原作の第3部4章以降の時間軸です
原作読了済みが前提になっていますので、ネタバレ等ご注意下さい
あらすじ
妖魔レンゲが淫魔始祖マーラを復活させる儀式を執り行うという情報を得た退魔士陣営。
急ぎ討伐隊が編成され、儀式の行われる廃ビルへと突入する。
しかしビルの中には既にレンゲによる罠が張られており、
退魔士一同は淫夢の中に囚われてしまう。
その中でいち早く淫夢を脱した安座カノンは、
儀式を止めるため、1人最上階を目指して先行する。
配置された妖魔を蹴散らして進む中、
ついに最上階へ続く階段のあるフロアへ辿り着く。
しかしそこを守るのは彼女のよく知る人物であった。
本編
乱れる息を整えながら、カノンは暗い廊下を進んでいた。
突入前に確認したビルの間取り図によれば、
このフロアの階段を上りきれば、そこが屋上——レンゲのいる場所だ。
廃墟と化した高層階は、まるで死の気配そのものだった。ひび割れた壁、剥き出しの錆びた鉄骨、崩れ落ちかけた天井。人の気配が完全に失われた空間に、割れた窓から差し込む夕陽がすべてを妖しく赤く染め上げている。
そんな荒廃の中に、まるで似つかわしくない可憐な少女が一人、
屋上へ続く階段の前に座り込んでいた。
少女はカノンに気づくとゆっくり立ち上がる。
長い茶色の髪を高めのポニーテールにまとめ、
上半身はピンクを基調とした丈の短いトップス、
下半身は黒のショートパンツという、露出の高い装い。
引き締まった肢体と滑らかな肌を惜しげもなく晒しながらも、その佇まいには可憐さと大人の色香が奇妙に溶け合っていた。
安座カノンは、その少女をよく知っていた。
「……きらり先輩……!」
吉良きらり。
カノンが退魔士学校に入ったばかりの頃、指導役になった朝霞イブの最も親しい友人であり、カノン自身とも親交を深めた先輩だった。イブを深く尊敬していたカノンは、必然的に彼女の親友であるきらりにも同じ思いを抱いていた。二人は同じ孤児院の出身らしく、時折「友達以上」の関係さえ感じさせるほど、固い絆で結ばれていた。
しかしある日を境に、きらりは忽然と消息を断った。
次に姿を現した時、彼女は敵であるはずの妖魔と共にいた。
それを知ったイブの傷心は、傍目にも痛ましいほどだった。尊敬する先輩を深く傷つけたきらりに対し、カノンは少なからぬ私怨を燃やし続けていた。
その相手が、今、目の前にいる。
「そこを退いてください」
全身に霊力を漲らせ、敵意に満ちた瞳できらりを睨みつけ、
カノンは低く言い放った。
「ごめん。それはできない」
きらりは表情をほとんど崩さなかった。
しかしその声音には、静かな覚悟が宿っていた。
「じゃあ……力づくで通ります」
カノンが間合いを詰めると、きらりもまた武器を取り出して構えた。
退魔の槍——本来、人を守るために振るわれるはずのものが、
今は人に向けられている。その事実にカノンの胸に怒りが沸き上がった。
退魔士学校で見せていた優しい笑顔は、すべて偽りだったのか。
「きらり先輩はどうして、私たちを裏切ったの?」
きらりは、その質問が来ることを予期していたかのように、
微かな逡巡の後で口を開いた。
「……大切な人を守るためだって言ったら、信じてくれる?」
予想外の答えに、カノンは一瞬戸惑った。
裏切り者が、自分と同じ理由を口にするなんて。まるでおちょくられているような気がして、腹立たしさがさらに募る。
「信じない! 妖魔の走狗になり下がった人の言葉なんか、聞こうとした私がバカだった!」
これは動揺を誘う時間稼ぎの奸計だ——カノンはそう判断した。
「だよね。それなら話は終わり。かかってきなさい、きらりちゃんが相手だよ」
きらりの周囲に、二体の式神が召喚される。
一瞬、きらりが目を細め、物憂げに視線を落とした。その真意はカノンには分からなかったが、すべきことは一つだけだった。
彼女を倒し、最上階へ進むこと。
四肢に霊力を集中させ、間合いを一気に詰める。
しかし瞬時に、式神がきらりを庇うように割り込んできた。
「くっ!」
式神を払いのけた隙に、槍の穂先が閃く。カノンは慌てて後方へ飛び退いた。穂先が前髪を掠め、冷たい汗が頰を伝う。
(この人……やっぱり強い……)
何度目かの攻防で、カノンはようやく気づいた。
きらりは、こちらに大きな手傷を負わせる気はない。攻撃を最小限に抑え、防衛に徹している。目的はあくまで時間稼ぎだ。
「なら、その隙を突いてやる……!」
霊力波を前方に放ち、それを盾に再び接近する。きらりは跳躍でそれを躱し、上空から槍を打ち下ろしてきた。カノンは紙一重で避ける。
(ここでこの人は必ず距離を取ってくる、だったら!)
