ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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第8話  もう1つの閃光

 

 

 

 

戦場の後の夜は、石畳の継ぎ目まで凍える。戦闘を終えた広場に、治癒結晶の光と焚き火の赤が交互にまたたき、呻き声と安堵の笑いが交じる。

その真ん中で、アスナは走っていた。走る――といっても、ただ速いわけじゃない。見る→判断→指示→次へ。ひと呼吸ごとに四つの工程がぴたりと収まる。

 

「深手はこっち! 縫合は私がやる、あなたは滅菌の維持。――リオ君、止血帯、十五秒おきに緩めて。数えてから声出して」

 

「はいっ!」

 

リオの声がかすれるたび、アスナは短く頷いて“できている”ことを先に認める。褒めすぎず、叱りすぎず。視線の高さをそろえる。怯えた新参の肩にそっと触れて、手を離すタイミングはきっちり一定。

救護マットに転がされた盾役の男が歯を食いしばった。

 

「副団長……俺、やらかした。ラインを……」

 

「戦いは続く。だから今は、呼吸だけをしよう。吸って、吐いて。はい、もう一回」

 

その間に彼女の手は止まらない。包帯を裂く音、薬草をすり潰す音、治癒結晶の冷光を瞼で遮る指先の影。命が落ちそうな境目だけを正確に拾っていく。

団長ヒースクリフは、少し離れた柱の影に立ち、周囲の警戒に徹していた。彼の視線が、わずか一拍、アスナの背に留まって、すぐに巡回へ戻る。

 

やがて呻き声は減り、焚き火の音が前に出てきた。アスナは手袋を外し、次の声を紡ぐ。

 

「手当が済んだ人から温まって。――食堂へ。今日は私が台所に立つ」

 

わっと小さな歓声が上がる。戦場帰りの身体には、そのひと言が何より効く。誰かが冗談めかして言う。「副団長の“真のユニークスキル”の時間だ!」

アスナは肩をすくめ、笑って受け流し、先頭に立って歩き出した。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

台所、点火

 

血盟騎士団宿舎の台所は、石造りの竈と長い調理台、それから大鍋が三つ。アスナが入ると、周りの見習い調理班が道を開ける。

 

「今日は人数が多いから、二本立てでいくよ。大鍋は根菜と塩豚のスープ。もう一つは鶏と麦。主菜は薄切り肉のハーブ焼き、付け合わせは茸。――切り出し、三ミリ。皮は捨てないでストックへ」

 

「三ミリ、了解!」

 

「味は濃すぎない方がいいよね?」と若い団員が遠慮がちに尋ねる。アスナは頷く。

 

「戦闘直後は塩分は欲しいけど、胃が驚くから下味で入れて、最後は各自で。ハーブはローズマリーは半分。フェンネルは控えめに。――リオ君、火番お願い。火の高さは手をかざして“熱いけど我慢できる”が基準」

 

「はい!」

 

まな板の上で包丁が音を刻む。リズベットが手を拭きながら顔を出した。

 

「手伝うわよー。鍛冶屋だけど刻むの得意!」

 

「助かる。茸の土を落として、軸は刻んでバターで先に炒めておいて。香りが出たら台に回して」

 

「合点!」

 

指示は流れるようで、でも一つひとつが具体的すぎるほど具体的だ。誰も迷わない。迷わせない。

鍋が沸き――アスナは味見を一口。眉根が微かに寄る。

 

「……もう一手」

 

鍋の縁に、ほんの少しだけ蜂蜜を垂らす。甘くしないための甘味。全体の角を丸くするための点。煮返す。香りが立ち上がる。

リオが横で唾を飲み込んで、慌てて火加減に目を戻した。

 

「リオ君」

 

「は、はい!」

 

「火、いい。――ありがとう」

 

一言、それだけ。少年の背筋がぴんと伸びる。

焼き台の上、薄切り肉はハーブと塩で衣を纏い、鉄板で一気に焼き色をつけていく。アスナはトングを持つ手を止めないまま、鍋の泡の粒の大きさを目で追い、塩の鉢をほんの一度だけ傾ける。

