ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
午後の街は、のどかな光に包まれていた。
露店の客引きが声を張り上げ、鍛冶屋の槌音が遠くから響く。
だが、その喧噪の中で一人の少女は俯き、足早に通りを抜けていた。
彼女の胸元には、青く輝く紋章――《聖龍連合》のエンブレム。
通りを歩く人々の視線が、それを見つけるたびに微妙な色を帯びる。
「なぁ、今いちばん勢いあるのって、やっぱ《血盟騎士団》だよな」
「だな。“氷姫”が入団したし」
「聖龍はどうしたんだ? あれだけ必死に勧誘してたのに、結局取られちまったじゃねぇか」
「まったくだ。メンツ丸つぶれだな」
「無様なもんだぜ、はははは!」
通りすがりの男たちの笑い声が、風に溶けて少女の背に突き刺さる。
手にしていた買い物袋をぎゅっと握る。
視界の端がにじみ、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
俯いたまま、彼女は人波の中を早足で抜けた。
笑い声は追いかけてこないのに、心の奥で何度も何度も反響した。
⸻
聖龍連合本部。
厚い石造りの壁は陽の光を鈍く返し、空気は外よりも数度冷たい。
広い中庭の片隅、少女がひとりベンチに座っていた。
膝の上で両手を重ね、うつむいたまま微動だにしない。
その頬には、涙の跡。
軽い足音が近づいた。
「……大丈夫?」
静かな声。振り返ると、副団長ロニエが立っていた。
淡い茶髪が光を受けてわずかに揺れる。
表情は穏やかだが、感情が読めない――いつものことだ。
少女は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「……あ、副団長……っ、すみません……」
「泣いていたの?」
「い、いえっ……その、ちょっと目にゴミが……」
「……」
ロニエは短く返すと、隣に腰を下ろした。
沈黙が数秒続き、風が草を揺らした。
「……何か、あったのね」
その問いに、少女は堰を切ったように口を開く。
「街で……噂を聞いたんです。《氷姫》さんのこと」
「……」
「皆、聖龍を笑ってて……。あんなに頑張ってたのに、って……!」
声が震える。
「“血盟騎士団に負けた”“聖龍は落ちぶれた”って……。
私、悔しくて……。だって、私たちは……そんなふうに言われるようなこと、してません!」
拳をぎゅっと握る。
「悪いのは向こうです。あんな汚いやり方で……!
自分たちさえよければいいなんて、そんなの……!」
ロニエは、黙ってその言葉を受け止めていた。
ただ、ゆっくりと視線を少女に向ける。
その目に、怒りも哀しみも映らない。ただ、静かに彼女の声だけを拾う。
「……もし、事前に連絡があったら……。
私たちだって、ちゃんと準備できたのに……。
何も言わずに、あんな……!」
「……そう」
ロニエの唇が、ほんの少しだけ動く。
それだけだった。
少女は息を詰め、そしてふっと力を抜いた。
「ごめんなさい、副団長。愚痴ばっかりで……」
「いいのよ」
ロニエは淡く首を振る。
「吐き出したいときは、ちゃんと吐き出したほうがいいから」
少女はわずかに頷き、涙を拭った。
そのとき、奥の廊下から声が響いた。
「ロニエー! 団長が呼んでるよー!」
明るい声。
振り向くと、桃色の髪を揺らした少女――ニコが立っていた。
ひょいと片手を挙げ、にこっと笑う。
「お仕事の時間だってさ」
「わかった」
ロニエは立ち上がり、少女に視線を戻す。
「何かあったら、遠慮なく言ってちょうだい」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
ロニエは短く頷き、静かに踵を返した。
⸻
団長室。
分厚い扉をノックして入ると、青い外光が差し込む中、机の前にリンドが立っていた。
