ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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第15話  情報屋の爆弾

 

 

 

 

 

六十層攻略から一夜が明けた、昼下がり。

 《聖龍連合》の本部は、異様な緊張に包まれていた。

 

 広間に並ぶ長卓の上には、昼食の皿すら置かれていない。磨かれた石床に映るのは、黒衣と白いマントをまとった数人の影。誰もが無言で腕を組み、視線はただ一つ、卓の奥の青年に注がれていた。

 団長――リンド。

 

 冷たい眼差しを落としながら、彼は端末の画面をゆっくりと掲げる。

 薄暗い室内に浮かぶのは、たった一行の速報。

 

『氷姫 血盟騎士団に入団決定! 続報は明日の有料版で⭐︎』

 

 誰が書いたのか、説明など不要だった。

 《アルゴ》――裏と表を渡り歩く情報屋。彼女が出す記事に虚偽はない。それは攻略組すべてに共有された“常識”だ。

 

「……で、これは一体どういうことなんだ?」

 

 低い声が響いた。

 リンドは端末を卓上に叩きつけるように置き、目の前の二人を射抜く。スカウト担当の男たちだ。彼らは直立したまま額に汗を浮かべ、今にも声を失いそうだった。

 

「も、申し訳ありません、団長……」

「我々も、まだ真偽を掴みきれておらず……」

 

 苦しい言い訳。

 だがその場にいる誰もが信じていなかった。彼らの声は震え、唇は乾ききっている。自分たちの無能を隠しきれていなかった。

 

 そのとき、卓の端に座る一人の少女が、静かに目を開いた。

 副団長、ロニエ。黒衣に白いマント、腰には日本刀に近い直剣を帯びた姿は、年齢に似合わぬ落ち着きを纏っていた。彼女の声は淡々と、だが凛と響いた。

 

「……あのアルゴさんが出した記事です。間違いはないでしょう」

 

 その一言が、部屋の空気をさらに重くする。

 沈黙が落ちる。誰も反論できなかった。

 

 リンドは眉を寄せ、机越しにスカウトたちへ身を乗り出した。

「つまり……なんだ。

 あれだけの破格の条件を私に用意させておいて、意気揚々と彼女の元へ向かっていったお前たちは――何度も何度も断られた挙句、横から掻っ攫われた。そういうことだな」

 

 声は怒鳴りではなかった。

 しかし鋭い刃のように、言葉が突き刺さった。

 

 スカウトの一人が青ざめ、思わず叫ぶ。

「し、しかし! あの氷姫が……何かの間違いということも……!」

 

 リンドの瞳が冷たく光る。

「憶測で物を喋るな」

 

 その一言で、スカウトは膝を折りそうになり、慌てて頭を垂れた。

「も、申し訳ありません……!」

 

 広間に再び沈黙が訪れる。

 団員たちも声を失っていた。

 “氷姫”――ティンクル。その存在がどれほどの意味を持つか、誰もが理解していた。

 

 彼女は孤高の剣士。

 何度もスカウトを断り続け、それでもなお実力と美名を増してきた。

 「妖精」「姫」「氷姫」――呼び名は際限なく膨れ上がり、だが当の本人は笑みを浮かべるばかりで、決して心を渡さない。

 

 ロニエは再び目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。

 表情は何も映さず、感情の色は読み取れない。怒りも落胆も、嘆きも。彼女はただ、沈黙の中で座していた。

 

 重苦しい空気。

 やがてリンドが端末をもう一度見やり、低く呟いた。

 

「……アルゴの速報、か」

 

 その名が出た瞬間、全員の心に同じ思いがよぎった。

 ――あの女が流す記事は、必ず“裏を取った”事実だ。推測や噂など、紙面にするはずがない。

 

 つまり、決定的だ。

 ティンクルは血盟騎士団へ入団した。

 その一点が、ここにいる全員の胸を重く押し潰していた。

 

 怒り、苛立ち、そして焦燥。

 広間の空気は次第に刺すように鋭くなっていった――。

 

 そのとき。

 

「まいどー! ……なんやお通夜みたいな空気やな」

 

 朗々とした声が、重苦しい広間を切り裂いた。

 振り返れば、扉を開けて軽やかに入ってきた影。

 

