…出てたらいいなあx
第六話 聞いてはいけない声
その日、弦巻マキは一人で帰っていた。
空はもう暗くなり始めている。駅前へ続く大通りには、帰宅する学生や会社員の姿が流れていて、車のライトがアスファルトを白く照らしていた。
別に、急いでいたわけではない。
ただ、いつもの道より少しだけ早く駅に着く路地がある。前に何度か使ったことがあって、店の裏手を抜けるだけの、何でもない近道だった。
怪異のことなんて、考えていなかった。
「……今日は平和、だったんだけどな」
自分で言ってから、少しだけ苦笑する。
あの四人でいると、平和という言葉のありがたみがやけに強くなる。黒い傘、影送り、それから怪異のない放課後。普通の日が続いただけで、少しほっとしてしまうのはどうなのかと思う。
路地裏へ入ると、大通りの音が一段遠くなった。
建物と建物の隙間を抜ける細い道。室外機の低い音と、どこかの店から漏れる油の匂い。壁に貼られた古いポスターは端がめくれていて、足元には潰れた紙コップが転がっていた。
ここを抜ければ、駅前の横断歩道に出る。
そのはずだった。
角を曲がった瞬間、マキの足が止まった。
路地の真ん中に、人がいた。
いや、人ではなかった。
人の形をしているように見えた。けれど、逆さまだった。頭が下にあり、足のようなものが上に伸びている。壁にぶら下がっているわけでも、地面に倒れているわけでもない。そこに、逆さまのまま立っている。
形はひどく歪んでいた。
肩らしい場所が片方だけ大きく、腕のようなものは長さが合わない。顔の位置にあるものは顔に見えなくて、ただ黒いくぼみがいくつも並んでいた。
マキは息を吸った。
声は出なかった。
逆さまのものが、何かを喋った。
「――、――ぃ、――た、――な」
言葉のようだった。
でも、聞き取れない。
聞き取れそうで、聞き取れない。
耳の奥を指で撫でられるみたいな音だった。
「……っ」
マキは後ずさった。
靴底が、潰れた紙コップを踏む。
ぱき、と乾いた音がした。
その音に、逆さまのものが反応したように見えた。
顔ではない場所が、こちらへ向く。
「――、――て、――い、――」
「無理」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「無理無理無理……!」
マキは走った。
来た道を戻る。角を曲がる。大通りの光があるはずの方向へ、息を切らして駆ける。
けれど、角を曲がった先にも路地が続いていた。
同じ壁。
同じ室外機。
同じ古いポスター。
足元に潰れた紙コップ。
マキの足が止まる。
「……え?」
後ろで、声がした。
「――、――た、――り、――」
振り返らなかった。
振り返ったら、そこにいる。
そう分かってしまった。
スマホを取り出す手が震える。画面がつく。連絡先を開こうとして、指が滑った。ロックを解除するだけなのに、いつもの操作がうまくできない。
「っ、なんで……!」
背後の音が近付いてくる。
足音ではない。
何かが、地面を擦る音。
それに混じって、また言葉のようなものが聞こえる。
「――、――か、――お、――た」
聞いてはいけない。
そう思った。
でも、耳は勝手に拾ってしまう。
聞き取れないはずなのに、あと少しで意味が分かりそうだった。あと少しで、何を言っているのか理解できそうだった。
それが、どうしようもなく嫌だった。
マキはスマホを握りしめたまま走った。
息がうまく入ってこない。鞄が肩で跳ねる。路地の壁に手がぶつかって、痛みが走った。
角を曲がる。
また路地。
角を曲がる。
また同じポスター。
角を曲がる。
行き止まり。
薄汚れたコンクリートの壁が、目の前にあった。
「うそ……」
声が掠れる。
大通りの音は聞こえない。
車も、人の声も、駅前のアナウンスも、何も聞こえない。
代わりに、後ろからあの声が近付いてくる。
「――、――き、――て、――」
マキは壁に背中をつけた。
逃げ道はない。
逆さまのものが、路地の向こうからゆっくり現れる。
距離はある。
でも、近い。
