ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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第14話  ティンクル加入エピソード 後編

 

 

 

 

 

 

 

 

昼時。

 血盟騎士団本部の食堂には、ひとときの安堵が漂っていた。戦闘も騒乱もない数時間――その平穏を、団員たちは噛みしめていた。

 

「ようやく落ち着いて飯が食えるな」

 ブリュノが大きな腕を組み、湯気の立つ皿を前にほっと息をついた。

 

「……でも、みんな大丈夫かしら」

 アスナはまだ心配げに視線を窓へとやる。

 

セラフィナは手元のカップを置き、落ち着いた声で答えた。

「そろそろ戻ってくるはずです。彼女なら、無闇に人前で動揺は見せないでしょう。心配はいらないと思いますよ」

 

そこへ、食堂の扉が開いた。

「みんな、ここにいたのか」

 入ってきたジョンが、肩の埃を払いつつ声をかける。

 

「お疲れさん、どうだった?」

 ブリュノが声をかける。

 

「問題なしだ。ティンクルも皆に謝っていた。“自分のせいでバタバタさせてすまん”とな」

「気にすんなって伝えたか?」

「もちろんだ。本人のせいじゃない」

 

「ティンクルは?」

 アスナが問う。

 

「倉庫にいる。荷物の整理中だ」

「そう……。じゃあ、お弁当作ったから持っていくわ」

「さすが気が利くな」

 ジョンが小さく笑った。

 

アスナは包みを抱え、足早に食堂を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「門の人だかり、だんだん増えてるみたいです」

 リオが控えめに言葉を落とす。

 

「暇人が多いな」

 ブリュノは肩を竦める。

 

セラフィナは眉をわずかに寄せ、静かに息をついた。

「少女を大人が寄ってたかって追い回す……滑稽で、そして哀れですね。彼女がどれだけ疲弊するか、想像できないのでしょうか」

 

リオがこくりと頷く。

 ジョンが低く補足した。

「顔には出さねぇタイプだが、気を張ってやらんといけねぇな」

 

そこでブリュノが声を潜める。

「……裏で金貨十枚だ」

 

ブリュノは苦々しい顔のまま、短く続けた。

「“氷姫が血盟騎士団の服を着た写真”。……それ一枚で、十枚」

 

「!?」

 場に一瞬、ざわめきが走る。

 

「き、金貨十枚!?」

 リオが椅子を鳴らして立ち上がる。

 

セラフィナは瞳を細め、冷ややかに言葉を落とした。

「恥を知るべきです。ですが――今は感情を荒らげても仕方がありません。あの子の負担を減らすことを、第一に考えましょう」

 

その言葉に、一同は静かに頷いた。

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

「ははは、世間は大騒ぎやろなぁ」

 

石造りの部屋の片隅。薄暗い蝋燭の灯りの下で、アルゴは膝に端末を載せ、軽快にキーを叩いた。画面に浮かぶ見出しは、つい数分前に自分が打った速報だ。

 

『氷姫 血盟騎士団入団決定! 続報は明日の有料版で⭐︎』

 

たった一行。

余計な飾りも、推測めいた文言も要らない。ただ「事実」だけを投げればいい。市場の火種に火を投げ込めば、あとは勝手に燃え広がる――そういう仕組みを、アルゴは誰よりも知っていた。

 

端末をぱたりと閉じ、頬杖をつく。

(さて……門の前はもうえらいことになっとるやろな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案の定。

記事を放った直後から、血盟騎士団本部の門前には人が押し寄せていた。

昼間の市場帰りに冷やかし半分で覗く者。投機屋のように「次の強者はどこへ流れるか」で賭けを張る者。あるいは他ギルドから派遣された“観測役”。それぞれの顔に、欲と興味が入り混じっていた。

 

「ほんとに入ったのか?」

「いや、まだ噂やろ?」

「でもよ、アルゴの記事やぞ。あいつが書いたなら確かだ」

 

酒臭い息で叫ぶ男。

警戒心を隠せずに周囲を窺う女。

そして興奮で頬を赤くした若造。

誰もが「氷姫」の名に釘付けになっていた。

 

アルゴは人垣の背後に立ち、フードの陰から群衆を眺める。

(ほら見ぃ。ほんの一行で、このざまや)

 

