レクイエムフレーム   作:momomotototo

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第五話 異常生存

 振り返らなかった。

 

 振り返れば、また動けなくなる気がした。

 

 あの女が倒れている場所を見てしまえば、足はきっと止まる。

 

 泣くことも、謝ることも、もうさっきやった。

 

 それでも何かを返せた気はしなかった。

 

 胸の奥には、割れた認識票の硬い感触がある。

 

 血と煤に汚れた小さな金属片。

 

 それだけが、海斗を前へ押していた。

 

 崩れた教室の出口を抜けると、焼けた霞が廊下の奥へ流れていた。

 

 廊下は、原形をほとんど残していない。

 

 天井の一部は崩れ落ち、剥き出しになった配線が焼けた血管のように垂れている。床には割れたガラス片と焦げた教材が散乱し、歩くたびに靴底の下で細かな破片が鳴った。

 

 壁際には、半分焼け落ちた避難誘導表示が残っている。

 

『地下シェルターへ――』

 

『地下シェ――避難――』

 

 壊れた音声だけが、同じ言葉を繰り返していた。

 

 数時間前まで、ここはただの学園の廊下だった。

 

 授業終わりの生徒たちが騒ぎながら歩き、教官に怒鳴られた誰かが実習棟へ走っていき、窓際では訓練場のSTRIKERを見て歓声が上がっていた。

 

 その全部が、今は血と灰の臭いに塗り潰されている。

 

「……」

 

 海斗は目を逸らした。

 

 見ていたら、足が止まりそうだった。

 

 生きる。

 

 女の言葉を、何度も胸の中で繰り返す。

 

 生きるんだ。

 

 何してでも。

 

 そう思った時だった。

 

 ギチ。

 

 音がした。

 

 海斗の足が止まる。

 

 ギチ、ギチ。

 

 硬い爪が、床を引っ掻く音。

 

 人間の足音じゃない。

 

「……っ」

 

 息が詰まった。

 

 距離が分からないほど、生々しく聞こえた。

 

 すぐそこにいると、身体が勝手に判断していた。

 

 廊下の角。

 

 濁った空気の奥。

 

 さっき海斗を襲った、あの四足の異形。

 

 ギチ。

 

 ギチギチ。

 

 爪がコンクリートを削る音。

 

 濡れた喉が鳴る音。

 

 牙の隙間から漏れる呼吸。

 

 ぬちゃり、と唾液が落ちる音まで聞こえた。

 

 近すぎる。

 

 海斗はゆっくりと顔を上げた。

 

 崩れた壁の向こう。

 

 煙の隙間。

 

 そこに、いた。

 

 裂けた口。

 

 白濁した複眼。

 

 黒く脈動する筋肉。

 

 異形が、ゆっくりと頭を上げる。

 

 海斗は、それと目が合った気がした。

 

「……ぁ」

 

 見つかった。

 

 そう思うより早く、身体が動いていた。

 

 考えるより先に、足が床を蹴る。

 

 一歩。

 

 床が砕けた。

 

「え――」

 

 視界が流れる。

 

 速い。

 

 速すぎる。

 

 廊下の壁が、赤い線みたいに横へ飛んでいく。

 

 二歩目。

 

 コンクリートが蜘蛛の巣状に割れる。

 

 三歩目。

 

 身体がさらに前へ押し出された。

 

 自分の脚じゃない。

 

 自分の速度じゃない。

 

 呼吸が追いつかない。

 

 心臓だけが、やけに静かだった。

 

「止まれ……!」

 

 曲がり角が迫る。

 

 近い。

 

 速い。

 

 海斗は足を踏ん張ろうとした。

 

 だが、床が先に砕けた。

 

 靴底の下でコンクリートが弾け、身体が前へ滑る。

 

「止まれって……!」

 

 壁が迫る。

 

 白く焼けたコンクリート壁。

 

 曲がった鉄筋。

 

 割れた警告灯。

 

 全部が、ほとんど同時に目の前へ押し寄せた。

 

 止まれ。

 

 止まれ。

 

 止まれ。

 

 海斗の身体が、壁へ突っ込んだ。

 

 コンクリートが砕ける。

 

 鉄筋が曲がる。

 

 粉塵が爆ぜる。

 

 崩れた壁の向こう側へ、海斗の身体が転がり込んだ。

 

「がっ……!」

 

 床に叩きつけられる。

 

 肺から息が抜けた。

 

 砕けた建材が背中に当たる。

 

 痛い。

 

 確かに痛い。

 

 だが。

 

 折れていない。

 

 潰れていない。

 

 死んでいない。

 

 海斗は粉塵の中で、荒く息を吐いた。

 

 目の前には、自分が突き破った壁があった。

 

 厚いコンクリートは内側から爆ぜたように砕け、曲がった鉄筋が肋骨みたいに剥き出しになっている。

 

 人間がぶつかって壊せるものではない。

 

 少なくとも、昨日までの海斗なら、壁にぶつかった時点で骨が折れていた。肺が潰れて、立ち上がることさえできなかったはずだ。

 