 

「盛り付けはね、疲れた目にも優しい方がいい。茶色が続くから、パセリは刻まず手でちぎって。緑は“点”じゃなく“面”で置くの」

 

「面で……!」

 

見習いの女の子が目を丸くし、真似をする。皿が並び、湯気が連なり、匂いが廊下まで満ちる。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

食堂。木の机がずらりと並び、鎧の金属音が椅子の軋みと混ざる。最初の皿が出た瞬間、静かなどよめきが起きた。

塩豚スープは、肉の旨味を奥に隠し、根菜の甘味を前に出す。鶏と麦のスープは、喉を滑って胃に落ちる道が気持ちいい。薄切り肉のハーブ焼きは、疲れた舌でも“美味しい”が分かる香りだけを残す。

 

「……うま」

 

最初に声を漏らしたのは古参の盾役だった。次いであちこちでスプーンが当たる音が早まる。

リズベットは椅子に腰をおろすやいなや頬をほころばせた。

 

「なんでよこれ、店出せるわよ。鍛冶屋やめて、アスナ亭開こう」

 

「ダメです」

リオが真顔で即答して、周囲の笑いが弾ける。アスナは肩をすくめるだけだ。

 

「食べて。今は“戻る”時間だよ」

 

“戻る”。戦場の神経から、生活の神経へ。アスナの言葉は合図になり、食堂はほどよいざわめきに落ち着いていく。

彼女は食べながらも席を回り、目だけで体調を“診る”。顔色、手の色、食べる速度。危うい者にはそっと肩を叩き、隣の皿からパンを一切れ渡す。

誰もそれを“管理”とは感じない。

“世話”とも違う。

近すぎない。遠すぎない。

ちょうどいい間合い――それが、彼女のいちばんの技だ。

 

アスナが最後列で皿を掲げて合図した。

 

「今夜だけは、十五分、笑うこと。愚痴でも、くだらない話でもいい。笑えなくても、笑ったふりでいい」

 

最初はぎこちない笑いがいくつか。やがて本物が混ざり、連鎖する。

ヒースクリフが食堂の入口に立って、その光景を黙って見届けていた。彼は滅多に表情を変えないが、今夜はほんのわずか、頬の力が抜けているように見える。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

片付けの時間。リオが袖をまくり、皿を重ねて運ぶ。アスナは袖を結び直し、洗い場へ自分から入る。

 

「アスナさん、僕もやります!」

 

「ありがとう、リオ君も“戻る”には手を動かすのがいいよ。考えすぎなくて済むから」

 

「……はい」

 

皿を湯にくぐらせ、布で拭く。泡の向こうでアスナがぽつりと言う。

 

「今日、あなたの止血はよかった。あと一つ、覚えておこう。助けられない時のために、助けられる時の手順を完璧にするの」

 

「“助けられない時のために”……」

 

「そう。私たちは強いけど、万能じゃない。だから手順を磨く。磨いておけば、悔やむ回数は減る」

 

リオは言葉を飲み込んで、皿をもう一枚拭く。

それを横で聞いていた若い団員が、思わず口を挟んだ。

 

「副団長……どうして、そんなに普段通りでいられるんですか?」

 

アスナは手を止めない。けれど声は柔らかい。

 

「平気じゃないよ。怖い。でも、怖いから準備する。準備してる時間は、怖さよりやることの方が大きくなるから」

 

「……なるほど」

 

リズベットが台布巾を絞りながら、横からおどける。

 

「ね? この子、戦うときは雷みたいに速いのに、日常だと雨みたいにしみるのよ。ずぶ濡れになるまで気づかないの」

 

「リズ、濡らしっぱなしにしないで、タオル回して」

 

「はーい」

 

笑いとともに、仕事は終わっていく。

 

 

廊下、呼吸

 