銀の鎧の肩章が光を反射して、静かな威圧感を放っている。
その表情は、いつもと同じ――無機質な冷静さ。
「来たか。……すまないが、緊急の依頼だ」
声は低く、抑揚がない。
ロニエとニコが揃って直立する。
リンドは机の上の報告書を一枚取り上げ、視線を落とした。
「六十四層の攻略進路に、厄介なモンスターが出たらしい。
通常エリアの外縁部だが、放置すれば被害が出る可能性が高い」
「六十四層……?」
ニコが首を傾げる。
「そこのルートは、もう攻略済みですよね? なんで今さら?」
「あるパーティが別ルートで戦闘していてな。撤退中にモンスターを誘導してしまったらしい」
「……うわ。最悪なパターン」
リンドは淡々と頷く。
「他の部隊は出払っている。……ロニエ、ニコ。君たち二人で行ってくれ」
「了解しました」
「了解でーす」
ロニエの冷静な返事と、ニコの軽い声が重なる。
リンドはわずかに目を細め、淡々と告げる。
「モンスターのデータは転送してある。出発は一刻以内に」
「はーい」
「わかりました」
⸻
廊下を歩く足音が、静かな石壁に反射して消えていく。
ニコがロニエの隣を軽やかに歩きながら、ちらりと横目を向けた。
「ねぇロニエ。団長って普段、ほんと“無表情王”だよね」
「……そう?」
「うん。あれじゃ怒ってるのか、褒めてるのか、ぜんっぜんわかんない」
「怒っても、褒めても、結果は同じよ。仕事をするだけ」
「出たー、ロニエ語録」
ニコが苦笑する。
ロニエは何も返さなかった。
ただ淡い茶髪が揺れ、静かな瞳が前を見据えている。
―――――――――――――――――――――――――――
六十四層・北東外縁。
風が白い砂を巻き上げ、崩れかけた遺跡の壁をかすめていく。
石畳は長年の戦いの痕跡を残し、ところどころ黒く焦げていた。
空は曇りがちな灰色で、陽の光はほとんど届かない。
ロニエは無言のまま、足元のマップウィンドウを確認していた。
画面の端には、青く光るギルドマーク。
その隣に小さく“調査任務”の表示。
「……この辺りね」
「ふぅん、ずいぶん静かだねぇ」
ニコが杖を肩に担ぎながら、軽くあくびをした。
「まるで墓場みたい。ほんとにモンスターいるの?」
「データ上は確かにいる。位置情報が固定されてる」
「ってことは、誰かが見つけたまま放置したんだ。……ほんと迷惑」
ニコはぼそっと呟き、軽く石を蹴った。
それが乾いた音を立てて転がり、遠くの瓦礫に当たる。
ロニエはその音を追うように目をやり、静かに口を開いた。
「今朝の子、見てたのね」
「え?」
「泣いていた子。中庭で」
「あー……バレてたかぁ」
ニコが舌を出した。
「うん、途中から。だってさ、あんなに悔しそうにしてる子、放っておけないじゃん」
ロニエは短く頷く。
「……あの子、“憧れて”入ってきたのよ。聖龍に」
「そうだよね。頑張ってたもんね、あの子。
“聖龍連合に入れたら一人前”って、前は言われてたくらいだし」
「……」
「ねぇロニエ、知ってる? 今、街じゃどんな噂が流れてるか」
ニコが歩きながら言った。
「“もう聖龍は時代遅れ”“今は血盟の時代だ”――だってさ。
昨日まで聖龍を持ち上げてた奴らが、手のひら返してんの」
その口調は軽い。けれど、言葉の奥に棘があった。
ロニエは何も返さない。ただ無言で歩を進める。
「まぁ……攻略組全体で見れば、血盟騎士団が強くなるのはいいこと、なんだけどさ」
ニコが肩をすくめる。
「戦力が上がれば、みんなが助かる。
血盟騎士団様がバンバンクリアしてくれれば、みんなハッピー……ってね」
ロニエの足が、ふと止まった。
風が二人の間をすり抜けていく。
砂が舞い、遺跡の石壁が淡く光を返した。
「……ニコ」
「ん?」
「怒ってるの?」
瞳が、まっすぐにロニエを捉える。
「やだなぁ、ロニエ。そんなの――」