 ――アルゴ。

 いつも通りの気安い笑顔を浮かべながら、彼女は白いマントの集団の中に堂々と足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

「まいどー! ……なんやお通夜みたいな空気やな」

 

 朗々とした声が重苦しい広間を切り裂いた。

 扉の向こうから歩み入ってきたのは、フードを深くかぶった小柄な影――アルゴ。

 軽い足取りのまま、彼女は白マントの集団を見回し、ニヤリと笑った。

 

「アルゴ……!」

 スカウトの一人が思わず立ち上がる。

「おい、あのニュース、本当なのか!? “氷姫が血盟騎士団に入団”って……!」

 

 広間に張り詰めていた沈黙が破れ、ざわめきが広がる。

 だがアルゴは慌てるでもなく、悠々とした仕草で長卓の端に腰を下ろした。まるで自分が客人ではなく、この場の主だと言わんばかりに。

 

「ん? ああ、それか。もちろん本当やで」

 彼女はペンをくるくると指で回しながら、軽く答える。

「今朝な、この目で確認済みや。血盟騎士団の本部で、クルちゃんが“あの制服”着とった。――これ以上わかりやすい証拠、他にある?」

 

 団員たちがどよめく。

 リンドは静かに息を吐き、鋭い視線でアルゴを射抜いた。

 

「……血盟騎士団はティンクルの勧誘に動いていない。これは貴様から買った情報だ」

 

「そやなぁ」

 アルゴは椅子に深く腰かけ、足を組む。

「動いとらんかったよ、昨日までは。せやけどな――ヒー坊が昨日の夜にクルちゃん呼び出して、で、今朝にはもう制服姿。これで十分やろ?」

 

 ヒー坊――団長ヒースクリフのあだ名を、彼女は平然と口にした。

 

「……ば、馬鹿な」

 団員の一人が声を上げる。

「一体どんな条件を突きつければ、あの氷姫が……」

 

「さぁなぁ」

 アルゴはにやりと笑う。

「悪魔の契約でも結んだんやない?」

 

 その軽口に、スカウトの一人が怒声をあげかける。

 だがリンドの視線が制した。

 団長の目は笑っていなかった。むしろ冷たさを増している。

 

「……つまり貴様は、“一度の会談で引き抜いた”と見ているのか」

 

 アルゴは肩を竦める。

「見てるも何も、それ以外に説明のしようがないやろ。クルちゃんみたいな子は、勧誘の気配を感じた瞬間にスルッとかわして逃げてまう。水面下の根回しなんて通用せん。――せやからこそ、“一発勝負”で仕留めたんや。あのヒー坊らしいやり口やろ?」

 

 重苦しい沈黙。

 団員たちの顔色が変わっていく。

 悔しさ、怒り、不安――さまざまな感情が混じり合い、空気がさらに濃くなる。

 

 スカウトの一人が必死に食い下がる。

「ま、待て。以前から交渉していた可能性もある。そもそも貴様の情報が間違っていたんだ……!」

 

「ははは! おもろい冗談やなぁ」

 アルゴは声を上げて笑った。

「お前ら、自分で言ってて恥ずかしないんか? どんだけのスカウト屋、仲介屋、ギルドが水面下で動いてる思てんねん。血盟騎士団が事前に動いてたら、その情報が漏れへんはずないやろ。うちの耳に届かんわけがない」

 

 ぐぬぬ、とスカウトたちが歯を食いしばる。

 だが反論はなかった。

 誰も、アルゴの情報網の正確さを疑えなかったからだ。

 

「――証拠は?」

 リンドが低く問いかけた。

 

 

 

 広間の空気がさらに沈む。

 

 アルゴはにやりと笑い、指先でペンをくるりと回した。

「証拠、か。……ほな見せたろか」

 

 彼女は懐から数枚の紙束を取り出し、卓の上へ軽く放った。

 ひらり、と舞ったのは六十層攻略直後に撮られた記念写真。

 プレイヤーたちが誇らしげに武器を掲げる中、ティンクルが映っている。

 いつも通りの装束、氷の直剣を肩に掛け、笑顔を浮かべた姿。

 

