ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
聖龍連合本部。
白い石造りの会議室には、昼の光が斜めに差し込んでいた。
厚い扉が閉ざされると、外の喧噪は一切届かない。
空気は重く、静まり返っている。
中央の長机を囲むのは――団長リンド、副団長ロニエ、参謀ニコ、そして聖龍幹部数名。
さらに、その背後の円形席には、傘下ギルドの団長たちが数名並んでいた。
壁際には旗。
青き竜が翼を広げる《聖龍連合》の紋章。
だが、その威厳ある紋章でさえも、この場の緊張を和らげることはできなかった。
会議はすでに一時間以上続いている。
話題は六十三層ボス攻略――すなわち、聖龍単独によるクリアの報告だ。
損害は軽微。
連携も完璧。
だが、誰もそれを誇るような空気ではなかった。
リンドが静かに言葉を締めた。
「……以上が六十三層攻略戦の報告だ。
前線班、補給班、救護班、すべて予定通り。特筆すべき損害はなし。
現時点での戦略的課題は、六十四層における補給路の確保――以上だ」
その声は、波紋一つ生まぬ静かな音だった。
机の上の書類がかすかに震えたのは、誰かの息が詰まったせいだろう。
「……何か、質問はあるか」
しん、と音が止まる。
全員が俯き、誰も口を開かない。
だが、沈黙の奥には“何かを押し殺すようなざわめき”が確かにあった。
目線を交わし合う幹部たち。
拳を組む音。
唇を噛む音。
そのすべてが、重く、息苦しい。
リンドは視線を動かさない。
ただ、静かに全員の様子を見渡していた。
表情は微動だにしない。
氷のように無表情。
その静寂が、かえって全員を圧していた。
誰かが口を開こうとしたそのとき。
「はいはーい」
明るい声が空気を切った。
ニコだ。
会議室の重苦しい空気をまるで感じていないかのように、軽く手を挙げた。
「質問ありまーす」
リンドがわずかに視線を動かす。
「……ニコ君。何かあるか」
「うん」
ニコはにっこり笑い、周囲を見渡す。
軽い笑顔のまま、声を弾ませた。
「ねぇ、みんな。なんか、言いたいことあるよねぇ? あるでしょ?」
ざわり、と小さな動揺が広がる。
「でも、誰も言わない。だからね、私が代表して言ってあげる」
ロニエが眉をわずかに動かす。
「……ニコ」
「いーじゃん、ロニエ。みーんな心の中で思ってること、私がハッキリ言ってあげるだけだよ」
彼女の言葉に、場の空気が揺れた。
何人かの幹部が視線を交わす。
外部ギルドの団長たちは息を潜めたまま、リンドの反応をうかがっていた。
だが、リンドは――何の表情も見せなかった。
ニコは一歩、椅子から身を乗り出した。
「団長、『氷姫』の件。
まさか――このまま、何もせずに引き下がる……なんて考えてないよね?」
沈黙が、瞬間的に空気を支配した。
リンドの瞳が、彼女に向けられる。
その中に怒りも焦りもない。
ただ、静かで深い湖のような色。
「……」
ニコの声だけが響く。
「“あれ”は明らかに意図的なものだったよ。
血盟騎士団があのタイミングで“氷姫”の入団を発表した。
…偶然なんかじゃない。狙ってたんだ。うちが勧誘を本格的に始めたタイミングを狙って、自分たちも勧誘に動いたんだよ」
ロニエは黙っていた。
その瞳は、机の一点を静かに見つめている。
沈黙を破ったのは、一人の男の声だった。
「……そうだな」
低く、よく通る声。
発言者は外部ギルドのまとめ役――《マーク》。
年季の入った革鎧の肩章が、光を反射した。
