ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
最初に「可愛い」と呼ばれたのは、四層の主街区だった。
石畳の広場の中央。市場のざわめきの中、僕は蜂蜜パンを買い、噛みながら露店の前で足を止めていた。そのとき、背後から囁く声が届いた。
「なあ、あの子……可愛くないか?」
振り返らない。噂というのは、背中から始まるものだから。
手の中のパンはまだ温かいのに、唇にまとわりつく蜂蜜の甘さが、ひどく遠くに思えた。
――僕はティンクル。それが僕の名乗り。誰に会っても、必ずそう言ってきた。
けれど呼ばれたのは、名前ではなく、形容詞だった。
その夜、統計を始めた。
一日目:「可愛い」三件。
二日目:「姫」八件。
三日目:十四件。内訳「可愛い」九、「姫」五。
呼び名は変換され、増殖していく。まるで伝染病。
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「ティンクルさん、一緒に狩り行きませんか!」
広場の角で声をかけてきたのは、初級ギルドの三人組だった。盾役の青年は歯を見せて笑い、後ろの弓使いは赤い頬をして視線を泳がせている。
「ありがとう。でも、今日はソロで進みたいんだ」
僕は微笑を崩さず、断りの言葉を渡す。驚くほど簡単だ。笑顔は相手を裏切らない。拒絶さえ、柔らかく見せる。
「やっぱり一人の方が似合うよな……」
「さすが、姫だ……」
背後で聞こえる声は記録され、数値になる。
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十五層。夜の酒場。
「氷姫に乾杯!」
いつの間にか、新しい呼び名が付与されていた。剣筋が冷徹に見えるらしい。僕は笑顔で杯を掲げる。酒は舌に合わないから口をつけるだけ。
隣の男たちは酔って、僕の話を勝手に作り替える。
「孤高の姫」
「攻略組の影の支配者」
「誰にも心を許さない絶世の美女」
正解は一つもない。でも、訂正はしない。仮面を被れば、彼らは安心する。
深夜の宿屋。
鏡の前、銀髪を解く。
呼び名は日に日に増えていく。
可愛い。姫。氷姫。妖精。女神。
統計のグラフは上昇曲線を描く。
僕にとって、それは株価のようなものだ。意味はなくても、値動きは続く。
――ただの消費。
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十六層。迷宮区の中。
野良パーティが道に迷っていた。
「助けてくれませんか!」
「ティンクルさんだ!」
僕は微笑みを浮かべ、最短ルートを案内する。敵は数匹。処理は容易。
「ありがとう!」
「やっぱり姫は頼りになる!」
別れ際、弓の少女が小声で言った。
「……私、あなたみたいになりたい」
僕は頷く。笑顔で。
心の中では統計表に一件を加える。
「羨望」一件。
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十七層。宿の廊下。
聞こえてきた。
「氷姫の写真がまた売られてる」
「今度は銀貨十枚だってよ」
数字を記録する。相場は右肩上がり。
対象は僕。商品は笑顔。
買った者は満足し、売った者は利益を得る。
残るのは、虚無。
僕は紅茶を口に含む。苦味の中に、僅かな甘み。唯一、測れない数値。
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十八層。夜の湖畔。
声をかけてきたのは、小さな少女――シリカだった。
「ひとりなんですか? 危ないですよ」
「大丈夫。僕は慣れてるから」
「でも……寂しくないんですか?」
一瞬だけ答えに迷い、笑顔で上書きした。
「湖が綺麗だから、十分だよ」
シリカは納得していない顔をしていた。
でも、僕の仮面を剥がそうとはしなかった。
――距離を、守ってくれた。
統計に一件追加。
「理解」一件。
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十九層。討伐戦の後。
「ティンクル! 一緒に飲もう!」
「氷姫の隣は俺だ!」
争う声。押し合う肩。
僕は微笑みを崩さず、席を譲り合う彼らに視線を落とす。
観察対象。観客。消費者。
――統計の点は、また増えていく。
その夜、日誌に数字を記す。
可愛い:累計一二八件。
姫:九七件。
氷姫:四三件。
写真取引:推定四二枚。
グラフは伸び続ける。終わりはない。
数字の向こうに「僕」はいない。
仮面だけが、名を持ち、歩き続けている。
窓の外、月光が湖面を照らす。
僕は微笑む。誰もいない部屋で。
この笑顔は、統計には含まれない。
観客も、消費者もいない。
ただ僕だけが、数字を見て、虚無を撫でる。
――それでも、名は広がる。
「ティンクル」ではなく、「氷姫」として。
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二十層 ― “可愛い”の氾濫
二十層の街《レインフォール》。水路が巡り、石橋に灯火が揺れる街で、僕は討伐から戻ったばかりだった。
背後から声が飛ぶ。
「ねぇ、あの人ティンクルじゃない? 氷姫だよ!」
「やっぱ可愛いな……」
統計に追加。
可愛い:累計一七八件。
氷姫:六七件。
笑顔で片手を上げ、すれ違う彼らに会釈する。
胸の奥では、ただ冷たい数字が一つ増える音。
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二十一層 ― 仮面の効果
酒場で隣り合った重戦士が僕にジョッキを突き出した。
「よぉ、氷姫! あんた、ホントは笑ってねぇだろ?」