「これが昨日のクルちゃんやな。六十層を越えた直後の一枚や。

 んで――」

 アルゴは指を立て、にやりと笑う。

「今朝、血盟騎士団の本部で制服姿を確認。さすがに写真は撮れへんかったけどな。あと、今朝になって門番の人数が妙に増えとったやろ? 」

 

 彼女の言葉に団員たちは顔を見合わせる。

 確かに、今朝の血盟本部は異様な厳戒態勢にあった。

 誰もがそれを目にしていた。

 

「さらに、昨日の夜に“ヒー坊”がクルちゃんを呼び出した。これも複数の証言ありや。

 呼ばれて、本部に入った姿を見た者が何人もおる。

 で、今朝にはもう制服姿。――どう考えても、一度の会談で落ちた以外の説明はないやろ?」

 

 アルゴの声は軽い調子だった。

 だが広間を覆う空気は逆に重くなっていく。

 団員たちの胸には、確信に近い現実が突きつけられていた。

 

「……っ」

 スカウトの一人が額に手を当てる。

「信じられん……あの氷姫が……」

 

「信じられるかどうかやなくて、事実かどうかや」

 アルゴは肩をすくめ、机の端を軽く叩いた。

「で、これはもう“事実”。うちは推測で記事なんか書かへん。裏を取って初めて出す。

 せやから、みんな大騒ぎしとるんやろ?」

 

 広間に沈黙が落ちた。

 アルゴの言葉は皮肉でも虚言でもない。

 誰も反論できず、ただ重い現実を飲み込むしかなかった。

 

 リンドは淡々と問いを投げる。

「……他に知っていることは?」

 

「おっと」

 アルゴはペンをくるくる回し、口元に笑みを浮かべる。

「こっから先は有料コンテンツや。リン坊でもタダでは出せんよ」

 

 団員の一人が椅子を蹴り、立ち上がった。

「このやろう……!」

 

 しかしアルゴは立ち上がりながら、悠然と手をひらひら振った。

「ま、そろそろ時間やしな。仕事仕事。明日の記事を準備せなあかん」

 

 嵐のように言葉を撒き散らし、彼女は扉へと向かう。

 重苦しい空気だけを後ろに残しながら。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

「入り口まで送ります」

 その後ろ姿に、ロニエが静かに声をかけた。

 

 アルゴは振り返り、にやりと口端を上げる。

「おーきに、ローちゃん」

 軽く片手をひらひらさせ、長卓に残された団員たちへ向けては一言だけ投げた。

「またなー、リン坊!」

 

 広間の空気は重いままだった。

 リンドは眉ひとつ動かさず、ただじっとその背を見送っている。

 団員たちは苛立ちや悔しさを押し殺し、椅子を軋ませる音すら響かせなかった。

 

 

 

扉が閉まる。

 石造りの廊下へ出ると、そこは広間とは別の温度を帯びていた。

 蝋燭の炎が小さく揺れ、二人の足音だけが一定のリズムを刻む。

 

「ローちゃんも、ショックなん?」

 アルゴが軽く問いかける。肩を竦めながら、どこか興味本位の声音だった。

 

「副団長として」

 ロニエは表情を崩さずに答える。

「残念だと思っています」

 

「……なんや、それ。来てほしなかったんか?」

 アルゴが片眉を上げて笑う。冗談半分、本気半分。

 けれどロニエの横顔は変わらない。足取りも、声音も揺らぎはなかった。

 

 

 アルゴは鼻を鳴らし、天井を見上げた。

「まぁ、アーちゃんとクルちゃん、二人で前衛かー。華やなぁ」

 

「……ティンクルさんは前衛には配置されないと思いますよ」

 ロニエの声は静かだが、確信めいていた。

 

「ん? なんでや。あの子は前衛に決まっとるやろ」

 アルゴは怪訝そうに首を傾げる。

 

 だがロニエは歩みを緩めず、ただ小さく言葉を落とした。

「……ヒースクリフさん、そしてアスナさんも、同じ考えでしょうね」

 

「???」

 アルゴは唇を尖らせ、よくわからん、といった顔で首を振った。

 

 やがて二人は入り口に差し掛かる。

 外の光が差し込み、白いマントをまとった衛兵が直立している。

 

「おーきに」

 アルゴが軽く片手を上げると、ロニエが初めて振り返った。

 