本部の門は固く閉ざされ、通常より多くの団員が警護についていた。鎧の鈍い光が篝火に照らされ、近づく者を冷ややかに見据える。

声をかけても無駄だ。

今この門の中に入れるのは、団長ヒースクリフが許した者だけ。報道屋である自分すら、通れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも人は集まり、噂は際限なく増幅していく。

 

「献上品を持ち込んだって話だぜ」

「破格の待遇やろ、あれだけ強いんやから」

「いやいや、“一騎打ちで勝ったら入る”って約束やったらしい」

 

どこかで聞いた台詞が、尾ひれをつけて別の口から流れる。

憶測は雪玉のように膨らみ、いつしか「真実らしき物語」に化けていく。

アルゴは心の中で鼻を鳴らす。

 

(あほらし。証拠もない話ばっかり。せやからこそ、うちは“裏を取る”んや。記事にするんは事実だけ。推測は頭の中で転がすだけで十分や)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頬杖をつき、アルゴは思考を巡らせた。

 

六十層のボス討伐。

その直後に、ヒースクリフとティンクルが会談したのは確実。

しかも結果は“即決”の入団だ。

 

まるで舞台袖から即席のヒロインを引っ張り上げるみたいに、団長自らが“連れてきた”。

一度の会談で、決着をつけたのだ。

 

「……団長ヒースクリフ。あんた、どんな手使ったんやろな」

 

アルゴは心の中で笑う。皮肉半分、感嘆半分。

 

なにせ――ティンクルは素直に首を縦に振るような人間じゃない。

数々の勧誘を断り続け、孤高を貫いてきた。

甘言で釣られるわけもないし、他人に縛られるのを何より嫌っていた。

 

それがどうだ。

団長と一度顔を合わせただけで、すんなり入団?

 

(……何を話したんや、ヒー坊)

 

アルゴは考えを巡らせる。

が、同時にすぐ結論に至る。

 

――わからない。

ヒースクリフもティンクルも、口は固い。情報が漏れるとすれば、それは本人が意図して流す時だけ。誰かが盗み聞きしたところで、核心には辿りつけない。

 

(せやから“事実”だけでええ。うちは確定した材料しか書かへん)

 

記事には書かない。

だが頭の中では、団長の手際を思い浮かべて苦笑する。

 

(……上手いわ。あんた)

 

 

 

 

 

 

 

 

噂は肥大する

 

門の外では、噂がまた別の形で膨れ上がっていた。

 

「氷姫が入ったなら、次の攻略は余裕だろ」

「いや、むしろ血盟騎士団の独走が加速する」

「もう聖龍連合も終わりやな」

 

アルゴは耳を傾ける。

大衆の声は単純だ。強い者が動けば勝敗が決まる。細かい理屈など要らない。

だがそれこそが、記事の価値を跳ね上げる燃料になる。

 

 

血盟騎士団の入口は、これまでにないほど固められている。

団員が二重三重に立ち塞がり、外から中の様子は一切見えない。

人垣の後方には、各ギルドの観測屋が潜んでいる。

表情を変えず、ただ頷き合い、何かを記録している。

 

アルゴは心の中で笑い、背筋を伸ばす。

 

(ま、うちは見届けて記事にするだけやけどな)

 

端末を懐にしまい込み、アルゴは人垣から離れた。

石畳の上に響く足音は軽い。

フードの下の笑みは、獲物を見つけた狐のようだった。

 

「さて――とりあえず、《聖龍連合》のお偉方の顔でも見に行こか。きっと値打ちモンの芸が見られるやろ」

 

その皮肉めいた独り言を夜風に溶かし、アルゴの影は人波の向こうへ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血盟騎士団本部 倉庫内。

 

「アスナ、ごめんね。僕のせいで……」

 ティンクルが小さく頭を下げた。

 

「あなたのせいじゃないわ」

 アスナは穏やかに首を振る。

 

「……あ、でも。お弁当、美味しくてびっくりしたよ」

「ふふ、ありがとう」

「今度、色々教えてね。僕も料理は好きなんだ」

「ええ。今度一緒に作りましょう」

 

穏やかな笑みが交わされる。

 

その廊下を、リオが歩いてきた。

「……あ」

 

「リオ君、だよね?」

 ティンクルが微笑む。

 

「え? ど、どうして僕の名前を……」

「確か二回会ってるよね。フロア探索で」

 

