ずん子は少しだけ目を細める。

 

「何がですか」

「同じ」

「……そうですか」

 

 クレープの紙包みが、少しだけ握り直された。

 

 抹茶のクリームが、紙の端に小さくついている。

 

「ずんちゃん、口元」

「ついていません」

 

 朔が紙ナプキンを一枚差し出していた。

 

「右」

「ついていません」

「右」

「……」

 

 ずん子は少しだけ横を向いたまま、紙ナプキンを受け取る。

 

 口元を拭いてから、朔を見ずに言った。

 

「最初からそう言ってください」

「言ったよ」

「言い方が悪いです」

「じゃあ次は、右に抹茶ついてますって言う」

「次がある前提で話さないでください」

「そこも怒られるの?」

 

 マキが肩を震わせる。

 

「何その会話」

「通常運転ですね」

 

 ゆかりが真面目に頷いた。

 

「記録しないでください」

「していません」

「顔がしています」

「顔の汎用性が高いですね」

 

 ずん子は返事をしなかった。

 

 代わりに、もう一口クレープを食べる。

 

 今度はさっきより少し大きかった。

 

   ◇

 

 商店街の端には、小さなベンチがあった。

 

 古い街灯の下に置かれた木製のベンチで、塗装は少し剥げている。通りを挟んだ向こう側では、八百屋の店先に並んだみかんが、夕方の光を受けて濃い色に見えた。

 

 四人はそこで少しだけ休むことにした。

 

 マキはチョコバナナを半分ほど食べたところで、背もたれに体を預ける。

 

「平和だ……」

「大げさですね」

「大げさじゃない。怪異が出ないって素晴らしい」

「確かに、黒い傘から立て続けでした、今までの調査では何もなかったのに」

 

 ゆかりはベリークリームを丁寧に食べていた。

 

「怪異って一度会ったら会いやすくなるからね」

「そうなの!?」

「そうだよ、これから気を付けてね?」

 

 クリームがこぼれないように紙包みの角度を細かく調整している。メモ帳は鞄の中に入ったままだ。

 

「記録する必要がありますね」

「怪異禁止」

「ですが…」

「何?」

「はい」

「よし」

 

 朔はベンチの横に立ったまま、自分のカスタードを食べている。

 

 座らないのか、とマキが目で聞くと、軽く肩をすくめた。

 

「マキちゃん、座ってなよ。この前から疲れてるでしょ」

「え、なんで分かるの」

「歩き方」

「見てたの?」

「見えてた」

「そういうの、さらっと言うなぁ……」

 

 マキは少しだけ気まずそうに靴先を見る。

 

 けれど、立ち上がろうとはしなかった。

 

「別に、そこまで疲れてないけど」

「うん」

「本当だからね」

「うん」

「その返事、信じてないやつじゃない?」

「信じてるよ」

「嘘っぽい」

 

 朔は笑うだけで、席を譲ったことには触れない。

 

 人通りが少し落ち着き、商店街の音が近くなる。八百屋の店員が段ボールを畳む音、少し離れた肉屋から聞こえる揚げ物の音、駅の方へ向かう学生たちの足音。

 

 ゆかりはそのやり取りを見てから、少しだけ首を傾げた。

 

「朔先輩は、よく見ていますね」

「そう?」

「はい。人の動きや表情を見るのが、かなり自然です」

「ゆかりちゃんも見てるでしょ」

「私は記録するためです」

「俺は何となく」

「その何となくが、少し不思議です」

 

 朔のクレープが、少しだけ下がる。

 

 返事が来るまでに、小さな間があった。

 

「癖かな」

「癖」

「困ってそうなら、分かった方がいいし」

 

 声は軽かった。

 

 でも、そこで終わった。

 

 ゆかりはそれ以上聞かなかった。

 

 隣で、ずん子が抹茶あずきを食べている。

 

 紙包みの端が、少しずつ丁寧に折られていた。食べ終わったところからきっちり畳んでいるせいで、妙に几帳面に見える。

 

 朔の視線が、そこへ落ちる。

 