「ティンクルさんに会ったら、伝えてください」

「ん? なんや?」

 

 ロニエの瞳は、揺れなかった。

「――『残念だ』。それだけです」

 

 それだけを告げると、ロニエは背を向け、ゆっくりと石段を上がっていった。

 白いマントが静かに翻り、やがて光の中に溶けていく。

 

「……なんやそれ」

 アルゴはぽかんとした顔を浮かべ、鼻をかいた。

「やっぱり来て欲しかったんかいな……?」

 

 小さく呟き、肩を竦める。

 フードの奥で笑みを隠し、彼女は石畳を軽快に歩き去った。

 

 残された空気は、ほんの一瞬だけ波紋を描いて――やがて、静けさに戻った。

 

 

 

 

 

 石畳を踏む音が続く。

 聖龍連合本部をあとにしたアルゴは、ひとまず人混みから距離を取ろうと裏通りに足を向けていた。

 昼下がりの街はざわめきに満ち、どこも人が行き交っている。露店では食材や装備が並び、行商の声が響き、子どもたちが通りを駆け抜ける。攻略組の一員たちも見慣れた顔をちらほら見せており、昨夜の六十層討伐の余韻が街全体を包んでいた。

 

 ――ただし、ここはまだ比較的落ち着いていた。

 本当に人で溢れ返っているのは、別の階層にある血盟騎士団本部周辺だ。そこは今や野次馬や観測屋で足の踏み場もないと聞く。だがこの層の街路には、その喧噪は届いていない。

 

 アルゴはフードを深くかぶり、軽く鼻で笑った。

(……ま、火ぃ投げ込んだのはウチやけどな)

 

 記事一行で、広場の空気は爆発する。

 それが商売人としての彼女の腕であり、ある意味では罪深さでもあった。

 

 そのとき、不意に聞き慣れた声が背後から届いた。

 

「ん? アルゴじゃないか」

 

 足を止めて振り返る。

 人混みの向こう、露店の影から現れたのは黒衣の剣士――キリトだった。

 

「お、キー坊やん。珍しいなぁ、こんな街ん中でのんびりしとるなんて」

「いや、のんびりどころじゃないぞ」

 キリトは困ったように頭を掻きながら、ため息をついた。

「さっき血盟の本部に行こうとしたんだけど、周辺がとんでもない人でさ。近寄ることすらできなかった。……何かあったのか?」

 

 アルゴはニヤリと笑う。

「ふふん、まぁ言うたら戦争やな」

「せ、戦争!?」

 キリトの目が大きく見開かれる。手が無意識に柄へ伸びかけ、慌てて引っ込める。

「お、おい……まさか新しいギルド同士の衝突か? 六十層の直後でそんな……」

 

「落ち着けや。物騒な意味やない」

 アルゴはひらひらと手を振り、肩をすくめた。

「せやけど、当分キー坊も血盟本部には入られへんやろなぁ」

 

「どういう意味だよ」

「ふふん、それは秘密や」

 アルゴはそれ以上口を割らず、からかうように笑ってみせた。

 

 キリトは唇を噛み、訝しげな目を向ける。

(……何か起きてるのは間違いない。けど、アルゴがここまで言わないってことは――大きな問題じゃないってことか)

 

 気持ちを切り替えようと、彼は話題を変えた。

「……それよりアルゴ。どうせまた、一人で六十一層に突っ込むつもりだろ」

 

「ほやで」

 あっさり返すアルゴに、キリトは額に手を当てる。

「無茶するなよ。お前の攻略本にどれだけのプレイヤーが助けられてるか……俺も、アスナもよく分かってる。でも、それって命懸けだろ」

「今さらやなぁ。そんなん百も承知や」

「だからこそ言ってるんだ。俺もついていく」

 

 真剣な眼差し。

 だがアルゴは鼻で笑い飛ばした。

「はっはっは! 相変わらずキー坊はお人好しやなぁ。まるでアーちゃんの写しや」

 

 アスナの名が出た瞬間、キリトの耳が赤く染まる。

「ち、違う! 俺は真剣に心配して――」

 

「おーおー、よしよし」

 アルゴは小馬鹿にするように片手を伸ばし、キリトの頭を軽く撫でる。

 キリトは真っ赤になって払いのけた。

「やめろ!」

 

