ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

3 / 21
3話  日常のざわめき

入団後三週間後

第一部:日常のざわめき

 

 

 

血盟騎士団本部の食堂は、昼時の喧噪が過ぎ去ったあとの静けさに包まれていた。

 大鍋に残る煮込みの匂いがまだ漂い、香草と肉の混じった芳醇な香りが空気に溶けている。窓の外では秋めいた風が中庭を渡り、遠くからは訓練場の掛け声が一定のリズムで響いてきた。

 

そんな場に残っていたのは、アスナ、キリト、リズベット、そしてシリカとリオ。

 それぞれが食後の余韻に身を委ねながら、久々の談笑を楽しんでいた。

 

リズベットがスプーンを指先でくるくると弄び、わざと声を潜めて切り出した。

「……やっぱり、一番の衝撃はあの子が血盟騎士団に入ったってことよ」

 

パンを齧っていたキリトが咳き込み、水で慌てて喉を流す。

「げほっ……。いきなりだな。……“あの子”って、ティンクルのことか」

 

リズは身を乗り出す。

「他に誰がいるのよ。だって、あの子よ? あの“氷姫”ティンクルが、血盟騎士団に――。パーティーを組む姿すら、誰も見たことなかったのに」

 

アスナが小さく笑みを浮かべた。

「そうね。確かに、あの子が仲間と肩を並べる姿は想像できなかったかも。でも……思っていたよりずっと早く馴染んでくれて、正直ほっとしてるわ」

 

リオがためらいがちに言葉を継いだ。

「ぼ、僕もそう思います。声をかけてくれるときの優しさが自然で……でも、必要以上に踏み込んでこないんです。僕みたいな新入りにも“支えてくれてありがとう”って言ってくれて……。あの人、誰にでもちゃんとそうやって伝えられるんですよ」

 

リズは感心したように目を丸くした。

「……やるわねぇ。ほんと、見掛け倒しの子じゃなかったんだ」

 

アスナが頷く。

「普通なら、あれほど目立つ子が入れば必ず軋轢が生まれるものよ。でもティンクルは必ず一歩引いて先輩を立てる。決して出しゃばらず、役割を超えてしゃしゃり出ることもしない。……だからこそ、すぐに好かれたの」

 

リズが唇を尖らせて笑った。

「……なんか憎めないのよね、あの子」

 

キリトが腕を組み、真剣な目つきで言った。

「憎めないどころか、俺は早く剣を交えてみたいな」

 

アスナがすかさず眉をひそめる。

「こら。女の子に物騒なこと言わないの」

 

キリトは肩をすくめ、にやりと笑った。

「俺たちにとって剣を交えるのは最高の挨拶だろ?」

 

その場の空気がふっと和らぐ。外から響く訓練の掛け声と重なり、食堂はひとときだけ穏やかな空気に満たされた。

 

 

スープを口に運びながら、アスナが思い出したように話す。

「そういえばね……。ティンクルも例外じゃないの。団長が言った通り、特別扱いは一切なし。ソロ活動は禁止されてるし、戦利品は全部ギルドに納めてるわ」

 

リズが目を丸くする。

「え、あのティンクルが? 戦利品もきっちり?」

 

「ええ」アスナは微笑んで頷いた。

「むしろ驚くほど徹底してる。全部きちんと納めて、しかもとんでもない素材を持って帰ってくるの」

 

リオが目を輝かせた。

「この前だって、普通のパーティーじゃ到底手に入れられないような素材を……。それを迷わず全部ギルドに出してて、正直びっくりしました」

 

シリカが胸に手を当て、安堵したように微笑む。

「……団の一員として、本当にちゃんと動いてくれてるんですね」

 

リズは腕を組み、深く息を吐いた。

「ほんと、不思議な子よね。孤高の存在だったのに、今じゃすっかり団の中に溶け込んでる」

 

アスナは静かに言った。

「それも全部、あの子の選んだ“距離感”の取り方が上手いからだと思う」

 

アスナがマグを置き、ふと思い出したように言った。

「そうだ。ティンクルが団長にひとつだけお願いしたことがあるの」

 