「は、はい! そ、その時は色々お世話になりました!」

 リオの頬が一気に赤くなる。

「お、覚えててくれたんだ……」

 

「当たり前だよ。これからよろしくね」

 ティンクルはにこっと笑う。

 

「は、はいっ! こちらこそ!」

 リオの声は裏返り、耳まで真っ赤になった。

 

その様子に、アスナがくすっと笑う。

「ふふ。リオ君はティンクルに憧れてるんだもんね」

 

「ちょ、ちょっとアスナさん、それは秘密で……!」

「光栄だね、ティンクル」

「……ふふふ」

 

氷姫の柔らかな笑みと、リオの真っ赤な顔。

 その対比に、倉庫の空気は一気に和やかさを増した。

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

夜の気配をわずかに残す血盟騎士団の訓練場は、人影がまばらだった。薄い霧が砂地を這い、木製の柵に結露が並ぶ。鳥の一鳴きすらためらう静けさ。

 

柵越しには、数人だけが立ち会っている。ジョンが腕を組み、ブリュノは口数少なく視線を落とし、セラフィナは救護用の小瓶を膝に置いて座る。少し離れてキリト、リオ、シリカ。誰も声を荒げない。これは“見学可”の内々の手合わせ――それでも、空気は本番のように張り詰めていた。

 

向かい合う二人。

 白と赤の装束、細剣を腰に、アスナ。

 同じ白を基調に、銀髪を結わえたティンクル。手には冷気を帯びるような一本の直剣。

 

「ありがとう、ティンクル。こんな早朝に」

「こちらこそ。――学べる機会は、早い方がいいから」

 

やわらかな笑み。けれど灰色の瞳は一切の油断を映さない。アスナは鞘からレイピアを抜き、刃に朝靄を吸わせた。

 

「ルール確認。《致死ライン》には入れない。決めは“止め”。ユニークスキルの使用は可能。」

「了解」

 

セラフィナが軽く手を上げる。「始めるわ。どちらも、ご無事で」

 

木槌が板を叩く、乾いた音。

 次の瞬間、砂が一筋跳ねた。

 

踏み切ったのはアスナ。初手から直線的な刺突――否、直線“に見せた”半歩のズレ。細剣特有の刃先の消失を、最短で相手の視野に落とし込む“見せ突き”。ティンクルは最小限の首捌きで外に抜け、足は前へ。剣は振らない。間合いだけ詰めて、呼吸を盗む。

 

(軽い……!)

 アスナは即座に横へ抜け、回頭。ティンクルの肩口に二連の小突きを置く――触れる寸前、氷片がぱちりと弾けた。空気が冷え、白い花弁のような欠片が視界に散る。

 

「《氷華》」

 囁きとともに、ティンクルの剣の縁がうす青く延びる。ほんの数センチ、あるいは十数センチ。届くはずのない“端”が、届く。

 

カン、と乾いた金属音。

 アスナのレイピアが滑らせた防御角を、予想外の“長さ”が上塗りしてくる。かすりで手首が痺れる。すぐさま後退――

 

「《閃光》!」

 体の全身に光が走る。踏み替えが軽く、距離が短くなる。二〇秒。アスナの世界が、半段速くなる。

 

ティンクルが一歩、砂を裂く。

 アスナは二歩、風を裂く。

 

細剣の連続刺――三、四、五。ティンクルの剣は決して大振りにならない。受けるのではなく、刃を当てない位置へ半身をずらす。そのたび氷片が小さく弾け、軌道が紛れる。見間違えれば“遅刻”になる。アスナは眉一つ動かさず、足で整える。

 

(フェイントの性能が高い……でも、火力は上げないタイプ)

 

アスナは読みを切り替える。正面の勝負ではなく、“歩法の潰し”。視界の端でティンクルの踵の返しを捉え、誘いの刺突を一つ置く。喰いつけば迎撃、退けば追い込み――

 

ぴしっ。

 

砂の上に氷の筋が生まれ、アスナの踏み込み線を一瞬だけ凍らせた。ミリ単位のロスが生じる。そこへティンクルの伸びが差し込む。

 

(床を“凍らせる演出”で、私の脚を鈍らせた……!)