カノンの読み通り、きらりは式神を盾に後方へ飛び退く
(今だ!)「〜〜〜〜〜♪」
相手の身体の自由を奪う言霊、カノンの切り札だった
「っ!動けなっ、」
カノンの狙い通り、空中で拘束されたきらりは着地に失敗して大きくバランスを崩す
「隙あり!」
カノンは一気に肉薄し、渾身の力を込めた螺旋状の霊力波を放った。
式神も、咄嗟に張られた防御術も貫き、きらりの腹部を深く抉る。
鮮血が、コンクリートの床に飛び散った。
「はは……今の螺旋状の霊力波……イブの得意技でしょ? 教わってたんだ……」
「そうだよ! イブ先輩が、相手の守りが堅い時に使えって教えてくれた。私たち師弟の勝利だ!」
本当は「師弟」などと意識したことは一度もなかったが、この期に及んでまだイブの名前を軽々しく口にされたことが許せず、思わず言葉が飛び出していた。
「うん……確かに、そうみたい……や、やられた〜」
軽薄な口調で、きらりは床に崩れ落ちた。
腹部からおびただしい血が流れ、式神も触媒の霊符に戻って消える。それは、所有者の霊力が完全に途絶えたことを意味していた。
致命傷だ。
「ごめん……レンゲ……あんま時間稼げなかったかも……」
床に伏したまま、きらりがうわごとのように呟く。
「最後の最後まで、妖魔の心配か……!」
カノンは怨敵を見る目で倒れたきらりを一瞥した。まだ息はあるようだったが、今はトドメを刺すよりも優先すべきことがある。
「まだ、マーラは復活してない…! どうか間に合って!」
カノンは屋上へ続く階段を、駆け上がっていった。
マーラ復活の儀式と、それを阻止する討伐隊
その情報を聞きつけたイブは現場に急行していた。
恐らくその場には、きらりもいる。
彼女ならきっと、殿として討伐隊と戦うだろう。
最悪の事態が頭をよぎり、胸が締め付けられる。
廃ビルへ突入早々、レンゲの罠が作動したものの、
元々淫夢に耐性のあるイブにとっては、解呪は容易かった。
イブは疾風のごとく廃ビルを駆け上る。
途中、負傷した妖魔を何体か見かけた。
それは自分よりも先行して屋上に向かった退魔士がいるという事実に他ならない。
「お願い…間に合って!」
焦燥に駆られながら、イブは屋上へ続く最後のフロアに足を踏み入れる。
窓が割れて吹きさらしになったフロアだが、
それでも濃い血の匂いがした。
反射的に口元を手で覆ってしまう。
その匂いの元、屋上へ続く階段の手前
とてもとても、見知った人物が倒れ伏しているのが目に入った。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
頭では様々な可能性を想定していたはずだった。
しかし現実に直面した瞬間、思考が真っ白に染まる。
イブはほとんど反射的に駆け寄り、血溜まりの中に膝をついてその体を抱き起こした。
「きらりちゃん…!」
親友の唇から、弱々しいうめき声が漏れた。
体温がある、脈がある、まだ息がある。
思考は真っ白のままだったが、身体が勝手に動いて救命措置をとる。
どうやら腹部に深傷を負っているようだ。
急いで身につけている法衣を破き、傷口に巻き付けて止血を図る。
閉じられていたきらりの瞳が開かれ、自分と目が合った。
「イブ…ごめんね…あたしバカだから、こんなやり方しか…」
「喋っちゃダメ!今治癒術で傷を塞ぐから!急いで手当してもらって、一緒に帰ろう!」
イブは泣きそうになるのを必死に堪え、
ありったけの霊力を右手に集中させた。
掌から柔らかな光が溢れ、きらりの傷口に注ぎ込まれる。