リズが即座にのり出す。

「なになに、追加の倉庫? 専属鍛冶師? それとも最上位鍵の貸し出し?」

 

アスナは小さく笑って首を振った。

「浴室のある部屋、ってだけ」

 

キリトが「え?」と間抜けな声を漏らし、シリカが目を瞬く。

「シャワーは各部屋にあるけど、湯に浸かろうと思うと共同浴場になるからね。視線を気にせず落ち着いて体を休めたいって。今は負傷者用の個室のひとつを、交代制が落ち着くまで使わせてもらってる」

 

リオとシリカが、そろって首を傾げる。

「……どうして、そんなことを?」

 

リズがすかさず答える。

「セクハラは異性だけの問題じゃないのよ。特にティンクルみたいに目立つ子は、視線だけでも十分に負担になる」

 

その一言に、リオとシリカは同時に真っ赤になって慌てて俯いた。

「ぼ、僕はそんなつもりじゃ……!」

「わ、私も……っ」

 

リズは二人の頭を軽く小突いて、ため息を漏らす。

「だからこそ、先に予防線を張るの。団長もすぐに理解したんだと思うわ」

 

窓の外で号令のリズムが変わり、掛け声が一段落する。食堂の空気がゆるくほどけ、スープの香りがまた意識に戻ってきた。

 

キリトが椅子の背にもたれながら、ぽつり。

「にしても、あの“孤高”がこうまで自然に団へ入るとはな」

 

リズがニヤッと笑う。

「それで思い出した。聖龍連合のスカウトね、顔真っ青だったわよ。あんなに必死で口説いてたのに、ある日を境に“あれ、いない”って。で、次に見たら血盟騎士団の白赤の前で手を振ってるんだから」

 

シリカが目を丸くする。

「そんなに何度も勧誘されてたんですか?」

 

「月に百件はざらって噂だったしね」リズが肩をすくめる。

「『ソロの星』だもの。そりゃ引っ張りたいわけよ」

 

アスナは、ほんのわずか視線を落とし、すぐ顔を上げた。

「でも、ここを選んだ。……それがすべてよ」

 

キリトがアスナの横顔を見て、にやりとする。

「じゃ、改めて“いらっしゃい会”やるか。手作りで」

 

シリカが目を輝かせ、リオも背筋を正す。

「やりましょう!」

「ぼ、僕も手伝います!」

 

リズが腕を組んで段取りを口にし始める。

「じゃあ私は鍛冶場のオーブン貸し切り申請ね。焼き菓子は任せて。シリカは盛り付けと簡単な前菜、リオ君は買い出しと配膳。キリトは薪割りと火番」

 

「なんで俺だけ野営当番みたいなんだよ」

「似合うから」

 

小さな笑いが円卓を一周する。アスナはその笑いに混じりながら、胸の奥の硬さが少しずつほどけていくのを感じていた。

 

リオがふと思い出したように、控えめに手を挙げる。

「そういえば、その……ティンクルさん、ソロ活動は完全にやめるんですか?」

 

アスナははっきりと首を振る。

「規律として単独攻略は原則禁止。ただし、偵察や短時間の索敵は許可申請の範囲で回してる。……ティンクルも例外扱いじゃない。申請・報告・精算、どれもきっちりしてるわ」

 

リオは力強く頷いた。

「この前も、すごい素材を“全部”納めてて……。本当に徹底してるんだなって」

 

キリトが口角を上げる。

「なら、こっちも胸張って迎え撃てるな。次の攻略で並ぶのが楽しみだ」

 

リズがスプーンをころんと皿に置き、締めるように言う。

「決まり。いらっしゃい会は今週末。アスナ、あなたの得意なやつ、お願い」

 

アスナは少しだけ照れながら、素直に頷いた。

「わかった。みんなで食べられるのを作る」

 

外の風がまたひとつ、窓辺のカーテンを揺らす。

 午後の光が傾き、白いテーブルクロスの皺にやさしい影を描いた。

 静かな食堂に、温かい約束がひとつ落ちる。

 ――“孤高”は、もう、孤独ではない。ここに、席がある。

 

 

 

 

入団後三週間

第二部

 

