ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
血盟騎士団本部の廊下を、アスナは静かに歩いていた。
昼前だというのに空は重い雲に覆われている。
窓から差し込む光も薄く、石造りの廊下にはどこか沈んだ空気が漂っていた。
「アスナ、ちょうどよかった」
背後から声を掛けられ、アスナは足を止める。
振り返ると、そこにはリズがいた。
工具袋を肩に提げ、少し辺りを見回している。
「キリト知らない?」
「キリト君?」
アスナは少し考える。
「……今日はまだここには来てないと思うけど」
「そう」
リズは小さく頷いた。
「ほら、みんなの装備のメンテナンス終わったからさ。あいつのも見てあげようと思って」
そう言って苦笑する。
「この時間にいないってことは、どこかで寄り道してるのかしら?」
「……」
アスナは一瞬だけ言葉を失った。
「アスナ?」
「うん、そうだね」
静かに答える。
「少しだけ…寄り道してるんだと思うよ」
その言葉に、リズの表情が僅かに曇る。
「……」
しばらく黙った後。
「……あいつ、やっぱりまだ引き摺ってるの?」
アスナは答えない。
リズは続ける。
「この前さ、さりげなく聞いた時はそんな雰囲気感じなかったんだけど」
「……」
アスナはゆっくり窓の外を見る。
分厚い灰色の雲。
今にも泣き出しそうな空。
「どうしても感傷的になっちゃう日ってあるんだよ」
穏やかな声だった。
「私もそうだから」
リズは何も言わなかった。
ただ同じように窓の外を見る。
遠くで冷たい風が木々を揺らしている。
今日は雨が降りそうだった。
ーーーーー
街から離れた墓地エリア。
静寂だけが支配するその場所を、キリトは花束を抱えて歩いていた。
空は曇っている。
吹く風もどこか湿っぽい。
雨の匂いがした。
やがて足を止める。
そこには見慣れた墓標が並んでいた。
月夜の黒猫団。
かつて共に過ごした仲間達の名前。
キリトはしゃがみ込み、花束を供える。
「おはよう、みんな」
自然と笑みが浮かぶ。
「今日は雨が降りそうだな」
返事はない。
それでもキリトは話し続ける。
もう何度も繰り返してきたことだった。
近況を話し。
最近あった出来事を話す。
「…でさ、最近ティンクルってやつが血盟騎士団に入ったんだよ」
墓標を見ながら笑う。
「どんなやつだって?うーん……そうだな」
少し考える。
「強いだけじゃなくて頭もいいんだ、それに周りのこともよく見えてる。きっとアスナの負担も減るだろうな」
苦笑する。
「いいこと尽くしだよ」
風が吹く。
草が揺れる。
静寂。
「……」
キリトの笑みが少しずつ消えていく。
「……もしもさ」
ぽつりと呟く。
「俺も強いだけじゃなくて」
「もっと頭が良くて」
「もっと周りが見えてたなら」
拳が強く握られる。
「みんなは――」
言葉が止まる。
最後まで続けられない。
何年経っても。
何度墓参りに来ても。
この後に続く言葉だけは口にできなかった。
「……」
やがてキリトは自嘲気味に笑う。
「悪い。暗い感じになっちゃったな」
顔を上げる。
空はさらに暗くなっていた。
「雨の日は何だかシンミリしちゃってさ」
立ち上がる。
「……また来るよ」
墓標を見つめる。
「またな、みんな」
そう言い残し、その場を後にした。
ーーーーーー
街へ戻る途中。
ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
「ん?」
空を見る。
次の瞬間。
ザァァァァァ――――。
一気に雨が降り始めた。
「うわっ!?」
慌てて走る。
石畳を蹴り、人通りの多い通りへ飛び込む。
近くにあったカフェの軒先へ駆け込み、ようやく足を止めた。
激しい雨音。
屋根を叩く無数の雨粒。
向こう側の景色が白く霞んでいる。
「……こりゃしばらく止みそうにないな」
腕を組む。
しばらく空を眺めていたが。
「……入るか」
そう呟き、扉を押した。
ーーーーー
カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませー! 一名様ですか?」
明るい店員の声。
「はい」
「お好きな席へどうぞー」
店内は暖かかった。
コーヒーの香り。
小さな談笑。
雨音が遠く聞こえる穏やかな空間。