しかし——効果はなかった。
まるで底の抜けた瓶に水を注ぐように、霊力は虚しく消えていく。白かった法衣が、みるみる赤く染まっていく。
「ダメ…なんだ…急いで治癒術使ったけど、全然傷…塞がらなくて…あたし…たぶん…もう…助からない」
強張ったイブの手に、きらりの指が、そっと重ねられた。
最期の時間を惜しむような、優しい仕草だった。
「短い人生だったな…あ、でもね、最後がイブの腕の中っていうのは…悪くないかも…」
本当は出血で苦しいだろうに、それでもきらりはいつものようにイタズラっぽく笑ってみせた。
その姿が痛ましくて、イブは自分の鼓動が壊れそうなほど速くなるのを感じた。
「そんなことない!最後なんかじゃない!きらりちゃんは助かるよ!だからお願い、諦めないで!」
イブは再び治癒術を行使した。今度は自分の命と引き換えにしてもいいという覚悟で、全ての霊力を絞り出す。掌が熱を帯び、輝きを増す。
それでもきらりの傷に変化は無い。
「なんで!なんで傷、塞がらないの!?、この…ちくしょう…」
視界が涙でじわりと歪んだ。
大粒の雫が、きらりの頰にぽたぽたと落ちる。
出血多量による酸欠で、きらりの視界はすでにほとんど闇に覆われていた。それでも頰に落ちる温かい水滴が、親友の涙だと気づいたのだろう。震える指先が、そっとイブの頰に触れた。
「イブ…いっぱい泣かせちゃって…ごめん…傍にいられなくて……ごめん」
イブの呼吸はどんどん荒く、早くなっていく。
一方、きらりの呼吸はか細く、ゆっくりと、遠のいていく。
「いやだ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!きらりちゃん死んじゃ嫌だ!!」
戦場で何度も見てきた「人の死」。
それが今、自分から最も大切な親友を奪い去ろうとしている。
目の前の現実が、どうしても受け入れられなかった。
「私を置いていかないで…私を…独りにしないで…」
無意識に、すがるように彼女の手を強く握りしめていた。
それを、きらりは優しく握り返してくれた。
「イブは…もう1人じゃないよ…だから…あたしがいなくなっても、きっと大丈夫…」
上手く呼吸ができない。
何か声をかけなければいけないのに、今は喉が潰れたように何も言葉が出てこない。
恐怖で全身が総毛立ち、震えが止まらない。
「イブ…大好き…あたしの…親友…」
一筋の涙を頰に伝わせながら、きらりの瞳がゆっくりと閉じられた。
それっきり、もう二度と彼女が目を開けることはなかった
「あ…ああ…」
彼女が自分に向けてくれた笑顔も、温もりも、自分の名前を呼ぶ声も——全てが、永遠に失われてしまった。
初めて声をかけられた時、初めて一緒にご飯を食べた時、初めて2人で出かけた時、一緒に退魔士になった時、
妖魔化の暗闇で手を差し伸べてくれた時、
初めて、2人でキスをした夜
思い出が走馬灯のように駆け巡り、イブはまるで自分が死んでしまったかのような感覚に囚われた。実際、そうだったならどれほど楽だったか。
どうして…
初めに浮かんできたのは、理不尽な現実への問い掛けだった。
どうして…
私たちは、ただ普通に生きたかっただけなのに
なのに私が普通じゃなかったから
だから退魔士になって、普通に生きられないなら、
きらりちゃんと2人で、せめて沢山の人を守ろうって
戦って、戦って、戦って、戦って、戦い続けて、
本当に沢山の人を守ってきた、救ってきた、なのに、
なんで誰一人、きらりちゃんのことを守ってくれなかったの?
