海斗は振り返った。
そこに、黒紫のFRAMEが立っていた。
紫を溶かしたような、暗い装甲。
光を吸い込むような表面をした、細身のFRAMEだった。
背中に大きな推進器はなく、身体の線を崩すような余剰装甲もない。
あるのは、身体に張りつくような黒紫の装甲と、背骨に沿って伸びる機械脊椎ユニットだけ。
その薄さが、逆に怖かった。
守るための形じゃない。
音を消し、気配を殺し、相手の喉元へ届くためだけに研ぎ澄まされた形。
頭部装甲も展開されていた。
顔は見えない。
目元にあたる細いスリットだけが、赤紫に淡く光っている。
その後ろから、淡いミントグリーンの髪が流れていた。
表情はないのに、髪だけが人間のものだった。
「やっぱり、人間じゃないね」
冗談を言うみたいな、軽い声だった。
屋上で首筋を斬りかけた相手に向ける声とは思えないほど、温度がない。
その軽さが、銃口を向けてきた兵士たちよりもずっと怖かった。
兵士たちは、まだ距離を取っていた。
撃つ前に構え、叫び、警告し、判断を迷っていた。
だが、目の前の相手は違う。
すでに海斗の間合いへ入っていた。
殺すための位置に立っている。
そして、そのことに何の迷いも持っていない。
「誰、だ……」
「質問する余裕あるんだ」
黒紫のFRAMEが、両手を下げる。
手首の装甲が滑るように開き、その内側から二本の短刀が抜き放たれた。
細い刃。
光をほとんど反射しない黒い刀身。
まるで影を削り出したような武器だった。
「じゃあ、試してみよっか」
黒紫のFRAMEの姿が、視界から消えた。
「——っ!」
海斗は反射的に右腕を振った。
相手を殺さないように。
押し退けるだけ。
触れれば、弾き飛ばせる。
そう思った。
違った。
黒い刃が、海斗の右腕を通り抜けた。
何が起きたのか分からない。
腕を振ったはずだった。
そこにまだ、自分の腕があるはずだった。
だが、視界の端で赤が散る。
遅れて、右腕が肘の先から落ちた。
「……ぁ」
腕が、落ちた。
自分の腕が。
その理解が頭に届いた途端、痛みが噛みついてきた。
「がああああああああッ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
膝が崩れかける。
切断面から熱い血が溢れ、失われた右腕の重さだけが、そこにないまま残っている。
海斗は傷口を押さえることもできなかった。
目の前の相手が、もう次の動作へ移っていたからだ。
黒紫のFRAMEは、すでに懐にいる。
片足が、海斗の腹へめり込んだ。
「ゔっ……!」
身体が浮く。
内臓が潰れたような衝撃で、息が喉の奥から押し出された。
屋上のフェンスへ叩きつけられる。
金属柵が大きく歪み、固定具が弾けた。
支えが消える。
背中側に、空が開いた。
海斗の身体が、屋上の外へ放り出される。
風が耳元で唸った。
落ちる。
下階の連絡通路が迫る。
「う、わ!」
海斗は背中から通路へ叩きつけられた。
床が砕け、肺から息が抜ける。視界が白く弾け、瓦礫の粒が頬を打った。
立ち上がる暇はなかった。
黒紫のFRAMEが、音もなく降りてくる。
海斗の腹の上に片膝を乗せ、そのまま体重を落とした。
軽いはずなのに、動けない。
押さえつけられているのは腹だけではなかった。
腰も、肩も、逃げる方向を先回りして潰されている。
二本の短刀が、頭上で振り上げられた。
「や、め――」
刃が落ちる。
海斗は反射的に左手を突き出した。
その横で。
ないはずの右腕が、熱を持って蠢いた。
肉が伸びる。
骨が戻る。
皮膚が閉じる。
再生した右手が、ぎりぎりで顔の前へ滑り込む。
防御なんてものじゃない。
