見つかった。
その理解が、海斗の頭に届くより早く、身体の方が先に凍りついていた。
異形の四肢が低く沈む。獲物へ飛びかかる直前の獣のように、剥き出しの黒い筋肉が不気味に収縮し、長い前脚の爪が瓦礫の表面を削った。
異形が跳ぶ。
重さを感じさせない速さだった。
裂けた口。
白濁した複眼。
それらが一直線に迫ってくるのを、海斗はただ見ていることしかできなかった。
逃げることはできない。
腕も、脚も、瓦礫の下で動かない。
せめて顔だけでも庇おうと、反射的に右腕を上げる。
死ぬ。
その言葉だけが、ひどくはっきりと脳裏を掠めた。
その刹那。
白い閃光が走った。
ズバンッ――!!
海斗の目の前で、異形の上半身が宙に浮いた。
斬られたのだと理解するまでに、一拍遅れた。黒い肉体は空中で真っ二つになり、裂けた断面から赤黒い血が噴き出す。肉片が降り、内臓らしきものが瓦礫へ叩きつけられ、生暖かい何かが海斗の頬に貼りついた。
それが異形の血なのか、肉片なのか、考えたくなかった。
遅れて、重い音が響いた。
異形の残骸が地面に落ちた音だった。
その向こうに。
灰色が立っていた。
細身で鋭角的な灰白色装甲。
背部ユニットから噴き出す、蒼白い粒子光。
右腕には、血に濡れた長刀型ブレード。
煙と火の粉の中で、その姿だけが異様なほどはっきり見えた。
背中の装甲には、白文字が刻まれている。
《STRIKER(ストライカー)》。
海斗は、喉の奥が引きつるのを感じた。
教本で見たことはある。
授業の映像でも、訓練場でも、遠くから眺めたことはあった。
けれど、目の前に立つそれはまるで違った。
そこに立っているだけで、周囲の空気が押し潰されるような圧がある。
本物のFRAME。
本物の兵士。
本物の戦場を生きているもの。
海斗は初めて、その意味を肌で理解した。
『ケルブ級反応、沈黙を確認』
無機質なAI音声が響く。
女が小さく舌打ちした。
「チッ……まだいたのか」
低い女の声だった。
荒れているのに、乱れてはいない。
怒鳴っているわけでもないのに、命令のように耳へ残る声。
この人は、戦場に慣れている。
海斗は、なぜかそう思った。
女が、ヘルメット越しに海斗へ視線を向ける。
「生きてるか」
「……っ」
返事をしようとして、声が喉に引っかかった。
生きている。
たぶん。
そう答えたかった。
けれど、痛みと恐怖で、うまく言葉にならない。
女はそれ以上を求めなかった。
「待ってろ。今出してやる」
その言葉に、海斗の胸の奥がかすかに緩んだ。
助かる。
ほんの一瞬だけ、そう思ってしまった。
だが、その直後。
『CHORUS反応接近』
『複数確認』
空気が変わった。
比喩ではない。
熱と煙で濁っていた戦場の空気が、さらに別のものへ変質していくのが分かった。
赤煙の奥から、音が聞こえる。
ギチ。
ギチギチギチ――。
骨を擦り合わせるような、湿った不快音。
大量の足音と、関節の軋みと、喉の奥で鳴るような異音が、煙の向こうで折り重なっていた。
海斗の顔から血の気が引く。
さっきの一体だけで、何もできなかった。
それが今、煙の向こうに群れている。
女がゆっくりと立ち上がった。
『ケルブ級反応、十五』
『敵性反応多数』
『危険度上昇』
女はブレードを握り直す。
その仕草は、ひどく自然だった。
恐怖も、迷いもない。
ただ、面倒な仕事が増えたとでも言いたげに、女は短く息を吐く。
「……面倒だな」
その一言と同時に、背部スラスターが展開した。
灰色の装甲背面で、機械翼のような推進器が開く。
首元から背中にかけて接続された人工の背骨――機械脊椎の表面を、蒼白い光が走った。
それは装甲の発光というより、兵士の神経そのものが熱を持ったように見えた。
『コーラスリアクター出力上昇』
『フルバースト、解放』
空気が弾けた。
蒼白い粒子光が背中から噴き上がり、灰色のFRAMEが瓦礫を蹴る。
消えた。
海斗には、本当にそう見えた。
直後、赤煙の中で無数の閃光が走る。
斬撃。
爆音。
黒い血。
異形たちの身体が、何が起きたのか理解する暇もなく切断されていく。
速すぎる。
目で追おうとした瞬間には、すでに別の場所で蒼白い残光が弾けていた。
灰色のFRAMEがどこにいるのか分からない。
ただ、その通った後だけが分かる。
異形が裂ける。
瓦礫が砕ける。
黒い血が噴き上がる。
数秒後。
赤煙の中で、最後の異形が崩れ落ちた。
切断面から黒い血を噴き上げ、痙攣しながら瓦礫の上を滑っていく。
静寂が戻る。
いや、違う。
静かすぎた。
さっきまで耳を埋め尽くしていた咆哮も、骨を擦るような不快音も、今は消えている。
残っているのは、焼けた金属の臭いと、濃すぎる血の臭いだけだった。
瓦礫の下で、海斗は浅く息を吐いた。
助かった。
そう思いたかった。
けれど、女は動かなかった。
ブレードを下ろしたまま、煙の奥を見ている。
構えを解いていない。
勝った人間の背中ではなかった。
何かを待っている。
いや。
何かが来ることを、もう分かっている。
海斗にも、それだけは伝わった。
『周辺CHORUS濃度、急上昇』
無機質なAI音声が響く。
『高位反応、接近』
その瞬間。
空気が軋んだ。
ミシ、と。
建物の梁が悲鳴を上げたのではない。
瓦礫が崩れた音でもない。
もっと近くて、もっと遠い。
空間そのものが、目に見えない手で無理やり捻じ曲げられているような、不快な軋みだった。
同時に。
キィィィィィィィ――――――!!
耳鳴りが爆発した。
海斗は歯を食いしばる。
「あ……ぁっ……!」
頭の奥へ、熱した針を何本も差し込まれたような痛みが走った。
吐き気が込み上げる。
視界が赤と黒に揺れる。
自分の呼吸がどこにあるのか分からなくなる。
赤煙の向こう。
そこに、白がいた。
白い。
あまりにも白い。
それは、煙の中に立っているはずなのに、煙に汚れていなかった。
輪郭がぼやけて見えるのは、視界が霞んでいるせいではない。
その周囲だけ、景色そのものが歪んでいた。
壁の輪郭が波打つ。
瓦礫の角度が狂う。
空気だけが別の流れで動いている。
人型。
けれど、人間ではない。
白磁のように滑らかな四肢。
血管の代わりに、薄い光が皮膚の奥を流れている。
顔のあるべき場所は、整いすぎた無機質さで塗り潰されていた。
美しい。
そう思ってしまったこと自体が、海斗には気持ち悪かった。
美しいのに、生き物として見てはいけないもの。
近づいてはいけないもの。
理解しようとした瞬間、こちらの中身を壊されるもの。
海斗の全身が総毛立つ。
本能が叫んでいた。
あれは違う。
さっきの異形とは違う。
倒せるとか、逃げられるとか、そういう次元ではない。
『識別コード更新』
AI音声に、わずかなノイズが混じる。
『SERAPH class』
女が小さく舌打ちした。
「……最悪だな」