夕刻の訓練場。

 

 血盟騎士団の団員たちは練習を終え、武具を片付けながら夕食の時間を心待ちにしていた。そのざわめきの中、ひときわ目を引く姿があった。

 

ティンクル。

 銀髪が淡い光を受けて揺れ、柔らかな声で後輩に指導をしている。

 

「リオ君、そこは腰が浮いてる。もっと沈んで、地面を蹴るように」

「……あ、はいっ!」

 

ティンクルが軽く背中に手を添えると、リオは慌てて体勢を直す。

「そう、それでいいよ。踏み込みは剣の延長じゃなくて、全身で」

 笑顔と共に放たれる助言は、自然と相手の肩の力を抜かせていた。

 

その様子を少し離れた場所で見ていたブリュノが、腕を組んだまま呟く。

「……まさか三週間でここまで馴染むとはな」

 隣のセラフィナが頷く。

「ほんとね。普通なら衝突があってもおかしくないのに。あの子は一歩引いて、必ず相手を立てる。だからこそすぐに受け入れられたのよ」

 

――――――

 

食堂。訓練を終えた団員たちが席を取り、笑い声が絶えない。

 その一角でリオはまだ興奮気味に語っていた。

「ティンクルさんって、剣のことをすごく分かりやすく教えてくれるんです!」

「おいおい、落ち着け」ブリュノが笑う。

 

「でも……」とリオは視線を落とす。

「なんだか、見てると惹きつけられるっていうか……」

 

その言葉に、ハルトが静かに口を挟んだ。

「リオ。見惚れてるようじゃダメだ」

 

リオが顔を上げると、ハルトは真剣な眼差しを向けていた。

「強さに憧れるのは結構だ。でも、俺たちは血盟騎士団の一員だぞ。先輩の矜持ってやつを忘れるな」

「……は、はい!」リオは慌てて背筋を伸ばした。

 

場が和むようにセラフィナが笑った。

「でも、それだけティンクルが自然に場を引き寄せるってことね。あの子、まるで前からいたみたい」

「だな」ブリュノもうなずく。

 

 

ーーーー

 

 

夕刻の訓練場。

 掛け声と剣戟の音が飛び交い、砂埃が舞う中、団員たちは模擬戦や基礎鍛錬に励んでいた。

 

その端で、ハルトと若い団員が木剣を握ったまま動きを止めていた。

 視線の先には、少し離れた場所でアスナと談笑しているティンクルの姿。

 

「……やっぱり、すごいな」

 若い団員が小声で呟く。

 「ティンクルさんと副団長。並ぶと本当に華がある」

 「お前もそう思うだろ?」

ハルトが半ば頬を赤らめながら相槌を打つ。

 

二人はしばし、訓練を忘れてその光景に見入っていた。

 

――――――

 

 

「……訓練中に、何をしている」

 

背後から低い声が落ちた。

 「ひッ……!」若い団員が肩を震わせ、振り返る。

 

そこには腕を組んだジョンが立っていた。鋭い眼光で二人を射抜く。

 

「さっき言ってた“先輩の矜持”はどうした?」

 「……!」

 ハルトの顔から血の気が引く。

 

ジョンは一歩前へ出ると、淡々と告げた。

 「罰だ。スクワット三百回」

 

「さ、三百!?」若い団員が情けない声を漏らす。

 「先輩が気を抜けば、後輩も崩れる。……違うか?」

 「……っ、いえ。違いません!」

 

二人は青ざめた顔でしゃがみ込み、その場でスクワットを始めた。訓練場の隅で上がる声に、周囲から小さな笑いが漏れる。

 

――――――

 

ティンクルは視線の端でそのやりとりに気づく。

 ジョンがちらりとこちらを振り向き、無言で親指を立てた。

 

――「気づいていたな。新入り、よくやってる」

 

そう告げるような無言のサイン。

 

ティンクルも柔らかく微笑み、同じく親指を立てて応えた。

 

その一瞬のやりとりを誰も気づかないまま、訓練場は再び剣戟の音に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

入団後三週間後 

第三部

 

 

