ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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第23話  黄昏の約束

 

 

 

 

夕刻。

 主街区の西縁は、塔壁に沈む光で長い影がのびていた。石畳は日中の熱をわずかに握りしめ、風はそれを指先でなぞるみたいに奪っていく。喧噪の中心である本部の中庭からは少し外れた、古い噴水の縁——いまは水が止められ、皿の底に薄暮の色だけが溜まっている。

 

キリトはそこに腰をおろし、黒い外套の裾を片手でまとめた。

 目は遠くの灯りを見ているのに、視線の焦点はどこにも結ばれていない。耳に入るのは、鍛冶場の火が時おり吐く息と、遅い時間に走る連絡員の足音。いつもなら落ち着くはずの静けさが、今日は少しだけ形の悪い影を作っている。

 

(……受けた、か)

 さっきの会議室での視線。誰が言葉にしなくても、答えはひとつだった。

 火力。機動。連携。埋めるべき穴に、黒衣はちょうどいい形をしているらしい。

 わかってる。わかってるさ。

 

背後の石を踏む、軽い足音。気配を隠そうとしていない。

 キリトは首だけで振り向く前に、相手の呼吸で誰かを察していた。

 

「——ここにいたのね」

 

アスナが日の名残りを背に立っていた。赤白の団服の肩章が薄闇に淡く浮かび、金の留め具が最後の光をひとつ弾く。いつものように姿勢は凛として、でも声には少しだけ昼の疲れが混じっている。

 

「副団長さまの見回りか?」

 キリトは噴水の縁を半分譲るように身をずらした。

 

「見回り半分、……お礼半分かな」

 アスナは隣に腰を下ろす。石の冷たさに肩が小さく震え、それから息を整えた。

「さっきは、ありがとう。受けてくれて」

 

「ん? あぁ」

 キリトは肩をすくめる。

「普段から勝手に出入りさせてもらってるし、世話にもなってるし。……それに」

 

言葉を継ぐ前に、風が一度入れ替わった。遠くで鐘がひとつ。

 アスナが横目で促す。

 

「それに?」

 

「——あの敵の量、さ。個で殴り合うゲームじゃないなって。力を合わせないと、突破は厳しい」

 

アスナは口角をやわらかく上げた。

「うん、正直に言ってくれて嬉しい」

 

少し間が空く。石畳の隙間に、小さな雑草が夕闇を吸っている。

 アスナは両手を膝の上で組み直し、語尾を選ぶようにゆっくり話し始めた。

 

「副団長としてね、キリト君が一緒に来てくれるの、心強い。ほんとうに」

「でも?」

 キリトが先に言って、アスナが苦笑する。

 

「でも」

 彼女は小さくうなずいた。

「こんなことを言ったら、副団長失格なのかもしれないけど……無茶はしてほしくないの。あなたが前に出る距離、昔より少し“伸びてる”」

 

キリトは目を細める。

「……よく見てるなぁ」

 

「何年一緒に戦ってると思ってるの」

 アスナの声が、ほんの少しだけ弾んだ。

「ね、キリト君。償いとか、背負うとか……もし、あの頃のことを引きずってるなら、私は——」

 

言葉が細く途切れる。

 噴水の皿に落ちた光が、波紋にもならずに消えていった。

 

キリトは視線を空へ持ち上げ、答えを探すみたいにゆっくり息を吐いた。

「正直に言うと……不安なんだ」

 

アスナが横を向く。

「不安?」

 

「あの時みたいにさ、本気で命の危機って瞬間に。怖気づいて、足が止まるんじゃないかって」

 言いながら、キリトは掌をひらく。指が一瞬だけ強張って、すぐ平らに戻る。

「でも、引きずってるとか、償いとか……そういう言葉よりも」

 

喉に引っかかる小さな棘を、言葉が越えていく。

「周りのみんなを守りたいって気持ちの方が、ずっと強い。……それは嘘じゃない」

 

アスナは目を伏せ、長い睫毛の影を頬に落とした。

 塔の影がもう一段深くなる。二人の間に置かれた沈黙は、重いけれど居心地は悪くない。風が運ぶ鉄と油の匂いの向こうで、本部の夜番の交代が行われている。

 

「そっか」

 アスナは短くそう言って、顔を上げる。色の戻った瞳が、まっすぐキリトを捉えた。

「じゃあ、指揮は任せて。あなたは戦闘だけに集中して。……無理だと思ったら、すぐ下がること。約束」

 

キリトは片手を挙げ、いつもの軽さにほんの少しの誠実を混ぜる。

「わかった。約束する」

 

