第七話 怖かった日のあとで
翌日の放課後、駅前のファミレスはいつもより少し混んでいた。
部活帰りらしい学生の声。ドリンクバーの氷が落ちる音。店員の明るい声。窓の外では、駅へ向かう人の流れが途切れず続いている。
その全部が、昨日の路地裏とは違っていた。
明るい。
人がいる。
音がちゃんと外から聞こえてくる。
弦巻マキは、窓際ではなく壁側の席に座っていた。背中の後ろに壁がある。それだけで、昨日より少しだけ息がしやすい。視界の端に入口が見えて、店内の奥も見える。背後から何かが来る心配をしなくていい席だった。
「いやー、昨日はびっくりしたね!」
マキは笑って言った。
声が少し大きかった。
自分でも分かった。
けれど、小さく言うと、昨日の路地裏の暗さが戻ってきそうだった。あの聞き取れそうで聞き取れない声が、明るい店内の隙間に紛れて、また耳の奥へ入り込んできそうだった。
向かい側で、結月ゆかりはメニューを開いたまま目を上げる。
「びっくり、で済む話ではなかったと思います」
「いやまあ、そうなんだけどさ。ほら、無事だったし?」
「無事だったことと、怖くなかったことは別です」
「ゆかり、今日ちょっと真面目だね」
「いつも真面目です」
「それはそう」
マキはストローを指で回した。
グラスの中で氷が小さく鳴る。
その音に、少しだけ肩が動いた。自分では誤魔化したつもりだったが、東北ずん子の視線が一瞬だけそこへ落ちる。
何も言わない。
ただ、テーブルの端に置かれたメニューを、少しだけマキの方へ寄せた。
「先に注文しましょう」
「え、あ、うん」
「温かいものもあります」
「……じゃあ、ホットココア」
「はい」
ずん子は店員を呼ぶボタンに手を伸ばした。
その動作はいつも通り静かだった。けれど、押す前にほんの少しだけ待つ。マキが本当にそれでいいのか確認するくらいの間だった。
その間に、ゆかりのメモ帳が少しだけ動く。
いつもの癖で取り出しかけたのだろう。
けれど、表紙が見えたところで、その手は止まった。
ゆかりは一度だけマキを見る。
それから、メモ帳を鞄の奥へ戻した。
「ゆかり?」
「今は、記録しません」
「……ゆかりが?」
「はい」
ゆかりはメニューに視線を落とす。
ページの端を指先で整えながら、少しだけ声を落とした。
「今聞くことではないと思いました」
マキは何か返そうとして、やめた。
代わりに、ストローから手を離す。
氷の音が止まった。
◇
朔が来たのは、注文が届いて少し経ってからだった。
片手に鞄を持ち、もう片方の手には大学の購買で買ったらしい紙袋がある。肩にかけた鞄の口からは、折れかけたプリントの端が少し見えていた。
急いできたのか、髪がわずかに乱れている。
けれど、声はいつもの調子だった。
「遅くなってごめん」
その言葉に、ずん子の目がすぐに細くなる。
「先輩」
「はい」
「昨日、どうしてすぐに連絡しなかったんですか」
挨拶より先だった。
朔は椅子に手をかけたまま、少しだけ止まる。
いつもなら、そこで何かとぼけた返しが入った。けれど今日は、入らなかった。鞄の肩紐を下ろす手も、途中で止まっている。
「ごめん」
短い言葉だった。
言い訳はついてこない。
「マキちゃんを落ち着かせるのを先にした」
「それと連絡しないことは別です」
「うん」
「うん、ではありません」
「そうだね」
ずん子の指が、グラスの横で止まっている。
声は荒くない。けれど、テーブルの上の空気は少しだけ硬くなった。運ばれてきたホットココアの湯気が、その間をゆっくり上っていく。
マキは慌てて身を乗り出す。
「いや、朔は悪くないよ。ほんとに。私が、ちょっと、あれで……」
言葉がうまく続かなかった。
昨日の路地裏。
逆さまの人型。
聞き取れそうで、聞き取れなかった声。
最後だけはっきり聞こえた「おしかったな」。