血盟騎士団本部、石壁に囲まれた執務室。

 昼間の喧騒がひととき途絶え、石造りの建物は夜の冷気に沈んでいた。厚い扉を閉じると、広場での訓練の掛け声や武具の打ち合う音は遠のき、代わりに光源結晶の白い光が机上の地図と記録を無機質に照らし出す。

 

ヒースクリフは静かにペンを置いた。その仕草は、書きかけの書類をいったん区切りとする合図でもあり、同時にこれからの会話に意識を集中させるための準備でもあった。

 

「……座りたまえ、アスナ君」

 

低く穏やかな声が室内に落ちる。

 促されて、アスナは一呼吸置いてから椅子に腰を下ろした。普段なら明るく澄んだ眼差しをしている彼女も、この時ばかりは緊張の色を隠せない。光源結晶が放つ冷たい白光に照らされ、彼女の横顔はひどく硬く見えた。

 

厚い石壁に囲まれた執務室は、まるで外界から切り離された小さな檻のようだった。ここでは声が反響し、吐く息すらはっきりと耳に届く。静寂は会話の一語一句を際立たせ、逃げ場をなくす。副団長として数多の作戦会議を仕切ってきたアスナでさえ、胸の奥に冷たい圧を覚える場所だった。

 

 

「ティンクル君は、その後どうだ?」

 

ヒースクリフの言葉は唐突だった。

 だが、唐突さの中にも無駄がない。余計な前置きや情緒を排し、必要な情報を一息で引き出す声音。感情を交えないその響きは、いつだって彼の大きな特徴だった。

 

アスナは姿勢を正し、慎重に答えを選ぶ。

 

「……すっかり馴染んでいます。彼女は一歩引いて先輩を立てますし、決して出しゃばらない。むしろ周囲を立てて場を和ませる。……だから衝突はなく、団員からの好意も集めています」

 

ヒースクリフの瞳は、ただ彼女の言葉を正確に記録するかのように揺らぎなく向けられていた。頷きも、微笑もない。承認も否定もせず、ただ淡々と受け止める。

 アスナは喉に乾きを覚え、無意識に唇を湿らせた。自分の報告が試されているわけではないことを理解していても、この沈黙は心を揺さぶる。

 

「副団長としての評価は理解した」

 短く切り捨てるような言葉のあと、わずかな間が空いた。

「……では、個人としては?」

 

アスナの心臓が跳ねた。

 組織人としての評価ではなく、一人の個人としての意見を問われること。それはヒースクリフとの会話においては稀であり、だからこそ答えに迷う。

 

彼の眼差しは相変わらず揺らぎなく、しかしその奥には「曖昧さを許さない」という無言の圧がある。問いは穏やかだが、答えはごまかせない。アスナは、呼吸をひとつ整え、ゆっくりと口を開いた。

 

「……正直に申し上げれば、焦りがあります」

 

声がわずかに震えた。けれど彼女はそのまま続ける。

「嫉妬……と言っていいかもしれません」

 

 

その言葉を吐いた瞬間、アスナは胸の奥が冷水を浴びせられたように重くなるのを感じた。副団長としてあるまじき感情を、口に出してしまった――。だが、同時に奇妙な安堵もあった。心の奥底に沈めていた泥をすくい上げて晒すことは、痛みであると同時に解放でもある。

 

しかし、目の前の男は微塵も動じない。

 ヒースクリフの表情は変わらず、石像のように冷静だ。軽蔑も、同情も、慰めも浮かばない。あるのはただ、事実を聞き取るという行為のみ。

 

「理由を」

 

短い一語。だが逃げ場のない問いだった。

 

アスナは拳を膝の上で強く握った。指先が震えるのを隠すように。

 

「彼女は……戦場で際立っています。立ち回りが鮮やかで、周囲の視線を一身に集める。……私自身が、置いていかれるように感じる瞬間があるのです」

 

吐き出した言葉は重く、部屋の静けさに沈んでいった。

 アスナは唇を噛む。副団長としての自負はある。だがその誇りと同時に、人間としての感情もある。ティンクルの姿がまぶしく見えるとき、心の奥でどうしようもない劣等感が疼く。

 

