レクイエムフレーム   作:momomotototo

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第六話 逃走個体

 海斗は、思いきり床を蹴った。

 

 瞬間、足元のコンクリートが弾け飛ぶ。

 

 放射状に亀裂が走り、砕けた破片が白いライトの中へ跳ね上がった。

 

『対象、逃走!』

 

『撃て!』

 

 背後で銃声が連なった。

 

 短い破裂音が崩れた廊下に跳ね返り、壁の破片が海斗の頬をかすめる。

 

 振り返らない。

 

 白いライトも、銃口も、自分を“汚染個体”と呼んだ声も、全部が背後から迫ってくる気がした。

 

 海斗は半壊した廊下を駆け抜ける。

 

 止まれば、撃たれる。

 

 だから、前だけを見るしかなかった。

 

『速い!』

 

『人間の速度じゃない!』

 

『射線確保!』

 

『撃ち続けろ!』

 

 背中を追うように、また銃声が重なる。

 

 その瞬間、首筋が粟立(あわだ)った。

 

 弾丸そのものが見えたわけじゃない。

 

 ただ、背中側の空気が裂ける気配だけが、嫌なほど鮮明だった。

 

 来る。

 

 そう思うより先に、海斗の肩がわずかに沈む。

 

 熱い圧が、頬のすぐ横を掠めた。

 

 直後、すぐ前方の壁が弾ける。

 

 視界の端で、厚いコンクリート壁が人ひとり分ほど抉れ、千切れた鉄筋と砕けた壁材が廊下へ吹き飛んだ。

 

 確認する余裕なんてない。

 

 それでも、分かった。

 

 あれは、人を止めるための弾じゃない。

 

 今のが、少しでも身体に触れていたら。

 

 海斗は、その先を考えられなかった。

 

『外した!』

 

『対象、回避行動確認!』

 

『反応速度、異常!』

 

『撃て、止めろ!』

 

 銃撃がさらに続く。

 

 壁が抉れる。

 

 床が割れる。

 

 焼けた掲示板が砕け、散った破片が海斗の頬を掠めた。

 

 それでも走った。

 

 焦げた床を蹴り、崩れた机を飛び越え、半壊した渡り廊下へ飛び込む。

 

 壊れた避難誘導灯だけが、行き先を失った矢印を点滅させていた。

 

 数時間前なら、生徒たちが実習棟へ向かうために通っていた場所。

 

 今は、銃弾から逃げるための通路だった。

 

『逃がすな!』

 

『追跡班、前方へ回れ!』

 

『対象、実習棟方面へ移動!』

 

 無線の声が背後から追ってくる。

 

 その声に混じって、別の音がした。

 

 ギチ、と。

 

 前方の崩れた通路で、硬い爪が床を掻いた。

 

 海斗の足が、わずかに鈍る。

 

 焦げた粉塵の向こうで、何かが動いていた。

 

 そこにいたのは、低く身を沈めた黒い影だった。

 

 四足。

 

 異様に長い前脚。

 

 裂けた口。

 

 白く濁った複眼。

 

 剥き出しの黒い筋肉が、ぬめるように脈打っている。

 

 海斗の身体が、それを覚えていた。

 

 瓦礫の下で、自分を見下ろしていた異形と同じものだ。

 

「……っ」

 

 そっちを見た。

 

 見てしまった。

 

 その一瞬だけ、背後の銃声が遅れた。

 

 いや。

 

 遅れたのは、海斗の反応だった。

 

 背中に、重い衝撃が走る。

 

「ぐっ……!」

 

 身体が前へ弾かれた。

 

 足が床から離れ、崩れた廊下を転がる。

 

 身体全体で壁にぶつかった。

 

 瓦礫を巻き込みながら、海斗は床へ叩きつけられる。

 

 息が詰まる。

 

 背中が熱い。

 

 撃ち抜かれたのか。

 

 硬い鉄球で殴られたような衝撃が、肺の奥まで響いていた。

 

「……っ、あ……」

 

