レクイエムフレーム   作:momomotototo

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第四話 小さな決意

 あまりにも、静かだった。

 

 さっきまで頭の奥で鳴り続けていた高音が消えている。

 

 神経を削るような不快な響きも、脳の裏側を掻き回されるような痛みも、今はどこにもない。

 

 その静けさが、逆に気味悪かった。

 

「……ぁ……」

 

 天音海斗は、ゆっくりと目を開けた。

 

 視界は暗い。

 

 砕けた天井の隙間から差し込む赤い光だけが、崩落した校舎の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 

 海斗はまだ、倒壊した建材の下にいた。

 

 喉は乾いている。

 

 肺も痛む。

 

 けれど、身体そのものが重いわけではなかった。

 

 むしろ、感覚だけが妙にはっきりしている。

 

 背中にかかる圧迫。

 

 肌に張りついた血の乾いた感触。

 

 指先に触れる砂粒のざらつき。

 

 息を吸うたびに混じる、焦げた粉塵の匂い。

 

 その全部が、気味が悪いほど鮮明だった。

 

 そして。

 

 生きていた。

 

「……俺……」

 

 声が掠れる。

 

 何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。

 

 灰色のFRAME。

 

 白い異形。

 

 女の声。

 

 生き残れ。

 

 何してでも。

 

 化け物になってでも。

 

 そして。

 

 白い肉。

 

「……っ」

 

 喉の奥が詰まった。

 

 胃の底が、ぐらりと揺れる。

 

 口の中に、まだあの味が残っている気がした。

 

 吐き気がするほど甘い味。

 

 歯の間で裂けた、生温かい繊維。

 

 喉を通っていった、柔らかい塊。

 

「……う、ぁ……」

 

 込み上げたものを吐き出そうとして、身体が小さく震えた。

 

 だが、何も出なかった。

 

 胃の中は空っぽのはずなのに、腹の奥だけが熱い。

 

 まるでそこに、別の心臓ができたみたいに。

 

 どくん。

 

 小さく。

 

 身体の内側で、何かが脈打った気がした。

 

 海斗は、反射的に左腕へ意識を向ける。

 

 あの時、潰れていたはずだった。

 

 コンクリートと鉄骨に押し潰され、骨の奥をドリルで掻き回されるような激痛があった。

 

 動かすどころか、考えるだけで吐きそうになるほど痛かった。

 

 なのに。

 

 今は、痛くない。

 

「……え」

 

 痛みがない。

 

 それどころか、感覚がある。

 

 指先。

 

 手のひら。

 

 手首。

 

 肘。

 

 全部、自分の身体の一部として、はっきり感じ取れる。

 

 当たり前のことのはずだった。

 

 自分の腕なのだから、動いて当然のはずだった。

 

 けれど、その当然がひどく気持ち悪い。

 

 さっきまで壊れていたものが、何事もなかったように戻っている。

 

 それは救いではなく、異常だった。

 

 海斗は恐る恐る、左手の指先へ力を入れた。

 

 ぴくり。

 

 指が動く。

 

 上に乗っていたコンクリート片が、ギ、と鈍い音を立ててズレた。

 

「……は?」

 

 海斗の呼吸が止まる。

 

 今、何をした。

 

 ただ指を動かしただけだ。

 

 力を込めたつもりなんてない。

 

 なのに、身体を押し潰していた塊が、ほんのわずかに浮いていた。

 

 重いはずだった。

 

 人ひとりの腕で動かせるものではないはずだった。

 

 普通なら、指先どころか腕ごと潰されて終わる重さ。

 

 それなのに、左腕へ返ってくる感触は、異様なほど軽い。

 

 まるで、薄い板を押しているみたいだった。

 

「……なんだよ……これ」

 

 声が震える。

 

 海斗は恐る恐る、左腕に力を込めた。

 

 ギギギ、と鉄骨が軋む。

 

 押し被さっていた建材が持ち上がる。

 

 持ち上がってしまう。

 

「嘘だろ……」

 

 さらに押し上げる。

 

 重低音とともに、コンクリートの塊があっさりと横へ傾いた。

 

 床へ落ちる。

 

 粉塵が舞い上がった。

 

 閉じ込められていた空間に、赤い光が差し込む。

 

 海斗は呆然としたまま、その隙間から這い出した。

 

 膝が砕けた床を擦る。

 

 手のひらが血で滑る。

 

 ようやく身体を起こして、海斗は左腕を見た。

 

 そこに、腕があった。

 

 血に汚れている。

 

 皮膚には裂けた痕が残っている。

 

 だが、潰れていない。

 

 折れていない。

 

 指が動く。

 

 手首が曲がる。

 

 肘も、当たり前みたいに反応する。

 

 何もかも、元に戻っていた。

 

「……なんで」

 

 助かった、とは思えなかった。

 

 治っている。

 

 動いている。

 

 それなのに、胸の奥へ沈んでいくのは安堵ではなく、冷たい違和感だった。

 

 本当にこれは、自分の身体なのか。

 

 海斗は立ち上がろうとして、足元をふらつかせた。

 

 そこには、黒い血が広がっていた。

 

 砕けた装甲片。

 

 白く焼けた壁。

 

 赤黒い肉片。

 

 焦げた床には、無数の亀裂が走っている。

 

 漏電した配線が明滅するたび、崩れた教室の壁に不規則な影が揺れる。

 

 その揺れる影の奥に、女がいた。

 

 崩れた壁にもたれるようにして、動かずに座っていた。

 

 長い銀灰色の髪。

 

 血に濡れた黒いインナースーツ。

 

 腹部を押さえた手の隙間には、乾きかけた赤が固まっている。

 