ヒースクリフは、静かに息を吐いた。

 それはため息でも、呆れでもない。まるで「想定内だ」と告げるような、均質な呼気だった。

 

「その感覚は自然だ」

 

淡々とした声。肯定でも慰めでもなく、ただ“認定”。

 

「だが、それが組織の判断を曇らせてはならない」

 

石壁に響くその一言は、アスナの胸にずしりと落ちた。

 自然――その言葉は確かに救いだった。だが続く一文は、副団長として背負う重責を改めて突き付ける。個人の感情が自然であることと、それを組織に持ち込むことは別物なのだと。

 

 

アスナは息を吸い込み、心を整えようとした。

 冷たい石壁、白光の光源結晶、ヒースクリフの動かない瞳。そのすべてが彼女を試す秤のように感じられる。

 

自分は副団長だ。感情を持つ一人の人間であると同時に、百を超える団員の前に立つ存在。――この会話で、その境界を見極めなければならない。

 

アスナは浅く頷き、掌に残る汗を拭った。

「……肝に銘じます」

 

ヒースクリフは、机上の地図に視線を落としたまま、次の問いを置く。

 

「では――配置の話だ。君はティンクル君をどこに置くべきだと考える?」

 

アスナは躊躇わなかった。

 

「中衛です。前衛寄り。前線の呼吸を乱さず、側面の芽を摘み、必要な一拍だけ押し戻せる位置」

 

「理由を」

 

 淡々とした促しに、アスナは言葉を積み上げていく。

 

「彼女は“攻めの華やかさ”で誤解されがちですが、真価は別にあります。

 ひとつ、間合いの律速を読む力。前衛の剣が振り切られる手前で、足の角度と肩の開きだけを見て次の拍を決める――あれは連携の軸に向いた能力です。

 ふたつ、側面の芽を摘む執着。敵が回り込む曲線を、最短で“詰み筋”に変える。派手ではないけれど、陣を崩させない支柱になります。

 みっつ、退きの美学。押し時ではなく、退く一拍を迷わない。……勝ち筋を“今は残すだけ”と切り替えられる判断は、中衛でこそ生きます」

 

部屋に短い沈黙が落ちた。光源結晶の冷白が、地図上の境界を鋭く浮かび上がらせる。

 

「妥当だ」

 

 ヒースクリフは視線を上げる。

 

 「多くは“前衛の刃”に憧れて誤置する。だが彼女の最大値はそこではない。――陣形の損耗を最小化し、戦場の温度を一定に保つ恒温器。中衛に置いて、前衛と後衛の熱差を中和するのが最適だ」

 

アスナは小さく息を吐いた。言語化してもらえたことで、胸のどこかに静かな納得が広がる。

 

ヒースクリフは続けた。

「ただし、成立条件がある。前衛が揺らがないことだ。具体的には――君が確固として立っていること」

 

アスナの背筋が自然と伸びる。

「……私、ですか」

 

「そうだ。前衛の“軸”が硬ければ硬いほど、中衛は周波数を合わせやすい。軸がぶれれば、彼女は全体の位相合わせに手を取られ、刃に戻る時間が減る」

 

 ヒースクリフは、指先で地図上の一点を軽く叩いた。

 

 「ティンクル君は、誰とでも適度に親しくなれる。だがある距離を越えると、踏み込みが止まる。人心の“凝集”は得意でも“統合”は長所ではない。部隊をまとめる仕事は、君の方が早く正確だ」

 

言い切り方は冷静で、評価でも否定でもない。ただの事実の配列。

 アスナは、それを胸の中央で受け止めた。

 

「――副団長」

 

 ヒースクリフは呼称で締め直す。

 

「君がすべきことは単純だ。軸として揺れないこと。前衛の速度・角度・声――三つの基準を、誰より先に置くこと。ティンクル君はそれに“間”を足す。ブリュノは“骨”を足す。ハルトは“合図”を足す。セラフィナは“息”を足す。エギルは“回路”を足す。……足し算を先に決めるのが、君の役目だ」

 

アスナは目を閉じ、一拍置いてから頷いた。

「了解しました」

 

