白い部屋だった。
窓はない。
壁も、床も、天井も、感情を削ぎ落としたような白で統一されている。
天井に埋め込まれた細長い照明が、部屋全体を冷たく照らしていた。明るいのに、温度がない。空気には消毒液と金属の匂いが混じっている。
部屋の四隅には、小さな監視カメラ。
壁際には、金属製の保管棚が並んでいた。
焼け焦げた通信端末。
歪んだ薬莢。
溶けた装甲片。
それらは透明な証拠保管ケースに収められ、名前ではなく番号だけを与えられている。
誰かが持っていたもの。
誰かが身につけていたもの。
誰かが、戦場に残したもの。
この部屋では、そのすべてが資料として扱われていた。
その中央。
無機質な検査台の上に、一つの封入ケースが置かれている。
中に入っているのは、割れた認識票だった。
煤と血で汚れ、端は焼け焦げている。
細い鎖は途中で千切れ、黒ずんだ金属片の片側には、かろうじて白い文字が残っていた。
《GRIM REAPER》
《REAPER-1》
白峰結月(しらみね・ゆづき)は、その文字を見つめていた。
白銀の髪が、冷たい照明を受けて淡く光っている。
肩下まで伸びた髪は乱れなく整えられ、細い首筋へ静かに流れていた。
色の薄い肌。
細面の整った顔立ち。
涼しげな赤い瞳。
感情を表に出さないよう訓練された、軍人候補生の立ち姿だった。
だが、ケースへ伸びかけた指先だけが、かすかに震えていた。
触れてはいけない。
それは分かっている。
これは遺品ではない。
証拠品だ。
軍が回収し、番号を振り、記録に残した戦場の残骸。
だから、勝手に触れることは許されない。
それでも結月の指は、透明なケースの表面に触れる寸前で止まった。
「……姉さん」
掠れた声だった。
誰にも聞かせるつもりのない声。
けれど白い部屋は静かすぎて、その一言だけがやけに大きく響いた。
部屋の奥に、男が立っていた。
白峰創(しらみね・はじめ)。
第七要塞都市防衛管区を預かる現地司令官であり、結月の父。
黒い軍服に乱れはない。
胸元の階級章も、背筋も、いつも通りだった。
だが、頬はわずかに痩せている。目元には浅い影が落ち、硬く結ばれた口元には、眠っていない者特有の疲労が滲んでいた。
父親ではなく、司令官の顔だった。
戦死報告を受け取り、損耗率を確認し、次の作戦を決める者の顔。
結月は、ケースから目を離さない。
「……どこで」
声は、自分でも驚くほど冷たかった。
白峰司令官は、すぐには答えなかった。
短い沈黙。
空調の低い音だけが、白い壁に溶けていく。
「第十三戦術学園、B-17区画」
「姉さんの遺体が見つかった場所ですか」
「そうだ」
結月の指先が、わずかに強張る。
「なら、なぜ」
透明なケースの中で、割れた金属片が白い光を受けて鈍く光っていた。
「なぜ、これが天音海斗の所持品として回収されているんですか」
白峰司令官の表情は変わらない。
だが、その目だけが、一瞬だけ伏せられた。
「回収時、彼が持っていた」
結月は、しばらく何も言わなかった。
ただ、ケースの中の認識票を見つめる。
「……拾ったんですね」
「ああ」
「姉さんの遺体から」
「そうだ」
結月の指先が、わずかに震えた。
「なぜ」
声は小さかった。
「なぜ、持っていったんですか」
「映像が残っている」
白峰司令官は、壁際の端末へ指を滑らせた。
部屋の四隅にある監視カメラの赤いランプが、青へ変わる。
「……記録を切ったんですか」
「音声だけだ。映像は残る」
「いいんですか」
「よくはない」
白峰司令官は、低く言った。
「……だが、姉の最期を見るお前の声まで、資料にする必要はない」
それから、机上の端末を操作する。
「灰狼のFRAMEに残った戦闘ログだ」
空中に、荒い映像が浮かび上がる。
視界はひどく乱れていた。
赤いノイズ。
途切れ途切れの音声。
それでも、結月には分かった。
これは姉の視界だ。
灰狼。
第八独立フレーム中隊《Grim Reaper》隊長。
白峰冴月(しらみね・さつき)。
結月の、たった一人の姉。
