あまりにも、静かだった。
さっきまで頭の奥で鳴り続けていた高音が消えている。
神経を削るような不快な響きも、脳の裏側を掻き回されるような痛みも、今はどこにもない。
その静けさが、逆に気味悪かった。
「……ぁ……」
天音海斗は、ゆっくりと目を開けた。
視界は暗い。
砕けた天井の隙間から差し込む赤い光だけが、崩落した校舎の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
海斗はまだ、倒壊した建材の下にいた。
喉は乾いている。
肺も痛む。
けれど、身体そのものが重いわけではなかった。
むしろ、感覚だけが妙にはっきりしている。
背中にかかる圧迫。
肌に張りついた血の乾いた感触。
指先に触れる砂粒のざらつき。
息を吸うたびに混じる、焦げた粉塵の匂い。
その全部が、気味が悪いほど鮮明だった。
そして。
生きていた。
「……俺……」
声が掠れる。
何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。
灰色のFRAME。
白い異形。
女の声。
生き残れ。
何してでも。
化け物になってでも。
そして。
白い肉。
「……っ」
喉の奥が詰まった。
胃の底が、ぐらりと揺れる。
口の中に、まだあの味が残っている気がした。
吐き気がするほど甘い味。
歯の間で裂けた、生温かい繊維。
喉を通っていった、柔らかい塊。
「……う、ぁ……」
込み上げたものを吐き出そうとして、身体が小さく震えた。
だが、何も出なかった。
胃の中は空っぽのはずなのに、腹の奥だけが熱い。
まるでそこに、別の心臓ができたみたいに。
どくん。
小さく。
身体の内側で、何かが脈打った気がした。
海斗は、反射的に左腕へ意識を向ける。
あの時、潰れていたはずだった。
コンクリートと鉄骨に押し潰され、骨の奥をドリルで掻き回されるような激痛があった。
動かすどころか、考えるだけで吐きそうになるほど痛かった。
なのに。
今は、痛くない。
「……え」
痛みがない。
それどころか、感覚がある。
指先。
手のひら。
手首。
肘。
全部、自分の身体の一部として、はっきり感じ取れる。
当たり前のことのはずだった。
自分の腕なのだから、動いて当然のはずだった。
けれど、その当然がひどく気持ち悪い。
さっきまで壊れていたものが、何事もなかったように戻っている。
それは救いではなく、異常だった。
海斗は恐る恐る、左手の指先へ力を入れた。
ぴくり。
指が動く。
上に乗っていたコンクリート片が、ギ、と鈍い音を立ててズレた。
「……は?」
海斗の呼吸が止まる。
今、何をした。
ただ指を動かしただけだ。
力を込めたつもりなんてない。
なのに、身体を押し潰していた塊が、ほんのわずかに浮いていた。
重いはずだった。
人ひとりの腕で動かせるものではないはずだった。
普通なら、指先どころか腕ごと潰されて終わる重さ。
それなのに、左腕へ返ってくる感触は、異様なほど軽い。
まるで、薄い板を押しているみたいだった。
「……なんだよ……これ」
声が震える。
海斗は恐る恐る、左腕に力を込めた。
ギギギ、と鉄骨が軋む。
押し被さっていた建材が持ち上がる。
持ち上がってしまう。
「嘘だろ……」
さらに押し上げる。
重低音とともに、コンクリートの塊があっさりと横へ傾いた。
床へ落ちる。
粉塵が舞い上がった。
閉じ込められていた空間に、赤い光が差し込む。
海斗は呆然としたまま、その隙間から這い出した。
膝が砕けた床を擦る。
手のひらが血で滑る。
ようやく身体を起こして、海斗は左腕を見た。
そこに、腕があった。
血に汚れている。
皮膚には裂けた痕が残っている。
だが、潰れていない。
折れていない。
指が動く。
手首が曲がる。
肘も、当たり前みたいに反応する。
何もかも、元に戻っていた。
「……なんで」
助かった、とは思えなかった。
治っている。
動いている。
それなのに、胸の奥へ沈んでいくのは安堵ではなく、冷たい違和感だった。
本当にこれは、自分の身体なのか。
海斗は立ち上がろうとして、足元をふらつかせた。
そこには、黒い血が広がっていた。
砕けた装甲片。
白く焼けた壁。
赤黒い肉片。
焦げた床には、無数の亀裂が走っている。
漏電した配線が明滅するたび、崩れた教室の壁に不規則な影が揺れる。
その揺れる影の奥に、女がいた。
崩れた壁にもたれるようにして、動かずに座っていた。
長い銀灰色の髪。
血に濡れた黒いインナースーツ。
腹部を押さえた手の隙間には、乾きかけた赤が固まっている。
首元には、FRAMEと神経を繋いでいた端子の痕。
背中には、沈黙した機械脊椎ユニット。