僕は目を細め、くすりと笑う。
「そう見える?」
「……いや、違うな。やっぱ笑ってるわ」
男は照れ笑いをしながら飲み干した。
統計に「仮面を信じた人」一件。
――信じさせるのは簡単だ。
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二十二層 ― “姫”の祭り
討伐戦の夜、広場に火が灯り、誰かが叫んだ。
「氷姫に乾杯!」
次々と声が重なり、広場中に響く。
僕は杯を掲げて笑う。
喉の奥では、統計の数字を並べ替えている。
姫:一二三件。
氷姫:九八件。
声援:二二件。
――群れの熱狂は数で測れる。熱は必ず冷める。だから数字だけ残る。
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二十三層 ― “羨望”
街道沿いで一人の少女に声を掛けられた。
「ティンクルさん、どうしてそんなに強いんですか?」
僕は首を傾げて、柔らかく笑う。
「練習したからだよ」
「わたしも、あなたみたいになりたい」
統計に追加。
羨望:三件。
――けれど、その視線は剣ではなく、顔に注がれている。
強さより“可愛い”が先に立つ。
数字は裏切らない。
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二十四層 ― “写真市場”
路地裏で男たちが取引しているのを見た。
「氷姫の最新ショットだ。銀貨十五枚」
「高いな……でも買う!」
僕は素通りし、記録する。
写真取引:累計七八件。
相場:銀貨一〇〜一五枚。
市場は成長している。僕が何もしなくても。
消費されるのは、仮面。
中身は誰も求めない。
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二十五層 ― “冷笑”
「ティンクルさん、一緒に食事でも!」
「姫、これどうぞ!」
差し出される皿、花束、装飾品。
僕はすべて受け取り、笑顔で礼を言う。
その後、宿屋に戻り、アイテムボックスに仕舞い込む。
無価値な贈り物の累計:三四件。
――数字だけが残る。
虚無は増える。
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二十六層 ― “冷徹”
討伐中、味方が動揺した。
「撤退だ! やばい!」
「まだいける」僕は冷静に告げた。
結果、勝利。犠牲ゼロ。
その瞬間から呼び名が一つ増えた。
「氷のように冷徹な姫」
――“氷姫”が定着する。
統計に追加。
氷姫:二〇三件。
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二十七層 ― “理解者”
湖畔でまた会ったのは、あの少女――シリカだった。
「また一人なんですか?」
「うん。僕はその方が慣れてる」
「……でも、ちゃんと気をつけてくださいね」
彼女はそれ以上踏み込まなかった。
統計に追加。
理解:二件。
――稀少な数字。消費者ではなく、距離をわかる視線。
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二十八層 ― “嫉妬”
街で声を聞いた。
「氷姫ばかり人気でずるい」
「可愛い顔して、得してるんだ」
統計に追加。
嫉妬:六件。
――数字は正直だ。羨望が増えれば、嫉妬も比例して増える。
統計は裏切らない。
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二十九層 ― “孤高”
広場で誘われた。
「ティンクルさん、ギルドに入りませんか!」
僕は微笑んで首を振る。
「ありがとう。でも僕は、まだソロでいたい」
誘い:一二件。
加入:ゼロ。
統計は示す。
――僕は、まだ“孤高”である。
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三十層 ― “仮面の完成”
討伐戦で氷結系の剣技を放ち、敵を一撃で凍らせた。
「氷姫!」
「やっぱり姫だ!」
呼び名は完全に定着した。
僕の名前は“ティンクル”。
けれど群衆は、仮面だけを呼ぶ。
統計のグラフは完成する。
可愛い → 姫 → 氷姫。
――僕は、数字の中で消費され続ける。
仮面を纏い、笑顔で返す。
それが“正しい距離”。
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三十一層 ― “偶像”
街の広場に即席の舞台が組まれ、僕の討伐記録が誇張されて語られていた。
「氷姫は一人で三十匹のオーガを倒した!」
拍手。歓声。視線。
統計:誇張報告 12件。
――偶像化の始まり。事実ではなく、物語が一人歩きする。
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三十三層 ― “アンチ”
「氷姫なんて作り物だ」
「顔が可愛いから持ち上げられてるだけ」
宿屋の裏でそんな声を聞いた。
統計:嫉妬・否定 22件。
――数字は増える。羨望と比例して。
僕は笑顔で広場に現れる。アンチは黙る。群衆の中で、彼らは数に呑まれる。
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三十五層 ― “ファンクラブ”
路地裏で小さな集まりを見た。
「氷姫の護衛団、結成!」
「応援用の旗、作ってきた!」
統計:ファンクラブ 3件。
――滑稽で、残酷な数字。
僕は彼らを断らない。笑顔で会釈し、ただ通り過ぎる。
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三十七層 ― “友達の距離”