 その反応を見て、アルゴはお腹を抱えて笑う。

「ほんま、純やなぁ。見とって飽きんわ」

 

 笑いを収めると、ふと目を細めて真顔に戻った。

「けどな、キー坊。お姉さんをみくびるなや。ウチがどれだけ危険な橋渡ってる思とんねん」

「……それって、この前言ってたことに関係あるのか」

 

 キリトの瞳が鋭くなる。

「“金貨0枚の理由”、“1枚の理由”、“1000枚の理由”。あのとき、俺とアスナにそう言ったよな。お前が情報を集めることに、意味があるって」

 

 一瞬、アルゴの足が止まった。

 だがすぐに肩を竦め、軽く笑って煙に巻く。

「何言ってんねん。あれは冗談や、冗談。

うちがそんな難しいこと考えるタイプに見えるか?」

「……本当に?」

 キリトはじっと睨む。だがアルゴは視線を逸らし、軽やかに歩を進める。

 

「ほらほら、そんな真剣な顔してもカッコつかへんで。キー坊は笑っとった方が似合うんや」

 

 しばらく沈黙が続く。

 だがキリトは諦めきれず、再び口を開いた。

「……マップデータは渡す。アスナもそうするだろう」

 

 アルゴは目を瞬き、振り返る。

「ほんまにタダでええんか?いつもながら」

「いい。だから無茶するな。……あと、本当にやばいと思ったら呼んでくれ」

 

 アルゴは少しだけ目を細めた。

 その声音には、からかいではなく確かな真心があった。

 

 だが、彼女は結局笑みを崩さない。

「ふっ……キー坊、100年早いで。ウチを心配するなんざ、お姉さんの冒険譚なめんなや」

 

 軽やかな笑声とともに、アルゴは背を向けた。

 フードの下から覗く口元には、確かな自信と――ほんのわずかな嬉しさが滲んでいた。

 

 

 

 

ーーーーーーー

 

 

 

 

 

 その日の夕刻。

 六十層を越えた街の片隅、表通りから一本奥へ入った石畳の路地に、ひっそりと佇む小さな建物があった。表向きは普通の酒場の二階だが、扉には鍵が二重にかかっており、合言葉を知る者しか入れない。ここが、情報屋アルゴの“臨時のアジト”だった。

 

 外はまだ夕焼けが残っていたが、部屋の中は蝋燭の淡い灯りが揺れるだけ。木の机と椅子、そして壁際に積まれた紙束と端末。必要最低限の家具だけが置かれている。豪奢さなど一切なく、それでいて不思議と居心地のいい空間だった。

 

 その静けさを破ったのは、どさりと投げ込まれる硬貨の重みだった。

 金属同士がぶつかり合う、鈍く乾いた音。

 

「――売って欲しいものがある」

 

 低く抑えた声。

 目の前に立つのは、灰色のマントを羽織った男だった。年の頃は三十代前後。鍛えた風体ではあるが、目に宿るのは武人の鋭さではなく、欲望に濁った光だった。

 机の上には、布袋から溢れた金貨が山を作っている。ざっと見ただけでも五十枚はあるだろう。普通の素材情報なら五枚、どんなレア素材でも二十枚で十分とされる。桁違いの大金だ。

 

 アルゴは片肘を机につき、頬杖をついたまま、ひょいとその山を見下ろした。

「おー、兄さん。ずいぶん太っ腹やなぁ」

 声は軽いが、瞳は油断なく相手を値踏みしている。

「なんや? レア素材の出どころか? それとも誰かの勧誘の仲介? ……それともそれとも?」

 

 男は口元だけで笑った。だがその笑みはどこか湿り気を帯びている。

「――氷姫のプライベートの写真を、何枚か」

 

 ぴたり、と空気が止まった。

 揺れていた蝋燭の炎まで、言葉に怯えたように静まった気がした。

 

 アルゴは頬杖を外し、指先で机をとん、と叩いた。

「……こらこら兄さん。うちのルール、知っとるやろ」

 

