レクイエムフレーム   作:momomotototo

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第十話 S.C.O.R.E.

 白い通路だった。

 

 壁も床も天井も同じ白で塗り潰され、明るすぎる照明がどこまでも続いている。だが、その光には温度がなかった。

 

 天音海斗は、両側を武装兵に挟まれて歩いていた。前後に二人ずつ、黒い装甲服を着た兵士たちが無言で海斗を囲んでいる。

 

 誰も、海斗の目を見なかった。

 

 話しかけても答えない。視線が合う前に逸らされる。そのたびに胸の奥が冷えていき、自分がもう、ただの生存者として扱われていないことだけは嫌でも分かった。

 

「……俺、どこに連れて行かれるんですか」

 

 返事はない。

 

 靴底が床を叩く音に、装甲の擦れる音と、拘束具の金具が鳴る小さな音が混じっている。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。

 

 やがて、海斗は一つの小部屋へ通された。

 

 壁際には検査台と金属製の椅子が置かれ、その横には採血用の器具が並んでいた。それを見ただけで、腕の内側が痛んだ気がした。

 

「座れ」

 

 兵士が短く言った。

 

 逆らえなかった。

 

 椅子に座ると、すぐに左腕を取られる。白衣を着た技術士官が、無表情のまま器具を準備していた。

 

 病院で見るような細い針ではない。

 

 短く、太い。

 

 先端だけが鈍く光る、軍用の採血器具だった。

 

 海斗は喉を鳴らした。

 

「……血を取るんですか」

 

「標準検査だ」

 

「何の、ですか」

 

「答える権限はない」

 

 腕が固定される。

 

 金属の輪が、手首と肘の少し上を押さえ込んだ。

 

「動くな」

 

「動いてません……」

 

 低い駆動音。

 

 採血器具が皮膚へ押し当てられる。痛みより先に、嫌な圧迫感が来た。器具の先端がゆっくりと沈み込み、皮膚が拒むように硬くなる。金属の軸がわずかに震えた直後、鋭い痛みが走った。

 

「っ……!」

 

 赤い血が、ほんの少しだけチューブへ流れた。

 

 だが、すぐに勢いが弱まる。

 

「採取量、基準値未満」

 

「再生反応、開始」

 

「追加圧、許可範囲内で継続」

 

「待っ――」

 

 針が、さらに押し込まれる。

 

 海斗は歯を食いしばった。

 

 叫ばなかった。叫べば、周りの兵士が一斉に動く気がした。痛みよりも、それが怖かった。

 

 数秒後、技術士官が小さく息を吐いた。

 

「採取完了。未分類対象、血液サンプルを保存」

 

 未分類対象。

 

 その言葉だけが、耳に残った。

 

 天音海斗ではない。

 

 名前ではない。

 

 分類すら、まだ与えられていない。

 

 海斗は、止血用のパッチを貼られた腕を見下ろした。傷口は、もう塞がり始めている。技術士官はその変化を見ても驚かなかった。

 

 まるで、そうなることを前提にしていたみたいだった。

 

 採血が終わると、すぐに立たされた。

 

 また白い通路を進む。

 

 壁に埋め込まれた表示が、淡く光った。

 

 《S.C.O.R.E.測定区画》

 

 海斗の足が、わずかに止まる。

 

 S.C.O.R.E.

 

 神経同期型CHORUS共鳴適性検査。

 

 戦術学園の候補生なら、誰もが受ける正式検査だ。適性ランクを測り、兵科適性を測り、その結果に応じて首の裏へ兵科専用の神経接続端子が埋め込まれ、対応する機械脊椎ユニットが支給される。

 

 そこから、実習課程が始まる。

 

 普通なら。

 

 本当に普通なら。

 

 同じ候補生たちと順番を待ちながら、少し緊張して受ける検査だったはずだ。誰がSTRIKERになるのか、誰にVALKYRIE適性が出るのか。そんな話をしながら、結果に一喜一憂する。

 

 その程度のものだったはずだ。

 

 今の海斗は違う。

 

 手首には拘束具があり、周囲には武装兵がいる。そして誰も、海斗を候補生として見ていない。

 

 隔壁が開く。

 

 測定室は、円形だった。

 

 中央に、椅子が一つ。

 

 いや、椅子というより拘束台に近い。背もたれは高く、両腕と両脚を固定する金属具がついている。周囲には何重にも重なったリング状の測定装置が並び、天井からは細いケーブルが垂れ、壁一面にはホログラム表示が浮かんでいた。