ニコは数度まばたきをしたあと、口元に微笑を浮かべ――
「――当たり前じゃん」
声が低くなる。
静かな怒りだけが、表情の奥で燃えている。
「悪意以外の何があるの? あんなやり方。
“勧誘の努力を踏みつぶして、結果だけさらう”なんて――」
ニコは吐き捨てるように言った。
「聖龍の名に、泥塗りやがって」
ロニエは黙って聞いていた。
感情の色はない。ただ、視線だけがまっすぐにニコを捉えている。
「しかもさ」
ニコは息を荒げたまま、続けた。
「それ以降、血盟からは一言の謝罪もなし。
“正式なルートで交渉した結果です”って言い訳して、
この前うちに来たと思えば、“情報共有の話を続けよう”だって」
ロニエは短く息を吐き、低く呟く。
「……そう」
「盗人猛々しいとは、まさに血盟のことだよね」
ニコの声には、冷たい熱が宿っていた。
風が吹き抜け、彼女の桃色の髪を揺らす。
「“氷姫”を手に入れて、さぞ気分がいいんでしょうけど」
その言葉には、笑みと怒りがないまぜになっていた。
ロニエのまなざしがわずかに揺れる。
「……」
けれど彼女は何も言わなかった。
数秒の沈黙。
そして、ニコはふっと息を吐き――明るい声に戻った。
「ま、でもさ、私はちゃんと挨拶したよ?」
笑いながら、肩をすくめる。
「ほら、無視するのも感じ悪いし」
ロニエが小さく首を傾げる。
「……挨拶?」
「うん、“戦場で会ったら気をつけてくださいね。
うっかり手が滑ってしまうかもしれませんから”って」
ロニエがわずかに瞬きをした。
「ニコ……」
「ふふっ、冗談だよ。冗談」
笑顔を浮かべながらも、その声にはまだ熱が残っていた。
六十四層・北東外縁。
灰色の空の下、風が瓦礫をかすめ、乾いた音を残して消えていく。
遠くで、崩れた塔の影が揺れていた。
誰もいない。だが、空気がかすかに震えている――モンスターの反応。
ロニエは足を止め、淡い光を放つマップウィンドウを開いた。
「……この辺りね」
「おっけー」
ニコが杖を軽く振る。
小さく鼻歌を口ずさみながら、指先で空をなぞる。
「探索魔法《サーチ・サイン》。……っと、出た出た」
光の粒が彼女の前に浮かび上がる。
「中型一体、小型五体。うん、情報通り」
指先で魔法陣をひと撫ですると、青い光点が地面に印を刻んだ。
「……あ、あとね、誰か四人こっちに来てる」
少し離れた崩壊区画から、装備を整えた四人組が駆けてくる。
見るからに一般攻略組だ。額には汗がにじみ、顔は青ざめている。
「お、おい、あんたら! この先には行かない方がいい!」
「とんでもなく強いのがいるんだ! 俺たち、危うく全滅するところで――」
言い終わるより先に、地面が低く唸った。
空気が震え、瓦礫の奥から黒い影が這い出てくる。
甲殻に覆われた獣型のモンスター――五体。
その奥に、巨大な羽を広げた中型ボスがゆっくり姿を現した。
「……ほら、来た」
ニコが肩をすくめた。
「ご心配なく。ウォーミングアップで終わりますから」
そう言って、ひとつあくびをした。
四人組は、呆然としたまま言葉を失う。
⸻
小型の獣型が最初に動いた。
六本脚をばねのように使い、ロニエへ一直線に跳びかかる。
その瞬間――音が消えた。
ロニエが、ただ右手を動かした。
抜刀したかどうかさえ、誰にもわからない。
風が一度だけ揺れ、刹那、獣の体が四つに分かれた。
肉が裂ける音よりも早く、剣が鞘に収まる。
モンスターは光の粒になって消えた。
⸻
残る五体が一斉に動いた。
その前に、ニコが軽く片足を出して立つ。
「っと、じゃあ始めよっか♪」
小さく鼻歌。
その旋律と同時に、魔法陣が二重に展開される。
左の手に《フレア・スパイラル》。
右の手に《サンダーブラスト》。
炎と雷、相反する二つの属性が交差し、空間が歪んだ。
詠唱は――言葉ではなく、音楽。
