ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
翌日。
血盟騎士団本部の会議室には、まだ昨日の戦闘の熱が残っていた。大広間の長卓を囲む赤白の団服たちは、肩の重さを隠さずに腰掛けている。壁際の蝋燭が明かりを投げ、窓の外には濃い雲が塔の壁を擦っていた。
ヒースクリフが入室すると、空気が自然に収束する。重い十字盾を壁に立てかけ、彼は低い声を落とした。
「――諸君。報告会を始める前に、まず一言だ。……アスナ君」
呼ばれた名に、アスナはすぐに立ち上がる。姿勢はまっすぐ、しかし顔にはわずかに疲労の影が残っていた。
「君の迅速な判断の……礼を言う」
短い言葉。しかし、その場にいる誰もが重みを理解した。
「いえ。……みんなの力があったからです」
アスナはそう答える。声は震えない。だが、言葉の奥には昨夜の緊張の余韻がまだ沈んでいた。
「そ、そうですよ!」
声をあげたのは中堅の団員の一人だった。戦闘で前列に立っていた若い男で、興奮を抑えきれないらしく、続けざまに言葉を吐き出す。
「撤退に導く姿、あれは……すごかった! さすが《閃光》って思いました!」
彼の声が部屋の隅々まで響く。数名が頷き、数名が苦笑を浮かべる。だが当人は止まらなかった。
「それに! 久々に団長が前線で戦っている姿も見れましたし……! あれだけの数を相手に、かすり傷ひとつなしで、しかも指揮を飛ばしながら……! まさに《神聖剣》――」
その瞬間。
ヒースクリフの真鍮色の瞳が、彼を一瞥した。
若い団員の言葉が途切れた。喉に何かを押し込まれたように声が出なくなり、慌てて背筋を伸ばす。
「……す、すみません……!」
空気が凍る前に、ジョンが重い声で助け船を出す。
「団長は個人でなく、組織を率いて戦ってる。俺たちもその中だ。忘れちゃいけねぇ」
「は、はい!」
若い団員は真っ赤になりながら頭を下げる。場にわずかな笑いが走り、空気は軟化した。
その間、黒衣の剣士――キリトは黙っていた。ただ心の中で、誰よりも強く思っていた。
(……確かに。あの人は、戦いながら全体に指示を飛ばしていた。……あんな芸当、俺には絶対にできない。あれが――《神聖剣》の力か)
その背後で、シリカが小さく肩をすくめる。まだ年若い彼女にとっても、昨日の戦場は衝撃だったのだ。だが、今はただ耳を澄ませている。
ヒースクリフは卓上に視線を戻し、再び声を落とした。
「……さて。アスナ君。なぜ撤退を判断できたのか。説明してもらおう」
視線が一点に集まる。アスナは一呼吸置き、静かに口を開いた。
「……まず、敵の動きに違和感を覚えました。数が増えるのは予測の範囲内です。ですが……あまりにも統率されすぎていた」
彼女は少し目を伏せ、記憶をたぐる。
「まるで退路を塞ぐために、こちらを誘い込んでいるように……そう感じました」
言葉を区切り、彼女はティンクルを一瞥する。
「実は戦闘中、ティンクルとも目を合わせました。あの時、彼女も同じことに気づいていると分かった。だから……自分の直感に確信を持てたんです」
そして最後に、小さく息を整える。
「さらに……これは私見になりますが」
「構わん。言いたまえ」ヒースクリフの声は冷静だった。
「団長とティンクルの……チェスの光景が、頭をよぎりました」
その場に、重い沈黙が落ちる。
ティンクルは微笑を崩さない。灰色の瞳は、まるで今の言葉すら統計の一部に記録しているように揺らがない。
数名の幹部がうなずき、数名は目を伏せた。ブリュノは顎に手をやって黙り込む。
その時、ジョンが不意に口を開いた。
「……団長、ティンクル。すまねぇ」
アスナが目を丸くする。ヒースクリフは僅かに眉を上げただけだった。
「前に俺は、人前でチェスをすることを咎めたが……昨日の戦場は、まさにあの盤だった。……すまん」