 海斗は震える手で、撃たれた場所に触れた。

 

 制服の背中が大きく破れている。

 

 布地は焼け焦げ、弾け飛んだ繊維(せんい)が肩口(かたぐち)に張りついていた。

 

 血は、少しだけ出ていた。

 

 皮膚の表面が赤く擦れている。

 

 薄く血が滲んでいる。

 

 それだけだった。

 

「……なんで……」

 

 さっき、壁を人ひとり分ほど抉った弾だ。

 

 人間なら、身体に穴が空いているはずだった。

 

 なのに。

 

 赤く擦れた皮膚の上を、ぞわりと熱が走る。

 

 滲んでいた血が止まった。

 

 擦り傷みたいな赤みが、ゆっくりと薄れていく。

 

 痛みだけが残る。

 

 傷は、消えていく。

 

「……なんだよ……これ……」

 

 海斗の声が震えた。

 

 背後で、兵士の声も震えていた。

 

『命中確認』

 

『対象、活動継続』

 

『……外装破損。肉体損傷、軽微』

 

『再生反応あり』

 

『撃ち込んだぞ。対CHORUS(コーラス)弾だぞ……?』

 

 白いライトの向こうで、兵士たちが海斗を見ていた。

 

 化け物を見る目で。

 

 だが、海斗にそれを気にする余裕はなかった。

 

 前方の異形が、低く唸る。

 

 喉の奥から、湿った音が漏れた。

 

 四肢が沈む。

 

 跳ぶ。

 

「来るなッ!」

 

 海斗は両腕を上げた。

 

 襲いかかってきた異形を、ただ怖くて振り払おうとした。

 

 右腕が、横へ動く。

 

 触れた。

 

 重さはあった。

 

 だが、止められないほどではなかった。

 

 異形の身体が横へ吹き飛び、崩れた壁へ叩きつけられる。

 

 鈍い音。

 

 骨が砕けた。

 

 黒い血が壁に散る。

 

「……え」

 

 海斗の手が止まる。

 

 異形は壁にめり込むようにして痙攣していた。

 

 長い前脚が何度か宙を掻き、それから力を失って垂れ下がる。

 

 動かない。

 

 海斗は、自分の右手を見た。

 

 黒い血がついている。

 

 壁を壊した時とは違う。

 

 瓦礫を持ち上げた時とも違う。

 

 今、壊れたのは生き物だった。

 

「俺……振り払っただけだぞ……」

 

 声が震えた。

 

 殺そうとしたわけじゃない。

 

 戦おうとしたわけでもない。

 

 ただ、怖かった。

 

 ただ、近づいてほしくなかった。

 

 それだけなのに。

 

 その直後、背後で銃声が鳴った。

 

 別の異形が、天井の影から飛び出していた。

 

 追ってきた兵士の小銃が火を噴く。

 

 撃ち込まれた弾が、異形の胴体に大きな風穴を開けた。

 

 黒い血と肉片が床へ撒き散らされる。

 

『ケルブ級、沈黙!』

 

『二体目、排除!』

 

 目の前の異形は動かなくなった。

 

 けれど、それで終わりではなかった。

 

 次に向けられた銃口は、海斗だった。

 

『対象、素手でケルブ級を撃退』

 

『映像記録した』

 

『やはり人間ではない』

 

「違う……!」

 

 海斗は首を振った。

 

 黒い血が、指先から落ちる。

 

「違う……俺は……」

 

 言葉が続かない。

 

 何が違うのか、自分でも説明できなかった。

 

 治った腕。

 

 塞がった銃創。

 

 異形を弾き飛ばした手。

 

 それでも、自分は人間だと叫びたかった。

 

 だが、声にならない。

 

『対象、再生能力あり』

 

『危険度を上方修正』

 

『接近するな!』

 

 銃口が、また海斗へ向く。

 

 足元には黒い血。

 

 手には、異形の血。

 

 このままここにいたら、また誰かを傷つけるかもしれない。

 

