白い通路だった。
壁も床も天井も同じ白で塗り潰され、明るすぎる照明がどこまでも続いている。だが、その光には温度がなかった。
天音海斗は、両側を武装兵に挟まれて歩いていた。前後に二人ずつ、黒い装甲服を着た兵士たちが無言で海斗を囲んでいる。
誰も、海斗の目を見なかった。
話しかけても答えない。視線が合う前に逸らされる。そのたびに胸の奥が冷えていき、自分がもう、ただの生存者として扱われていないことだけは嫌でも分かった。
「……俺、どこに連れて行かれるんですか」
返事はない。
靴底が床を叩く音に、装甲の擦れる音と、拘束具の金具が鳴る小さな音が混じっている。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、海斗は一つの小部屋へ通された。
壁際には検査台と金属製の椅子が置かれ、その横には採血用の器具が並んでいた。それを見ただけで、腕の内側が痛んだ気がした。
「座れ」
兵士が短く言った。
逆らえなかった。
椅子に座ると、すぐに左腕を取られる。白衣を着た技術士官が、無表情のまま器具を準備していた。
病院で見るような細い針ではない。
短く、太い。
先端だけが鈍く光る、軍用の採血器具だった。
海斗は喉を鳴らした。
「……血を取るんですか」
「標準検査だ」
「何の、ですか」
「答える権限はない」
腕が固定される。
金属の輪が、手首と肘の少し上を押さえ込んだ。
「動くな」
「動いてません……」
低い駆動音。
採血器具が皮膚へ押し当てられる。痛みより先に、嫌な圧迫感が来た。器具の先端がゆっくりと沈み込み、皮膚が拒むように硬くなる。金属の軸がわずかに震えた直後、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
赤い血が、ほんの少しだけチューブへ流れた。
だが、すぐに勢いが弱まる。
「採取量、基準値未満」
「再生反応、開始」
「追加圧、許可範囲内で継続」
「待っ――」
針が、さらに押し込まれる。
海斗は歯を食いしばった。
叫ばなかった。叫べば、周りの兵士が一斉に動く気がした。痛みよりも、それが怖かった。
数秒後、技術士官が小さく息を吐いた。
「採取完了。未分類対象、血液サンプルを保存」
未分類対象。
その言葉だけが、耳に残った。
天音海斗ではない。
名前ではない。
分類すら、まだ与えられていない。
海斗は、止血用のパッチを貼られた腕を見下ろした。傷口は、もう塞がり始めている。技術士官はその変化を見ても驚かなかった。
まるで、そうなることを前提にしていたみたいだった。
採血が終わると、すぐに立たされた。
また白い通路を進む。
壁に埋め込まれた表示が、淡く光った。
《S.C.O.R.E.測定区画》
海斗の足が、わずかに止まる。
S.C.O.R.E.
神経同期型CHORUS共鳴適性検査。
戦術学園の候補生なら、誰もが受ける正式検査だ。適性ランクを測り、兵科適性を測り、その結果に応じて首の裏へ兵科専用の神経接続端子が埋め込まれ、対応する機械脊椎ユニットが支給される。
そこから、実習課程が始まる。
普通なら。
本当に普通なら。
同じ候補生たちと順番を待ちながら、少し緊張して受ける検査だったはずだ。誰がSTRIKERになるのか、誰にVALKYRIE適性が出るのか。そんな話をしながら、結果に一喜一憂する。
その程度のものだったはずだ。
今の海斗は違う。
手首には拘束具があり、周囲には武装兵がいる。そして誰も、海斗を候補生として見ていない。
隔壁が開く。
測定室は、円形だった。
中央に、椅子が一つ。
いや、椅子というより拘束台に近い。背もたれは高く、両腕と両脚を固定する金属具がついている。周囲には何重にも重なったリング状の測定装置が並び、天井からは細いケーブルが垂れ、壁一面にはホログラム表示が浮かんでいた。
床には、青白い光の線が幾何学模様のように走っている。
綺麗だった。
だから余計に、怖かった。
「座れ」
海斗は黙って従った。
腕が固定される。足首が固定される。胸部を押さえる固定アームが、左右から噛み合った。
拘束具は、ただの金属ではなかった。白い金属の表面には細かな制圧用の警告表示が走っている。
対CHORUS個体の一時拘束にも使われる高硬度合金。
そんな文字が、測定台の端に表示されていた。
意味は分からない。
ただ、普通の力では外れないことだけは分かった。
呼吸はできる。
だが、動けない。
「待ってください」