さっきまで戦場を駆けていた灰色の装甲は、もうほとんど形を残していなかった。
赤い瞳は、海斗を見ていない。
「……あ」
喉から、声にならない音が漏れた。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
あの時、女の身体から力が抜けた時に。
この人はもう助からないと、分かっていた。
それでも。
目の前で動かない姿を見ると、胸の奥が壊れたみたいに痛んだ。
海斗はふらつきながら近づいた。
一歩。
装甲片が、靴の下で小さく鳴る。
二歩。
足元の血が、床の亀裂を伝って黒く広がっている。
三歩目で、膝から力が抜けた。
女の前に、崩れるように膝をつく。
近くで見ると、彼女はひどく小さく見えた。
さっきまで、あの白い異形の前に立っていた。
あれほど速く、あれほど強く、手の届かない存在に見えた。
なのに今は。
血に濡れた髪が頬に張りつき、浅い呼吸さえ残っていない。
ただの人間だった。
自分と同じ。
血を流せば死ぬ、人間だった。
「……なんで……」
海斗は手を伸ばしかけて、止めた。
触れてしまえば、本当に死んでいると分かってしまう気がした。
それが怖かった。
名前も知らない。
何者なのかも知らない。
どうして自分を助けたのかも分からない。
けれど。
この人は、自分を守った。
自分のために、戦った。
自分の前で、死んだ。
「……っ……」
息を吸おうとして、喉が詰まった。
胸の奥が潰れるように痛んで、視界がじわりと滲む。
泣くつもりなんてなかった。
けれど、目の端から落ちた雫が、灰と血で汚れた床に小さく染みた。
それを見た瞬間、もう止められなかった。
「ごめん……」
声が掠れた。
「ごめんなさい……」
何に謝っているのか、自分でも分からなかった。
助けてもらったことか。
生き残ってしまったことか。
この人の名前すら知らないことか。
それとも。
あの白い肉を口にしてまで、まだ生きている自分自身にか。
答えは出ない。
ただ、涙だけが落ちていく。
ぽた。
ぽた。
その時、女の胸元で何かが小さく揺れた。
割れた認識票だった。
煤と血で汚れ、端は焼け焦げている。
細い鎖は途中で千切れ、黒ずんだ金属片だけが、かろうじてインナースーツに引っかかっていた。
海斗は震える手を伸ばした。
触れていいのか、迷った。
けれど、そのまま置いていけば、血と灰の中に埋もれてしまう気がした。
認識票には、かろうじて白い文字が残っている。
《GRIM REAPER(グリムリーパー)》
《REAPER-1》
「……リーパー……?」
それが名前なのか、部隊なのか、海斗には分からなかった。
ただ、その文字だけは目に焼きついた。
海斗は、震える指で認識票をそっと摘んだ。
握りしめるのが怖かった。
今の自分が力を込めれば、この薄い金属片まで壊してしまいそうだった。
だから、壊れ物に触れるみたいに拾い上げ、血で汚れた制服の胸元へしまう。
この人が、確かにここにいた証。
そう思うと、また涙が落ちた。
海斗は女の前に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
赤い瞳は閉じられないまま、崩れた天井の向こうを見ている。
その視線の先には、血のように赤い空があった。
海斗は、汚れた自分の左手を見る。
潰れていたはずの腕。
戻ってしまった腕。
もう普通ではないかもしれない身体。
それでも、この手でまだ生きている。
この人が残した命で、まだ息をしている。
女の最後の言葉が、頭の奥で繰り返された。
――お前は、生き残れ。
――何してでも生きろ。
――化け物になってでもだ。
「……俺」
声は震えていた。
弱くて、情けなくて、自分でも嫌になるくらい掠れていた。
「……助かる」
涙がまた落ちる。
女は何も答えない。
それでも、海斗は言った。
「必ず……助かるから……」
約束だった。
誰に届くのかも分からない。
もう聞こえていないかもしれない。
それでも、言わなければならなかった。
このまま何も言わずに立ち去ったら、女が命をかけて残したものまで、自分が踏みにじってしまう気がした。
海斗は震える拳を握った。
「だから……」
喉が詰まる。
息が震える。
それでも、吐き出す。
「……生きる」
それが、彼女に返せる唯一の答えだった。
ここで死ぬことだけはできない。
海斗は、震える膝に力を込めて立ち上がった。
足元は頼りなく、涙もまだ頬を伝っている。
それでも、前を見る。
崩れた教室の出口。
赤黒い煙の向こう。
そこから先に、まだ道がある。
生きる。
女が命をかけて残した言葉を、無駄にしないために。
海斗は、崩れた床を踏み越えて歩き出した。