「うあ゛あ゛」
声にならない嗚咽を漏らしながら、
親友の亡骸を抱き締める。
急速に体温が失われるのを感じる。
腹部の出血は止まり、赤黒く変色していた。
次に襲ってきたのは強い自責と悔恨の念。
分かってる
きらりちゃんを守らないといけないのは私だったのに
なのにそれが出来なかった
私に大切なものが増えすぎたから
あなたさえいれば、他には何もいらなかったはずなのに
退魔士になって、仲間ができた、友達ができた
みんなみんな、家族みたいに大切で
自分では抱えきれないほど、みんな大切で
あなただけを見ていられなくなった
あなたはずっと、私のことを見ていてくれたのに
私に大切なものが増えていったことを
あなたは喜んでくれた
その優しさに甘えてしまった
気づいた時には何もかも遅くて
この手から最初にこぼれ落ちたのが
1番大切なあなただったなんて
私はなんて愚かなんだろう
さっきの治癒術で霊力をほとんど使い果たした代償か、
抑え込んでいた妖力が堰を切ったように溢れ出した。
暗い空気に黒い霧が渦を巻き、それが次第に人の形を成し、意思を持つ。
「おお、イブ。可哀想なイブ……お前の絶望が、私の肌にまで染み込んでくるぞ。友を失ったか。惜しいことをしたな」
冷たくもどこか甘い声音が響く。イブはゆっくりと顔を上げ、目の前に実体化した存在を睨みつけた。
「黙れ、マーラ。元はと言えば、お前たち妖魔さえいなければ……!」
強い怨嗟の念を込めて、イブは淫魔始祖を睨みつける。
自分の中の妖力からマーラが実体化したということは、レンゲの儀式が失敗に終わったことを意味している。だとしたら、本当に——何のために、彼女は死ななければならなかったのか。
「……そう言ってくれるな。我らとて、好きでこのように生まれたわけではないのだぞ」
イブを宥めるように、マーラは穏やかな口調で続けた。その声音の優しさが、かえって不気味にイブの胸を刺す。
「人間が他の動物を殺し、喰らわなければ生きられぬように、妖魔もまた人間から霊力を奪わねば生きられぬ。ただ、そのように生まれてしまっただけなのだ」
イブは無言でマーラを見つめた。
確かに、相手の言い分もわかる。生まれてしまったこと自体に罪はない。自分もまた、鍛体の力を持ってこの世に生を受けた。
この力のせいで、罪のない人々を傷つけ、戦いに巻き込んでしまった。
そして——親友を死なせてしまった。
生まれたこと自体が罪であるなら、
私は最初から自分で命を絶つしかなかったのだ。
そういえば、戦いの場以外で、
こうしてまともにマーラと会話をするのは初めてだ。
マーラはイブがまだ自分の言葉に耳を傾けようとしていることを察すると、視線をイブの腕の中に横たわる少女——きらりの遺体へと落とした。
「しかし、きらりを殺したのは退魔士か。妖魔も欲望でしか生きられぬどうしようもない連中だが、人間もまた人間同士で殺し合う。愚かな種よな」
妖魔に人間を貶められたことに、イブは一瞬、胸の奥で怒りが燃えた。
しかしその炎は、すぐに冷たい現実によってかき消された。
確かに、その通りだ。きらりは、他ならぬ人間の手によって殺された。
最後に彼女がどのような表情を浮かべていたのかはわからない。
それでも、「命までは奪わない」という選択肢はあったはずだ。
だがこの退魔士は、それをしなかった。
自分は今、この退魔士を——「人間」を、憎いと思っている。
「つまるところな、人も妖魔も変わらぬのだ。ただ、二つの種族が対立しているというだけでな」
イブは静かに唇を噛んだ。
自分は妖魔が憎い。大切な人を傷つけたから。
でも、自分から一番大切な人を奪ったのは、人間だった。
だとしたら、両者に何の違いがあるというのだろう。
マーラは跪いたイブを見下ろしながら、改めてその瞳を真っ直ぐに見つめた。そこには、どこか慈愛に似た光さえ宿っていた。
「そこでだ、イブ。お前に一つ、提案がある」
「……何」
「私が力を完全に取り戻した暁には、死者の魂を現世に呼び戻し蘇らせる『反魂の術』——これを、吉良きらりに使うと約束してやろう」
イブの瞳が、一瞬大きく揺れた。しかしすぐに、深い疑念の色に染まる。
「嘘だ。そんな便利な物があるなら、なんで私たちとの戦いの時に使わなかったの?」
イブは再び鋭くマーラを睨みつけた。きっとまた、自分を妖魔に堕とすための甘い罠なのだろう。