思わず声が出た。
「これ、普通の測定ですよね?」
誰も答えない。
海斗は、自分の言葉に笑いそうになった。
普通の測定。
手足を拘束され、武装兵に囲まれ、胸部には固定アームまで噛み合っている。どこをどう見れば、これが普通に見えるのか。
そんなことは分かっていた。
分かっていても、そう聞くしかなかった。
測定室の奥。
分厚いガラスの向こうに、何人かの人影が見えた。その中に、黒い研究服の男がいる。
痩せた頬。
細い指。
死人のように白い肌。
名前は知らない。
だが、目だけで分かった。
あれは、人を見る目ではない。
物を見る目だ。
《S.C.O.R.E.測定を開始します》
無機質な音声が、測定室に響いた。
《本測定は、FRAME適性ランクおよび兵科適性を判定するための基礎検査です》
海斗の前方に、淡い文字が浮かぶ。
《測定結果に基づき、候補生には兵科専用の神経接続端子が埋設されます》
《その後、対応する機械脊椎ユニットが支給され、実習課程へ移行します》
知っている説明だった。
授業で聞いた。
何度も見た。
だからこそ、今の状況が異常だと分かる。
本来、これは未来へ進むための検査だ。自分がどのFRAMEに適性を持つのか、どんな兵士になるのか。それを知るためのもの。
なのに今は。
自分が、人間かどうかを測られている気がした。
《神経反応、測定開始》
リングが回転する。
低い振動が、椅子を通して背中へ伝わった。痛みはない。けれど、不快だった。皮膚の下を冷たい糸でなぞられているような、頭の奥を誰かに覗き込まれているような感覚がある。
海斗は奥歯を噛んだ。
《基礎同期感度、計測中》
前方の表示に、ランク名と数値が並ぶ。
《S.R.I.:00041》
《判定:SILENT》
S.R.I.――神経共鳴指数。
FRAMEとの神経同期深度と、CHORUS領域への近さを示す数値であり、単純な戦闘力ではなく、適性と危険度を同時に測る指標だった。
SILENT。
S.R.I.値、千未満。
同期反応が極端に低い者。
FRAMEを装備できないわけではない。けれど、同期は浅く、反応も鈍い。前線で名を残すような数値ではなかった。
予備測定でも、海斗はそこだった。
だから、ここで止まるはずだった。
表示が変わる。
《S.R.I.:01890》
《判定:ECHO》
「……は?」
千を超えた。
一般適性領域。
候補生の多くが、ここに入る。
だが、海斗にはそれだけでも十分におかしかった。予備測定で、自分はSILENTだった。FRAMEを装備できないわけではないが、同期は浅く、反応も鈍い。そう言われていたはずだ。
なのに、表示はECHOを示している。
それだけで、もう普通ではなかった。
そして。
数値は、そこで止まらなかった。
《S.R.I.:12720》
《判定:RESONANCE》
測定室の空気が変わった。
技術士官の一人が顔を上げる。ガラスの向こうで、誰かが何かを言った。音は聞こえない。けれど、動揺だけは伝わってきた。
RESONANCE。
S.R.I.値、一万以上。
高適性者の領域。
優秀なフレーム兵候補。
普通なら、喜ぶところなのかもしれない。
だが、海斗は喜べなかった。
表示が、まだ上がっている。
《S.R.I.:28640》
《S.R.I.:41780》
《RESONANCE領域、上限接近》
《警告》
《同期値、上昇継続》
リングの回転が速くなる。
低い振動が、骨の奥へ入り込んでくる。
「……嘘だ」
小さく呟いた。
誰にも届かない。
《S.R.I.:50012》
《判定:Near Chorus》
その文字が出た途端、技術士官たちの顔色が変わった。
Near Chorus。
S.R.I.値、五万以上。
高適性者であり、同時に汚染リスクを抱える危険領域。授業で聞いた時、教室が一度だけ静かになったのを覚えている。
強い。
だが、近すぎる。
CHORUSに。
海斗の喉が渇いた。
「なんで……」
声が震える。
「俺、そんなの……」
《S.R.I.:67280》
《S.R.I.:83140》
《警告》
《Near Chorus領域、上限接近》
ホログラムが乱れ始めた。
青白い文字の端に、黒いノイズが混じる。ガラスの向こうで、技術士官たちが一斉に端末へ向かった。誰かが叫んでいる。誰かが測定を止めようとしている。
だが、表示だけは止まらなかった。
《S.R.I.:91460》
《S.R.I.:97890》
《警告》