 

 床には、青白い光の線が幾何学模様のように走っている。

 

 綺麗だった。

 

 だから余計に、怖かった。

 

「座れ」

 

 海斗は黙って従った。

 

 腕が固定される。足首が固定される。胸部を押さえる固定アームが、左右から噛み合った。

 

 拘束具は、ただの金属ではなかった。白い金属の表面には細かな制圧用の警告表示が走っている。

 

 対CHORUS個体の一時拘束にも使われる高硬度合金。

 

 そんな文字が、測定台の端に表示されていた。

 

 意味は分からない。

 

 ただ、普通の力では外れないことだけは分かった。

 

 呼吸はできる。

 

 だが、動けない。

 

「待ってください」

 

 思わず声が出た。

 

「これ、普通の測定ですよね?」

 

 誰も答えない。

 

 海斗は、自分の言葉に笑いそうになった。

 

 普通の測定。

 

 手足を拘束され、武装兵に囲まれ、胸部には固定アームまで噛み合っている。どこをどう見れば、これが普通に見えるのか。

 

 そんなことは分かっていた。

 

 分かっていても、そう聞くしかなかった。

 

 測定室の奥。

 

 分厚いガラスの向こうに、何人かの人影が見えた。その中に、黒い研究服の男がいる。

 

 痩せた頬。

 

 細い指。

 

 死人のように白い肌。

 

 名前は知らない。

 

 だが、目だけで分かった。

 

 あれは、人を見る目ではない。

 

 物を見る目だ。

 

《S.C.O.R.E.測定を開始します》

 

 無機質な音声が、測定室に響いた。

 

《本測定は、FRAME適性ランクおよび兵科適性を判定するための基礎検査です》

 

 海斗の前方に、淡い文字が浮かぶ。

 

《測定結果に基づき、候補生には兵科専用の神経接続端子が埋設されます》

 

《その後、対応する機械脊椎ユニットが支給され、実習課程へ移行します》

 

 知っている説明だった。

 

 授業で聞いた。

 

 何度も見た。

 

 だからこそ、今の状況が異常だと分かる。

 

 本来、これは未来へ進むための検査だ。自分がどのFRAMEに適性を持つのか、どんな兵士になるのか。それを知るためのもの。

 

 なのに今は。

 

 自分が、人間かどうかを測られている気がした。

 

《神経反応、測定開始》

 

 リングが回転する。

 

 低い振動が、椅子を通して背中へ伝わった。痛みはない。けれど、不快だった。皮膚の下を冷たい糸でなぞられているような、頭の奥を誰かに覗き込まれているような感覚がある。

 

 海斗は奥歯を噛んだ。

 

《基礎同期感度、計測中》

 

 前方の表示に、ランク名と数値が並ぶ。

 

《S.R.I.:00041》

 

《判定:SILENT》

 

 S.R.I.――神経共鳴指数。

 

 FRAMEとの神経同期深度と、CHORUS領域への近さを示す数値であり、単純な戦闘力ではなく、適性と危険度を同時に測る指標だった。

 

 SILENT。

 

 S.R.I.値、千未満。

 

 同期反応が極端に低い者。

 

 FRAMEを装備できないわけではない。けれど、同期は浅く、反応も鈍い。前線で名を残すような数値ではなかった。

 

 予備測定でも、海斗はそこだった。

 

 だから、ここで止まるはずだった。

 

 表示が変わる。

 

《S.R.I.:01890》

 

《判定:ECHO》

 

「……は?」

 

 千を超えた。

 

 一般適性領域。

 

 候補生の多くが、ここに入る。

 

 だが、海斗にはそれだけでも十分におかしかった。予備測定で、自分はSILENTだった。FRAMEを装備できないわけではないが、同期は浅く、反応も鈍い。そう言われていたはずだ。

 

 なのに、表示はECHOを示している。

 

 それだけで、もう普通ではなかった。

 

 そして。

 

 数値は、そこで止まらなかった。

 

《S.R.I.:12720》

 

《判定:RESONANCE》

 

 測定室の空気が変わった。

 

 技術士官の一人が顔を上げる。ガラスの向こうで、誰かが何かを言った。音は聞こえない。けれど、動揺だけは伝わってきた。

 

 RESONANCE。

 