 首元には、FRAMEと神経を繋いでいた端子の痕。

 

 背中には、沈黙した機械脊椎ユニット。

 

 さっきまで戦場を駆けていた灰色の装甲は、もうほとんど形を残していなかった。

 

 赤い瞳は、海斗を見ていない。

 

「……あ」

 

 喉から、声にならない音が漏れた。

 

 分かっていた。

 

 分かっていたはずだった。

 

 あの時、女の身体から力が抜けた時に。

 

 この人はもう助からないと、分かっていた。

 

 それでも。

 

 目の前で動かない姿を見ると、胸の奥が壊れたみたいに痛んだ。

 

 海斗はふらつきながら近づいた。

 

 一歩。

 

 装甲片が、靴の下で小さく鳴る。

 

 二歩。

 

 足元の血が、床の亀裂を伝って黒く広がっている。

 

 三歩目で、膝から力が抜けた。

 

 女の前に、崩れるように膝をつく。

 

 近くで見ると、彼女はひどく小さく見えた。

 

 さっきまで、あの白い異形の前に立っていた。

 

 あれほど速く、あれほど強く、手の届かない存在に見えた。

 

 なのに今は。

 

 血に濡れた髪が頬に張りつき、浅い呼吸さえ残っていない。

 

 ただの人間だった。

 

 自分と同じ。

 

 血を流せば死ぬ、人間だった。

 

「……なんで……」

 

 海斗は手を伸ばしかけて、止めた。

 

 触れてしまえば、本当に死んでいると分かってしまう気がした。

 

 それが怖かった。

 

 名前も知らない。

 

 何者なのかも知らない。

 

 どうして自分を助けたのかも分からない。

 

 けれど。

 

 この人は、自分を守った。

 

 自分のために、戦った。

 

 自分の前で、死んだ。

 

「……っ……」

 

 息を吸おうとして、喉が詰まった。

 

 胸の奥が潰れるように痛んで、視界がじわりと滲む。

 

 泣くつもりなんてなかった。

 

 けれど、目の端から落ちた雫が、灰と血で汚れた床に小さく染みた。

 

 それを見た瞬間、もう止められなかった。

 

「ごめん……」

 

 声が掠れた。

 

「ごめんなさい……」

 

 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。

 

 助けてもらったことか。

 

 生き残ってしまったことか。

 

 この人の名前すら知らないことか。

 

 それとも。

 

 あの白い肉を口にしてまで、まだ生きている自分自身にか。

 

 答えは出ない。

 

 ただ、涙だけが落ちていく。

 

 ぽた。

 

 ぽた。

 

 その時、女の胸元で何かが小さく揺れた。

 

 割れた認識票だった。

 

 煤と血で汚れ、端は焼け焦げている。

 

 細い鎖は途中で千切れ、黒ずんだ金属片だけが、かろうじてインナースーツに引っかかっていた。

 

 海斗は震える手を伸ばした。

 

 触れていいのか、迷った。

 

 けれど、そのまま置いていけば、血と灰の中に埋もれてしまう気がした。

 

 認識票には、かろうじて白い文字が残っている。

 

 《GRIM REAPER(グリムリーパー)》

 

 《REAPER-1》

 

「……リーパー……?」

 

 それが名前なのか、部隊なのか、海斗には分からなかった。

 

 ただ、その文字だけは目に焼きついた。

 

 海斗は、震える指で認識票をそっと摘んだ。

 

 握りしめるのが怖かった。

 

 今の自分が力を込めれば、この薄い金属片まで壊してしまいそうだった。

 

 だから、壊れ物に触れるみたいに拾い上げ、血で汚れた制服の胸元へしまう。

 

 この人が、確かにここにいた証。

 

 そう思うと、また涙が落ちた。

 

 海斗は女の前に膝をついたまま、しばらく動けなかった。

 

 赤い瞳は閉じられないまま、崩れた天井の向こうを見ている。

 

 その視線の先には、血のように赤い空があった。

 

 海斗は、汚れた自分の左手を見る。

 

 潰れていたはずの腕。

 

 戻ってしまった腕。

 

 もう普通ではないかもしれない身体。

 

 それでも、この手でまだ生きている。

 

 この人が残した命で、まだ息をしている。

 

 女の最後の言葉が、頭の奥で繰り返された。

 

 ――お前は、生き残れ。

 

 ――何してでも生きろ。

 

 ――化け物になってでもだ。

 

「……俺」

 

 声は震えていた。

 

 弱くて、情けなくて、自分でも嫌になるくらい掠れていた。

 

「……助かる」

 

 涙がまた落ちる。

 

 女は何も答えない。

 

 それでも、海斗は言った。

 

「必ず……助かるから……」

 

 約束だった。

 

 誰に届くのかも分からない。

 

 もう聞こえていないかもしれない。

 

 それでも、言わなければならなかった。

 

 このまま何も言わずに立ち去ったら、女が命をかけて残したものまで、自分が踏みにじってしまう気がした。

 

 海斗は震える拳を握った。

 

「だから……」

 

 喉が詰まる。

 

 息が震える。

 

 それでも、吐き出す。

 

「……生きる」

 

 それが、彼女に返せる唯一の答えだった。

 

 ここで死ぬことだけはできない。

 

 海斗は、震える膝に力を込めて立ち上がった。

 

 足元は頼りなく、涙もまだ頬を伝っている。

 

 それでも、前を見る。

 

 崩れた教室の出口。

 

 赤黒い煙の向こう。

 

 そこから先に、まだ道がある。

 

 生きる。

 

 女が命をかけて残した言葉を、無駄にしないために。

 

 海斗は、崩れた床を踏み越えて歩き出した。

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