ヒースクリフの声はさらに淡くなる。

「感情についても、同じだ。嫉妬は温度だ。高すぎれば燃えるし、低すぎれば凍る。――適温に保て。『負けたくないが、仲間として尊重する』。それだけでよい」

 

アスナの口元に、ごくわずかな笑みが滲む。

「……それなら、維持できます」

 

「維持しなさい」

 短く、終止符を打つように。

 

紙の擦れる音が戻ってくる。ヒースクリフが再び記録に視線を落としたのを合図に、アスナは立ち上がった。

「失礼します」

 

扉に手を掛ける直前、低い声が追う。

「アスナ君」

 

振り返る。

 ヒースクリフは視線を上げずに言った。

「“頼る”と“預ける”は違う。前者は責任の分散、後者は役割の分担だ。次の攻略で間違えるな」

 

胸の内側で、何かがカチリと正しい位置にはまる。

「――はい」

 

扉が静かに閉じる。石の廊下に出た瞬間、冷たい空気が肺を洗った。

 焦りは消えない。だが輪郭を与えられた不安は、もはや得体の知れない闇ではない。名を与えられたものは、管理できる。

 

アスナは歩幅を決める。前衛の軸としての速度。視線の角度。声の高さ。さきほど告げられた三つの基準を、身体に落とし込むように。

 

 

ーーーーー

 

 

 

石の扉が背後で静かに噛み合う。かすかな金属音が廊下へ吸い込まれ、すぐに夜の静けさへと溶けた。

 アスナはしばらく扉に背を預けたまま、ゆっくりと息を吐く。胸の奥に、冷たい水面のような余韻が残っている。ヒースクリフの言葉――均衡、適性、嫉妬を現象として抱くこと――ひとつひとつが、硬質な輪郭のまま思考の上を滑っていった。

 

(私は、揺れている)

 それを否定しないでいられるのは、彼の静かな断言があったからだ。否定ではなく整序。感情は排除する対象ではなく、置き場所を与える対象だ――彼の言葉は、そう背中を押した。

 

廊下の角を曲がると、夜の冷気が頬を撫でた。半ば開いた中庭の扉から、篝火の名残が揺れる。石畳の目地にたまった影が、赤い光にゆっくりと濃淡を変えている。昼間の喧噪を飲み込んだ本部は、今は深く息を潜め、遠い衛兵の靴音だけが律儀に時を刻んでいた。

 

庭へ出る。

 灯りは落とされ、木々の葉は夜露で重く、枝先から滴る音が時おり空気を刺す。ベンチの木肌は冷たいが、座面に残るわずかな温みが、さっきまで誰かがここにいたことを教えてくれた。アスナは隣に人一人分の余白を残して腰を下ろし、首筋に降りる夜の温度を受け入れる。内側のざわめきが、呼吸に合わせて小さくなる。――それでも、消えはしない。

 

足音。

 柔らかく、控えめに石を撫でるような歩幅が、背後から近づいてくる。声をかけられる前から、誰だかは分かっていた。

 

「アスナ」

 名前を呼ぶ音だけで、場の空気が少しだけ明るくなる。振り向けば、湯上がりなのか頬がほんのりと色づいたティンクルが立っていた。銀髪の先がまだ水を含んで重く、肩にかかるところで雫が一つ跳ねる。

 

「どうしたの? 難しい顔してるよ」

 

いつもの調子。柔らかくて、まっすぐで、誰に向けても同じ温度で差し出される声。アスナは一拍遅れて微笑みをつくる。

「ごめんなさい。ちょっと団長に呼ばれていて……考えることが多い話だったの」

 

「ふうん。団長の話って、いつも難しいよね」

 ティンクルは返事のあいだに短く息を笑わせて、アスナの隣へ腰をおろす。距離は近すぎず、遠すぎず。外側のベンチの端に、彼女は自然に半身を預ける。

「でも、アスナが悩んでる顔は似合わないな」

 

「そう見える?」

 問い返す声に自分でもかすかな棘を感じて、アスナは苦笑する。

「……そうね。前に立つ人は、進む顔でいるべき、かしら」

 