どれだけ離れているのか分からない。目で見えている距離と、身体が感じる距離が合っていなかった。遠くにいるはずなのに、耳元で喋られているように聞こえる。
「――、――れ、――ば、――」
「やだ……」
膝が震える。
スマホを握る指に力が入らない。画面には、いつの間にか割れたような光の筋が映っていた。実際に割れているわけではない。たぶん、手が震えているだけだ。
「来ないで……」
逆さまのものは止まらない。
黒いくぼみがいくつもこちらを向く。
その奥から、また声がする。
「――お、――し、――」
聞こえる。
今度は少しだけ、聞こえた。
マキは両手で耳を塞いだ。
それでも声は入ってくる。
耳からではない。目の奥から、喉の奥から、頭の中のどこかから染み込んでくる。
「――、――お、――し、――た」
分かりそうになる。
分かってしまいそうになる。
その瞬間。
後ろから、視界がふっと暗くなった。
誰かの手が、マキの目を覆っていた。
大きな手だった。
強く押さえつけるような力ではなかった。見てはいけないものを、代わりに遮ってくれるような手だった。
「マキちゃん、そのまま。目、開けなくていいよ」
耳元で聞こえた声に、喉が詰まる。
朔だった。
「大丈夫。俺、ここにいるから」
「さ、く……?」
「うん。いるよ。ちゃんと間に合った」
その言葉で、張り詰めていた肩が少しだけ震えた。
後ろでは、まだあの声が続いている。
聞き取れそうで、聞き取れない。
分かりそうで、分かりたくない。
「聞こえる……」
「うん。聞こえるね」
朔の声は、すぐ近くにあった。
「でも、分かろうとしなくていいよ。あれは、ちゃんと聞かなくていいものだから」
「む、無理……怖い……」
「怖いね」
怖がるな、とは言われなかった。
落ち着け、とも言われなかった。
その代わり、朔の声はマキの耳元に、ゆっくりと置かれていく。
「怖いままでいいよ。今は、俺の声だけ聞いてて」
目を覆っていた手が、少しだけ緩む。
代わりに、もう片方の手がマキの手を取った。
「手、繋ぐね」
「……うん」
マキの指先は冷えていた。
震えたままの手を、朔の手が包む。
「ゆっくり行こう。急がなくていいよ」
「足、動かないかも……」
「大丈夫。俺が合わせるから」
朔の手が、ほんの少しだけ強くなる。
「一歩だけでいいよ。できたら、次の一歩。無理なら止まる。それでいい」
その言い方は、前へ行けと急かすものではなかった。
マキが立っていられる速さを、朔が探してくれているような声だった。
朔が一歩進む。
マキも引かれるように歩く。
靴底が、路地の地面を踏む。小さな砂利が転がる音がした。
あの怪異が、近くにいる。
見えなくても分かる。
空気が冷たい。肌の近くに、濡れていない水のようなものが触れている。すぐ横で、何かが逆さまに揺れている気配がする。
「――、――え、――よ、――」
声がする。
近い。
目を閉じているのに、黒いくぼみがこちらを見ている気がする。
マキの足が止まりかけた。
その瞬間、繋いだ手が少しだけ強くなる。
「大丈夫。ここにいるよ」
朔の声がした。
「マキちゃん、急がなくていい。俺と一緒に行こう」
足が動く。
一歩。
二歩。
三歩。
何かの横を通り過ぎる。
そこだけ、空気の温度が違った。
すぐ隣にいる。
分かる。
見ていないのに、分かってしまう。
声が、耳元で形を持った。
「おしかったな」
はっきり聞こえた。
その瞬間、周りの空気が抜けた。
室外機の音が戻る。
車の走る音が聞こえる。
遠くで誰かが笑った。
油の匂いと、排気ガスの匂いと、駅前のざわめきが、一気に戻ってくる。
繋いでいた手が、少しだけ緩む。
「もういないよ」
朔の声が、さっきより近いところで聞こえた。
「ここ、いつもの道に戻ってる」
マキはすぐには目を開けられなかった。
怖かった。
目を開けたら、まだあれがいるかもしれない。
逆さまの何かが、目の前にぶら下がっているかもしれない。
指先が震える。
その震えに気付いたのか、朔は手を離さなかった。
「目、開けられそう?」
「……まだ」
「うん。じゃあ、まだ閉じてていいよ」
朔は急かさなかった。
繋いだ手はそのまま。声もすぐ近くにある。
