どれくらい気を失っていたのか、分からない。
時間の感覚は、どこかに置き去りにされていた。
耳鳴りだけが、まだ続いている。
キィィィィィ――――。
天音海斗は、ゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけている。
砕けた壁の隙間から、熱を含んだ風が流れ込み、焦げた粉塵が頬を撫でていく。
肌に張りついた血は乾き始めていて、少し顔を動かすだけで皮膚が引きつった。
「……ぁ……」
息を吸おうとして、失敗した。
肺の奥が焼けるように痛む。
喉は乾き切っていて、空気を通すだけで細い刃を飲み込んでいるようだった。
そして、すぐ目の前。
灰色の装甲に包まれた女が、瓦礫の中で崩れ落ちていた。
『……出力……低下』
掠れたAI音声。
装甲が割れている。
腹部が大きく抉れていた。
蒼白い火花が、断続的に漏れている。
さっきまで、あれほど速かった灰色の機体が。
今は、瓦礫の中で動けずにいた。
「……ぅ……」
声が出ない。
喉が焼けるように痛かった。
灰色のFRAMEが、僅かに揺れる。
頭部装甲が、粒子のように崩れた。
割れたヘルメットの奥から、白い息が漏れる。
続いて、首元へ接続された機械脊椎が淡く発光した。
蒼白い光が、背骨のような装甲の節を一つずつ走っていく。
胸部から腹部にかけての装甲が、連動するように光の粒子へほどけていく。
崩れた粒子は、そのまま背中の機械脊椎へ吸い込まれた。
その中から。
女が、崩れるように姿を現した。
長い銀灰色の髪。
血に濡れた黒いインナースーツ。
腹部を押さえた手の隙間から、赤が滴っていた。
血は止まらない。
瓦礫の上へ落ちるたび、黒く濡れた床が少しずつ広がっていく。
それでも女は、海斗を見た。
赤い瞳だった。
「……生きてるか」
掠れた声。
海斗は返事ができなかった。
耳鳴りがひどい。
頭が回らない。
目の前の光景を理解しようとするたび、胸の奥が冷たく沈んでいく。
この人は、自分を助けに来た。
自分の前に立った。
そして今、血を流している。
その事実だけが、やけに重くのしかかっていた。
女は小さく息を吐いた。
「……運がいい」
そう言って、崩れた壁へ身体を預ける。
装甲の残骸が、彼女の背中で鈍く鳴った。
海斗は理解した。
この人は、もう助からない。
「……な……んで……」
やっと声が出た。
女は薄く笑った。
「ガキを助ける理由なんざ……いちいち考えねェよ」
乱暴な言い方だった。
だが不思議と、安心する声だった。
海斗の視界が滲む。
血のせいなのか。
涙なのか。
自分でも分からなかった。
女はゆっくり目を閉じかけ――そして、再び開く。
「……聞け」
低い声だった。
「お前は、生き残れ」
海斗が息を呑む。
「何してでも生きろ」
女の赤い瞳が、真っ直ぐ海斗を見ていた。
「化け物になってでもだ」
その言葉だけが、なぜか痛みよりも深く、海斗の奥へ沈んだ。
女の身体から、力が抜ける。
沈黙。
AI音声も、止まっていた。
海斗は動かなかった。
動けなかった。
目の前で人が死んだのだと、頭では理解している。
なのに、心が追いつかない。
死んだ。
自分を助けた人が。
自分のために。
その事実を受け入れた瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。
耳鳴りだけが、ずっと続いている。
ーーー
どれくらい時間が経ったのか分からない。
熱かった。
喉が裂けるほど渇いていた。
腹の奥が、痛いほど空いている。
「……ぁ……」
海斗の視界が揺れる。
頭がぼやける。
何も考えられない。
そして。
すぐ近くに、まだ残っていた。
白い肉片。
あの異形から飛び散った、拳ほどの肉。
海斗が、咄嗟に握り締めていたもの。
手の中で、まだ微かに脈打っている。
生きている。
そんなはずがない。
切り離された肉片だ。
ただの肉だ。
なのに、温かい。
まるで心臓みたいに、手の中で震えている。
海斗の指に、力が入った。
ぐに、と。
白い肉片が、手の中で潰れる。
裂け目から、液体が滲み出した。
血ではなかった。
透明でもない。
白く濁った、生温かい液体。
それが指の隙間から溢れ、手首へ伝っていく。
甘い匂いがした。
「……っ」
喉が鳴った。
ごくり、と。
水じゃない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、目が離せなかった。
乾いた舌が、口の中に貼りついている。
唾液すら出ない。
息を吸うたび、喉の奥が裂けるように痛む。
海斗は震える手で、濡れた指先を見た。
飲むな。
口に入れるな。
頭のどこかで、そう思った。
けれど、身体はもう限界だった。
気づけば、指先が口元へ近づいていた。
舌が、白く濁った液体に触れる。
甘い。吐き気がするほど、甘かった。
それでも。
喉が、勝手にそれを飲み込んだ。
直後、熱い塊のようなものが食道を落ちていき、胸の奥でじわりと広がった。
「あ……」
痛みが遠のく。
潰れた左腕の激痛が、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
代わりに、腹の奥が鳴った。
空腹。
そんな生ぬるいものではなかった。
飢えだった。
喉の渇きが消えたわけじゃない。
ただ、それ以上のものが目を覚ました。
もっと。
身体が、そう訴えていた。
海斗は手の中の肉片を見た。
血に濡れているのに、肉そのものは白い。
骨でもない。
脂肪でもない。
生き物の一部でありながら、どこか作り物めいている。
海斗は、息を止めた。
だめだ。
これは食べ物じゃない。
そう思った。
思ったはずだった。
腹の奥が、焼けるように収縮する。
「が、ぁ……っ!」
視界が白く弾けた。
考えが砕ける。
理性が、音を立てて剥がれていく。
生きたい。
死にたくない。
まだ、死にたくない。
それだけが残った。
震える手が、白い肉片を口元へ運ぶ。
歯が、肉に触れた。
柔らかかった。
温かかった。
裂けた断面から、白く濁った液体が溢れる。
海斗は、それをすすった。
喉が勝手に動く。
飲み込む。
まだ足りない。
歯が、肉へ沈んだ。
ぐに、と。
生温かい繊維が、口の中で裂ける。
海斗は、噛んだ。
噛んで。
飲み込んだ。
——その瞬間。
耳鳴りが、ぷつりと途切れた。
炎の音も、瓦礫の軋みも、自分の呼吸さえも遠ざかっていく。
世界から切り離されたような静寂の中で。
どくん、と。
海斗の内側に、知らない鼓動が生まれた。
白い光。
黒い影。
混ざり合わない二つの色が、意識の底でゆっくりと広がっていく。
そして。
どこか遠くで。
誰かが、海斗を見た気がした。
——接続、失敗。
——拒絶、確認。
声ではない。
言葉でもない。
それでも、意味だけが脳へ沈み込む。
海斗は、最後に浅く息を吐いた。
そして再び、意識を失った。