唇がなめらかに動き、舌が詩を刻む。
声と頭の中の詠唱が完全に同期していた。
瞬く間に、空気が燃え上がる。
最初の一体が突進。
ロニエが横に滑るように動き、胴を切り裂く。
刃が通過した後、空中に“光の線”が残る。
それが一瞬遅れて消える――まるで“残光”のように。
二体目、雷撃に包まれて爆ぜる。
三体目、火柱の渦に飲まれ、断末魔を上げる間もなく消滅。
四体目、ロニエが踏み込み、両断。
ニコはリズムを刻むように杖を振る。
「ふふ、テンポいいねぇ♪」
最後の小型がロニエの背後に回り込む。
だが、その攻撃は透明な壁に弾かれた。
ニコが軽く左手を上げていた。
「っと、後ろ注意~♪」
ロニエは頷きもせず、ただ踏み込み。
金属音が一閃。
光が爆ぜ、空気が震える。
小型、全滅。
⸻
中型が咆哮した。
体躯は二回り大きく、片翼が刃のように光る。
低い地響きが、足下から伝わる。
ニコは軽く杖をくるくる回した。
「うんうん、やっと出番って感じだねぇ」
その声は穏やかで、まるで雑談のようだった。
中型が前方へ突進。
地面が砕け、砂塵が舞う。
ロニエはすでに前にいた。
動いた瞬間にはもう、敵の懐。
しかし、刃を振るう前に翼が横薙ぎに迫る。
ロニエが後退。
その直前――雷光が走った。
ニコの《サンダーブラスト》が翼を焼く。
ほぼ同時に《フレア・スパイラル》が右側から包み込む。
炎と雷が絡み、敵の体が軋む。
ロニエは剣を下げたまま、目を細めた。
無言のまま踏み込み、跳躍。
天からの一閃――刃が空を裂き、斜めに通過。
だが中型はまだ倒れない。
鋭い尻尾が反撃のように振り下ろされる。
その瞬間、透明な結界が発生。
ニコが杖の先を軽く掲げていた。
「っとと~、危ない危ない」
軽口を叩きながら、次の詠唱を始める。
炎の魔法陣が空に展開される。
雷が走り、炎が渦を巻く。
「ほい、さいならー」
炎雷融合魔法――《フレア・ブラスト・コンボ》。
閃光と轟音。空気が爆ぜる。
中型の体がよろめき、膝をつく。
刃のような翼が砕け散った。
そのわずかな隙。
ロニエは剣を抜く。
一歩、二歩――音もなく踏み込む。
次の瞬間、敵の体が――
花びらのように散った。
光の粒が、風に溶けていく。
―――――――――――――――――――――――――――
静寂。
風が戻ってくる。
焦げた空気が漂い、砂塵の向こうで光の粒がゆっくり消えていった。
ロニエは一歩踏み出し、鞘に刃を納める。
「……任務完了」
短く告げる声。
その響きだけが、崩れた遺跡の中に落ちていった。
その背後で、四人組の攻略者たちがただ呆然と立ち尽くしていた。
誰も言葉を出せない。
ほんの数分前まで自分たちを追い詰めた化け物が、影も形もなくなっている。
焦げた大地だけが、戦いの証を語っていた。
ひとりが小さく息を呑み、かすれた声を漏らす。
「……これが……聖龍、か」
だが、その言葉に答える者はいなかった。
ニコが杖を軽く肩に担ぎ、伸びをしながらロニエの後を追う。
「んー、やっぱり弱かったね~。肩慣らしにもならないや」
「そうね」
ロニエは淡々と返し、視線を前に戻す。
「ねぇロニエ、このあと会議だっけ?」
「本部で定例会議。戻らないと」
「はぁい。まじめだねぇ、副団長は」
ニコが笑いながら、くるくると杖を回す。
「ねーねーロニエ、この前新しくできたカフェに行ったんだけどね」
「カフェ?」
「うん、すっごく美味しいイチゴパフェがあってね!中からあったかいクリームでてきてね、とろけそうだったの。こんど一緒に行こ?」
ロニエは一拍置いて、ほんのわずかに頷いた。
「ええ」
「えへへ、楽しみだねー。それでね、次に行ったお店でねーー」
二人の声が遠ざかる。
風がまた、焦げた地面を撫でていった。
灰色の空の下、白い砂が舞い上がり、
光の残滓を飲み込みながら――静かに、すべてを覆い隠していった。