その素直さに、場の空気が揺れた。ティンクルは淡く笑みを返すだけで何も言わない。
ヒースクリフは首を横に振った。
「謝る必要はない、ジョン。あれは組織を守るための言葉だ」
ジョンは深く頷き、席へと戻った。
やがて団長は低く告げる。
「直感は無碍にできない。君ほど優秀な人間なら、なおさらだ。大事にしなさい」
アスナは小さく目を伏せ、「はい」と答えた。その声に、ほんの一瞬だけ柔らかさが戻る。
ヒースクリフは卓を指先で叩いた。
「さて。今回の作戦について、皆の意見を聞こう」
長卓の上に置かれた地図の上で、黒い石駒が冷たく光っていた。昨日の戦場をなぞるように、いくつもの退路の線が赤く記されている。誰もがそこを見つめていた。
ヒースクリフが指先で駒を一つ弾き、低く声を落とす。
「――今回の戦闘で浮き彫りになった大きな問題は、三つだ」
赤白の団員たちの背筋が、自然に伸びた。
「一つ、退却路の確保。
二つ、命令から行動までの時間差。
三つ、物量を押し切る火力の不足。
順に検討する」
ヒースクリフの声は淡々としていたが、誰もがその一言に息を呑む。
――――
「まず、退却路だ。昨日の戦闘で、データは十分に取れた。敵は退路を誘い込み、塞ぐための動きをしていた。だが――パターン化できる」
ヒースクリフの瞳は真鍮色に冷たく光る。
「分析し、解析し、敵の全ての“打ち手”を最後まで読み切ればいい。」
若い団員のひとり、リオが思わず口を開く。
「で、でも……最後まで読むなんて、不可能じゃ……」
ヒースクリフは彼を一瞥した。
「リオ君。私は今まで、一度もチェスで負けたことはない。人間にも、データにも」
室内に沈黙が走った。
リオは絶句し、喉を動かしても声にならない。
ティンクルは隣で、いつものように微笑みを浮かべる。だが灰色の瞳は、冷静にその言葉を記録するだけ。
ジョンがふっと鼻を鳴らし、ブリュノは顎をさすりながら意味深に頷いた。
「次に、命令と行動の時間差だ」
ヒースクリフが卓を軽く叩くと、寄生体の小石が散らばる。
「寄生体は《グローム・オラクル》の命令を受けた瞬間、体を動かしていた。まるで手足の延長だ。それに対し、我々は“指揮を飛ばし→伝達し→動く”。わずかだが確実に遅い。積み重なれば致命的だ」
沈黙のあと、ハルトが声を上げる。
「確かに……盾を動かす時、半歩遅れる感覚がありました。自分が動くより、声を聞いてから動く一拍が怖い」
ジョンも腕を組んでうなずく。
「現場の感覚としてはその通りだな。盾隊は特に“退く合図”が遅れれば、列全体が詰まる」
アスナが静かに補足する。
「前衛も同じです。押し込んでいる時は気にならない。でも、一瞬の遅れが“遅刻”になる。その遅刻が、命を奪います」
セラフィナが書類をめくりながら言葉を足す。
「心理的な負荷も大きいです。“遅れるかもしれない”という恐怖は、さらに体を硬くします。硬直すればまた遅れる。その悪循環が退路を詰まらせる原因です」
ブリュノが唸るように言った。
「つまり、敵の統率が速すぎるだけじゃなく、俺たち自身の“遅れ”が拍車をかけてるってことだ」
ヒースクリフが視線を巡らせる。
「そして最後。……火力だ」
その言葉に、空気が一段と重くなった。
幹部の一人が深く頷き、声を上げる。
「これが最大の問題でしょう。血盟騎士団の強みは部隊全体の防御力、継戦能力、部隊生存率、情報処理、後方支援。火力が低いわけではない……むしろ並のギルドよりはるかに上だ。だが――物量を押し切るには不利です」
ブリュノが低く続ける。
「昨日もそうだ。敵の増援を押し返しはしたが、“押し切る”には至らなかった。」
アスナが口を開いた。
「しかし、火力に偏りすぎれば、退却路を確保できなくなる。……前衛で実感しました。押すだけでは勝てない」
視線が自然にティンクルへ集まる。