キリトは窓際の席へ向かい、椅子に腰を下ろす。
メニューを開いたその時だった。
「あれ? キリト君じゃないか」
「?」
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
「……あ」
思わず声が漏れる。
「シンカーじゃないか!」
「やあ、久しぶりだね」
シンカーは穏やかに笑った。
以前と変わらない柔らかな雰囲気。
その姿に自然とキリトの表情も緩む。
「珍しいな」
「ん?」
「こんな場所にいるなんて」
シンカーは苦笑する。
「少し息抜きでね。休憩中なんだよ」
「怒られないのか?」
「怒られないさ」
シンカーは眼鏡を押し上げた。
「“視察”してるんだからね」
「ははっ」
思わず笑う。
「便利な言葉だな」
「だろう?」
シンカーも笑う。
「ところで…誰かと待ち合わせかい?」
「いや、一人だ」
「そうか」
一瞬だけ周囲を見回した後。
「……前、座ってもいいかな?」
「ああ」
シンカーは向かいの席へ腰を下ろした。
ちょうどそのタイミングで店員がやって来る。
注文を済ませると、再び静かな時間が流れた。
窓の外では相変わらず雨が降り続いている。
まるで二人をこの店に閉じ込めるかのように。
――――
店員が運んできたカップから、湯気がゆっくりと立ち昇る。
香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
窓の外では相変わらず雨が降り続いている。
ガラスを叩く雨粒が、静かな店内に一定のリズムを刻んでいた。
シンカーは窓の外へ目を向けながら、ふと思い出したように口を開く。
「最近は血盟騎士団によく出入りしてるんだってね?」
「ああ」
キリトは頷いた。
「色々世話になってるよ」
カップを手に取る。
「入団はしてないのに手助けしてもらったりさ」
少し苦笑する。
「アスナが根回ししてくれたおかげなんだけどな」
「アスナ君のおかげでもあるんだろうけど」
シンカーは穏やかに微笑む。
「君の人格も影響していると思うよ」
「そうか?」
キリトは肩を竦めた。
「俺はけっこういい加減だけどな。多少実力があるだけだよ」
「そんな事ないさ」
シンカーは首を横に振る。
「年齢の割にはしっかりしているし……少しぶっきらぼうだけど仲間思いだ。まあ実力が影響してるのは否定しないけどね」
そう言って笑う。
「最前線は強いプレイヤーが一人でもいてくれた方が心強いから…そうだ」
シンカーが思い出したように言った。
「六十二層のボスフロア、完勝だったそうだね」
「ああ」
キリトの表情が少し明るくなる。
「ティンクルが入ったおかげだよ、血盟騎士団はさらに安定したって感じだ。特にアスナは後ろの死角を気にする必要がなくなったからな」
戦闘中の光景を思い出す。
「いつもより動きやすそうだった」
「そうか」
シンカーは嬉しそうに頷いた。
「それは何よりだ」
その時だった。
「お待たせしました」
店員がキリトの注文した飲み物をテーブルへ置く。
カップの表面から立ち昇る湯気。
シンカーはそれを眺めながら、少しだけ表情を改めた。
「……ねえ、キリト君」
「ん?」
「君は……もうギルドに入るつもりはないのかい?」
キリトの手が止まる。
シンカーは静かに続けた。
「君の実力なら血盟騎士団にも歓迎されるだろう…君は最前線で、それも前衛で戦うプレイヤーだ。やはりソロというのは僕も心配でね」
少し間を置く。
「それに……君はまだ子供だ」
責めるような口調ではない。
純粋な心配だった。
「もちろんアスナ君たちが気を配ってくれているのは分かる。正式な団員ではないけれど、同じような扱いを受けている事も」
「……」
キリトは答えない。
ただ窓の外を見る。
灰色の空。
降り続く雨。
街を行き交う人々の姿がぼやけて見えた。
「……まだ自分を許せないのかい?」
静かな問い。
キリトはしばらく何も言わなかった。
やがてぽつりと口を開く。
「ずっと思い詰めてるわけじゃないんだ」
視線は外へ向けたまま。
「前に向かって進んでると思ってる」
その言葉に嘘はなかった。
血盟騎士団との交流。
攻略の日々。
仲間との時間。
確かに昔より前を向けている。
そう思う。
だが――
キリトは視線をカップへ落とした。
黒い液面。
揺れる湯気。