「なに、ちょっとしたもんだ。あんたの腕なら簡単だろう?」

 男の声はねっとりと甘い。だがその響きは、聞く者の耳を不快に撫でてくる。

「戦闘データや立ち回りなんかいらん。普段の素顔がいい。特に――血盟の服を着てる姿だ。あれを手に入れられたら……」

 

 アルゴの表情は崩れない。

 だが心の内では、すでに冷たい怒気が芽生え始めていた。

 

「……攻略情報、レア素材、ギルドの情勢、個人の戦闘スタイル。そういうのは基本なんでも売る。せやけどな」

 彼女は低く言葉を区切る。

「“個人のプライベート”。家の場所とか、写真とか。――そういう類は、NGや」

 

 男は怯むどころか、さらに熱を帯びて語り出した。

「わかってるさ、規約だろう? だが考えてみろ。氷姫は今、誰よりも注目を浴びてる。街で声をかければみんな彼女の話題ばかりだ。俺は、彼女がどれほど好きか、どれほど憧れているか――」

 

 言葉は次第に早口になり、吐息が荒くなる。

「戦場での姿はもちろん美しい。だが本当に欲しいのは、誰も知らない表情だ。寝顔でも、笑ってない顔でもいい」

 

 アルゴの指先が、机を無意識に叩いていた。

 とん、とん。

 蝋燭の炎がそのリズムに揺れる。

 

 男は気付かない。夢中で言葉を吐き続ける。。

 

「誰にも見せてない素顔が欲しいんだ。戦場の顔じゃなく、気を抜いた時の表情、街でふっと笑った瞬間……。

 食べ物を口に運ぶ仕草や、買い物で迷ってる横顔。夜に窓辺で物思いに耽ってる姿だっていい。そういう一枚があれば、どれだけ価値があるか……!」

 

 

 ばきぃん!

 

 乾いた衝撃音が部屋を裂いた。

 アルゴの手のひらが机を叩きつけ、その衝撃で硬い板が亀裂を走らせる。金貨の山が崩れ、床にばらばらと散らばった。

 

 男は腰を抜かし、喉の奥で悲鳴を漏らす。

「ひ、ひぃっ……!」

 

 アルゴは立ち上がり、静かに言った。

「失敬。――“蚊”がいたもんでな」

 

 沈黙。

 男は汗だくで震え、逃げる機を探している。

 

 アルゴの瞳は、氷のように冷たかった。

「……おいこら。うちは情報屋や。人の秘密を暴いて金にする、くそみたいな人種や。そこは否定せん」

 

言葉を吐き捨てるように続ける。

「けどな――それでも“越えたらあかん一線”ってもんがあるんや」

 

 男は返事もできず、ただ唇を震わせていた。

 

 アルゴは机に散らばった金貨を顎で示し、冷たく言い放つ。

「……ほれ。拾って、さっさとうせろ」

 

 男は弾かれたように膝をつき、必死に金貨をかき集める。震える指先から何度も硬貨がこぼれ落ちるが、ようやく袋に押し込み、そのまま扉へ駆け出した。

 逃げる靴音が石の階段を響かせ、やがて遠ざかっていく。

 

 残された部屋に、再び静寂が戻った。

 

 アルゴは大きくため息を吐き、机の割れ目を見下ろした。

「――あーあ。やってもうた」

 苦笑混じりに呟く。

「この机、意外と高かったんやで……」

 

 

ふっと背筋に冷たい感覚が走った。

 気配。

 人の視線。

 

 アルゴは即座に振り返る。

「……誰や?」

 

 暗がりの奥。

 そこから現れたのは、白と赤の装束を纏った少女――アスナだった。

 

「……アーちゃんかいな」

 アルゴは鼻で笑う。

「盗み聞きとは、えらい趣味悪いなぁ」

 

 アスナは真っ直ぐにアルゴを見つめた。

 その眼差しは、怒りでも侮蔑でもない。――ただ「確かめたい」という強い光を宿していた。

 

「……全部、聞いてた」

「そらまた。騎士団本部は今、大忙しやろ。よぅこんなとこ抜け出せたな」

「無理を言って、少しだけ時間をもらったの」

 

 その声音は淡々としていたが、指先が微かに震えているのをアルゴは見逃さなかった。

 

「で? なんの用や、お嬢さん」

 わざと芝居がかった口調で問い返す。

「情報のご購入か? それとも――説教でもしに来たんか?」

 