 S.R.I.値、一万以上。

 

 高適性者の領域。

 

 優秀なフレーム兵候補。

 

 普通なら、喜ぶところなのかもしれない。

 

 だが、海斗は喜べなかった。

 

 表示が、まだ上がっている。

 

《S.R.I.:28640》

 

《S.R.I.:41780》

 

《RESONANCE領域、上限接近》

 

《警告》

 

《同期値、上昇継続》

 

 リングの回転が速くなる。

 

 低い振動が、骨の奥へ入り込んでくる。

 

「……嘘だ」

 

 小さく呟いた。

 

 誰にも届かない。

 

《S.R.I.:50012》

 

《判定:Near Chorus》

 

 その文字が出た途端、技術士官たちの顔色が変わった。

 

 Near Chorus。

 

 S.R.I.値、五万以上。

 

 高適性者であり、同時に汚染リスクを抱える危険領域。授業で聞いた時、教室が一度だけ静かになったのを覚えている。

 

 強い。

 

 だが、近すぎる。

 

 CHORUSに。

 

 海斗の喉が渇いた。

 

「なんで……」

 

 声が震える。

 

「俺、そんなの……」

 

《S.R.I.:67280》

 

《S.R.I.:83140》

 

《警告》

 

《Near Chorus領域、上限接近》

 

 ホログラムが乱れ始めた。

 

 青白い文字の端に、黒いノイズが混じる。ガラスの向こうで、技術士官たちが一斉に端末へ向かった。誰かが叫んでいる。誰かが測定を止めようとしている。

 

 だが、表示だけは止まらなかった。

 

《S.R.I.:91460》

 

《S.R.I.:97890》

 

《警告》

 

《測定安全域、超過》

 

 リングの振動が、椅子を通して全身へ食い込む。痛みではない。けれど、身体の奥にある何かを、無理やり引きずり出されているようだった。

 

 海斗は拘束具の中で肩を強張らせる。

 

「やめ……」

 

 声にならない。

 

 表示が跳ねる。

 

《S.R.I.:99999》

 

《Near Chorus領域、突破》

 

《測定限界到達》

 

《警告》

 

《警告》

 

《既存範囲外反応》

 

 測定室の照明が一度だけ落ちた。

 

 暗闇。

 

 すぐに非常灯が点く。

 

 赤ではない。

 

 白でもない。

 

 色の抜けた、灰色の光。

 

 海斗の呼吸が浅くなる。

 

 手首の拘束具が急に重く感じた。胸部を押さえる固定アームが、呼吸のたびにわずかに重くなる。兵士たちが構えを変える気配がした。

 

 まだ何もしていない。

 

 だが、いつでも動ける姿勢だった。

 

 嫌だ。

 

 まただ。

 

 また、殺されそうになる。

 

《ERROR》

 

《再測定》

 

《ERROR》

 

《再測定不能》

 

《兵科適性、判定中》

 

《STRIKER、該当なし》

 

《BASTION、該当なし》

 

《VALKYRIE、該当なし》

 

《PHANTOM、該当なし》

 

《ORACLE、該当なし》

 

《該当兵科なし》

 

《UNKNOWN》

 

《UNKNOWN》

 

《UNKNOWN》

 

 画面が黒く染まる。

 

 すべての数値が消えた。

 

 ランク表示も。

 

 兵科適性も。

 

 警告文さえも。

 

 黒い画面の中央に、白い文字が一つだけ浮かび上がる。

 

《S.R.I.:――――》

 

《判定:REQUIEM》

 

 測定室から、音が引いた。

 

 誰も動かない。

 

 誰も喋らない。

 

 海斗にも、その意味は分からなかった。

 

 ただ、その文字を見た時。

 

 背中の奥が、凍りついた。

 

 知っているはずがない。

 

 聞いたこともない。

 

 なのに。

 

 その言葉は、自分の中のどこかを呼んでいた。

 

「……レクイエム?」

 

 声に出した途端、警報が鳴った。

 

《第七封印体、微弱応答》

 

《地下封印区画、異常振動》

 

《REQUIEM系反応、外部同期開始》

 

 意味の分からない表示が、次々と流れる。

 

 ガラスの向こうで、黒い研究服の男が前に出た。笑ってはいない。だが、その目だけが異様に熱を帯びていた。

 

『測定を続行しろ』

 

 スピーカー越しに声が響く。

 