 演出値は低い。だが、足裏が“滑るかもしれない”というわずかな警戒は、歩法を鈍らせる。ティンクルらしい、視界の撹乱。

 

ジョンが低く唸った。「小賢いが、効く」

 ブリュノが短く答える。「事実、効いてる」

 

アスナは踏み直し、逆サイドへ旋回。体幹は微塵もぶれない。照準が整う。

 ティンクルは微笑のまま、“一歩遅れて”追う。その遅れが、アスナの突き角度を最も嫌らしくする地点に重なる。

 

(この“遅れ”、わざと――!)

 アスナは刺突をキャンセル、外へ流す。ティンクルの肩口へ回り込む形で、鋭い一突きを置く。

 ……と、そこに薄い氷の花。刃先の“届く先”が一瞬だけ伸び、フェイントがフェイントを食う。

 

硬い火花。互いの頬をかすめる風。

 ふたりの髪が、遅れて揺れた。

 

セラフィナが小声で息を呑む。「美しいわ……」

 

アスナは攻めの拍をずらす。三連――間、二連――間、四。リズムが壊れていくほど、ティンクルの“読み”は遅れるはず。だがティンクルは狙いを一点に固定しない。刃ではなく、アスナの“腰”を見ている。腰が向く場所にのみ、小さく遅刻を仕掛ける。氷片の狐火のような瞬きが、意識の端をつつく。

 

キリトが呟く。「歩法と視線の合わせが……いやなタイプだ」

 リオは拳を握りしめる。(速い……でも、ティンクルさん、楽しそうだ)

 

《閃光》の煌めきが薄れ、効果時間の縁が近づく。アスナはそれを承知でギアを一段上げた。細剣が空を裂く音が、ほんの少しだけ高くなる。

 

刺突――フェイント――空打――踏み替え“なし”の刺。

 ティンクルの瞳が一瞬だけ細くなった。

 見てからの反応では間に合わない“距離の錯覚”。アスナの“速さの型”の中でも、もっとも対処が難しい連携。

 

青い火花。ティンクルの胸元に浅い線が入った。氷片が遅れてぱらぱら落ちる。

 アスナは追わない。追えば、次で逆手を食う。一本、置く。

 

「……一本、私」

「うん。綺麗だった」

 

ひと呼吸。二人は同時に距離を取りなおす。

 

「続ける?」

「もちろん」

 

再開の合図と同時に、ティンクルが今度は先に出た。氷の尾が剣に沿って流れる。《氷華》の可動域を“最大”にしてこない。反対に、最小最短で細かく伸縮させ、アスナの防御角に“手癖”を作らせる。三度目に、そこを刈る。

 

(癖を――)

 アスナは脳裏で自分の手首の角度を計測する。ティンクルが狙っているのは“次”。ならば、次の次で殴る。細剣の柄をわずかに握り替え、通常なら危険な角度での“受け差し”を用意する。

 

ティンクルが踏み込む。氷片が“そこで”弾けた。

 アスナは逆に踏み込み、刃先を内へ潜らせる。

 ギン! 金属の芯が震える音。ティンクルの剣が跳ね、肩が開く――

 

砂が、鳴いた。

 ティンクルの踵がわずかに砂をえぐり、そこに薄氷が走る。自分の踵で起こした砂塵を、氷の演出で“壁”に変えた。アスナの視線が一瞬、そこへ持っていかれる。

 ほんの、瞬き一つぶん。

 

ティンクルの剣が、アスナの頬に白い線を描いた。浅い。だが“止め”に足る、綺麗な一撃。

 

「――一本、僕」

「やるわね」

 

にこり、とティンクルが笑う。アスナは笑い返し、指で頬のラインを拭う。冷たい。

 

ジョンが低く言う。「互角」

 ブリュノが短く頷いた。「互角」

 

セラフィナが視線を二人の足へ落とす。「足元の攻防が、主旋律ね……」

 

第三合。

 互いに“技”の大枠は割れた。ここからは、積み上げた分だけがにじむ領域。アスナは《閃光》の再使用をまだ待つ。ティンクルの《氷華》は持続の終盤。ここで最大伸長へ切り替えると読んで、あえて“遠い刺突”を見せた。

 

ティンクルの瞳がわずかに笑む。

 伸ばす。

 刃が、届く。

 