「リンドさん、俺はあんたを尊敬してる。
それはこれからも変わらない。
だが――今回の件だけは、どうしても納得がいかない」
別の団長が頷く。
「俺もだ。あんなやり方、どう考えても喧嘩売ってるだろ」
「そうそう。あれが偶然だなんてあり得ねぇ」
「“破格の条件でも首を縦に振らなかった氷姫”が、一度で落ちた? 笑わせるなって」
「だよな。話が合いすぎなんだよ、あれ」
議論が一気に熱を帯びる。
誰かが机を叩く音が響く。
空気がざらつき始めた。
沈黙していた幹部の一人が、ぼそりと呟く。
「……アルゴの情報とも辻褄は合ってる。構図は正しい。けど、前提が違うんだ」
「前提?」
マークが眉をひそめる。
男は頷いた。
「“氷姫”は最初から血盟に入るって決まってたんだよ。
ただ、タイミングを見計らってただけだ。
うちが勧誘に動き出す、その瞬間を――」
ざわり、と空気が動いた。
誰もが顔を見合わせる。
「……待ってたってことか?」
「そうだ。聖龍が動いたのを見て、“勝ち”を取りに行ったんだ」
「……っ」
怒気が広がる。
拳が握られる。
「で、あの“正式なルートで交渉した結果です”とか言うわけか。
盗人猛々しいとはこのことだな」
「まったくだ!」
「別の情報屋の話だと、裏で何回もやり取りしてた形跡があるらしいぞ!」
そのとき、別の団長が口を開いた。
「……おまけに、だ」
低く苦々しい声。
「うちのギルドでも入団希望だったやつが二人、やっぱり取りやめたいって言ってきた」
「理由を聞いたら、“血盟の傘下ギルドの方が安心だ”だとよ。……笑わせる」
周囲がざわつく。
「それ、うちも同じだ」
「うちもだ。最近は“聖龍は時代遅れだ”なんて噂まで出てる」
怒りと焦燥の混じった声が次々に上がった。
ざわつきはもう収拾がつかない。
リンドは動かない。
机の前で、ただ沈黙を守っている。
まるでこの騒ぎを“試している”かのように。
ニコが、ぽん、と手を叩いた。
高い音が響き、全員の視線が一瞬で彼女に集まる。
「はいはい、みんな落ち着いて~。怒っても仕方ないでしょ?」
笑顔を浮かべながら、ニコが首を傾げた。
「ねぇ団長? 確か六十三層の探索で“隠しダンジョン”が見つかったよね?」
ロニエがわずかに顔を上げる。
場の空気が変わった。
「“暗黙の了解”ってあるじゃない?
最初に見つけたギルドが初回クリアするまでは、他は手を出さない――ってやつ」
ニコが指先で机を軽く叩く。
「でも、血盟騎士団様は、“暗黙の了解なんて関係ない”って言ってたよねぇ。
ならさ、私たちも“正式なルートで”攻略しちゃってもいいんじゃない?」
ざわ――っ、と空気がまた動いた。
「……どういうことだ?」
「つまり、“手伝ってあげる”の。
血盟騎士団様、いま六十四層ボス攻略で苦戦してるみたいだし?
私たちが先に攻略しちゃえば、“助けてあげた”ことになるよね」
無邪気な笑顔。
だが、その笑みの奥には、確かな棘があった。
「……おい、それって」
「もちろん、“正式なルートで攻略した結果です”って言えば問題ないよ?
連中もそう言ってたんだし~」
ニコの軽い口調に、数人が吹き出した。
だが、笑いはすぐに怒号に変わった。
「いいじゃないか!」
「血盟の鼻をへし折ってやれ!」
「初回クリア報酬、うちにも回してくれよ!」
「バカ言え、うちが先に行く!」
怒声と笑いが入り混じる。
場が一気に騒然とした。
「でもな……」
ひとりの団長が腕を組む。
「初回クリアのレア装備は確かに美味いが、結局周回できるんだろ?