「うん。前に立つ人、だね。僕、アスナが先頭にいる背中、好きだよ」

 さらりとした声音。褒め言葉だが、押しつけがましさはない。夜の空気に馴染む体温で落とされる言葉は、受け取る側の照れを先回りして和らげる。

 

風が木立の間を抜けていく。

 篝火の赤が、二人の影を石畳に薄く重ねた。アスナは両手を膝の上に重ね、視線だけを斜めに落とす。指の甲に走る微かな白い傷が、つい先日の訓練の名残であることを思い出させる。

 

「……さっきね、自分の気持ちを『現象』として扱いなさい、って言われたの」

 アスナはゆっくりと言葉を選ぶ。「嫉妬や焦りがあるのは当然。でも、それに判断を乗せるな、って」

 

「団長らしい言い方だね」

 ティンクルは小さく笑い、空を仰ぐ。

「気持ちは消えないし、消しちゃだめだ。だけど、置き場所が分かっていれば、迷子にならない。……そんな感じ、かな」

 

アスナは横目で彼女の横顔を盗み見る。湯上がりの皮膚は夜の光に淡く反射し、濡れた髪に沿って落ちた雫が、顎先で一粒光った。

 この子は時々、大人びた比喩を使う。けれど、言葉の届き方はいつだって優しい。助言というより、肩にそっと羽織らせるショールの感触に近い。

 

「ねえ、ティンクル。あなたは、怖くならない?」

 自分でも意外な質問だった。口にしてから、少しだけ躊躇が遅れてくる。

 

「怖くなるよ」

 ティンクルは即答した。

「怖くて当たり前だよ。僕も、皆も。……でも、怖いって気持ちは、『今ここにいる』っていう確かな手がかりでもあるから」

 

言ってから、彼女はいたずらっぽく目尻を下げる。

「ほら、難しいかな。僕、言い回しがくどいってよく言われるんだ」

 

「いいえ」

 アスナは首を横に振る。「分かりやすいわ。言葉がやさしいの」

 

「やさしい?」

「ええ。誰にでも、同じ温度で届く言い方をするでしょう? あなたが“本当に”やさしいかどうかは別として」

 最後を冗談で少し濁すと、ティンクルは肩を揺らして笑った。

 

「うん。やさしく見えるように、がんばってるのかもね」

「努力なの?」

「努力だよ」

 即答。また少しの間を置いて、彼女は続ける。

「僕が上手にできるのは、たぶん『距離』の測り方。入りすぎないこと。離れすぎないこと。――アスナには、僕が頼ってる距離、分かる?」

 

アスナは一瞬、息を止める。

 頼っている――その言い方に、心の糸の結び目がそっと緩む。

「分かる気がする。あなたは入ってきすぎない。だけど、いつでも手を伸ばせる位置にいてくれる」

 

「それが僕の、いまの上手な在り方なんだと思う」

 ティンクルはベンチの背にもたれ、夜空へ視線を滑らせる。星々はまだ薄く、塔の灯が勝っている。

「前に立つことは、アスナの上手な在り方。僕はその少し後ろで、糸をほどいたり結び直したりするのが得意。……たぶん」

 

アスナは、胸を撫でるような息を吐いた。

 ヒースクリフが語った「適性」の輪郭が、ティンクルの言葉で柔らかく肉付けされていく。中衛。前衛と後衛の橋渡し。退路と攻勢の間の呼吸。――そのどれもが、この子の口から紡がれると、静かな確信に変わる。

 

「ねえ、アスナ」

 呼ばれて顔を向けると、ティンクルの視線がまっすぐに重なる。

「僕、ひとつだけ食べたいものがあるんだ」

 

来た、と思う。場を変える言葉の投げ方が、じょうずだ。

「……なに?」

 

「アスナの手料理」

 飾り気のないその一言に、胸の奥がふっとほどける。言葉の温度を上回る温もりが、変なふうに照れを連れてきて、アスナは思わず顔をそむけた。

 

「もう。冗談は――」

「本当だよ」

 重ねた声は、さっきより少しだけ真剣だ。

「アスナの作った料理、みんなと笑いながら食べたいんだ」

 