《測定安全域、超過》
リングの振動が、椅子を通して全身へ食い込む。痛みではない。けれど、身体の奥にある何かを、無理やり引きずり出されているようだった。
海斗は拘束具の中で肩を強張らせる。
「やめ……」
声にならない。
表示が跳ねる。
《S.R.I.:99999》
《Near Chorus領域、突破》
《測定限界到達》
《警告》
《警告》
《既存範囲外反応》
測定室の照明が一度だけ落ちた。
暗闇。
すぐに非常灯が点く。
赤ではない。
白でもない。
色の抜けた、灰色の光。
海斗の呼吸が浅くなる。
手首の拘束具が急に重く感じた。胸部を押さえる固定アームが、呼吸のたびにわずかに重くなる。兵士たちが構えを変える気配がした。
まだ何もしていない。
だが、いつでも動ける姿勢だった。
嫌だ。
まただ。
また、殺されそうになる。
《ERROR》
《再測定》
《ERROR》
《再測定不能》
《兵科適性、判定中》
《STRIKER、該当なし》
《BASTION、該当なし》
《VALKYRIE、該当なし》
《PHANTOM、該当なし》
《ORACLE、該当なし》
《該当兵科なし》
《UNKNOWN》
《UNKNOWN》
《UNKNOWN》
画面が黒く染まる。
すべての数値が消えた。
ランク表示も。
兵科適性も。
警告文さえも。
黒い画面の中央に、白い文字が一つだけ浮かび上がる。
《S.R.I.:――――》
《判定:REQUIEM》
測定室から、音が引いた。
誰も動かない。
誰も喋らない。
海斗にも、その意味は分からなかった。
ただ、その文字を見た時。
背中の奥が、凍りついた。
知っているはずがない。
聞いたこともない。
なのに。
その言葉は、自分の中のどこかを呼んでいた。
「……レクイエム?」
声に出した途端、警報が鳴った。
《第七封印体、微弱応答》
《地下封印区画、異常振動》
《REQUIEM系反応、外部同期開始》
意味の分からない表示が、次々と流れる。
ガラスの向こうで、黒い研究服の男が前に出た。笑ってはいない。だが、その目だけが異様に熱を帯びていた。
『測定を続行しろ』
スピーカー越しに声が響く。
別の男の声が割り込んだ。
『中止だ。対象を安定させろ』
海斗はその声を知らない。
けれど、声が響いた瞬間、周囲の兵士たちの動きが変わった。命令系統の上にいる人間。その声だと、本能的に分かった。
黒い研究服の男が、さらに言った。
『この反応を逃すな』
海斗の心臓が、嫌な音を立てる。
何だ。
何が起きている。
何を測られている。
自分は、何にされた。
◇ ◇ ◇
第七要塞都市地下深部。
封印区画。
そこは、地図には存在しない階層だった。
分厚い隔壁と何層にも重ねられた固定装置の奥で、床から伸びる巨大な拘束アンカーが中央の黒い棺を押さえ込んでいる。
まるで都市そのものが、それを地下へ縫い止めているようだった。
黒い棺。
そう呼ぶしかない形だった。
だが、それは死者を収める箱ではない。装甲板が何層にも重なった、兵器のような外殻。表面には白い亀裂光が血管のように走り、中心には割れた星にも、眼にも見える白い紋章が刻まれていた。
表示プレートには、短く刻まれている。
《ORIGIN-07》
《REQUIEM》
黒い棺が、わずかに震えた。
《第七封印体、反応》
《封印拘束値、低下》
《REQUIEM系反応、外部未分類体と同期》
警報が鳴る。
監視カメラが棺を映す。
監視室の兵士が息を呑む。
棺の側面が、内側から裂けた。
中から、腕が伸びる。
白い骨のような腕。
人間のものではない。
関節が多すぎる。
指が長すぎる。
爪が、床に触れただけで金属を削った。
拘束アンカーの一本が、軋む。
黒い棺が、床を掻いた。
這うように。
引きずるように。
それでいて、目的地を知っているように。
黒い棺は、動き出した。
◇ ◇ ◇
《第七封印区画、異常発生》
《固定アンカー、損傷》
《第一隔壁、破損》
《第二隔壁、突破》
《封印体、測定区画方面へ移動中》
測定室の外が、一気に騒がしくなった。
「封印体が動いている!」
「地下から上がってくるぞ!」
「進路、測定区画!」
遠くで、何か重いものがぶつかる音がした。
ドン。
床が、わずかに震える。
また。
ドン。
今度は、はっきり聞こえた。
何かが来ている。
この施設の奥から、下層を突き破るようにして、自分のいる測定区画へ向かっている。
《緊急警戒態勢へ移行》
《NOCTURNEへ緊急出動要請》