血盟にとっちゃ痛くも痒くもねぇんじゃないか?」
「うーん、それがねぇ」
ニコが笑みを深める。
「“上の階層装備”が手に入るタイプのダンジョンって、人気すごいんだよ。
だから――入り口、渋滞しちゃうんじゃないかなぁ?」
ぱちん、と指を鳴らす。
「ほら、“正式ルート”でね?」
場が、どっと沸いた。
誰かが手を叩き、誰かが笑い、誰かが机を叩く。
その喧噪の中心で、ニコだけがにこにこと笑っていた。
まるで舞台上の道化のように。
だが――彼女が一番、場を動かしていた。
ロニエはその様子を静かに見つめていた。
表情に変化はない。
だが、心の奥で微かな息をつく。
(……この人たちは、まだ気づいていない)
視線の先、机の向こうでリンドが微動だにしない。
怒ってもいない。
苛立ってもいない。
ただ、静かに――沈黙の中で、全員を見ていた。
ーーーーーー
「リンドさん、あんたに迷惑はかけない」
円卓の一角で、粗い声が響いた。
外部傘下ギルドの一人、筋骨の男が立ち上がる。
「傘下のギルドが勝手に暴走したってことでいい。責任は全部うちがかぶる。
だから――連中に一泡吹かせてやってくれ!」
場に緊張が走る。
だがリンドは、表情ひとつ変えずに息を吐いた。
「……小さい考え方だな」
「……なに?」
男の声が低くなる。
その間に、静かな声が割り込んだ。
「そんなことをすれば、聖龍連合の名は地に落ちるでしょう」
ロニエだった。
視線は前に向いたまま、凛とした声が部屋の空気を引き締める。
「どうしてです? 元はといえば、向こうが仕掛けたことじゃないか!」
「この世界の人々の希望である――最前線。
その要である攻略組が内戦を始めたとしたら?」
ロニエの声音は静かだが、凍てつくように鋭かった。
「人々はこう言うでしょう。
“愚かだ”と。
命を懸けて前に進む者たちが、互いに争い、時間と資源を浪費する――と」
部屋が静まり返る。
誰も言葉を継げなかった。
ニコはただ、机に頬杖をついたまま、飄々と黙っている。
「……我々が重んじるのは“誇り”と“矜持”」
ロニエが言葉を続ける。
「その理念のもとに集まった者たち――それが、聖龍連合です」
男は悔しげに拳を握った。
「でも……このまま黙ってたら、俺たちは“負け犬”扱いだ」
リンドが小さく鼻を鳴らす。
「ふん……そんな手を使わずとも、我々は血盟騎士団に勝利できる」
その一言に、場の全員が息を呑む。
リンドが立ち上がる。
背筋は伸び、声に一点の揺らぎもなかった。
「諸君らの望みはなんだ?」
低い声が静寂を貫く。
「“氷姫”の件の腹いせに、安いレア装備を奪い取り、自尊心を慰めることか?」
誰も返さない。
その沈黙が肯定のようだった。
「違うはずだ」
リンドの目が、ひとりひとりを射抜くように動く。
「諸君も知っての通り、五十層以降――敵の強さは異常だ。加速度的に上昇している。
このまま進めば、いずれ単独ギルドでは攻略が不可能になる」
小さなどよめきが広がる。
リンドはそれを制するように、手を上げた。
「現状、聖龍連合と血盟騎士団――それぞれ単独で直近のフロアボスを攻略している。
例外はあるが、ほぼ拮抗している。
だが、次の層ではどうだ? その次では?
いずれ、どちらかが“詰む”。」
「……じゃあ、どうするってんだ?」
誰かが絞り出す。
「そりゃ……外部の中堅ギルドとか傘下のギルドを呼んで戦う、だな」
誰かが答えた。
リンドは頷き、淡々と続ける。
「そうだ。それでしばらくは凌げる。だが――それもいつか限界がくる」
彼はわずかに視線を上げ、机上のマップウィンドウを開いた。
光の線が、層構造を描く。
「……奇妙だと思ったことはないか?」
リンドの声が静かに落ちる。
「ボスフロアの“参加上限人数”だ。聖龍本隊、そして傘下ギルド全員を投入しても、なお半分程度しか埋まらない」
誰かが眉をひそめる。
「……たしかに」
「この人数――ちょうどトップギルド二つ、そしてその傘下ギルドを合わせて、ようやく埋まる」
空気が変わった。
ざわり、と小さなどよめき。
誰もが思った。まさか。まさか、そんな――。
「……トップギルド同士が組む、ってことか」
声が震えていた。
その一言が、会議室の奥にまで波紋を広げる。
リンドはゆっくりと立ち上がる。
光を背に受け、その影が机上に長く伸びた。
「そうだ」
低く、重く、確信をもって告げる。
そして――
「その場合、答えはひとつしかない」
沈黙。
誰も息をしなかった。
まるで、次の言葉を恐れているかのように。
リンドはその沈黙の上に、刃のような声を落とした。
「――“聖龍連合“と、“血盟騎士団“だ。」