 アスナは一拍置き、懐から一枚の紙片を取り出した。

 そこに印字されているのは――

 

『氷姫 血盟騎士団に入団決定』

 

 アルゴが打った速報の紙面だ。

 少女の指先は、ほんの僅かにその文字を強く押さえていた。

 

「お礼を言いにきたの」

 アスナの言葉は、柔らかくもはっきりしていた。

 

「……は?」

 アルゴの口角が思わず吊り上がる。

「いやいや。文句の間違いやろ。“勝手にこんなん流すな”って怒鳴り込みに来たんちゃうんか?」

 

 アスナは小さく首を横に振った。

 表情は揺れない。だがその瞳には、複雑な光が走っていた。

 

「……もしアルゴがこの記事を出さなかったら、もっと大変なことになってたと思う」

「大変なこと?」

「噂はもっと尾ひれをつけて、ティンクルを傷つけていた。彼女だけじゃない。血盟騎士団そのものも」

 

 淡々とした言葉。

 しかしその裏に潜むのは、ティンクルを守ろうとする強い想いだった。

 

「早く事実を広めた方がいい――アルゴはそう考えて記事を出したんでしょう?」

 

 アルゴはしばし黙った。

 そして次の瞬間、派手に笑い声を響かせた。

 

「はっはっはっ! ほんまにアーちゃんはすぐ人を信じるんやなぁ!」

「……」

「うちはただの金儲けや。人のため? そんな殊勝なこと、考えてへんよ」

 

 軽く手を振り、肩を竦める。

 だがアスナは表情を変えない。

 

「……アルゴは確かに、どんなことでも記事にする。噂だって燃料にする」

 アスナは一歩近づいた。

「でも――ここぞって時は、ちゃんと“誰かのため”を考えてる。私はそう思ってる」

 

 アルゴの笑みが一瞬止まる。

 空気が揺れた。

 

「……証拠は?」

 わざと冷たい声音で返す。

 

「さっきのお客」

 アスナは静かに告げた。

「お金のことしか考えてないなら、喜んで取引してたはず。でもアルゴは断った。机まで壊して」

 

 アルゴの表情が、わずかに揺れる。

 アスナはさらに一歩踏み込んだ。

 

「それに……」

 言葉を区切り、真っ直ぐに見据える。

「命をかけて集めた情報で、攻略本をあんな値段で売らない。もし本当にお金だけが目的なら、あんな危ない真似をしてまで格安の値段で配るなんて、しないはず」

 

「……」

 

「だから、私は信じてる」

 

 

 まっすぐな眼差し。

 その正しさは、情報屋にとって最も居心地が悪いものだった。

 

 アルゴは深く息を吐き、目を細めた。

「……最初から気付いてたんかも知れんで? アーちゃんが後ろで盗み聞きしてるって。わざと“いい人”ぶってみせたんかも」

 

「バレないよ。私、アルゴより強いもん」

 アスナの即答は、淡々としていて、けれどどこか可笑しさを含んでいた。

 

 アルゴは片手で顔を覆い、苦笑いを漏らした。

「はぁ……まったく。」

 

 軽く手を振る。

「はいはい。そっちの頭の中で好きに解釈してくれてええよ」

 

 アスナはにこりと笑う。

「うん。勝手に解釈する」

 

 二人の間に漂った沈黙は、重さを持ちながらも奇妙に心地よかった。

 アルゴは壊れた机を見下ろし、アスナは微笑を浮かべたまま。

 

 情報屋と騎士団の副団長。

 交わることのないはずの二人が、今だけ同じ空気を共有していた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 夜の帳が街を包み込むころ、アルゴはアジトの窓辺に腰を下ろしていた。

 灯りは落としてある。部屋の中には、蝋燭の燃え残りが一本だけ。

 外から差し込む月光が、割れた机の裂け目を淡く照らしていた。

 

 さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。

 客も去り、アスナも戻り、残ったのは散らかった紙束と、こぼれた1枚の金貨の鈍い光だけ。

 

 アルゴは金貨を拾い上げ、指の間で転がす。

「……まったく、ろくな日やないな」

 ぼやきながら、金貨を指で撫でる。

 けれど指の感触が、いつもより冷たかった。

 この街の夜気のせいか――それとも、自分の中の何かが冷めているのか。

 

