海斗は、思いきり床を蹴った。
瞬間、足元のコンクリートが弾け飛ぶ。
放射状に亀裂が走り、砕けた破片が白いライトの中へ跳ね上がった。
『対象、逃走!』
『撃て!』
背後で銃声が連なった。
短い破裂音が崩れた廊下に跳ね返り、壁の破片が海斗の頬をかすめる。
振り返らない。
白いライトも、銃口も、自分を“汚染個体”と呼んだ声も、全部が背後から迫ってくる気がした。
海斗は半壊した廊下を駆け抜ける。
止まれば、撃たれる。
だから、前だけを見るしかなかった。
『速い!』
『人間の速度じゃない!』
『射線確保!』
『撃ち続けろ!』
背中を追うように、また銃声が重なる。
その瞬間、首筋が粟立(あわだ)った。
弾丸そのものが見えたわけじゃない。
ただ、背中側の空気が裂ける気配だけが、嫌なほど鮮明だった。
来る。
そう思うより先に、海斗の肩がわずかに沈む。
熱い圧が、頬のすぐ横を掠めた。
直後、すぐ前方の壁が弾ける。
視界の端で、厚いコンクリート壁が人ひとり分ほど抉れ、千切れた鉄筋と砕けた壁材が廊下へ吹き飛んだ。
確認する余裕なんてない。
それでも、分かった。
あれは、人を止めるための弾じゃない。
今のが、少しでも身体に触れていたら。
海斗は、その先を考えられなかった。
『外した!』
『対象、回避行動確認!』
『反応速度、異常!』
『撃て、止めろ!』
銃撃がさらに続く。
壁が抉れる。
床が割れる。
焼けた掲示板が砕け、散った破片が海斗の頬を掠めた。
それでも走った。
焦げた床を蹴り、崩れた机を飛び越え、半壊した渡り廊下へ飛び込む。
壊れた避難誘導灯だけが、行き先を失った矢印を点滅させていた。
数時間前なら、生徒たちが実習棟へ向かうために通っていた場所。
今は、銃弾から逃げるための通路だった。
『逃がすな!』
『追跡班、前方へ回れ!』
『対象、実習棟方面へ移動!』
無線の声が背後から追ってくる。
その声に混じって、別の音がした。
ギチ、と。
前方の崩れた通路で、硬い爪が床を掻いた。
海斗の足が、わずかに鈍る。
焦げた粉塵の向こうで、何かが動いていた。
そこにいたのは、低く身を沈めた黒い影だった。
四足。
異様に長い前脚。
裂けた口。
白く濁った複眼。
剥き出しの黒い筋肉が、ぬめるように脈打っている。
海斗の身体が、それを覚えていた。
瓦礫の下で、自分を見下ろしていた異形と同じものだ。
「……っ」
そっちを見た。
見てしまった。
その一瞬だけ、背後の銃声が遅れた。
いや。
遅れたのは、海斗の反応だった。
背中に、重い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
身体が前へ弾かれた。
足が床から離れ、崩れた廊下を転がる。
身体全体で壁にぶつかった。
瓦礫を巻き込みながら、海斗は床へ叩きつけられる。
息が詰まる。
背中が熱い。
撃ち抜かれたのか。
硬い鉄球で殴られたような衝撃が、肺の奥まで響いていた。
「……っ、あ……」
海斗は震える手で、撃たれた場所に触れた。
制服の背中が大きく破れている。
布地は焼け焦げ、弾け飛んだ繊維(せんい)が肩口(かたぐち)に張りついていた。
血は、少しだけ出ていた。
皮膚の表面が赤く擦れている。
薄く血が滲んでいる。
それだけだった。
「……なんで……」
さっき、壁を人ひとり分ほど抉った弾だ。
人間なら、身体に穴が空いているはずだった。
なのに。
赤く擦れた皮膚の上を、ぞわりと熱が走る。
滲んでいた血が止まった。
擦り傷みたいな赤みが、ゆっくりと薄れていく。
痛みだけが残る。
傷は、消えていく。
「……なんだよ……これ……」
海斗の声が震えた。
背後で、兵士の声も震えていた。
『命中確認』
『対象、活動継続』
『……外装破損。肉体損傷、軽微』
『再生反応あり』
『撃ち込んだぞ。対CHORUS(コーラス)弾だぞ……?』
白いライトの向こうで、兵士たちが海斗を見ていた。
化け物を見る目で。
だが、海斗にそれを気にする余裕はなかった。
前方の異形が、低く唸る。
喉の奥から、湿った音が漏れた。
四肢が沈む。
跳ぶ。
「来るなッ!」
海斗は両腕を上げた。
襲いかかってきた異形を、ただ怖くて振り払おうとした。
右腕が、横へ動く。
触れた。
重さはあった。
だが、止められないほどではなかった。
異形の身体が横へ吹き飛び、崩れた壁へ叩きつけられる。
鈍い音。
骨が砕けた。
黒い血が壁に散る。
「……え」
海斗の手が止まる。