――はずのところへ、アスナの足がなかった。

 踏み替えなしの横跳躍。細剣使いが嫌うはずの“横逃げ”を、土台の体幹で無理やり通した。

 ティンクルは初めて、目を見開く。横に流れたアスナの刺突が、氷の軌跡を裂く。

 

火花。

 ティンクルの首筋に、細い“止め”が置かれた。

 

沈黙。

 砂の上で、二人の影が重なる。

 

アスナが剣を引く。「……二本目。私」

 ティンクルは数拍遅れて笑い、剣を下ろす。「うん。そう来ると思わなかった」

 

「ありがとう。あなたの《氷華》、とても嫌だった」

「それは嬉しい褒め言葉」

 

ふっと互いの緊張が解ける。

 柵の外でリオが小さく拍手をした。シリカが目を輝かせ、キリトは苦笑しながらもその目に尊敬の色を浮かべる。ジョンは無言で親指を立て、ブリュノは「……良い」とだけ言った。セラフィナは二人の手元を見て、薬瓶の蓋を閉める。「出番はなさそうね」

 

クールダウンの歩を並べながら、アスナがぽつりと問う。

「――ねえ、ほんとはまだ“手”があるでしょ」

 

ティンクルは伏し目で笑う。

「ふふ。内緒にしておこっか。いつか――必要になるまで」

 

「ええ。必要なときに、必要なだけ」

 

朝靄が薄れ、陽が少し強くなる。訓練場の砂は温度を取り戻し、氷片の残像だけがきらきらと消えた。

 

セラフィナが解散の合図を送ると、見学組は三々五々に散っていった。アスナとティンクルは軽く会釈を交わし、それぞれの持ち場へ向かう。背中越しに、互いの気配を“読む”練習を欠かさない歩幅で。

 

柵の影で、リオが胸を押さえて深呼吸した。

(やっぱり……すごい。――いつか、あの背中の近くで)

 

その朝の手合わせは、記録者も観客も少ないまま終わった。だが、見えないところで数字は積み上がる。アスナはティンクルの“遅れの置き場所”を、ティンクルはアスナの“横逃げの予兆”を――互いの背中から、また一つ学び合って。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

模擬戦が終わり、訓練場に残った砂埃がようやく落ち着いたころ。柵の影で息を整えていたリオは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、大きく吐息をこぼした。

 

「す、すごかったですね……!」

 

思わず出た言葉は震えていた。興奮と畏怖と憧れと――いろんな感情が混じった声だった。

 

「あぁ」

 隣に立つ黒衣の少年――キリトは静かに頷いた。視線はまだ砂地の中央に残る二人の足跡へと落ちている。

「目が離せなかったな」

 

リオは振り返る。「ど、どっちが強いと思います?」

 

問いは子供っぽいものだったが、口から出てしまった以上、止められなかった。

 キリトは少し顎に手を当て、考えるように視線を遠くにやる。

 

「うーん……」

 しばらく間を置いてから、彼は少し笑った。

「どっちも、まだ手の内を全部は出してなかったよ。けど――」

 

「けど?」

 リオの瞳が輝く。

 

「素の実力は、互角だと思う。ただな……」

 キリトは淡々と分析を続けた。

「アスナのユニークスキルは“戦闘特化”だ。単純に強い。一方でティンクルの《氷華》は汎用性が高いけど、特化した爆発力じゃない。だから一対一なら……少し、アスナに分があるかな」

 

リオはぱちぱち瞬きをして、慌てて腰のポーチからメモ帳を取り出した。

「め、メモメモ……すごく勉強になります」

 

その必死さに、キリトは思わず笑みを漏らす。

「はは、リオ。真面目だな」

 

リオは赤面しつつ、なおも書き込む。

「だって、あの二人の戦い、全部が参考になりますから……!」

 

ふと、キリトは訓練場の中央で息を整えるアスナを見やった。その表情を思い返すだけで、彼の口元が自然に緩む。

「それにしても……アスナ、目が輝いてたな」

 

「え?」

 リオが首を傾げる。

 

「ティンクル、しばらく大変だろうな」

 キリトは肩をすくめる。

 

「どうしてです?」

「……あー見えて、アスナは負けず嫌いだからな。それに、デュエルが好きなんだよ。ヒマさえあれば、ティンクルに挑んでくると思うぜ」

 

リオは目を丸くした。「デュエルが好き……ですか?」

 