顔を庇うだけの、みっともない動きだった。
黒い刃が、両方の手のひらを貫いた。
「ぐ、あ……ッ!」
血が散る。
刃先が、手の甲から抜ける。
それでも勢いは死なない。
二本の短刀が、海斗の喉元へ沈んでくる。
あと少し。
あと数センチで、首に届く。
「っ、ぐ……!」
海斗は歯を食いしばり、貫かれた両手で刃を押し返した。
手のひらが裂ける。
骨が軋む。
傷口の奥で、肉が再生しようと蠢く。
だが、塞がろうとする掌を、貫いた刃が内側から裂き続ける。
二本の短刀は、手のひらを縫い止めたまま、少しずつ喉元へ近づいていた。
「力は強いね」
相手の声は、楽しそうだった。
「でも」
短刀にかかる圧が、さらに増える。
「私まだ本気出してないんだよね」
背部の機械脊椎ユニットが、低く唸った。
黒紫の装甲の隙間に、蒼白い粒子光が走る。
『コーラスリアクター出力上昇』
無機質なAI音声。
海斗の身体が硬直する。
まずい。
これは、まずい。
目の前の相手の圧が変わっていく。軽かった声の奥に、底の見えない冷たさが混じり始めていた。
『フルバースト、解放』
「じゃ、終わり」
短刀が、さらに沈む。
その時。
『待機』
無線が入った。
相手の動きが止まる。
切っ先は、海斗の喉元の皮膚に触れていた。
『対象の処理命令を変更』
『捕獲へ移行』
沈黙。
黒紫のFRAMEは、少しだけ首を傾けた。
「うん、わかったー」
あまりにも軽い返事だった。
今まさに殺そうとしていたとは思えないほど、何でもない声。
黒紫のFRAMEは、刺さったままの短刀をゆっくりと引き抜いた。
「っ、あ……!」
海斗の両手から、黒い刃が抜ける。
血が床へ落ちた。
穴の空いた手のひらが震える。
だが、次の呼吸には、傷口の奥で肉が蠢き始めていた。
塞がろうとしている。
「ほんと、気持ち悪いくらい治るね」
黒紫のFRAMEが、海斗の上から退く。
それでも、刃は下ろさない。
「君、捕獲することになった」
「……捕獲……?」
「うん。大人しくついてきたら殺さない」
頭部装甲の奥で、赤紫の光が細く揺れる。
「来る?」
黒紫の頭部が、こてん、と小さく横へ傾いた。
その動きに合わせて、装甲の隙間から零れる淡いミントグリーンの髪が、さらりと揺れる。
殺す寸前まで追い詰めていた相手とは思えないほど、仕草だけは妙に軽かった。
海斗は、再生したばかりの右腕を見る。
震えていた。
傷は塞がっている。
だが、斬られた感覚は残っている。
自分の腕が落ちた光景も。
両手を貫かれた痛みも。
喉元に触れた刃の冷たさも。
全部、消えていない。
逆らえば、次は本当に殺される。
それだけは分かった。
「……は」
声が掠れる。
「……はい」
「素直でよろしい」
黒紫のFRAMEは、短刀を回して収納した。
「じゃ、動かないでね。変な動きしたら、今度は腕じゃなくて首だから」
冗談みたいな声だった。
だが、海斗は笑えなかった。
目の前の相手は、本気でそれをできる。
そして、必要ならためらわない。
そう思った。
◇ ◇ ◇
ある場所の、地下深く。
光の届かない空間で、巨大な黒い影が沈黙していた。
棺のような形だった。
だが、死者を納めるためのものではない。
黒い外殻は何層もの固定具で押さえ込まれ、床から伸びた拘束アンカーが、その輪郭を縫い止めるように食い込んでいる。
周囲には、封印陣にも似た模様が淡く浮かんでいた。
円環。
直線。
重なり合う文字列。
その中心に、黒い棺だけが沈黙している。
何も動かない。
音もない。
ただ、暗闇の中で。
棺の表面に走る白い亀裂が、一度だけ淡く明滅した。
――接続対象。
――接近。