その向こうに。
ほんの一瞬だけ。
サチの笑顔が浮かんだ気がした。
「でも」
小さく呟く。
「たまにふと考えるんだ…あの時、もっと他にできる事があったんじゃないかって」
シンカーは何も言わない。
「ギルドに入らないのは、たぶん……」
キリトは苦く笑った。
「それをしたら、俺は自分の事が許せないんだと思う」
握った手に力が入る。
「その一線だけは越えたくないんだ」
「……そうか」
シンカーは静かに頷いた。
「すまなかったね。こんな事を聞いて」
「いいんだ」
キリトは首を振る。
「気にしないでくれ」
少し沈黙が流れる。
雨音だけが二人の間を埋めていた。
やがてキリトが口を開く。
「……なあ、シンカー」
「なんだい?」
「“あの時こうしてれば”って考える事あるか?」
シンカーは苦笑した。
「あるよ」
即答だった。
「数えられないくらいね」
その答えにキリトは少し驚く。
「周りはこう言ってくれるんだ」
シンカーは遠くを見るような目になる。
「“あの選択は最善だった”」
「“あなたは何も悪くない”」
小さく笑う。
「でもね、それでも考えてしまうんだ。他にもっと良い選択があったはずだって」
「……」
キリトは黙って聞いていた。
「そういうものなんだよ、キリト君」
「……え?」
「大切な誰かを失った時は」
シンカーの声は優しかった。
「誰だってそう思い込んでしまう。自分では立ち直ったと思っても、ふと考えがよぎってしまうんだ」
キリトは言葉を失う。
まるで心の中を見透かされたようだった。
「……そういう時」
キリトは尋ねる。
「シンカーはどうしてるんだ?」
シンカーは少し考えてから答えた。
「こう考えるんだ」
窓の外を見る。
「僕を信じてくれたみんなは…今の僕を見たらどう思うのかって」
雨はまだ降っている。
けれど先ほどよりも少しだけ弱くなっていた。
「もし僕が自暴自棄になったり、逃げ出したり、それまでの自分の考えを180度変えたりしたら」
シンカーは微笑んだ。
「……きっと悲しむだろう」
静かな言葉だった。
だが不思議と重みがあった。
「自分にできるのは、彼らに胸を張れるような生き方をする。それだけだよ」
「……そうか」
キリトは小さく呟く。
サチならどう思うだろう。
ケイタなら。
テツオなら。
ササマルなら。
ダッカーなら。
もし今の自分を見たら。
もしこれからの自分を見たら。
「君には今、大切な仲間がいるよね」
シンカーが言う。
「ああ」
キリトは頷いた。
「なら大丈夫だ」
シンカーは優しく笑った。
「今は無理でも…いつか本当の意味で自分を認められる日がきっと来るよ」
キリトはしばらく黙っていた。
窓の外を見る。
灰色だった空が、ほんの少しだけ明るくなっている気がした。
「……そうかもな」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
――――
キリトはカップの中に残った飲み物を一口飲み、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、最前線から撤退するんだってな」
シンカーの表情が少しだけ曇る。
「ああ、そうなんだよ」
苦笑する。
「……すまないね。情けない話さ」
「謝らなきゃいけないのはこっちだよ」
キリトは即座に首を振った。
「……本当の理由はアルゴに聞いた」
シンカーの目が少しだけ見開かれる。
「そうか」
「シンカーたちのおかげで俺たちは最前線に集中できるんだからさ」
キリトは真っ直ぐ言った。
「下の階層にも大勢のプレイヤーがいる。そこを支えてる奴がいなきゃ攻略なんて続かないだろ」
「……」
シンカーはしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「そうだね」
どこか照れくさそうな笑みだった。
「キリト君、この件は――」
「分かってる」
キリトが頷く。
「誰にも言わない」
「ありがとう」
短い言葉だった。
だがそこには確かな信頼があった。
少しの沈黙。
雨音は先ほどよりも弱くなっている。
キリトは窓の外を眺めながら尋ねた。
「……下層の街は大丈夫なのか?」
「今は特に問題はないよ」
シンカーは答える。
「ただ……先の事を考えて動いておこうと思ってね」
窓に映る灰色の空を見つめる。