「ずんちゃん、端っこ残す派だったっけ」

「残しません」

「昔、最後の生地だけ残してた気がする」

 

 紙包みを折る手が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

「昔の話をしないでください」

「ごめん」

 

 ずん子は少しだけ目を伏せる。

 

 言い過ぎた、という顔ではない。

 

 でも、次の一口まで少し時間がかかった。

 

 朔もそれ以上は続けない。

 

 代わりに、自分のカスタードを見て言った。

 

「これ、思ったより甘いな」

「先輩が甘いものを選んだんでしょう」

「ずんちゃんのと交換する?」

「しません」

「即答」

「当然です」

「ちょっと抹茶食べたい」

「自分で抹茶を買えばよかったでしょう」

「それはそう」

 

 ずん子はクレープを持つ手元を見た。

 

 紙包みの中には、まだ半分ほど残っている。抹茶クリームの端に、あずきが少しだけ寄っていた。

 

「……一口だけです」

 

 マキの動きが止まる。

 

 ゆかりの視線も、静かにそちらへ向く。

 

 ずん子は顔を上げない。

 

 抹茶あずきの先を、少しだけ朔の方へ向けている。

 

「いいの?」

「一口だけです」

「やった」

「大きく食べたら怒ります」

「どのくらい?」

「常識の範囲で」

「難しいな」

「難しくありません」

 

 朔は少しだけ身を屈めて、ほんの小さくかじった。

 

 ずん子の目が細くなる。

 

「小さすぎませんか」

「怒られない範囲を探ったらこうなった」

「……そういうところです」

「どのところ?」

「もういいです」

 

 ずん子はクレープを戻す。

 

 その口元は、少しだけ尖っていた。

 

 マキが小声でゆかりに言う。

 

「ずん子、今ちょっと不満そうじゃなかった?」

「はい」

「だよね?」

「はい」

「かわいいところあるね」

「マキさん」

 

 ずん子の声が飛ぶ。

 

「聞こえています」

「地獄耳!」

「普通に聞こえる距離です」

「普通って言えば何でも通ると思ってる?」

「通ります」

「通らないよ!」

 

 ベンチの周りに、少しだけ笑いが落ちる。

 

 昨日のファミレスで残った沈黙とは違う。

 

 軽くて、少しだけ緩い音だった。

 

   ◇

 

 帰り道、商店街の灯りが一つずつ点き始めていた。

 

 夕方の空は薄紫に変わり、店先の看板がやけに明るく見える。たい焼き屋の前を通ると、今度は焼きあんこの匂いがした。

 

 マキの足が、ほんの少しだけ止まる。

 

「マキちゃん」

「違う」

「まだ何も」

「見てない」

「見てたよね」

「見てましたね」

「ゆかりまで!」

 

 朔が笑う。

 

「今日はクレープ食べたし、たい焼きは次かな」

「次がある前提で話すのやめて」

「ずんちゃんにも言われた」

「正しい意見です」

「でも、ずんちゃんさっき一番ゆっくり食べてたよね」

「ゆっくり食べることと、次があることは関係ありません」

「美味しかった?」

「普通です」

「同じでいいって言ってた」

「先輩」

「はい」

「余計なことを言わないでください」

「え、今の余計だった?」

「余計です」

「感想だったんだけど」

「余計な感想です」

「厳しいなぁ」

 

 マキが笑う。

 

 ゆかりも口元を少し緩めた。

 

 今日は、メモ帳が開かれなかった。

 

 怪異の記録はない。

 

 河川敷の影も、黒い傘の雨音も、ここにはなかった。

 

 ただ、商店街の人混みと、クレープの甘い匂いと、少しだけ冷え始めた夕方の風がある。

 

 交差点で信号待ちをしている時、マキはふと足元を見た。

 

 影はちゃんとついてきている。

 

 四人分。

 

 薄くもないし、遅れてもいない。

 

 それを確認してから、すぐに前を向く。

 