 別の男の声が割り込んだ。

 

『中止だ。対象を安定させろ』

 

 海斗はその声を知らない。

 

 けれど、声が響いた瞬間、周囲の兵士たちの動きが変わった。命令系統の上にいる人間。その声だと、本能的に分かった。

 

 黒い研究服の男が、さらに言った。

 

『この反応を逃すな』

 

 海斗の心臓が、嫌な音を立てる。

 

 何だ。

 

 何が起きている。

 

 何を測られている。

 

 自分は、何にされた。

 

◇  ◇  ◇

 

 第七要塞都市地下深部。

 

 封印区画。

 

 そこは、地図には存在しない階層だった。

 

 分厚い隔壁と何層にも重ねられた固定装置の奥で、床から伸びる巨大な拘束アンカーが中央の黒い棺を押さえ込んでいる。

 

 まるで都市そのものが、それを地下へ縫い止めているようだった。

 

 黒い棺。

 

 そう呼ぶしかない形だった。

 

 だが、それは死者を収める箱ではない。装甲板が何層にも重なった、兵器のような外殻。表面には白い亀裂光が血管のように走り、中心には割れた星にも、眼にも見える白い紋章が刻まれていた。

 

 表示プレートには、短く刻まれている。

 

 《ORIGIN-07》

 

 《REQUIEM》

 

 黒い棺が、わずかに震えた。

 

《第七封印体、反応》

 

《封印拘束値、低下》

 

《REQUIEM系反応、外部未分類体と同期》

 

 警報が鳴る。

 

 監視カメラが棺を映す。

 

 監視室の兵士が息を呑む。

 

 棺の側面が、内側から裂けた。

 

 中から、腕が伸びる。

 

 白い骨のような腕。

 

 人間のものではない。

 

 関節が多すぎる。

 

 指が長すぎる。

 

 爪が、床に触れただけで金属を削った。

 

 拘束アンカーの一本が、軋む。

 

 黒い棺が、床を掻いた。

 

 這うように。

 

 引きずるように。

 

 それでいて、目的地を知っているように。

 

 黒い棺は、動き出した。

 

◇  ◇  ◇

 

《第七封印区画、異常発生》

 

《固定アンカー、損傷》

 

《第一隔壁、破損》

 

《第二隔壁、突破》

 

《封印体、測定区画方面へ移動中》

 

 測定室の外が、一気に騒がしくなった。

 

「封印体が動いている!」

 

「地下から上がってくるぞ!」

 

「進路、測定区画!」

 

 遠くで、何か重いものがぶつかる音がした。

 

 ドン。

 

 床が、わずかに震える。

 

 また。

 

 ドン。

 

 今度は、はっきり聞こえた。

 

 何かが来ている。

 

 この施設の奥から、下層を突き破るようにして、自分のいる測定区画へ向かっている。

 

《緊急警戒態勢へ移行》

 

《NOCTURNEへ緊急出動要請》

 

 その言葉を聞いた瞬間、海斗の血が冷えた。

 

 NOCTURNE。

 

 その名前を、海斗は知らない。

 

 でも、思い出した。

 

 あの女。

 

 黒いFRAME。

 

 音もなく距離を詰めてきた女。

 

 気づいた時には、刃が首元にあった。

 

 表情は見えなかった。けれど、迷いがないことだけは分かった。

 

 あの時、自分は本当に殺されかけた。

 

 また来る。

 

 あの女が。

 

 殺される。

 

 そう思った瞬間、海斗の呼吸が乱れた。

 

「やめてくれ……」

 

 喉から、勝手に声が漏れた。

 

「俺は、何もしてない……」

 

 誰も答えない。

 

 警報も、拘束具も、意味の分からない表示も、ガラスの向こうにいる知らない大人たちも、すべてが海斗を囲んでいた。

 

 逃げ場がない。

 

 逃げたい。

 

 ここから出たい。

 

 もう、嫌だ。

 

《REQUIEM反応、増大》

 

《ORIGIN-07、未分類体へ接近》

 

 頭の奥に、何かが流れ込んだ。

 

 ――拒絶要求、確認。

 

 音ではない。

 

 声でもない。

 

 文字のようなものが、頭蓋の内側に刻まれていく。

 

 ――拘束状態、危険。

 

 ――恐怖反応、増大。

 

 ――保護行動、開始。

 

「……誰だよ」

 

 唇が震える。

 