「問題が起きてからでは遅いから」
その言葉には実感が滲んでいた。
「……また損な役割だな」
キリトが苦笑する。
世間から見れば目立たない。
称賛される事も少ない。
それでも誰かがやらなければならない仕事。
「君ほどじゃないよ」
シンカーは笑った。
「ゲーム開始直後にベータテスターを守ってくれたじゃないか」
「……」
「なかなかできる事じゃないよ」
キリトは少し視線を逸らした。
「あれは……昔の話だろ」
苦笑する。
「シンカーには勝てないよ」
「そうかい?」
シンカーは楽しそうに笑う。
「黒の剣士に褒められるとは光栄だね」
「やめてくれよ」
「事実だろう?」
「勘弁してくれ」
二人は顔を見合わせて笑った。
重かった空気が少しだけ軽くなる。
その時。
シンカーが窓の外へ目を向けた。
「おや?」
「ん?」
「雨は止んだみたいだね」
キリトも振り返る。
先ほどまで街を覆っていた雨はいつの間にか消えていた。
石畳は濡れているが、空から落ちてくる雨粒はない。
「本当だな」
キリトは立ち上がった。
「これなら移動できそうだ」
「血盟騎士団に向かうのかい?」
「ああ」
コートを整えながら答える。
「今日は団のみんなとフィールド探索に行く予定なんだ」
「そうか」
シンカーは穏やかに頷いた。
そして少しだけ真面目な顔になる。
「気を付けるんだよ。何か困った事があったら、いつでも連絡してくれ」
少し笑う。
「人生相談でも構わないからね」
キリトも笑った。
「覚えておくよ」
席から離れ、出口へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返る。
「じゃあな、シンカー」
「ああ」
シンカーは手を軽く上げた。
「また会おう、キリト君」
カラン――。
鈴の音と共に扉が開く。
外へ出たキリトは思わず空を見上げた。
雨雲はまだ残っている。
だがその向こうには確かに光があった。
湿った風が頬を撫でる。
キリトは小さく息を吐くと、血盟騎士団本部へ向かって歩き出した。
待っている仲間たちの元へ。
―――
夕刻。
探索から戻ったプレイヤー達で血盟騎士団本部は賑わっていた。
広場では団員達が戦利品の確認をしたり、今日の戦闘について話し合ったりしている。
そんな喧騒から少し離れたベンチに、キリトは一人で座っていた。
空を見上げる。
昼間の雨はすっかり止み、西の空には薄く夕焼けが広がっている。
「おかえりなさい、キリト君」
聞き慣れた声。
視線を向けるとアスナが立っていた。
「ああ、ただいま」
アスナは自然な動作で隣に腰を下ろす。
「今日はありがとう」
「ん?」
「みんなの探索に付き合ってくれて」
キリトは苦笑した。
「それはこっちのセリフだよ。やっぱり一人よりパーティ組んだ方が効率がいいからさ」
「キリト君みたいな強い人がいると、みんな安心するんだよ」
「血盟騎士団のみんなも強いけどな」
広場で談笑している団員達を見る。
「他のプレイヤーにも頼りにされてるし」
「だからこそだよ」
「ん?」
「頼られるって、それだけでプレッシャーになるから」
アスナは静かに言った。
「自分より強い人がそばにいると安心するんだよ」
「……アスナもそうなのか?」
アスナは少しだけ笑った。
「私は大丈夫だよ、団長がいるから。それに…」
アスナは続ける。
「自分で何を目指すか、答えもハッキリ見つかってるから」
「……どんな答えなんだ?」
アスナは迷わなかった。
「“誰も失わずに100層を目指す”」
真っ直ぐ前を見たまま言う。
「それだけだよ」
キリトは少し笑った。
「アスナはブレないな。昔から」
キリトは肩を竦める。
「でも、あんまり無理するなよ」
「うん」
アスナは柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
少し沈黙が流れる。
広場の喧騒が遠く聞こえる。
キリトは視線を落とした。
「……悪かったな、アスナ」
「うん?」
「何度も団に誘われてたのにさ」
苦笑する。
「結局断り続けて今日まで来ちゃったから」
アスナは少し考えるように空を見上げた。
そして小さく首を振る。
「正直に言うとね…キリト君が団に入るかどうかは、あまり気にしてなかったの」
「え?」
「ただ」