喉の奥が少し詰まる。
朔は、マキの言葉を途中で奪わなかった。
ただ、マキの前に置かれたホットココアのカップを少しだけ指で示す。
「熱いうちに飲めそう?」
「……うん」
「ゆっくりでいいよ」
その声は昨日と同じだった。
急かさない。
怖がったことを、なかったことにしない。
マキはカップを両手で包む。陶器の温かさが指先に移り、少しだけ力が戻ってくる。
朔はずん子へ視線を戻した。
「でも、ずんちゃんが怒るのも合ってる」
「先輩」
「うん」
「そうやって話を収めようとしないでください」
「収めようとしてるように見えた?」
「見えます」
「じゃあ、やめる」
朔は椅子を引いて座った。
鞄を足元に置き、紙袋をテーブルの端へ寄せる。中には、たぶん焼き菓子が入っている。
マキの目が少しだけそちらへ動いた。
朔は気付いていたが、何も言わなかった。
ずん子も気付いていた。
だから、さらに少しだけ眉が寄った。
「先輩は、すぐそういうものを買ってきますね」
「帰りに見つけたから」
「また曖昧な言い方を」
「美味しそうだったんだよ」
「そうですか」
ずん子の声は冷たい。
けれど、紙袋から視線は外れていなかった。
少しだけ、いつもの空気が戻る。
マキはココアを一口飲んだ。
甘くて、熱かった。
喉を通る時、昨日から残っていた冷たさが少しだけ薄くなる。
◇
注文したポテトと軽食が並ぶと、テーブルの上は一気に日常らしくなった。
ケチャップの小皿。湯気の残るポテト。ゆかりが頼んだサラダ。ずん子の紅茶。朔のカフェオレ。
マキのホットココアだけが、少し遅いペースで減っていく。
朔は紙袋を開ける前に、マキのカップへ視線を落とした。
飲み物が減っているのを確認すると、ほんの少しだけ口元を緩める。何かを言うわけではない。ただ、カフェオレを持ち上げ、自分も一口飲んだ。
それでいい、とでも言うような間だった。
マキは、その沈黙が少しありがたかった。
「朔先輩」
「ん?」
「昨日の怪異について、今は聞かない方がいいですよね」
マキの指が、カップの取っ手に触れたまま止まる。
朔はすぐに答えなかった。
ゆかりの方ではなく、マキの方を一度見た。
目が合う。
マキは、ほんの少しだけ頷いた。
「全部じゃなければ」
「無理はしなくていいです」
「うん。でも、言っといた方がいいことはあると思う」
カップを置く音がした。
マキは息を吸った。
「言葉っぽく聞こえるけど、聞いちゃ駄目なやつだった」
それだけ言うのに、少し時間がかかった。
ゆかりはメモ帳を出さない。
ずん子も何も言わない。
テーブルの中央で、ポテトの湯気が少しずつ細くなる。
朔が、静かに続ける。
「分かろうとすると、近付く」
「近付く?」
ゆかりの声は抑えられていた。
「意味が分かるんじゃなくて、向こう側に合わせられる。たぶん、そういうもの」
朔はカフェオレを指で回す。
紙コップの蓋の端に、少しだけコーヒーの跡がついていた。
「だから、聞こえても追わない方がいい」
「追わない」
「うん。聞こえたな、で止める」
ゆかりは頷いた。
いつもなら、そのまま記録したくなる顔だった。
でも今日は、メモ帳は鞄の中にある。
マキはそれを見て、少しだけ助かった。
「よし、この話ここまで!」
マキは少し大きめの声で言った。
まだ少し無理している。
でも、今度は自分で終わりを選べた。
「で、今日は何食べる? ってもう頼んでるけど」
ゆかりはメニューを開いた。
開いたものの、ページを見るより先にマキの方を見る。
「追加しますか?」
「ゆかり、急に乗ってきたね」
「温かいものもありますし、甘いものもあります」
「その方向で乗ってくるんだ」
「今は、その方が良いかと」
ゆかりは淡々と言った。
けれど、メニューの向きをマキから見やすいように変えている。
朔は紙袋を開ける。