瓦礫の下にいる少年。
その前に立つ白い異形。
砕ける装甲。
途切れかける出力表示。
映像の端で、欠けた警告表示が明滅していた。
『識別不能』
『スローンクラス反応を超過』
『推定――SERAPH class』
吸いかけた息が、胸の途中で固まった。
セラフ級。
出現すれば撤退が原則とされる、CHORUSの最上位脅威。
それでも、冴月は少年の前から退かなかった。
『……聞け』
掠れた音声が、白い部屋に流れる。
『お前は、生き残れ』
結月の胸が、きつく締めつけられた。
『何してでも生きろ』
映像の端で、少年がかすかに動く。
『化け物になってでもだ』
そこで、映像は大きく乱れた。
画面が沈み、ノイズが走る。
だが、記録は完全には途切れていなかった。
低出力のまま残ったカメラが、瓦礫の中を映し続けている。
長い沈黙のあと。
少年が、冴月の前に崩れるように膝をついた。
血と灰に汚れた顔。
震える手。
泣き声に近い、掠れた声。
『ごめん……』
少年は、泣いていた。
『ごめんなさい……』
結月は、まばたきもできなかった。
姉の死を前にして、少年はただ謝っていた。
助けられたことに。
生き残ってしまったことに。
自分のために戦い、逃げなかった相手を、死なせてしまったことに。
そう見えた。
映像の中で、少年が震える手を伸ばす。
姉の胸元に引っかかっていた、割れた認識票。
少年はそれを、壊れ物に触れるみたいに拾い上げた。
握り締めることすら怖がっているようだった。
血で汚れた制服の胸元へ、そっとしまう。
盗んだのではない。
奪ったのでもない。
置いていけなかったのだ。
姉が確かにそこにいた証を。
姉が最後に何かを守った証を。
映像の中で、少年は認識票を胸元にしまったまま、冴月の前で膝をついている。
血に汚れた手を見て、小さく震えていた。
『……俺』
声は弱かった。
『……助かる』
冴月は何も答えない。
それでも少年は、必死に言葉を続けた。
『必ず……助かるから……』
その声は、約束のようだった。
もう届かない相手へ向けた、幼い誓い。
『だから……』
少年の拳が震える。
『……生きる』
そこで映像が止まった。
白い部屋に、沈黙が落ちる。
映像の中の少年は、軍の報告にあった“汚染個体”には見えなかった。
CHORUS反応。
異常再生。
対CHORUS弾への耐性。
ケルブ級を素手で撃退。
そのすべてが事実なのだとしても。
姉の死を前に泣き、認識票を壊さないように拾い、震える声で「生きる」と言ったあの少年を。
結月は、怪物とは呼べなかった。
だが、人間だと断言することもできない。
だからこそ。
見届けなければならないと思った。
姉が最後に守ったものが、人間なのか。
それとも、これから怪物になってしまうのか。
「天音海斗は」
結月は、ゆっくりと言った。
「どうなるんですか」
白峰司令官は、すぐには答えなかった。
わずかな間。
それだけで、答えが軽いものではないと分かった。
「回収時点で、生存者区分は凍結されている」
「……凍結?」
「あの少年を、通常の生存者として扱うことはできない。現在の暫定分類は、汚染疑いの未分類対象だ」
未分類対象。
その言葉が、白い部屋の温度をさらに下げた。
「……隔離、ですか」
「まずはな」
「その後は」
白峰司令官は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、結月には分かってしまった。
「……処分も、あり得るんですか」
「危険域と判断されればな」
結月の指先が、かすかに強張った。
「天音海斗が人間なのか、怪物なのか。まだ、誰にも分かっていないはずです」
「だからこそ、軍は危険視する」
白峰司令官は、感情を押し殺すように続けた。
「CHORUS反応が出ている。通常の生存者ではない。だが、完全な敵性個体とも断定できない」
結月は何も言えなかった。
危険なものを隔離する。
分からないものを測定する。
制御できないものを、最悪の場合は処分する。