 なのに、今は違う。

 

 痛みはある。

 

 けれど、身体は壊れていない。

 

 壊れたのは、壁の方だった。

 

「……なんだよ、これ」

 

 声が震える。

 

 身体全部が、おかしい。

 

 力も。

 

 速度も。

 

 痛みの残り方も。

 

 何もかも、知っている自分と違っていた。

 

 海斗は震える手で胸元を押さえた。

 

 服の下。

 

 腹の奥。

 

 そこが、まだ熱い。

 

 どくん。

 

 また、小さく何かが脈打った気がした。

 

「やめろ……」

 

 歯を食いしばる。

 

「勝手に……動くなよ……」

 

 返事はない。

 

 ただ、身体だけが生きている。

 

 自分より先に。

 

 自分の意思より先に。

 

 生きようとしている。

 

 それが、怖かった。

 

 粉塵が少しずつ薄れていく。

 

 崩れた壁の穴から、外が見えた。

 

 焼けたグラウンド。

 

 ひしゃげた訓練用STRIKERの残骸。

 

 倒れた照明塔。

 

 赤みを帯びた煙。

 

 そのさらに向こう。

 

 崩壊した校舎の外縁部。

 

 そこに、四足の異形がいた。

 

 遠い。

 

 あまりにも遠い。

 

 少なくとも、数百メートルは離れている。

 

「……は?」

 

 海斗は言葉を失った。

 

 さっき、すぐ近くだと思った。

 

 廊下の角にいると思った。

 

 目が合ったと思った。

 

 息遣いまで聞こえた。

 

 唾液が落ちる音まで分かった。

 

 なのに。

 

 違った。

 

 異形は、ずっと遠くにいた。

 

 遠くにいるはずだった。

 

 それなのに、今も聞こえる。

 

 ギチ。

 

 ギチ、ギチ。

 

 爪が建材を掻く音。

 

 濡れた呼吸。

 

 喉の奥で鳴る、低い唸り。

 

 遠い。

 

 なのに、近すぎる。

 

 音も、匂いも、視界も。

 

 全部が、人間の距離感から外れていた。

 

 異形の白濁した複眼が、微かに動くのまで見えてしまう。

 

 海斗の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……嘘だろ」

 

 近かったのは、異形じゃない。

 

 おかしかったのは、距離じゃない。

 

 自分の感覚だった。

 

 海斗は後ずさった。

 

 砕けた壁の破片が、足元で崩れる。

 

 止まっている場合じゃない。

 

 ここにいたら、今度こそ殺される。

 

 そう思うだけで、脚の奥に力が溜まっていく。

 

 海斗は唇を噛んだ。

 

「……なんなんだよ、俺……」

 

 灰混じりの煙が流れ込む。

 

 遠くで異形が、ゆっくりとこちらを向いた。

 

 今度こそ。

 

 本当に、見られた気がした。

 

 海斗は息を殺し、崩れた壁の陰へ身を沈めた。

 

 外では炎が揺れている。

 

 壊れた学園のどこかで、警報がまだ鳴っている。

 

 その音に混じって、別の気配が近づいてきた。

 

 重い足音。

 

 硬い駆動音。

 

 砕けた建材を踏み越える音。

 

 そして、ノイズ混じりの人間の声。

 

『第十三戦術学園、B-17区画に到達』

 

『周辺クリアリング開始』

 

『生存者反応を再確認』

 

 海斗は、崩れた壁の陰で息を止めた。

 

 人の声だ。

 

 軍の無線だ。

 

 助けが来た。

 

「……助かる……」

 

 掠れた声が、喉から漏れる。

 

 ようやく終わる。

 

 そう思った瞬間だけ、膝から力が抜けそうになった。

 

 あの女の言葉を、無駄にしなくて済む。

 

 海斗は震える足に力を入れ、壁に手をつきながら、ゆっくりと身体を起こした。

 

 崩れた廊下の向こうから、白いライトが差し込む。

 

 眩しい。

 

 思わず目を細める。

 

 光の向こうに、複数の人影が見えた。

 

 全身を覆う黒灰色の防護装備。

 

 ヘルメット。

 

 呼吸フィルター。

 

 手には小銃。

 

 救助隊にしては、あまりに物々しかった。

 

 担架もない。

 

 医療キットも見えない。

 

 彼らが持っているのは、人を運ぶための装備ではなく、人を撃つための銃だった。

 

 海斗にも、それだけは分かった。

 

 それでも。

 

 そこにいるのは、化け物じゃない。

 

 人間だった。

 

「……こ、こっち……」

 

 声を出そうとする。

 

 だが喉が乾き切っていて、まともな音にならない。

 

 代わりに、足元の破片が小さく鳴った。

 

 それだけだった。

 

 しかし、兵士たちは一斉に反応した。

 

『反応あり』

 

『前方、崩落壁内部』

 

『生存者反応、一』

 

『対象、学生服。負傷あり』

 

 ライトが、海斗の顔を照らす。

 

「……っ」

 

 眩しさに顔を歪めながら、海斗は震える手を上げた。

 