“みんなと”。

 たった四文字が、アスナの足元へ静かに灯りを置く。独り善がりではない、輪の中での希望。戦場の栄養でも、配給の効率でもない、“温かい食事”という名のささやかな約束。

 

「……そうね」

 アスナは胸に手を触れ、そのまま膝の上で指を絡める。「考えておくわ――って言うと、あなたはきっと不満ね」

 

「うん。だから、お願い」

「ずるい」

「ずるいよ」

 二人で笑う。夜気が笑い声を薄く運んでいく。

 

しばらく無言で篝火の残り火を眺めた。木炭の奥で、小さな赤がまだ生きている。灰の皮膜がふと崩れて、内側の橙が一瞬だけ明滅する。

 アスナはその光を見つめながら、さっきまで胸の底で硬く居座っていた影が、輪郭を失っていくのを感じていた。嫉妬も焦りも消えはしない。けれど、置き場所ができると、重さは変わる。持ち運べる荷物になる。

 

「……ねえ、ティンクル」

「なに?」

「妹って、こんな感じなのかしら」

 口にしてから、少しだけ頬が熱くなる。ティンクルは目を瞬き、それから照れ隠しのない笑顔を見せた。

 

「うん。じゃあ僕、アスナのお姉ちゃんに甘えていい?」

「だめ」

「えー、厳しい」

「姉っていうのはね、甘やかすばかりじゃないの」

 

「了解。じゃあ、頼りにする半分、甘える四分の一、からかう四分の一」

「配分めちゃくちゃね」

「大丈夫、僕は計算得意だから」

「そこは信用しないでおくわ」

 

言葉のキャッチボールは軽く、そして心地よい。投げられた球をそのまま返すのではなく、手の中で一度温めてから返すみたいなやり取り。アスナは、自分の口角が気づかないうちに上がっているのを知る。

 

「約束、する?」

 ティンクルがもう一度、まっすぐに問う。

「アスナの手料理」

 

「……する」

 アスナはうなずいた。「みんなで食べられるものを、ちゃんと作る」

 

「やった」

 ティンクルは小さく拳を握り、いたずらっぽく笑う。「僕、配膳手伝うから。運ぶの、得意だよ」

 

「落とさないでね」

「落とさないよ。たぶん」

 

「たぶんを外して」

「外せないなぁ」

「もう」

 

笑いが重なる。

 風が少し強くなり、葉擦れの音が庭の隅から隅へ走った。石畳の上に浮かぶ二つの影が、重なっては離れる。篝火の赤はだいぶ浅くなったが、代わりに塔の上の光が夜を照らし始めている。

 

立ち上がる前に、アスナはベンチの背へ手を置き、夜空に視線を流した。

(私の居場所。私の役割。私の歩幅)

 それらは今、はっきりと輪郭を持ち始めている。前に立つ者としての緊張は残る。けれど、その緊張は、背筋を伸ばすための細い糸に変わった。

 

「そろそろ戻ろうか」

「うん。明日の朝、また訓練あるし」

 

二人で立ち上がる。石畳がわずかに鳴り、靴底が夜の湿りを拾う。

 歩き出すと、ティンクルが半歩だけ後ろに下がった。揃えた歩幅のまま、あえて一段引いて並ぶ位置――中衛の呼吸。

 

アスナは振り返らない。けれど、背中に届く気配が心強い。

 妹、という言葉は少し幼いかもしれない。けれど、この温度は確かだ。頼れる仲間、信じられる背中。手を伸ばせば届く距離にいることの安心。

 

扉の前で短く挨拶を交わす。

「おやすみ、アスナ」

「おやすみ、ティンクル」

 

重い扉が静かに開き、廊下の灯が二人を細く切り取る。

 夜の空気が背後に残り、内側の温度が頬へ戻ってくる。アスナは一度だけ振り返ろうとしてやめ、まっすぐ自室へと歩を運んだ。

 

胸の奥には、まだ小さなざわめきがある。だが、それはもう居場所を得た。

 ――温かい食卓の約束。

 それだけのことが、こんなにも軽やかに自分を前へ押すのだと、アスナは静かに驚きながら笑った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。