中から、小さな焼き菓子がいくつか出てきた。袋が開くと、バターと砂糖の匂いがほんのり広がる。
「これ、よかったら」
「結局みんな用じゃん」
「マキちゃんが食べられそうならと思って」
さらっと言って、朔は焼き菓子を皿の横に置いた。
マキは一瞬だけ黙る。
茶化そうとして、できなかった。
「……ありがと」
「うん」
そこで朔は笑った。
大げさに褒めるでもなく、心配そうに覗き込むでもない。
食べても食べなくてもいいように、ただ手の届くところに置いただけだった。
ずん子が焼き菓子を一つ見て、少しだけ目を細めた。
「先輩」
「ん?」
「また支払いを曖昧にするつもりですか」
「これは差し入れ」
「それが曖昧だと言っています」
「じゃあ今度、ずんちゃんがたい焼き」
「なぜ私だけ具体的なんですか」
「抹茶のやつありそうだから」
「勝手に決めないでください」
「善処します」
「しない返事ですね」
「ちょっとする返事」
「嘘です」
ずん子はそう言いながら、焼き菓子を一つ取った。
包みを開ける手つきは丁寧だった。端を破らずに開けようとしているせいで、少し時間がかかっている。
マキはそれを見て、少し笑う。
「ずん子、結局食べるんだ」
「捨てるのはもったいないので」
「出た、もったいない」
「何か問題でも」
「ないでーす」
ポテトの湯気が、少しだけ弱くなる。
店内の音が戻ってくる。
マキは壁に背中を預けたまま、もう一口ココアを飲んだ。
昨日の怖さは消えない。
でも、今はそれだけではなかった。
◇
ファミレスを出る頃には、外はすっかり夕方になっていた。
駅前の灯りが点き始め、人の流れも少しずつ変わっている。学生の声より、会社帰りの人の足音の方が増えていた。
昨日の路地は、駅へ向かう道の途中にある。
マキは、そこが近付くにつれて少しだけ歩く速度が落ちた。
自分でも分かった。
あの細い道の入口。
剥がれかけたポスター。
大通りの光が届かなくなる角。
今はただの路地に見える。
でも、足が勝手に止まりそうになる。
隣にいたゆかりが、歩幅を落とした。
「マキさん」
「……うん」
少し前を歩いていたずん子も振り返る。
朔は後ろにいた。
何も言わない。
ただ、マキが歩き出すのを待つように、少しだけ立ち止まっている。
急かされない。
それだけで、昨日とは違った。
「今日は」
マキは路地を見たまま言う。
「こっちの道で帰ろうかな」
指したのは、大通りの方だった。
遠回りになる道。
人も多くて、信号もいくつか増える。
ずん子は一度だけ路地を見た。
「遠回りですね」
「うん」
マキは小さく笑う。
「遠回りでいいよ」
少しの間。
朔の声が、後ろから柔らかく届いた。
「うん。じゃあ、遠回りで」
ゆかりが頷く。
「私もそちらの方が良いと思います」
「記録係の判断?」
マキが少しだけ笑って言う。
ゆかりは鞄の紐を持ち直した。
「今日は、私の判断です」
「そっか」
「はい」
「ちょっと嬉しい」
ゆかりは目を瞬かせた。
それから、少しだけ口元を緩める。
「では、今後もたまに言います」
「予約制?」
「検討します」
「真面目」
ずん子は先に大通りの方へ歩き出した。
「行きますよ。信号が変わります」
「はーい」
マキが返事をする。
その声は、さっきより少し自然だった。
路地は後ろへ流れていく。
見ないようにしたわけではない。
一度だけ振り返って、ちゃんとただの路地であることを確認した。
そこに、逆さまのものはいない。
聞き取れそうな声もない。
それでも、たぶんしばらくは通れない。
それでいいと思った。
大通りへ出ると、人の声が増えた。
信号待ちの列に並び、車のライトを見ながら、マキは深く息を吐く。
横にはゆかり。
少し前にずん子。
後ろに朔。
一人ではない。
信号が青に変わる。
マキは一歩踏み出した。
昨日より少し遅い歩幅だった。
誰も、それを急かさなかった。