その言葉を聞いた瞬間、海斗の血が冷えた。
NOCTURNE。
その名前を、海斗は知らない。
でも、思い出した。
あの女。
黒いFRAME。
音もなく距離を詰めてきた女。
気づいた時には、刃が首元にあった。
表情は見えなかった。けれど、迷いがないことだけは分かった。
あの時、自分は本当に殺されかけた。
また来る。
あの女が。
殺される。
そう思った瞬間、海斗の呼吸が乱れた。
「やめてくれ……」
喉から、勝手に声が漏れた。
「俺は、何もしてない……」
誰も答えない。
警報も、拘束具も、意味の分からない表示も、ガラスの向こうにいる知らない大人たちも、すべてが海斗を囲んでいた。
逃げ場がない。
逃げたい。
ここから出たい。
もう、嫌だ。
《REQUIEM反応、増大》
《ORIGIN-07、未分類体へ接近》
頭の奥に、何かが流れ込んだ。
――拒絶要求、確認。
音ではない。
声でもない。
文字のようなものが、頭蓋の内側に刻まれていく。
――拘束状態、危険。
――恐怖反応、増大。
――保護行動、開始。
「……誰だよ」
唇が震える。
「誰なんだよ……!」
また、激しい振動。
今度は近い。
測定室の壁が震えた。
兵士が叫ぶ。
「隔壁三、突破されました!」
「移動速度が速すぎる!」
「測定区画へ向かっています!」
測定区画へ。
海斗は、冷たい汗を流した。
違う。
分からない。
でも分かる。
それは、自分のところへ来ている。
自分を目指している。
「来るな……」
声が掠れる。
「来るなよ……!」
背後で、金属が歪む音がした。
測定室の後方隔壁。
分厚い白い壁。
その表面が、内側から押されたように膨らむ。
兵士たちが一斉に振り返る。
「後方!」
「対象に近づけるな!」
隔壁が、再び歪んだ。
白い金属板の中央が、外からではなく内側から押し広げられるように膨らんでいく。鋼材が悲鳴を上げ、分厚い骨をゆっくり折り曲げているような音がした。
海斗は動けなかった。
腕も脚も、高硬度の拘束具に押さえ込まれたまま、測定台から離れることすらできない。
逃げたい。
ここから出たい。
けれど、身体は一ミリも動かない。胸の奥で心臓だけが暴れている。
怖いという感情だけが、頭の中で何度も跳ね返っていた。
次の瞬間。
測定室の隔壁が、内側へ破裂した。
白い装甲板が砕け散り、細かな破片が照明を反射して宙へ舞う。灰色の粉塵が一気に室内へ流れ込んだ。
兵士たちの怒号。
けたたましい警報。
落ち着かない足音。
それらが一瞬だけ遠ざかる。
煙の向こうに、黒いものがあった。
棺だった。
そう呼ぶしかない形だった。
だが、死者を納めるための箱ではない。
黒い外殻の側面から、白い骨のような腕が伸びている。人間の腕ではなかった。関節が多すぎる。指が長すぎる。床に触れた爪が、金属面を浅く抉っていた。
中央には、割れた星にも、眼にも見える白い紋章。
その光が、海斗の鼓動に合わせるように、淡く明滅している。
海斗は、息の仕方を忘れた。
怪物ではない。
兵器でもない。
もっと別のもの。
自分を迎えに来た、黒い棺。
「……なんだよ」
声が震えた。
「なんで……俺ばっかり……」
黒い棺が動いた。
白い腕が床を掻く。爪が金属を削り、測定室の床に細い傷を刻む。
ゆっくり近づいてくるように見えた。
違った。
次の瞬きには、もう海斗の背後にいた。
「助けて!」
反射的に叫んでいた。
誰に向けた声なのか、自分でも分からなかった。兵士か、白衣の技術士官か、ガラスの向こうにいる大人たちか。それとも、もう誰でもよかったのか。
黒い棺が、背後で開く。
蓋が開いたのではない。
外殻の内側から、闇そのものが裂けて広がった。
白い腕が伸びる。
肩を掴む。
背中を覆う。
首筋に、冷たい神経束のようなものが這い上がった。
「やめて……!」
海斗の声が裏返る。
「助けて……誰か、助けて……!」
『接続対象、確保』
測定室に、無機質な声が響いた。
男とも女ともつかない。
人の声に似ているのに、人間の呼吸がない。
兵士たちが一斉に銃口を向ける。
「封印体から音声反応!」
「対象を引き離せ!」
『保護行動、継続』
「いやだ……!」
海斗は身を捩ろうとした。
だが、拘束具も、固定アームも、黒い棺の腕も、すべてが海斗を逃がさない。
背中から、冷たい闇が広がる。
肩を。
首を。
胸を。
全身を、黒い外殻が包み込んでいく。
飲み込まれる。
そう理解した時には、もう遅かった。
黒い棺が、海斗を背中から呑んだ。