キリトは少し懐かしむような眼差しをした。

「昔よりは丸くなったよ。でもさっき見ただろ? 戦ってる時の顔。あの頃はもっとすごかったんだ」

 

「……」

 

「“武の頂点に立ちたい”ってな。誰よりも強くなって、誰よりも仲間を助けたい。その思いから来てるんだろうけど……」

 キリトは少し苦笑する。

「戦ってる時に、相手の本質が見えてくるんだって。昔は“強い”って噂のやつを見つけちゃ、片っ端からデュエル挑んでた。俺も挑まれて、大変だったな……」

 

その横顔は、困ったようで、どこか楽しそうだった。

「ちょっとやりすぎてたよな。道場破りみたいに、いろんなギルドに顔出しては挑戦してたから……」

 

リオはぽかんとした。

「そ、そんなに……」

 

「一部では“バーサーカー”って呼ばれてたしな」

 キリトは小声で言い、少し照れ笑いを浮かべる。

 

「キ、キリトさん……」

 リオが声を潜める。

 

だがキリトは気づかず、話を続ける。

「でもな、だから今のアスナがあるんだ。誰よりも強くて、誰よりも頼りになる。……ははは」

 

「キ……キリトさん」

 リオが青ざめながら、後ろを指差した。

 

「ん?」

 

「後ろ……」

 

キリトが振り返る。

 そこにはにっこりと笑うアスナがいた。

 

「キーリートー君?」

 その笑顔は氷より冷たく、炎より熱かった。

 

「い、いつのまに……」

 キリトは冷や汗を浮かべる。

 

「だ・れ・が・バーサーカーですって?」

 アスナは一歩、にじり寄る。

 

「ちょ、ちょっと待て! その前にいい話してただろ!? 俺、ちゃんと褒めて――」

 

リオは慌てて両手を振った。

「ぼ、僕ちょっと急ぎの用事があるんで!」

 

「おいリオ! ま、待て、ずるいぞ!」

 キリトが叫ぶ。

 

だが次の瞬間、アスナの怒声が訓練場に響いた。

「キ・リ・ト・君ッ!」

 

「うわぁっ!」

 キリトは慌てて駆け出す。アスナが全速力で追いかける。

 

その様子を、柵の影で見ていた仲間たちは――。

 

「……青春ですね」

 セラフィナが小さく呟いた。

 

「青春だな」

 ジョンが頷く。

 

「青春」

 ブリュノは短く言った。

 

ティンクルは口元を押さえ、ふふ、と笑う。

「仲良しだね」

 

朝日が訓練場を照らし、笑い声と足音が長く尾を引いた。

 その日、模擬戦以上に鮮烈に刻まれたのは――彼らが見せた、無邪気な「青春」の一幕だった。

 

 

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

 

 

夜半。

 本部の回廊は灯火が落とされ、壁掛け燭台の火だけが石目を淡く照らしていた。巡回の足音が一定の間隔で去来し、やがて遠のく。静寂が戻る。

 

重厚な扉の前で、銀髪の少女が一度だけ呼吸を整え、指先で控えめに板を叩いた。

 

「コンコン」

 

「――入れ」

 

短い許し。蝶番が低く鳴り、ティンクルは身を滑らせるように入室した。

 

「失礼します」

 

室内は広くない。書棚と地図台、そして奥に簡素な長卓。壁には十字盾が立て掛けてある。鎧姿のままでも部屋は整然とし、主の気質をそのまま映していた。

 

ヒースクリフは椅子から半身だけ向き直り、柔らかな微笑を浮かべた。表向きはいつも通りの、静謐な団長だ。

 

「ティンクル君。――団のみなとは、仲良くできているかね?」

 

「はい。皆さん、いい人ばかりです。特にアスナさんはよく気を配ってくださって。まだあまり話せていない方もいますが……もう少し時間があれば、きっと」

 

穏やかなやり取り。

 だがその言葉の下、別の会話が流れていた。

 

――(我々の関係を、誰にも悟られていないか)

 

ティンクルは微笑みを崩さぬまま、瞳だけをわずかに細めた。

 

――(問題ありません。ただ、アスナさんは少し警戒すべきかと)

――(他にも数名。注意は必要ですが、時間をかければ“色”が見えます)

 

交わす言葉は一つ。伝わる意図は五つ。

 “仮面”を扱い慣れた者同士の、静かな同意が室内を満たす。

 