彼女は微笑みを保ったまま、静かに言う。
「僕が血盟騎士団入って、ある程度は改善された。でも……統計的に見ても、まだ足りない。物量戦では火力不足が数字に出てしまう」
短い言葉だったが、その場の全員が重く受け止めた。
――――
長卓に沈黙が落ちる。ヒースクリフが指を組み、真鍮色の瞳で全員を見渡した。
「――順に対策を立てていく。まず一つ。敵の情報伝達速度の計算だ。出現位置、移動速度、配置、その他の挙動。これは次戦までに解析する。……情報処理班、そしてティンクル君。任せる」
「了解」
ティンクルは穏やかに答え、灰色の瞳を瞬かせる。
「データの欠損率は低い。次は数字で答えを出せるはずです」
「頼んだぞ」
団長の声に団員たちが一斉に頷く。
「そして二つ目。命令と行動の時間差だ」
ヒースクリフは淡々と続ける。
「声の指示以外の方法を強化する。前回、ティンクル君が使った床打ちのようにだ。今後の訓練は部隊連携を主軸にする。ただし、過信はするな。最後は声を使う勇気を忘れるな」
「はい!」
数人が即座に返答し、紙に走り書きを取った。
「一と二を対策した場合の行動は、後日改めて組み立てる。――さて」
ヒースクリフは一拍置き、低く言い直した。
「残るは三つ目。……火力不足だ」
⸻
「火力は、やはり前衛を増やすべきでしょうね」
ブリュノが口を開いた。
「盾の隊形を厚くし、殲滅力を前に寄せる。それが一番効果的です」
「後衛魔法は多少減らして構わないかと」
魔法部隊の隊長が口を添える。
「あの速度の前では、詠唱に隙が多すぎます。昨日も後半戦は“撃つ前に潰される”が多かった」
「前を増やせば、後ろに回り込む敵も減る」
ジョンが腕を組んで頷く。
「退路に向かう連中も減らせる。退却の負担も下がる」
「……ただ」
アスナが静かに言葉を挟んだ。
「問題は、その“要”になる人。前衛の人数を増やすだけじゃ意味がない。全体の軸がいなければ」
「ティンクルをアスナさんの補佐から外し、前衛に配置するのは?」
幹部の一人が提案すると、すぐにアスナが首を振った。
「駄目です。私の死角が増える。火力も落ちる。……それに、部隊の生存率が下がる」
ティンクルはただ黙って頷いた。
「では団長が前線に――」
「それは駄目だ」ジョンが低く遮った。
「火力の問題は解決できても、退路確保に対応できない。指揮系統も落ちる」
「外部のギルドは?」
別の声が上がる。
「適性者はいる。でも――」アスナが静かに返す。
「連携に問題がある。私の速度について来られる保証がない。それに、すぐには信頼を築けない」
ジョンがうなずいた。
「命令に迷う奴が一人でもいれば、それで詰む。外から引っ張るのは現実的じゃねぇな」⸻
空気が重く沈む。
“火力に優れ、機動力があり、アスナと連携できる者”――その条件を満たす人間は?
「…………」
沈黙の中、ヒースクリフがふいに口を開いた。
「外の目も聞こう。キリト君。シリカ君。意見を」
「わ、私ですか……?」
シリカが肩をびくりと跳ねさせる。
ヒースクリフは穏やかに頷く。
少女は少し考え込み、言葉を選ぶように言った。
「……前衛が増えれば、後衛の負担は軽くなります。でも、その人は絶対に強くないといけません。倒れたら意味がないですから」
「正しい」ヒースクリフが肯定する。
キリトは腕を組み、しばし黙っていた。
「……結局、アスナの横に並ぶ誰かが必要ってことだろ」
「そうだ」ブリュノが短く返す。
「そこが埋まらなきゃ、全部が崩れる」
その時、誰からともなく自然に視線が動いた。
一人、また一人。
赤白の幹部たちが、同じ方向を向き始める。
――黒衣の剣士。
「……ん?」
キリトが困惑の表情を浮かべる。
視線が、重く突き刺さったまま動かない。
「………………ん?」
黒衣の少年の声が、石壁に乾いたように響いた。