ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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第18話  第1部「静かな痛み」

 

 

 

 

 

 

 午後の街は、のどかな光に包まれていた。

 露店の客引きが声を張り上げ、鍛冶屋の槌音が遠くから響く。

 だが、その喧噪の中で一人の少女は俯き、足早に通りを抜けていた。

 彼女の胸元には、青く輝く紋章――《聖龍連合》のエンブレム。

 通りを歩く人々の視線が、それを見つけるたびに微妙な色を帯びる。

 

「なぁ、今いちばん勢いあるのって、やっぱ《血盟騎士団》だよな」

「だな。“氷姫”が入団したし」

「聖龍はどうしたんだ? あれだけ必死に勧誘してたのに、結局取られちまったじゃねぇか」

「まったくだ。メンツ丸つぶれだな」

「無様なもんだぜ、はははは!」

 

 通りすがりの男たちの笑い声が、風に溶けて少女の背に突き刺さる。

 手にしていた買い物袋をぎゅっと握る。

 視界の端がにじみ、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。

 俯いたまま、彼女は人波の中を早足で抜けた。

 笑い声は追いかけてこないのに、心の奥で何度も何度も反響した。

 

 

 

 

⸻

 

 

 

 

 聖龍連合本部。

 厚い石造りの壁は陽の光を鈍く返し、空気は外よりも数度冷たい。

 広い中庭の片隅、少女がひとりベンチに座っていた。

 膝の上で両手を重ね、うつむいたまま微動だにしない。

 その頬には、涙の跡。

 

 軽い足音が近づいた。

「……大丈夫?」

 静かな声。振り返ると、副団長ロニエが立っていた。

 淡い茶髪が光を受けてわずかに揺れる。

 表情は穏やかだが、感情が読めない――いつものことだ。

 少女は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「……あ、副団長……っ、すみません……」

 

「泣いていたの?」

「い、いえっ……その、ちょっと目にゴミが……」

「……」

 ロニエは短く返すと、隣に腰を下ろした。

 沈黙が数秒続き、風が草を揺らした。

「……何か、あったのね」

 その問いに、少女は堰を切ったように口を開く。

 

「街で……噂を聞いたんです。《氷姫》さんのこと」

「……」

「皆、聖龍を笑ってて……。あんなに頑張ってたのに、って……!」

 声が震える。

「“血盟騎士団に負けた”“聖龍は落ちぶれた”って……。

 私、悔しくて……。だって、私たちは……そんなふうに言われるようなこと、してません!」

 拳をぎゅっと握る。

「悪いのは向こうです。あんな汚いやり方で……!

 自分たちさえよければいいなんて、そんなの……!」

 

 ロニエは、黙ってその言葉を受け止めていた。

 ただ、ゆっくりと視線を少女に向ける。

 その目に、怒りも哀しみも映らない。ただ、静かに彼女の声だけを拾う。

 

「……もし、事前に連絡があったら……。

 私たちだって、ちゃんと準備できたのに……。

 何も言わずに、あんな……!」

 

「……そう」

 ロニエの唇が、ほんの少しだけ動く。

 それだけだった。

 少女は息を詰め、そしてふっと力を抜いた。

「ごめんなさい、副団長。愚痴ばっかりで……」

「いいのよ」

 ロニエは淡く首を振る。

「吐き出したいときは、ちゃんと吐き出したほうがいいから」

 少女はわずかに頷き、涙を拭った。

 

 そのとき、奥の廊下から声が響いた。

「ロニエー! 団長が呼んでるよー!」

 明るい声。

 振り向くと、桃色の髪を揺らした少女――ニコが立っていた。

 ひょいと片手を挙げ、にこっと笑う。

「お仕事の時間だってさ」

「わかった」

 ロニエは立ち上がり、少女に視線を戻す。

「何かあったら、遠慮なく言ってちょうだい」

「は、はいっ。ありがとうございます!」

 ロニエは短く頷き、静かに踵を返した。

 

 

 

 

⸻

 

 

 

 

 団長室。

 分厚い扉をノックして入ると、青い外光が差し込む中、机の前にリンドが立っていた。

 銀の鎧の肩章が光を反射して、静かな威圧感を放っている。

 その表情は、いつもと同じ――無機質な冷静さ。

 

「来たか。……すまないが、緊急の依頼だ」

 声は低く、抑揚がない。

 ロニエとニコが揃って直立する。

 リンドは机の上の報告書を一枚取り上げ、視線を落とした。

「六十四層の攻略進路に、厄介なモンスターが出たらしい。

 通常エリアの外縁部だが、放置すれば被害が出る可能性が高い」

 