異形は壁にめり込むようにして痙攣していた。
長い前脚が何度か宙を掻き、それから力を失って垂れ下がる。
動かない。
海斗は、自分の右手を見た。
黒い血がついている。
壁を壊した時とは違う。
瓦礫を持ち上げた時とも違う。
今、壊れたのは生き物だった。
「俺……振り払っただけだぞ……」
声が震えた。
殺そうとしたわけじゃない。
戦おうとしたわけでもない。
ただ、怖かった。
ただ、近づいてほしくなかった。
それだけなのに。
その直後、背後で銃声が鳴った。
別の異形が、天井の影から飛び出していた。
追ってきた兵士の小銃が火を噴く。
撃ち込まれた弾が、異形の胴体に大きな風穴を開けた。
黒い血と肉片が床へ撒き散らされる。
『ケルブ級、沈黙!』
『二体目、排除!』
目の前の異形は動かなくなった。
けれど、それで終わりではなかった。
次に向けられた銃口は、海斗だった。
『対象、素手でケルブ級を撃退』
『映像記録した』
『やはり人間ではない』
「違う……!」
海斗は首を振った。
黒い血が、指先から落ちる。
「違う……俺は……」
言葉が続かない。
何が違うのか、自分でも説明できなかった。
治った腕。
塞がった銃創。
異形を弾き飛ばした手。
それでも、自分は人間だと叫びたかった。
だが、声にならない。
『対象、再生能力あり』
『危険度を上方修正』
『接近するな!』
銃口が、また海斗へ向く。
足元には黒い血。
手には、異形の血。
このままここにいたら、また誰かを傷つけるかもしれない。
「……っ!」
海斗は走り出した。
『対象、再逃走!』
『通常班では無理だ!』
『ノクターンを呼べ!』
その単語だけが、海斗の耳に引っかかった。
ノクターン。
意味は分からない。
だが、兵士たちの声色が変わった。
それまでの怒号とは違う。
怯(おび)えに近い、硬い響き。
来られたら、終わる。
理屈ではなく、そう思った。
「……っ!」
海斗は、逃げ場を探した。
前方には兵士。
背後には崩れた壁。
横の通路は瓦礫で塞がっている。
上。
襲撃で吹き抜けになった天井の向こうに、夜の空が覗いていた。
ここは実習棟の上層階だった。
屋上までは、まだ数階分ある。
普通の人間なら、届くはずがない。
だが、海斗はもう、自分の身体を普通だと思えなかった。
足に力を込める。
床が軋む。
今度は抑えない。
思いきり、蹴った。
破砕音とともに、足元の床が弾け飛んだ。
海斗の身体が、上へ跳ねる。
崩れた天井。
折れた鉄骨。
焼け焦げた配管。
屋上の縁。
その全部が、一瞬で下へ流れた。
「う、わ……っ!?」
高すぎる。
そう思った時には、もう屋上を越えていた。
夜気が全身を叩く。
眼下に、崩壊した学園区画が広がった。
一瞬だけ、海斗の身体が宙に浮く。
そして、落ちた。
数メートル。
短いはずの落下が、やけに長く感じた。
屋上の床が迫る。
受け身なんて取れない。
衝撃。
海斗の身体が屋上へ叩きつけられ、硬い床を転がった。
肩を打つ。
膝が擦れる。
背中に痛みが走る。
それでも、骨は折れていなかった。
海斗は荒い息を吐きながら、屋上の床に手をついた。
眼下では、白いライトがいくつも揺れている。
兵士たちの声が、遠くなっていた。
『対象、上階へ跳躍!』
『屋上だ!』
『ありえない……何メートル跳んだ!?』
海斗は、震える足で立ち上がる。
風が吹いた。
崩壊した学園区画が、眼下に広がっていた。
燃えた実習棟。
倒れた訓練用《FRAME(フレーム)》。
蠢く異形の影。
そして、自分を探す兵士たち。
「……なんなんだよ」
逃げた先にあったのは、助けではなかった。
ただ、もっと広い戦場だった。
兵士たちの怒号と無線のノイズが、崩壊した校舎の隙間を這うように響いている。
「……どこまで逃げればいいんだよ」
呟いた声は、夜風にほどけて消えた。
その時だった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、壊れた信号のような意味だけが、海斗の内側へ沈み込んでくる。
——接……続対……象。
「……?」
海斗は息を止めた。
——危険……感知。
直後、背中側の空気が細く裂けた。
「っ——!」
考えるより先に、身体が横へ倒れる。
何かが、首筋のすぐ後ろを掠めた。
遅れて、屋上の床に細い傷が刻まれる。
音はなかった。
銃声もない。
足音もない。
気配すらなかった。
ただ、切られた。
それだけだった。
「へぇ」
背後から、軽い女の声がした。
「今の、かわすんだ」