「誰なんだよ……!」

 

 また、激しい振動。

 

 今度は近い。

 

 測定室の壁が震えた。

 

 兵士が叫ぶ。

 

「隔壁三、突破されました!」

 

「移動速度が速すぎる!」

 

「測定区画へ向かっています!」

 

 測定区画へ。

 

 海斗は、冷たい汗を流した。

 

 違う。

 

 分からない。

 

 でも分かる。

 

 それは、自分のところへ来ている。

 

 自分を目指している。

 

「来るな……」

 

 声が掠れる。

 

「来るなよ……!」

 

 背後で、金属が歪む音がした。

 

 測定室の後方隔壁。

 

 分厚い白い壁。

 

 その表面が、内側から押されたように膨らむ。

 

 兵士たちが一斉に振り返る。

 

「後方!」

 

「対象に近づけるな!」

 

 隔壁が、再び歪んだ。

 

 白い金属板の中央が、外からではなく内側から押し広げられるように膨らんでいく。鋼材が悲鳴を上げ、分厚い骨をゆっくり折り曲げているような音がした。

 

 海斗は動けなかった。

 

 腕も脚も、高硬度の拘束具に押さえ込まれたまま、測定台から離れることすらできない。

 

 逃げたい。

 

 ここから出たい。

 

 けれど、身体は一ミリも動かない。胸の奥で心臓だけが暴れている。

 

 怖いという感情だけが、頭の中で何度も跳ね返っていた。

 

 次の瞬間。

 

 測定室の隔壁が、内側へ破裂した。

 

 白い装甲板が砕け散り、細かな破片が照明を反射して宙へ舞う。灰色の粉塵が一気に室内へ流れ込んだ。

 

 兵士たちの怒号。

 

 けたたましい警報。

 

 落ち着かない足音。

 

 それらが一瞬だけ遠ざかる。

 

 煙の向こうに、黒いものがあった。

 

 棺だった。

 

 そう呼ぶしかない形だった。

 

 だが、死者を納めるための箱ではない。

 

 黒い外殻の側面から、白い骨のような腕が伸びている。人間の腕ではなかった。関節が多すぎる。指が長すぎる。床に触れた爪が、金属面を浅く抉っていた。

 

 中央には、割れた星にも、眼にも見える白い紋章。

 

 その光が、海斗の鼓動に合わせるように、淡く明滅している。

 

 海斗は、息の仕方を忘れた。

 

 怪物ではない。

 

 兵器でもない。

 

 もっと別のもの。

 

 自分を迎えに来た、黒い棺。

 

「……なんだよ」

 

 声が震えた。

 

「なんで……俺ばっかり……」

 

 黒い棺が動いた。

 

 白い腕が床を掻く。爪が金属を削り、測定室の床に細い傷を刻む。

 

 ゆっくり近づいてくるように見えた。

 

 違った。

 

 次の瞬きには、もう海斗の背後にいた。

 

「助けて!」

 

 反射的に叫んでいた。

 

 誰に向けた声なのか、自分でも分からなかった。兵士か、白衣の技術士官か、ガラスの向こうにいる大人たちか。それとも、もう誰でもよかったのか。

 

 黒い棺が、背後で開く。

 

 蓋が開いたのではない。

 

 外殻の内側から、闇そのものが裂けて広がった。

 

 白い腕が伸びる。

 

 肩を掴む。

 

 背中を覆う。

 

 首筋に、冷たい神経束のようなものが這い上がった。

 

「やめて……!」

 

 海斗の声が裏返る。

 

「助けて……誰か、助けて……!」

 

『接続対象、確保』

 

 測定室に、無機質な声が響いた。

 

 男とも女ともつかない。

 

 人の声に似ているのに、人間の呼吸がない。

 

 兵士たちが一斉に銃口を向ける。

 

「封印体から音声反応!」

 

「対象を引き離せ!」

 

『保護行動、継続』

 

「いやだ……!」

 

 海斗は身を捩ろうとした。

 

 だが、拘束具も、固定アームも、黒い棺の腕も、すべてが海斗を逃がさない。

 

 背中から、冷たい闇が広がる。

 

 肩を。

 

 首を。

 

 胸を。

 

 全身を、黒い外殻が包み込んでいく。

 

 飲み込まれる。

 

 そう理解した時には、もう遅かった。

 

 黒い棺が、海斗を背中から呑んだ。

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