狩場でシリカと再会した。
「また一人なんですね」
「僕は、友達と呼べる距離を作るのが下手なんだ」
「……でも、話してくれるじゃないですか」
統計:理解 3件。
稀少種。数字の波に埋もれるが、確かに存在する。
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三十九層 ― “市場の膨張”
氷姫の似顔絵が露店に並ぶ。
「公式イラストだぞ!」
値段は銀貨二十枚。
買う者が列を成す。
統計:商品化 41件。
――視線はますます強化される。僕は商品。生かさず、殺さず。
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四十一層 ― “戦術評価”
攻略戦で後衛の指揮を執った。
「やっぱり氷姫の判断は冷静だ」
「彼女が副団長だったら……」
統計:戦術評価 9件。
だが、その前に必ず「可愛い」がつく。
可愛い+強い=氷姫。
僕自身は統計に存在しない。
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四十三層 ― “孤独の実感”
夜、宿の窓から街を見下ろす。
人の笑い声。光。
僕は仮面を外さない。
鏡に映る笑顔は、統計に最適化された形。
統計:孤独の自覚 1件。
――この数字は、誰にも見せない。
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四十五層 ― “挑戦者”
若い剣士が声を掛けてきた。
「氷姫! 一騎打ちを!」
「いいよ」
戦い、僕が勝つ。
彼は叫ぶ。
「やっぱり強い! 氷姫最高!」
統計:挑戦 14件。
敗北しても、彼らは僕を消費する。
勝敗は関係ない。
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四十七層 ― “噂”
「氷姫は実は男らしい」
「いや、女神の化身だ」
「中身はNPCだって説もある」
統計:噂 36件。
――どれも正解で、どれも間違い。
仮面は揺るがない。
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五十層 ― “中間地点”
大規模攻略後、記念式典。
「氷姫! 演説を!」
壇上に立つ。
「……これからも、前に進みましょう」
拍手。喝采。
統計:演説 1件。
――中身のない言葉。だが群衆は満足する。
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五十三層 ― “消費の拡大”
氷姫グッズ。氷姫酒。氷姫セット。
統計:商品名に使用 24件。
――名前が独り歩きする。僕は止めない。止めれば、統計の連鎖が崩れる。
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五十五層 ― “裏取引”
「氷姫と一緒に狩りをする権利、金貨一五枚」
実際に取引されていた。
統計:同伴権売買 3件。
――人は何でも値段をつける。僕の視線すら。
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五十七層 ― “崇拝”
祈る者がいた。
「氷姫様、どうかご加護を」
僕は微笑む。
統計:崇拝 5件。
――信仰の数字。狂気と隣り合う。
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五十九層 ― “限界”
広場を歩くたび、声が飛ぶ。
「氷姫! 氷姫!」
「笑って! こっち向いて!」
統計:呼びかけ 92件。
僕は笑い続ける。
だが、喉の奥に重りがある。
仮面はひび割れない。けれど内側の数字は飽和に近い。
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六十層 ― “接触”
六十層ボスを討伐した夜、転移門の広場は歓声と歌声に揺れていた。
炎の明かりが剣と鎧に反射し、どこもかしこも祝祭の光であふれている。
それは喜びであるはずだった。だが、僕には数字の羅列にしか見えなかった。
統計:笑顔 182件。叫び声 76件。涙 33件。
――人間はデータだ。数えれば、形になる。
広場の中央で、誰かが叫んだ。
「氷姫だ! 氷姫も来てるぞ!」
その一声で、波のように人垣がこちらへ寄せてくる。
「笑って!」
「一緒に!」
「剣を掲げて!」
統計:呼びかけ 119件。
僕は微笑を保ったまま、片手を軽く上げる。
群衆はそれで満足する。視線は消費され、次の声援へと流れていく。
(……同じだ。現実と何も変わらない)
月光が頭上から落ち、祝祭の炎に混ざる。
人波の渦の中で、僕は一人きりだった。
――そのとき、赤白の影が視界の端に立つ。
広場の端、篝火の炎を背にして立つその人影は、すぐに誰だか分かった。
《血盟騎士団》団長、ヒースクリフ。
彼は喧噪に溶け込むことなく、ただ静かにこちらを見ていた。
笑いも叫びも涙も数値化できた。けれど、あの視線だけは、どうしても計算に組み込めなかった。
――統計不能。
僕の足は自然に止まる。群衆の呼び声が後ろで弾け、拍手の波が遠ざかる。
ヒースクリフの周囲だけ、祝祭の熱が届いていなかった。まるでそこだけが別の層であるかのように。
「ティンクル君」
彼は僕を名で呼んだ。
声は大きくなかった。
だが広場のざわめきよりも、ずっとはっきりと耳に届く。
月光が背を押すように落ち、炎の揺らぎが道を照らす。
――“接触”。
この夜が、始まりだった。