要塞都市を守る側として、それは間違っていない。
間違っていないからこそ、吐き気がした。
「姉さんが」
結月は言った。
「命を懸けて守った人です」
白峰司令官は答えない。
父としてなら、頷きたかったのかもしれない。
だが、司令官としての沈黙がそれを許さない。
「統合参謀本部は、本件を現場処理で済ませるつもりはない」
「……中央に、連れて行かれるんですか」
「その可能性はある」
「研究対象にする、ということですか」
「中央の特異兵装開発局は、強く関心を示すだろう」
結月の瞳に、怒りが滲んだ。
けれど、声は荒げなかった。
荒げれば、ただの感情になる。
それでは届かない。
これから会議室で天音海斗を裁く者たちには、何も。
「私は」
白峰司令官は、ようやく言った。
「あの少年を、すぐ処分するべきだとは思っていない」
結月が顔を上げる。
「だが、中央の特異兵装開発局は違う」
その声には、父親の迷いではなく、司令官としての警戒があった。
「あそこは、まず研究対象として見る。次に解析する。必要なら、身体を開いてでも中身を確かめようとするだろう」
「……解体する、ということですか」
「言葉を選ばなければな」
白峰司令官は否定しなかった。
「中央の基本方針は、回収と解析だ。利用価値があるなら研究対象として確保する。危険が制御を超えるなら、処分する」
「最初から殺すつもりではないんですね」
「殺すより先に、中身を確かめたがる連中だ」
その言い方の方が、結月にはずっと冷たく聞こえた。
殺されるかもしれない。
それだけではない。
生かされたまま、人間として扱われないかもしれない。
その方が、もっと恐ろしかった。
「私が避けたいのは二つだ」
白峰司令官は低く言った。
「十分な検証もなく処分対象として扱われること。そして、中央への移送」
「中央移送……」
「あちらへ渡れば、私はもう天音海斗に手を出せない。保護も、監視も、処遇への介入もできなくなる」
白峰司令官の声が、わずかに沈む。
「どちらに転んでも、あの少年は人間として扱われない」
処分対象。
中央移送。
どちらも、天音海斗という一人の少年を守る選択肢ではない。
危険物として消されるか。
資料として解体されるか。
その違いでしかなかった。
「だから、理由が必要だ」
白峰司令官は言った。
「処分でも、中央移送でもない。第七要塞都市内で管理し、観察を続けるための理由が」
結月は、静かに息を吸った。
「中央移送そのものが、危険です」
白峰司令官の視線が、結月へ戻る。
「天音海斗はまだ未分類対象です。移送中に暴走、あるいはCHORUS反応が拡大した場合、被害は第七要塞都市だけでは済みません」
「……続けろ」
「なら、中央へ移すより、第七要塞都市内で管理観察する方が安全です」
結月は、言葉を選ぶように続けた。
「中央戦術学園なら、隔離訓練棟があります。通常区画から切り離せる。監視室、制圧設備、緊急封鎖用の訓練区画も揃っています」
「学園に置く理由は」
「完全拘束下では、怯えた反応しか取れません」
結月の声は震えていなかった。
「でも、管理された日常なら、違います。人と話す。命令に従う。拒絶する。罪悪感を示す。恐怖を抑える。そういう反応が見られます」
結月は、父の目をまっすぐに見た。
「天音海斗が本当に自我を保っているのか。人間として残っているのか。それを判断するには、拘束室だけでは足りません」
白峰司令官は、しばらく何も言わなかった。
理屈はある。
だが、中央を黙らせるにはまだ弱い。
「……お前の案は、覚えておく」
結月の瞳が、わずかに揺れた。
「本当に……?」
「ただし、そのまま学園に置くことはできない」
白峰司令官は言った。
「天音海斗は未分類対象だ。通常の候補生として扱うことは不可能だ。中央が認めるとすれば、必ず条件が付く」
「条件……」
「監視、制圧、そして最悪の場合の処分」
その言葉が、白い部屋の温度をさらに下げた。