 血に汚れた右手。

 

 戻ってしまった左腕。

 

 灰と赤黒い汚れにまみれた制服。

 

 自分が敵ではないと示したかった。

 

 助けてほしかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

「たす……けて……」

 

 言葉にならない声。

 

 喉の奥で、掠れて消える。

 

 だが。

 

『待て』

 

 兵士の声が変わった。

 

 短く、硬い声だった。

 

『対象からCHORUS反応』

 

『濃度、危険域』

 

 周囲の空気が、冷えた。

 

 それまで近づこうとしていた足音が止まる。

 

 ライトの角度が変わる。

 

 銃口が、上がった。

 

 カチャ、と。

 

 安全装置が外れる音がした。

 

「……え」

 

 海斗は理解できなかった。

 

 コーラス反応。

 

 俺から。

 

 何を言ってるんだ。

 

 CHORUSは、あの怪物どものことだろ。

 

『撃て』

 

 短い声だった。

 

 海斗の呼吸が止まる。

 

『待ってください、学生です』

 

 別の兵士の声が入る。

 

 若い声だった。

 

 迷いが滲んでいた。

 

 だが、すぐに別の声が返る。

 

『さっきもそう見えただろ』

 

 低く、押し殺した声。

 

 震えていた。

 

 怒りなのか、恐怖なのか、海斗には分からなかった。

 

『泣いてた。助けてくれって言ってた。近づいた瞬間、胸が割れて中から出てきた』

 

 沈黙。

 

 赤黒い煙の中で、ライトだけが揺れている。

 

『撃て。近づけるな』

 

 白い光の向こうで、銃口が揺れずに海斗を捉えていた。

 

「違う……」

 

 海斗は首を振った。

 

「俺は……違う……」

 

 だが、兵士たちの声は冷たい。

 

『対象、発声確認』

 

『誘引行動の可能性』

 

「違う!」

 

 叫んだ声は、泣き声みたいに掠れていた。

 

 自分でも情けなくなるほど、震えていた。

 

 海斗は両手を上げたまま、一歩下がる。

 

 兵士たちは、さらに狙いを合わせる。

 

『後退した』

 

『逃走準備』

 

『撃て』

 

「やめて……!」

 

 撃たれる。

 

 その実感が、遅れて全身を冷たく貫いた。

 

 逃げたい。

 

 今すぐ、この銃口の前から消えたい。

 

 だが、動けば撃たれる。

 

 逃げれば、もう本当に人間として見てもらえなくなる。

 

 海斗は歯を食いしばった。

 

 足が震える。

 

 指先が強張る。

 

 視界が涙で滲む。

 

 ほんの少し後ずさっただけなのに、兵士たちの銃口は下がらない。

 

 ただ、怖かった。

 

 撃たれたくなかった。

 

 死にたくなかった。

 

 それだけだった。

 

 なのに。

 

 このままここにいたら、撃たれる。

 

 殺される。

 

 人間としてではなく。

 

 怪物として。

 

 銃口が並ぶ。

 

 ライトが眩しい。

 

 警告音が鳴る。

 

 兵士たちの呼吸音まで聞こえる。

 

 誰かの指が、引き金へかかる微かな金属音すら聞こえてくる。

 

「俺は……」

 

 喉の奥が、きゅっと狭くなった。

 

 言葉にしようとした息だけが、掠れて消える。

 

 胸の奥で、女の言葉が蘇る。

 

 ――化け物になってでもだ。

 

 違う。

 

 違う。

 

 違う。

 

 俺は、まだ。

 

 まだ、人間だ。

 

「俺は……人間です」

 

 その言葉は、崩れた廊下に小さく落ちた。

 

 誰も答えなかった。

 

 兵士たちの銃口は下がらない。

 

 ライトは眩しいほど白く、赤黒い煙の中で警告音だけが鳴り続けている。

 

『対象、CHORUS反応継続』

 

『生存者判定を撤回』

 

『汚染個体として処理』

 

『発砲許可』

 

 生存者判定を撤回。

 

 その言葉が、海斗の胸を冷たく刺した。

 

 さっきまで、自分は助けられる側だった。

 

 だが今は違う。

 

 撃たれる側だ。

 

 海斗の足が、ほんのわずかに床を掴んだ。

 

 足元のコンクリートが小さく軋む。

 

 ほんの少し力を入れただけだった。

 

「……死んで、たまるか」

 

 自分に向けて言った。

 

 死んでたまるか。

 

 胸の奥で、同じ言葉だけが何度も跳ね返る。

 

 女が命を懸けて残した自分を、ここで撃ち殺されてたまるか。

 

 だが、兵士たちはその小さな動きを見逃さない。

 

『対象、姿勢変化』

 

『発砲準備』

 

 銃口の奥が、黒く見えた。

 

 恐怖が、限界を超えた。

 

 逃げなければ。

 

 撃たれる。

 

 殺される。

 

 海斗は、息を吸った。

 

 そして。

 

 白いライトの中で、足元の床が、ひび割れた。

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