「六十四層……?」

 ニコが首を傾げる。

「そこのルートは、もう攻略済みですよね? なんで今さら?」

「あるパーティが別ルートで戦闘していてな。撤退中にモンスターを誘導してしまったらしい」

「……うわ。最悪なパターン」

 リンドは淡々と頷く。

「他の部隊は出払っている。……ロニエ、ニコ。君たち二人で行ってくれ」

「了解しました」

「了解でーす」

 ロニエの冷静な返事と、ニコの軽い声が重なる。

 リンドはわずかに目を細め、淡々と告げる。

「モンスターのデータは転送してある。出発は一刻以内に」

「はーい」

「わかりました」

 

 

 

 

⸻

 

 

 

 

 廊下を歩く足音が、静かな石壁に反射して消えていく。

 ニコがロニエの隣を軽やかに歩きながら、ちらりと横目を向けた。

「ねぇロニエ。団長って普段、ほんと“無表情王”だよね」

「……そう?」

「うん。あれじゃ怒ってるのか、褒めてるのか、ぜんっぜんわかんない」

「怒っても、褒めても、結果は同じよ。仕事をするだけ」

「出たー、ロニエ語録」

 ニコが苦笑する。

 ロニエは何も返さなかった。

 ただ淡い茶髪が揺れ、静かな瞳が前を見据えている。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 六十四層・北東外縁。

 風が白い砂を巻き上げ、崩れかけた遺跡の壁をかすめていく。

 石畳は長年の戦いの痕跡を残し、ところどころ黒く焦げていた。

 空は曇りがちな灰色で、陽の光はほとんど届かない。

 

 ロニエは無言のまま、足元のマップウィンドウを確認していた。

 画面の端には、青く光るギルドマーク。

 その隣に小さく“調査任務”の表示。

「……この辺りね」

「ふぅん、ずいぶん静かだねぇ」

 ニコが杖を肩に担ぎながら、軽くあくびをした。

「まるで墓場みたい。ほんとにモンスターいるの?」

「データ上は確かにいる。位置情報が固定されてる」

「ってことは、誰かが見つけたまま放置したんだ。……ほんと迷惑」

 ニコはぼそっと呟き、軽く石を蹴った。

 それが乾いた音を立てて転がり、遠くの瓦礫に当たる。

 

 ロニエはその音を追うように目をやり、静かに口を開いた。

「今朝の子、見てたのね」

「え?」

「泣いていた子。中庭で」

「あー……バレてたかぁ」

 ニコが舌を出した。

「うん、途中から。だってさ、あんなに悔しそうにしてる子、放っておけないじゃん」

 

 ロニエは短く頷く。

「……あの子、“憧れて”入ってきたのよ。聖龍に」

「そうだよね。頑張ってたもんね、あの子。

 “聖龍連合に入れたら一人前”って、前は言われてたくらいだし」

「……」

 

「ねぇロニエ、知ってる? 今、街じゃどんな噂が流れてるか」

 ニコが歩きながら言った。

「“もう聖龍は時代遅れ”“今は血盟の時代だ”――だってさ。

 昨日まで聖龍を持ち上げてた奴らが、手のひら返してんの」

 その口調は軽い。けれど、言葉の奥に棘があった。

 ロニエは何も返さない。ただ無言で歩を進める。

 

「まぁ……攻略組全体で見れば、血盟騎士団が強くなるのはいいこと、なんだけどさ」

 ニコが肩をすくめる。

「戦力が上がれば、みんなが助かる。

 血盟騎士団様がバンバンクリアしてくれれば、みんなハッピー……ってね」

 

 ロニエの足が、ふと止まった。

 風が二人の間をすり抜けていく。

 砂が舞い、遺跡の石壁が淡く光を返した。

 

「……ニコ」

「ん?」

「怒ってるの?」

 

 瞳が、まっすぐにロニエを捉える。

 

「やだなぁ、ロニエ。そんなの――」

 

 ニコは数度まばたきをしたあと、口元に微笑を浮かべ――

 

「――当たり前じゃん」

 

 声が低くなる。

 静かな怒りだけが、表情の奥で燃えている。

 

「悪意以外の何があるの? あんなやり方。

 “勧誘の努力を踏みつぶして、結果だけさらう”なんて――」

 ニコは吐き捨てるように言った。

「聖龍の名に、泥塗りやがって」

 