 机の上には、アスナが置いていった紙がまだある。

 記事の切り抜き。

 『氷姫 血盟騎士団に入団決定!』

 黒い文字が、月光を受けてかすかに光った。

 

 アルゴは目を細める。

 その見出しの一行が、こんなにも多くの人間の心を揺らしている。

 喜ぶ者、怒る者、焦る者、泣く者。

 ――けれど書いた本人の心は、妙に静かだった。

 

「はぁ……ほんま、あの子らは」

 ふっと笑いが漏れる。

 思い浮かぶのは、昼間に見た二人の顔――キリトとアスナ。

 どっちも、お人よしにもほどがある。

 自分のことより、人のことばっかり心配して。

 命懸けで戦って、それでもまだ“他人の痛み”に目を向ける余裕がある。

 

 アルゴは、そんな二人を心の底では羨ましいと思っていた。

 けれど同時に、それが無防備で怖くもある。

 誰かを信じるってことは、誰かに裏切られる可能性を抱え込むってことや。

 だから――自分は違う道を選んだ。

 

 指先で金貨を弾く。

 からん、と音を立てて床を転がる金貨を見つめながら、アルゴは独り言のように呟いた。

 

「……キー坊もアーちゃんも、“なんでそんな無茶するんや”ってよう言うけどな」

 唇に笑みを浮かべる。

「――そら、理由があるからに決まっとるやろ」

 

 記憶の奥で、二人の声が蘇る。

 以前、笑いながら話したことがある。

 『アルゴ、なんでそんな命懸けで情報集めしてるんだ?』

 ――そのとき答えた言葉。

 

 ーーー金貨0枚の理由と、

 ーーー金貨1枚の理由と、

 ーーー金貨1000枚の理由がある。

 

 あのときは軽口でごまかした。

 けど、本当はちゃんと意味があった。

 

 金貨1枚――「うちはこの仕事が好きやねん。好きなことでお金も稼げるしな」

 情報を集めること、真実を暴くこと、それ自体が楽しい。

 地図を描くみたいに、まだ知られてない場所を一つひとつ明らかにしていく。

 それは“生きてる証”みたいなもんや。

 

 金貨1000枚――「まぁ、あわよくばお金持ちになりたい。みんなと同じ欲求やで」

 この世界で金は力や。

 情報屋が食っていくには、誰よりも早く、誰よりも多くの“知識”を金に換えなあかん。

 

 でも――。

 

 

「……金貨0枚の理由は特別や」

 

 それは、この世界に来てから自分の中でずっと燃え続けている“芯”のようなもの。

 誰にも言ったことがない。

 言葉にした瞬間に、軽くなってしまいそうで――怖い理由。

 

 アスナの横顔が脳裏に浮かんだ。

 戦場で剣を振るう時の真剣な目。

仲間を気づかう優しい声。

 そして、あの「信じてる」と言ったときの微笑み。

 

 アルゴは、ふっと目を伏せた。

「……金貨0枚の理由。金とは関係ないこと。それはな――」

 そこまで言いかけて、口を閉じる。

 言葉にしてしまえば、何かが壊れる気がした。

 

 沈黙の中、端末が小さく震えた。

 青白い光が、暗闇の中で瞬く。

 いつもの時間、いつものタイミング。

 アルゴの“もう一つの顔”が呼び起こされる瞬間だった。

 

「……来たか」

 指先で画面をなぞる。

 そこには、61層の詳細なフロアデータが並んでいた。

 地形、モンスターの種類、出現パターン、素材ドロップ。

 すべてが正確に整理されている。

 

 アルゴの目が細められる。

 胸の奥で何かが“切り替わる”感覚。

 さっきまでの温度が、嘘のように冷めていく。

 

 心が、再び“情報屋”に戻る音がした。

 

「……さてと」

 アルゴは立ち上がり、椅子の背にフードをかける。

 端末を懐に滑り込みながら、小さく笑った。

 

 

「裏の仕事も、きっちりこなしますか」

 

 蝋燭の火が、ぱちりと弾ける。

 アルゴの影が、ゆっくりと闇の中へ溶けていった。

 

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