「今日は平和だったね」

「怪異は出ませんでしたね」

「ゆかり、そこは普通に平和って言って」

「平和でした」

「よし」

 

 信号が青に変わる。

 

 歩き出そうとしたところで、ずん子の手元の紙袋が少し傾いた。クレープ屋で余分にもらった紙ナプキンが一枚、風で落ちかける。

 

 朔の手が、先に伸びた。

 

 ひらりと浮いた紙ナプキンを掴んで、何も言わずに差し出す。

 

「……ありがとうございます」

「うん」

「先輩が持っていた方が落としそうです」

「じゃあ、ずんちゃんが持ってて」

「言われなくてもそうします」

 

 紙ナプキンは、ずん子の手元に戻る。

 

 そのまま鞄にしまわれた。

 

 いらないなら捨てればいいのに、とマキは思った。

 

 でも言わなかった。

 

 ゆかりも、それを見ていた。

 

 けれど、メモ帳は出さない。

 

 駅前に着く頃には、空はさらに暗くなっていた。

 

 改札へ向かう人の流れの中で、朔が軽く手を上げる。

 

「じゃあ、今日はここで」

 

 マキが財布を取り出しかける。

 

「あ、そうだ。クレープ代」

 

 朔は少しだけ首を傾げた。

 

「たい焼き」

「え?」

「今度、たい焼きで」

「いや、でも」

「じゃあ、たい焼きと飲み物」

「増えた」

「返しやすくなった?」

「なってるような、なってないような……」

 

 マキは財布を持ったまま少し悩んで、結局鞄へ戻した。

 

「じゃあ、今度ね」

「うん」

 

 ゆかりも財布を出そうとしていたが、マキの動きを見て手を止める。

 

「私も、次回何かを」

「ゆかりちゃんは味の記録で」

「それは支払いに含まれますか」

「含まれるかも」

「曖昧ですね」

「曖昧な方が楽でしょ」

 

 ゆかりは少し考えてから、財布をしまった。

 

「では、次回はきちんと記録します」

「怪異じゃないやつでお願い」

「善処します」

「それ、怪しいなぁ」

 

 ずん子は何も言わず、紙袋を持つ手を直していた。

 

 朔の視線がそちらへ移る。

 

「ずんちゃんは?」

「何がですか」

「今度」

「ありません」

「そっか」

「……クレープは」

「うん」

「悪くはありませんでした」

 

 朔は少しだけ笑った。

 

「そっか」

「それだけです」

「うん」

「深読みしないでください」

「してないよ」

「しています」

「ちょっとだけ」

「しないでください」

 

 ずん子は顔をそらす。

 

 その横で、マキが小さく肩を震わせた。

 

「ずん子、分かりやすい日だったね」

「マキさん」

「ごめん」

「謝ればいいと思っていませんか」

「今のは思ってる」

「正直ですね」

 

 ゆかりの手が、鞄の中のメモ帳に触れる。

 

 少しだけ迷って、離れた。

 

「今日の記録は?」

 

 マキが聞く。

 

「ありません」

「本当に?」

「はい」

 

 ゆかりは商店街の方を一度だけ振り返った。

 

「書かなくても、覚えていられそうなので」

「それ、ちょっといいこと言ってる?」

「怪異がない日の記録です」

「結局記録じゃん」

「頭の中だけです」

 

 朔が笑う。

 

「じゃあ、次はたい焼きで」

「次を決めないでください」

 

 ずん子の声がすぐに飛ぶ。

 

「でも、抹茶あずきがあったら?」

「……確認はします」

「買う?」

「確認です」

「そっか」

「笑わないでください」

「笑ってないよ」

「笑っています」

 

 夕方の駅前に、マキの笑い声が混じる。

 

 今日は、誰の影も遅れなかった。

 

 誰も怪異に呼ばれなかった。

 

 ただ、クレープの包み紙と、甘い匂いと、返しそびれた小銭の代わりに残った次の約束があった。

 

 それは怪異ではない。

 

 たぶん、記録するほどのことでもない。

 

 それでも、四人が並んで歩くには十分な理由だった。

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