「表向きは管理観察。だが、天音海斗が危険域に入れば即時制圧。制圧不能なら処分。それを担う者を置かなければ、中央は認めない」
結月は、一瞬だけ唇を結んだ。
分かっていた。
学園に置くという言葉は、日常へ戻すという意味ではない。
監視された日常。
閉じられた自由。
そして、そのすぐ隣に処分の刃を置くということだ。
「……なら」
結月は、封入ケースの中の割れた認識票を見た。
煤と血に汚れた《REAPER-1》の文字が、白い光を受けて鈍く浮かんでいる。
「私が、監視役になります」
白峰司令官の視線が、結月へ戻った。
「結月」
「表向きの監視役です」
結月は続けた。
「中央戦術学園の軍属訓練生として、天音海斗に接触します。会話、訓練、命令への反応、他者への態度。拘束室では取れない記録を取ります」
「記録を取るだけでは済まない」
白峰司令官は静かに言った。
「お前が近づけば、私情が混じる」
「混じります」
結月は否定しなかった。
「でも、私だから見られる反応があります」
白峰司令官は黙る。
「天音海斗は、姉さんの最期を見ています。姉さんに守られた。姉さんの認識票を拾った。映像を見る限り、彼はそれを理解していました」
結月は、ゆっくりと言葉を続けた。
「姉さんの名前に、彼がどう反応するのか。姉さんの妹である私を見て、何を見せるのか」
「罪悪感を利用するつもりか」
「利用します」
即答だった。
その言葉を口にした途端、胸の奥が痛んだ。
けれど、引かなかった。
「罪悪感でも、恐怖でも、後悔でも構いません。そこに反応があるなら、まだ人間として残っている証拠になります」
「何も反応しなかった場合は」
「その時は、私が見届けます」
白峰司令官は、長く沈黙した。
結月の言葉が危険なものだと、分かっているのだろう。
私情が混じっていることも。
冴月の死を、まだ受け止め切れていないことも。
だが同時に、提案として完全に切り捨てることもできなかった。
天音海斗を中央へ渡せば、二度と現場の手は届かない。
処分すれば、灰狼が最後に守った意味は失われる。
ならば、第七要塞都市内で管理するための理屈を作る必要があった。
「お前を表の監視役にするなら、裏には別の監視を置く」
「はい」
「中央が納得するだけの実力と、処分権限を持つ者だ」
結月の瞳が、わずかに揺れる。
「……天音海斗が暴走すれば、その人が彼を殺すんですね」
「そうだ」
白峰司令官は否定しなかった。
「それが条件になる」
結月は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥が冷えている。
それでも、声は震えなかった。
「構いません」
「本当に分かっているのか」
「分かっています」
結月は答えた。
「私が近くで見て、彼がまだ人間なら、それを記録します。もし怪物になってしまうなら、その時も見届けます」
白峰司令官は、娘を見た。
白銀の髪。
赤い瞳。
冴月とは違う。
だが、決めた時の目だけは、よく似ていた。
「これは、冴月の代わりをするための任務ではない」
白峰司令官は言った。
「お前は灰狼ではない。あの子ができなかったことを、お前が背負う必要はない」
「分かっています」
「監視役になるということは、願いだけでは済まない。記録し、判断し、必要なら報告する立場になる」
「はい」
「それでもやるのか」
「はい」
結月は、認識票を見つめた。
姉が最後に残したもの。
天音海斗が壊れ物のように拾い上げたもの。
その文字を、目に焼きつける。
「これは、私の意思です」
白峰司令官は、それ以上止めなかった。
ただ、低く息を吐く。
「中央会議が始まる」
「はい」
「まずはS.C.O.R.E.測定だ。その結果次第で、すべてが変わる」
結月は頷いた。
白い部屋の扉が、静かに開く。
その先には、冷たい通路が続いていた。
白峰司令官は歩き出す。
結月は一度だけ、白い部屋の中央へ視線を戻した。
声には出さない。
唇だけが、小さく動く。
――私が、見届ける。
そして結月は、父の背中を追って白い部屋を出た。