アスナの表情が少しだけ真剣になる。
「一人にすると押し潰されちゃうんじゃないかって…それが心配だっただけ」
「……」
キリトは何も言えなかった。
アスナらしいと思った。
ギルドの利益よりも。
攻略の効率よりも。
まず相手の事を考える。
そういう人間だ。
「……なあ」
キリトが静かに言う。
「アスナから見て、今の俺はどんな風に見える?」
アスナは少し考えた。
すぐには答えない。
言葉を選ぶように。
ゆっくりと。
「……そうだね」
やがて口を開く。
「答えを探してる、かな」
キリトは黙って聞く。
「今のキリト君は、昔の事をずっと引きずってるわけじゃない。前に向かって進んでる。それは間違いないよ」
優しい声だった。
「でも」
アスナは続ける。
「だからこそ…悩んでるんだと思う」
キリトの表情が僅かに動く。
「黒猫団のみんなを置き去りにして、自分だけ前に進んでいいのか」
「本当はもっと、あの時の事を反省しなくちゃいけないんじゃないか」
「自分は本当に過去を乗り越えられたのか」
「何をもって乗り越えたと言うのか」
キリトは何も言わない。
だが、その全てが胸の奥に刺さる。
「気持ちが落ち着いてきた今だからこそ、そんな風に色んな感情が混ざり合って……悩んでるんだと思う」
長い沈黙。
風が吹く。
夕暮れの空が少しずつ色を変えていく。
「……」
キリトは息を吐いた。
「自分でも上手く説明できなかったけど」
苦笑する。
「言葉にしてもらうと少しスッキリしたよ」
空を見る。
「そうだな…その通りだと思う。明確な答えが見つからないからモヤモヤしてるんだろうな」
アスナは静かに頷いた。
しばらく二人で空を眺める。
やがてキリトがぽつりと呟いた。
「漫画とかドラマだとさ」
「うん」
「過去の事を忘れて、力強く前に進んでいく主人公が多いだろ」
「うん」
「でも」
キリトは眉をひそめる。
「それは何か違う気がするんだ。かといってずっと思い詰めてるのも違う気がする」
夕焼けを見つめながら呟く。
「乗り越えるって……なんだろうな」
アスナは少しだけ目を伏せた。
そして静かに言う。
「私がもし黒猫団のみんななら……サチだったら」
キリトの視線が向く。
「キリト君に自分の事、ずっと忘れないでほしいな」
「……」
「もちろん」
アスナは小さく笑う。
「ずっと自分の事だけ考えていてほしいって意味じゃないの。ただ…たまにでいいから一緒に過ごした、楽しかった日々を思い出してほしい。それだけなの」
キリトは黙って聞いていた。
「もしキリト君が」
アスナは空を見る。
「自分の事を綺麗に忘れて前に進んでいったら」
少しだけ寂しそうに笑った。
「嬉しいけど…でも寂しいと思う」
「……」
「ねえキリト君」
「ん?」
「私の勝手なお願い、聞いてくれる?」
「なんだ?」
アスナは真っ直ぐキリトを見る。
「黒猫団のみんなの事、忘れないであげて」
キリトは息を呑む。
「そして」
アスナは続ける。
「みんなの思い出を、現実に一緒に連れて帰ってあげてほしいの」
「何が好きだったのか」
「どんな話をしていたのか」
「この世界でどんな風に過ごしていたのか」
少しだけ声が優しくなる。
「それができるのは……キリト君だけだから」
長い沈黙。
夕暮れの風が二人の間を吹き抜ける。
やがてキリトは小さく頷いた。
「ああ」
その声は不思議と迷いがなかった。
「分かった、約束するよ」
アスナは微笑む。
「うん、ありがとう」
キリトは空を見上げた。
胸の奥にあった重たい何かが少しだけ軽くなった気がした。
「……また背中を押されちまったな」
「ふふ」
アスナが笑う。
「背中を押すのは得意だからね」
その笑顔にキリトも笑った。
「今日は夕飯食べていくの?」
「そうするよ」
二人はベンチから立ち上がる。
血盟騎士団本部の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
キリトは歩きながら空を見上げる。
今はまだ見つからない答え。
過去とどう向き合えばいいのか。
何をもって乗り越えたと言えるのか。
その答えはまだ分からない。
だけど――
いつかきっと。
黒猫団のみんなとの思い出を抱えたまま。
胸を張って前を向ける日が来る。
そんな気がした。
夕焼けの向こうに広がる空は、少しだけ明るく見えた。