「コンビニの看板、右の方にある。車の音も聞こえるね。人も歩いてる」
朔は一つずつ、戻ってきたものを並べていく。
「ちゃんと戻ってきてるよ」
その言葉に、少しだけまぶたを開ける。
最初に見えたのは、路地の出口だった。
大通りの光。
駅前へ向かう人の流れ。
コンビニの看板。
自転車で通り過ぎる学生。
いつもの景色だった。
その中に、朔がいた。
少し心配そうな顔で、こちらを見ている。
「……さく」
「うん」
「ほんとに、いる?」
「いるよ」
「さっきの、もういない?」
「いないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
その返事を聞いた瞬間、マキの目の奥が熱くなった。
我慢しようとした。
でも、無理だった。
「こわかった……」
声が崩れた。
涙が出る。
一度出ると止まらなかった。
マキはその場にしゃがみ込みそうになって、朔の手に支えられた。
「うん。怖かったね」
朔の声が、さっきより少し柔らかくなる。
手は離れない。
マキが崩れそうになる分だけ、朔は少しだけ近くに立った。支える場所を探して迷った手が、結局、肩の少し下にそっと添えられる。
「もういないよ。ここ、いつもの道だから」
「ほんとに……?」
「ほんと。ほら、コンビニの看板も見えるし、車の音もする」
朔は、マキが確かめられるものを一つずつ置くように言った。
「ちゃんと戻ってきてるよ」
「一人だったし、出られなかったし、声が、ずっと……」
「うん」
「分かりそうだったのが、ほんとに嫌で……!」
「分からなくてよかったんだよ」
そこだけ、少しだけ声が低くなった。
「マキちゃん、ちゃんと戻ってこられた。だから、それでいい」
マキの手はまだ震えていた。
朔はそれを止めようとはしない。繋いだ手を離さないまま、少しだけ歩道の端へ寄る。
「座れるところ行こうか」
「……離れない?」
言ってから、自分で驚いた。
けれど、朔は変な顔をしなかった。
「離れないよ」
「ほんと?」
「ほんと。今ひとりにしないから」
朔は少しだけ困ったように笑った。
「ミルクティー買うのも、一緒に行こう。すぐそこだから」
その言い方で、少しだけ息がしやすくなった。
マキは小さく頷く。
朔は歩幅をかなり落として、コンビニの方へ歩き出した。
路地の出口を抜けた瞬間、駅前の音がはっきり大きくなる。
車の音。
信号機の電子音。
コンビニの自動ドアが開く音。
全部がうるさい。
でも、そのうるささがありがたかった。
◇
コンビニの前のベンチに座る頃には、マキの涙は少しだけ落ち着いていた。
朔が買ってきた温かいミルクティーの缶が、両手の中にある。まだ開けていない。指先を温めるためだけに握っていた。
朔は隣に座らず、少し前に立っている。
人の流れを遮らない位置。
マキが顔を上げなくても、視界の端に入る距離。
「飲めそう?」
「……まだ」
「うん。持ってるだけでもいいよ」
朔は頷く。
いつもなら、ここで何か軽いことを言いそうだった。
けれど、今は言わなかった。
それが少しだけ助かった。
「なんで、来たの」
声はまだ掠れていた。
朔は一瞬だけ路地の方を見る。
もうそこは、ただの細い道に戻っている。人が一人通り抜けて、大通りへ出てきた。何も起きていないみたいに。
「近くにいたんだ」
「また?」
「今回は本当に」
「怪しい」
「怪しいね」
少しだけ、マキの口元が動いた。
笑うにはまだ早かったけれど、息は少しだけ楽になった。
朔は続ける。
「路地の方、変な感じがした。で、見たらマキちゃんが入っていったから」
「……普通に怖いこと言わないで」
「ごめん。今の言い方、よくなかったね」
「でも、来てくれて、よかった」
缶の表面に、指が沈む。
温かい。
マキはそれを確かめるように、両手で包み直した。
「一人で怪異に会うの、初めてだった」
「うん」
「あんなに、怖いんだね」
「うん」
「ずん子とか、ゆかりとか、朔とかがいるとさ。怖いけど、まだ、何とかなるって思ってた」
信号が変わる音がした。
人の流れが動く。
朔は何も言わずに聞いていた。
「でも、一人だと、全然違った」