マーラはイブの視線にも微塵も動じず、短くため息をついた。そしてやれやれといった表情で肩をすくめる。
「そう便利な物ではないぞ。簡単に言えばな、術者への負担が大きいのだ」
マーラは視線をイブからきらりの遺体へと移した。
「反魂の術は、蘇らせた死者の残り寿命分、術者本人は眠りにつかねばならん。きらりの年齢を思えば、ざっと七、八十年といったところか」
イブの表情が、疑念から驚きへと変わる。
「だから蘇らせたい死者と術者本人は、決して出会うことはない。どうだ?中々悪辣で難儀な術だろう?」
マーラは自嘲気味に笑うと、再びイブの目を見据えた。
「これが配下の妖魔に使えなかった理由だ。妖魔は長命ゆえ、千年単位で眠りにつかねばならん。私がそうなっては意味がないからな」
「じゃあ……どうしてきらりちゃんには……」
泣き腫らした瞳で、イブはマーラと視線を合わせた。
「まぁ、人間程度であれば、今さら百年未満の休眠など大した長さではない」
マーラは「致し方ない」とでも言いたげに、唇をわずかに尖らせた。
「そこまでして、あなたに何のメリットがあるの?」
イブの瞳からはまだ懐疑の色が消えなかった。しかしその奥底に、微かではあるが、希望の灯が揺らめき始めていた。
「ただし、私が眠っている間はな、イブ。お前が妖魔の長として皆を率いる。それが条件だ」
イブは驚きで目を見開いた。
「私に……あなたの代わりをやれっていうの? 一体どうして……」
マーラは真っ直ぐにイブを見つめ、静かに言った。
「私はな、イブ。お前を高く評価している。お前の力も、仲間を思い遣る心も。お前が私の後継として妖魔の側に来てくれれば、これほど心強いことはない」
「けど……私は……」
イブは迷っていた。
反魂の術の話が本当かどうかもわからない。
マーラについていくということは、自分がこれまで守ってきたものを、傷つける側の立場になるということだ。
そんなことが、自分にできるのか。
「イブよ。今一度、人間、妖魔という軛から解放して考えてみろ。人と妖魔は変わらない。最も自分にとって有益な相手と組めばよい。そう思ったからこそ、きらりも我らと共に来る道を選んだのだ」
頭の中に退魔士の仲間たちの姿が浮かんでは消える。
私は最低の裏切り者だ。
きっときらりちゃんだって、こんなことは望んでいないだろう。
だったら——「おあいこ」だね。
あなたが私を助けるために命を捨てるなんて、そんなこと、私だって望んでいなかったから。
あなたのいない日常に帰るくらいなら、私は——
「……分かったよ、マーラ。お前を信じる。一緒に行こう」
毅然と言い放つつもりだったのに、その声はまだ小さく震えていた。
マーラの唇に、満足げな微笑みが浮かんだ。
「お前ならそう言ってくれると思っていたよ。淫魔始祖として歓迎する。ようこそ、朝霞イブ」
マーラはイブの隣にしゃがみ込むと、右手を差し出した。
「こういう時は人間と同じなんだね」
「人間流に合わせたのだ。私なりの敬意なのだぞ?」
イブは苦笑しながらマーラの手を取り、冷たい感触とともに握手を交わした。
「反魂の術には、対象の肉体の一部が必要だ。きらりの遺体は連れて帰りたいところだが……しかし」
マーラは振り返り、イブが元来た入り口に視線を向けた。
「複数の退魔士がこのフロアに向かっているな。引き返せば戦闘になる。当然、ヒト一人を抱えたままでは、お前もろくに戦えまい。何が言いたいか分かるな?」
「言われなくても、そのつもりだよ」
イブは努めて冷静に答えた。その声からは、もう震えは消えていた。
「きらりちゃん、ごめん……痛いだろうけど、我慢して?」
イブは自分の矛を取り出すと、きらりの左手首を丁寧に切り離し、法衣の切れ端で包んで懐にしまった。
それから、二人で買ったお揃いのイヤリングを遺体から外し、自分の耳に付け直した。
思った通り!超似合ってる!ほら、鏡で見て!
よさげなの見つけちゃってさ
ちなみにあたしとおそろだよ!ねっ?
初めてイヤリングを付けてもらった時のことが脳裏に蘇る。
涙が溢れそうになったが、イブは目元を強く拭った。
そして踵を返し、もと来た道へと歩き出す。
その先は、底知れぬ奈落の入り口のように暗く、深く見えた。
「これで私も、退魔士じゃなくなる、けど……」
イブは静かに目を細め、闇の奥へと足を踏み入れた。
初めて妖魔に立ち向かうと誓ったあの日の言葉が、再び胸に去来する。
——親友を助けられるのなら、私は悪魔にだってなる。