片付けが終わるころには、宿舎はすっかり温度を取り戻していた。

アスナは廊下に出て、深呼吸を一つ。

脇の窓越しに、銀の光が一瞬だけ揺れた気がして、視線をやる。

ティンクルが柱の陰に立ち、こちらを見ていた。いつもの、穏やかな笑み。微かな会釈。言葉はない。

アスナも微笑みで返す。

それで足りる。互いの役割は、互いがよく知っている。

 

「副団長」

 

背後で低い声。ヒースクリフだった。

彼は廊下の端から歩み寄り、足を止める。

 

「見事だった」

 

「ありがとうございます」

 

「君がいると、部屋の空気が安定する。――戦闘の勝利は、ここで積まれている」

 

「皆がいるからです」

 

即答。ヒースクリフはわずかに目を細める。

 

「そう言える者は強い」

 

それだけ言って、団長は踵を返した。足音が石の目地に吸い込まれていく。

アスナは窓に額を寄せ、夜気を吸う。

胸の内側の小さな震えを、呼吸でなだめる。

怖い、は無くならない。けれど、準備はできる。

料理も、救護も、声をかける順番も。

自分にできる“勝ち”を、一つずつ積む。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

深夜。

食堂の灯が落ち、宿舎は眠りに入る。

巡回の足音が、遠くの廊下を抜ける。

アスナは最後の点検を終え、扉の前で振り返る。

テーブルの上に、パセリの緑がひとかけら残っていて――彼女はそっと指で摘み、口に運んだ。

 

少し青い味。

少し、土の匂い。

今日という日にも、土があった。

血の匂いのあとに、パンとスープと笑いの匂いが確かにあった。

それだけで、救われる者がいる。

それを“作る”のが、自分の仕事だ。

 

扉を閉める直前、背後で小さな声。

 

「アスナさん」

 

振り返ると、リオが立っていた。髪は濡れて、目はまだ冴えている。

 

「今日、ありがとうございました。……ぼく、もっとやれます」

 

「うん。やろう。――寝ること、からね」

 

「はい!」

 

少年は走り去る。

アスナは微笑んで、灯を落とす。

 

夜は、まだ冷たい。

けれど、団のどこかで、誰かの腹は温かく、息は深くなっている。

その温度をつなぐ線の、真ん中に立ち続ける――それが、《閃光》の、もう一つの顔だった。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

夜更け。宿舎の回廊に冷たい夜風が吹き込んでいた。

アスナは眠れずに外へ出て、石畳を踏みしめる。灯火の残り香がわずかに漂い、静けさが胸にしみる。

 

柱の影から、ふと銀髪が揺れた。

ティンクルがそこに立っていた。月明かりに照らされた横顔は、昼間と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべている。

 

「……まだ起きてたの?」

アスナの声に、彼女は軽く頷いた。

「アスナこそ。副団長は本当に休む暇がないね」

 

「休めるときに休んでるわ」

肩をすくめて答えたが、視線を合わせた瞬間に胸がざわめく。あまりに自然で、崩れることのない笑顔。その奥が見えないからこそ、不思議に心を掴まれる。

 

「今日のスープ、皆とても喜んでた。ああいう時間があるから、戦えるんだと思う」

ティンクルは静かにそう告げた。

「剣よりも、人を支える力の方が難しい。……アスナは、それを持っている」

 

「……褒めすぎよ」

アスナは照れを隠すように目を逸らす。けれど、心臓の鼓動が少し速くなるのを止められない。

 

ティンクルは変わらぬ微笑を浮かべたまま、夜風を見上げた。

「アスナがいるから、団はまとまっている。それは事実だよ」

 

ただそれだけ。

温度を持たない声音なのに、妙に胸に刺さる。まるで数字を読み上げるみたいな、静かな確信。

 

「……あなたこそ、無理はしてない?」

思わず問いかけた。けれど彼女は少し首を傾げ、やわらかく笑っただけだった。

 

その返事にならない返答が、逆にアスナの胸を締め付ける。けれど同時に、不思議な安心感もあった。彼女が隣に立っているだけで、夜の冷気が和らぐ気がした。

 

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