 ロニエは黙って聞いていた。

 感情の色はない。ただ、視線だけがまっすぐにニコを捉えている。

 

「しかもさ」

 ニコは息を荒げたまま、続けた。

「それ以降、血盟からは一言の謝罪もなし。

 “正式なルートで交渉した結果です”って言い訳して、

 この前うちに来たと思えば、“情報共有の話を続けよう”だって」

 

 ロニエは短く息を吐き、低く呟く。

「……そう」

 

「盗人猛々しいとは、まさに血盟のことだよね」

 ニコの声には、冷たい熱が宿っていた。

 風が吹き抜け、彼女の桃色の髪を揺らす。

 

「“氷姫”を手に入れて、さぞ気分がいいんでしょうけど」

 その言葉には、笑みと怒りがないまぜになっていた。

 ロニエのまなざしがわずかに揺れる。

「……」

 けれど彼女は何も言わなかった。

 

 数秒の沈黙。

 そして、ニコはふっと息を吐き――明るい声に戻った。

 

「ま、でもさ、私はちゃんと挨拶したよ?」

 笑いながら、肩をすくめる。

「ほら、無視するのも感じ悪いし」

 

 ロニエが小さく首を傾げる。

「……挨拶?」

 

「うん、“戦場で会ったら気をつけてくださいね。

 うっかり手が滑ってしまうかもしれませんから”って」

 

 ロニエがわずかに瞬きをした。

 

「ニコ……」

「ふふっ、冗談だよ。冗談」

 笑顔を浮かべながらも、その声にはまだ熱が残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六十四層・北東外縁。

 灰色の空の下、風が瓦礫をかすめ、乾いた音を残して消えていく。

 遠くで、崩れた塔の影が揺れていた。

 誰もいない。だが、空気がかすかに震えている――モンスターの反応。

 

 ロニエは足を止め、淡い光を放つマップウィンドウを開いた。

「……この辺りね」

「おっけー」

 ニコが杖を軽く振る。

 小さく鼻歌を口ずさみながら、指先で空をなぞる。

「探索魔法《サーチ・サイン》。……っと、出た出た」

 光の粒が彼女の前に浮かび上がる。

「中型一体、小型五体。うん、情報通り」

 指先で魔法陣をひと撫ですると、青い光点が地面に印を刻んだ。

「……あ、あとね、誰か四人こっちに来てる」

 

 少し離れた崩壊区画から、装備を整えた四人組が駆けてくる。

 見るからに一般攻略組だ。額には汗がにじみ、顔は青ざめている。

 

「お、おい、あんたら! この先には行かない方がいい!」

「とんでもなく強いのがいるんだ! 俺たち、危うく全滅するところで――」

 言い終わるより先に、地面が低く唸った。

 空気が震え、瓦礫の奥から黒い影が這い出てくる。

 甲殻に覆われた獣型のモンスター――五体。

 その奥に、巨大な羽を広げた中型ボスがゆっくり姿を現した。

 

「……ほら、来た」

 ニコが肩をすくめた。

「ご心配なく。ウォーミングアップで終わりますから」

 そう言って、ひとつあくびをした。

 

 四人組は、呆然としたまま言葉を失う。

 

⸻

 

 小型の獣型が最初に動いた。

 六本脚をばねのように使い、ロニエへ一直線に跳びかかる。

 その瞬間――音が消えた。

 

 ロニエが、ただ右手を動かした。

 抜刀したかどうかさえ、誰にもわからない。

 風が一度だけ揺れ、刹那、獣の体が四つに分かれた。

 肉が裂ける音よりも早く、剣が鞘に収まる。

 

モンスターは光の粒になって消えた。

 

⸻

 

 残る五体が一斉に動いた。

 その前に、ニコが軽く片足を出して立つ。

「っと、じゃあ始めよっか♪」

 小さく鼻歌。

 その旋律と同時に、魔法陣が二重に展開される。

 左の手に《フレア・スパイラル》。

 右の手に《サンダーブラスト》。

 炎と雷、相反する二つの属性が交差し、空間が歪んだ。

 

 詠唱は――言葉ではなく、音楽。

 唇がなめらかに動き、舌が詩を刻む。

 声と頭の中の詠唱が完全に同期していた。

 瞬く間に、空気が燃え上がる。

 