「うん」
「何したらいいか分かんないし、走っても出られないし、スマホもちゃんと触れないし」
缶のプルタブに、涙が一滴落ちた。
マキは慌てて袖で拭う。
「……情けないなぁ」
「情けなくないよ」
朔の返事は早かった。
軽口ではなかった。
「あれは、一人でどうにかするものじゃないから」
「でも、朔は分かったじゃん。見ちゃ駄目とか、言葉を分かっちゃ駄目とか」
「前に似たのを見たことがあるだけ」
「それ、普通の学生の台詞じゃないよ」
「まあ、そこは否定しない」
マキはミルクティーの缶を見下ろす。
朔の声は、いつもの柔らかさに少し戻っている。けれど、さっき路地裏で聞いた声とは違う。あの時の声は、優しいのに、迷いがなかった。
そのことを言葉にするのは、何だか悔しかった。
「……助かった」
「うん」
「ありがと」
「うん。間に合ってよかった」
「そこは、どういたしましてとか言うところじゃない?」
「どういたしまして」
「遅い」
「今のは、ちょっと考えてた」
「何を?」
「マキちゃんが戻ってきてくれてよかったなって」
マキは缶を握る手に力を入れた。
また泣きそうになった。
「そういうこと、さらっと言わないで」
「さらっとじゃないよ」
「もっと駄目じゃん」
「そっか。難しいね」
ようやく、少しだけ笑えた。
笑ったら、また目の奥が熱くなった。
今度は泣かないように、ミルクティーの缶を開ける。甘い匂いがふわっと上がった。
一口飲むと、喉の奥が少しだけほどける。
「ねえ」
「ん?」
「あれ、何だったの」
朔はすぐには答えなかった。
路地の方を見る。
夕方の光が細く差し込んでいて、壁のポスターが風で少しめくれている。さっきまで出口のなかった場所には、普通に通り抜けられそうな道があった。
「たぶん、言葉の形をした穴みたいなもの」
「分かりやすく」
「分かろうとすると駄目なやつ」
「それは分かった」
「じゃあ、それだけ覚えてればいいよ」
「説明する気ないでしょ」
「説明しすぎると、思い出しちゃうから」
その言葉で、マキは口を閉じた。
さっき聞こえた声。
聞き取れそうで、聞き取れなかった音。
最後だけはっきりした言葉。
おしかったな。
思い出しただけで、背中が冷える。
「……分かった。聞かない」
「うん」
「でも、ずん子とゆかりには言う」
「そうだね」
「怒られるかな」
「たぶん」
「私が?」
「俺が」
「なんで朔が怒られる前提なの」
「なんとなく」
「ずん子なら怒りそう」
「うん。怒ると思う」
マキは少しだけ笑った。
その笑いはまだ弱かったけれど、さっきよりは普通に近かった。
朔はスマホを取り出した。
「連絡する?」
「する」
「自分で打てそう?」
「……ちょっと待って」
「うん。急がなくていいよ」
マキは深呼吸をした。
スマホを持つ手はまだ少し震えている。
それでも、さっきよりは動いた。
画面を開いて、ずん子たちのグループを表示する。
文字を打とうとして、指が止まった。
何と書けばいいのか分からない。
怪異に会った。
怖かった。
助けてもらった。
全部、本当なのに、画面の上では変に軽く見えた。
横から、朔が覗き込まない距離で言う。
「『怪異に会った。今は無事。朔もいる』くらいでいいんじゃない?」
「短い」
「長いのは後でいいよ」
「それもそっか」
マキは少し迷ってから、文字を打った。
『怪異に会った。今は無事。朔がいる』
送信すると、すぐに既読がついた。
次の瞬間、ずん子から返事が来る。
『場所は』
続いて、ゆかり。
『怪我はありませんか』
それから、ずん子がもう一度。
『先輩は何をしていたんですか』
マキは画面を見て、少しだけ笑った。
「朔」
「ん?」
「怒られるの、やっぱ朔かも」
朔はスマホの画面をちらっと見て、苦笑した。
「だよね」
ミルクティーの缶は、まだ温かい。
路地の奥は、もうただの路地に見える。
それでも、マキはしばらくそちらを見られなかった。
代わりに、駅前の明かりを見る。
人の声を聞く。
少し前に立っている朔の気配を確かめる。
一人ではない。
それだけで、さっきよりずっと息がしやすかった。
おしかったね