「……っ!」

 

 海斗は走り出した。

 

『対象、再逃走!』

 

『通常班では無理だ!』

 

『ノクターンを呼べ!』

 

 その単語だけが、海斗の耳に引っかかった。

 

 ノクターン。

 

 意味は分からない。

 

 だが、兵士たちの声色が変わった。

 

 それまでの怒号とは違う。

 

 怯(おび)えに近い、硬い響き。

 

 来られたら、終わる。

 

 理屈ではなく、そう思った。

 

「……っ!」

 

 海斗は、逃げ場を探した。

 

 前方には兵士。

 

 背後には崩れた壁。

 

 横の通路は瓦礫で塞がっている。

 

 上。

 

 襲撃で吹き抜けになった天井の向こうに、夜の空が覗いていた。

 

 ここは実習棟の上層階だった。

 

 屋上までは、まだ数階分ある。

 

 普通の人間なら、届くはずがない。

 

 だが、海斗はもう、自分の身体を普通だと思えなかった。

 

 足に力を込める。

 

 床が軋む。

 

 今度は抑えない。

 

 思いきり、蹴った。

 

 破砕音とともに、足元の床が弾け飛んだ。

 

 海斗の身体が、上へ跳ねる。

 

 崩れた天井。

 

 折れた鉄骨。

 

 焼け焦げた配管。

 

 屋上の縁。

 

 その全部が、一瞬で下へ流れた。

 

「う、わ……っ!?」

 

 高すぎる。

 

 そう思った時には、もう屋上を越えていた。

 

 夜気が全身を叩く。

 

 眼下に、崩壊した学園区画が広がった。

 

 一瞬だけ、海斗の身体が宙に浮く。

 

 そして、落ちた。

 

 数メートル。

 

 短いはずの落下が、やけに長く感じた。

 

 屋上の床が迫る。

 

 受け身なんて取れない。

 

 衝撃。

 

 海斗の身体が屋上へ叩きつけられ、硬い床を転がった。

 

 肩を打つ。

 

 膝が擦れる。

 

 背中に痛みが走る。

 

 それでも、骨は折れていなかった。

 

 海斗は荒い息を吐きながら、屋上の床に手をついた。

 

 眼下では、白いライトがいくつも揺れている。

 

 兵士たちの声が、遠くなっていた。

 

『対象、上階へ跳躍!』

 

『屋上だ!』

 

『ありえない……何メートル跳んだ!?』

 

 海斗は、震える足で立ち上がる。

 

 風が吹いた。

 

 崩壊した学園区画が、眼下に広がっていた。

 

 燃えた実習棟。

 

 倒れた訓練用《FRAME(フレーム)》。

 

 蠢く異形の影。

 

 そして、自分を探す兵士たち。

 

「……なんなんだよ」

 

 逃げた先にあったのは、助けではなかった。

 

 ただ、もっと広い戦場だった。

 

 兵士たちの怒号と無線のノイズが、崩壊した校舎の隙間を這うように響いている。

 

「……どこまで逃げればいいんだよ」

 

 呟いた声は、夜風にほどけて消えた。

 

 その時だった。

 

 胸の奥で、何かが軋んだ。

 

 声ではない。

 

 言葉でもない。

 

 けれど、壊れた信号のような意味だけが、海斗の内側へ沈み込んでくる。

 

 ——接……続対……象。

 

「……?」

 

 海斗は息を止めた。

 

 ——危険……感知。

 

 直後、背中側の空気が細く裂けた。

 

「っ——!」

 

 考えるより先に、身体が横へ倒れる。

 

 何かが、首筋のすぐ後ろを掠めた。

 

 遅れて、屋上の床に細い傷が刻まれる。

 

 音はなかった。

 

 銃声もない。

 

 足音もない。

 

 気配すらなかった。

 

 ただ、切られた。

 

 それだけだった。

 

「へぇ」

 

 背後から、軽い女の声がした。

 

「今の、かわすんだ」

 

 

 

 

 

 

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