ヒースクリフは頷き、地図台に視線を戻した。

「そうか。それは良かった」

 

わずかに間を置いて、ティンクルが続ける。

「……ただ、いきなりアスナさんのサポートに就くのは、少し緊張しますね」

 

ヒースクリフは微笑を微かに深めた。

「組織のためだ。君以外に適任はいない」

 

「……ご期待に添えるよう、努めます」

 

――(“長く”アスナのそばに置く意図は何か)

――(近すぎる距離は、いずれ反射を生む。リスクだ)

 

――(必要なことだ。時が来れば、わかる)

――(観察を継続せよ)

 

ふたりの会話は、合わせ鏡のように齟齬がない。

 打合せなくして噛み合う歯車は、音も立てずに回る。

 

ヒースクリフは書類を一枚めくり、問いを重ねた。

「他に、気になることは?」

 

ティンクルはごく自然に視線を巡らせ、何でもない雑談のように言った。

「食糧庫近くの通路で、今晩ネズミを見ました。まだ被害はないようですが、これからの時期は増えます。早めに対策しておいた方がいいかと」

 

――(“ネズミ”が必要以上に嗅ぎ回っている。従順を装い、隙を窺っている)

――(牙を立てられる前に、処置をすべきでは)

 

ヒースクリフは紙端を揃え、静かに頷いた。

「すでに報告が上がっている。対策済みだ。……あと二、三日で落ち着くだろう」

 

――(まだ利用価値がある。攻略に有利な情報は流させる。手を出すのは時期尚早)

 

ティンクルは薄く目を細め、礼節を崩さずに一礼した。

「さすが、ヒースクリフ団長」

 

「いや。君も、気づいたことは遠慮なく」

 

「はい。ありがとうございます」

 

室内の空気は終始穏やかだった。

 廊下を巡回する足音が、扉の向こうを一度だけ通り過ぎる。防音の結界は張られていない。必要がないからだ。二人が交わすのは、聞かれて困る“言葉”ではない。たとえ誰が壁に耳を当てていようと、外に漏れるのは“ごく自然な団長と新入団員の会話”にすぎない。

 

ティンクルは腰を折り、扉の方へ下がった。

 その背に、ヒースクリフの声が穏やかに届く。

 

「――おやすみ、ティンクル君」

 

「おやすみなさい。ヒースクリフ団長」

 

蝶番が再びそっと鳴り、扉は静かに閉じた。

 

 

回廊の影を歩くティンクルは、足音を出さない歩き方で、規則正しく灯る燭台の下を抜けていく。廊下の角には夜番の団員が二人。ティンクルは自然な微笑で会釈し、彼らが姿勢を正すのを見届けると、そのまま自室へと戻った。

 

扉を閉める。

 灯りを落とす。

 窓の外には、遅い月。

 

ベッド脇の小机に腰かけ、彼女はゆっくりと目を閉じた。

 昼間の模擬戦の光景が、静かな波紋のように脳裏で反復される。アスナの踏み替え。横逃げの閃き。氷片が作った一瞬の“遅刻”。

 唇の端が、ほんのわずかに上がる。

 

(――楽しかった)

 

それは、彼女がごく稀にしか自分へ許さない、本心だった。

 だが、すぐに微笑は消える。

 瞼の裏に、別の像が立つ。茶色い頭巾、鋭い目の笑顔。

 

(“ネズミ”)

 

彼女は脳内で記録を始める。。

 

・食糧庫通路(北)、第2柱の影で行動音。

・尻尾、短い。癖歩き。

・気づかれているかもしれないと、わざと思わせる歩幅。

 

そこに線を引き、続ける。

 

・警戒線は保つ。

・“今は”追わない。

・必要なときに、必要なだけ。

 

椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。

 

静かに息を吐き、彼女は寝台へ体を横たえた。

 遠くで、夜更かしの鍛冶場が小さく火を吐いた気配。

 本部は、息を揃えて眠ろうとしている。

 

翌朝、この会話のことを知る者はいない。

 それでいい。

 “言葉”は、誰にも見えない歯車を回すためにあればいい。

 そしてその歯車は、やがて別の音――剣戟と号令の重奏――を鳴らす日を迎える。

 

夜は、静かに更けていった。

 

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