 最初の一体が突進。

 ロニエが横に滑るように動き、胴を切り裂く。

 刃が通過した後、空中に“光の線”が残る。

 それが一瞬遅れて消える――まるで“残光”のように。

 

 二体目、雷撃に包まれて爆ぜる。

 三体目、火柱の渦に飲まれ、断末魔を上げる間もなく消滅。

 四体目、ロニエが踏み込み、両断。

 ニコはリズムを刻むように杖を振る。

「ふふ、テンポいいねぇ♪」

 

 最後の小型がロニエの背後に回り込む。

 だが、その攻撃は透明な壁に弾かれた。

 ニコが軽く左手を上げていた。

「っと、後ろ注意~♪」

 

 ロニエは頷きもせず、ただ踏み込み。

 金属音が一閃。

 光が爆ぜ、空気が震える。

 

 小型、全滅。

 

⸻

 

 中型が咆哮した。

 体躯は二回り大きく、片翼が刃のように光る。

 低い地響きが、足下から伝わる。

 

 ニコは軽く杖をくるくる回した。

「うんうん、やっと出番って感じだねぇ」

 その声は穏やかで、まるで雑談のようだった。

 

 中型が前方へ突進。

 地面が砕け、砂塵が舞う。

 ロニエはすでに前にいた。

 動いた瞬間にはもう、敵の懐。

 しかし、刃を振るう前に翼が横薙ぎに迫る。

 ロニエが後退。

 その直前――雷光が走った。

 

 ニコの《サンダーブラスト》が翼を焼く。

 ほぼ同時に《フレア・スパイラル》が右側から包み込む。

 炎と雷が絡み、敵の体が軋む。

 

 ロニエは剣を下げたまま、目を細めた。

 無言のまま踏み込み、跳躍。

 天からの一閃――刃が空を裂き、斜めに通過。

 だが中型はまだ倒れない。

 鋭い尻尾が反撃のように振り下ろされる。

 その瞬間、透明な結界が発生。

 

 ニコが杖の先を軽く掲げていた。

「っとと~、危ない危ない」

 軽口を叩きながら、次の詠唱を始める。

 炎の魔法陣が空に展開される。

 雷が走り、炎が渦を巻く。

「ほい、さいならー」

 

 炎雷融合魔法――《フレア・ブラスト・コンボ》。

 閃光と轟音。空気が爆ぜる。

 中型の体がよろめき、膝をつく。

刃のような翼が砕け散った。

 

 そのわずかな隙。

 ロニエは剣を抜く。

 一歩、二歩――音もなく踏み込む。

 

 次の瞬間、敵の体が――

 花びらのように散った。

 

 光の粒が、風に溶けていく。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

静寂。

 風が戻ってくる。

 焦げた空気が漂い、砂塵の向こうで光の粒がゆっくり消えていった。

 

 ロニエは一歩踏み出し、鞘に刃を納める。

「……任務完了」

 短く告げる声。

 その響きだけが、崩れた遺跡の中に落ちていった。

 

 その背後で、四人組の攻略者たちがただ呆然と立ち尽くしていた。

 誰も言葉を出せない。

 ほんの数分前まで自分たちを追い詰めた化け物が、影も形もなくなっている。

 焦げた大地だけが、戦いの証を語っていた。

 ひとりが小さく息を呑み、かすれた声を漏らす。

「……これが……聖龍、か」

 だが、その言葉に答える者はいなかった。

 

 ニコが杖を軽く肩に担ぎ、伸びをしながらロニエの後を追う。

「んー、やっぱり弱かったね~。肩慣らしにもならないや」

「そうね」

 ロニエは淡々と返し、視線を前に戻す。

「ねぇロニエ、このあと会議だっけ?」

「本部で定例会議。戻らないと」

「はぁい。まじめだねぇ、副団長は」

 ニコが笑いながら、くるくると杖を回す。

「ねーねーロニエ、この前新しくできたカフェに行ったんだけどね」

「カフェ?」

「うん、すっごく美味しいイチゴパフェがあってね!中からあったかいクリームでてきてね、とろけそうだったの。こんど一緒に行こ?」

 ロニエは一拍置いて、ほんのわずかに頷いた。

「ええ」

「えへへ、楽しみだねー。それでね、次に行ったお店でねーー」

 

 二人の声が遠ざかる。

 風がまた、焦げた地面を撫でていった。

 灰色の空の下、白い砂が舞い上がり、

 光の残滓を飲み込みながら――静かに、すべてを覆い隠していった。

 

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