「うん」

 アスナは安堵と決意をごく薄く同居させて、短くうなずいた。

 

二人の視線が、同時に主街区の空へ流れる。

 塔の内側に仕込まれた街灯がひとつ、またひとつと灯り、店の暖簾が軋む。遠くの屋台から、出汁とソースの匂いが紛れ込んでくる。戦いの話から日常の話へ、街は自然に喋る話題を変えていく。

 

キリトが肩の力を抜いた。

「なぁ、アスナ」

 

「なに?」

 

「今晩、飯——作ってくれよ」

 子どものような、でも長い戦いの合間にしか見せない笑い方で言う。

 

アスナは一拍おいて、ふっと笑った。

「……ふふ。わかった」

 

「やった」

「代わりに、皿洗いは全部ね」

「戦場より過酷じゃないか?」

「甘えないの」

 

二人は立ち上がる。噴水の縁に残った体温が、もう夜の側へと流れ始めている。

 アスナが先に歩き出し、キリトが半歩後ろを並ぶ。石畳に二人分の足音が交互に落ちて、角を曲がる頃には、さっきまでの影の形がどこかへ消えていた。

 

背後で、止められていた噴水が小さくひと鳴りしたような気がした。

 気のせいだ。けれど、そんな気のせいが——黄昏から夜への境目に、少しだけ灯りを足してくれる。

 

 

 

 

 

 

 

――――

 

 

早朝。

 霧の残る訓練場はまだ静まり返っていた。砂地に立つ二人の影だけが、朝焼けの光を細く伸ばしている。

 

「……やっぱり反応速度がすごいね、キリトは」

 直剣を軽く振り払いながら、ティンクルが言った。氷のように冷たい灰色の瞳は、それでいて楽しげな光を宿している。

 

「そっちこそ、フェイントの種類多すぎてさ。目が追いつかない」

 キリトは黒衣を揺らし、肩で息を整える。互いに既に何度も打ち合っていた。砂に刻まれた踏み跡は蜘蛛の巣のように入り乱れ、訓練の濃度を物語っていた。

 

ティンクルは剣を収めながら軽く笑った。

「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいよ。――じゃあ次は、歩法の崩し合いにしようか」

 

応じる前に、背後から声が割って入る。

 

「――おはよう、ティンクル君。キリト君」

 

低く、よく通る声。十字の盾を背にしたヒースクリフが、朝の光を遮る。

 

「ヒースクリフ団長……!」

 ティンクルが驚きと共に姿勢を正す。

 

「早いですね」

 キリトも剣を下げ、苦笑交じりに言った。

 

「君たちこそだ。どうやら熱心にやっていたようだね」

 

ヒースクリフは歩を進め、二人の間に立った。表情は柔和。だがその瞳だけが鋭く、すべてを見透かしているようだった。

 

「俺が無理を言って付き合ってもらってるんですよ」

 キリトは肩をすくめる。

「みんなの癖とかスタイルとか、もっと理解しておきたくて。今までは外部の協力者だった。でも今回は、作戦を共にするから」

 

「ふむ」

 ヒースクリフは短く声を漏らした。

 

「ジョンやブリュノとは明日手合わせの予定です。今日の昼間はリオと一緒に。ひとりずつでもいいから、確かめておきたいんです」

 

ティンクルがからかうように口を挟む。

「へぇ……見かけによらず、真面目なんだねキリトは」

 

「おいおい。俺ほど真面目な男はいないぜ」

 キリトが鼻を鳴らす。

 

「ふふ。そういうことにしておくよ」

 ティンクルは肩を揺らし、小さく笑った。

 

そのやり取りを見ながら、ヒースクリフは顎に手を当てる。

「部隊の仲間の実力を正確に把握する。……大切なことだ。少しの判断ミスが、取り返しのつかない結果になる」

 

「ええ、全く」

 キリトが即座に応じる。

 

ヒースクリフは数歩、砂を踏みしめて前に出た。

「ならば、提案がある」

 

「?」

 

「私と――決闘(デュエル)したまえ」

 

空気が止まった。

 ティンクルの瞳が、わずかに大きく開かれる。

 

「……え?」

 キリトの口から、素っ頓狂な声が漏れる。

 

ヒースクリフの真鍮色の瞳が、朝陽を映した。

「今までと違い、私は君の命を預かる身となる。その力、正確に知る必要がある」

 

短い沈黙。

 次いで、キリトの口元がにやりと上がる。

 

「……そうですね。俺も正直、あんたとは戦ってみたいと思ってた」

 

「では、話が早い」

 

ティンクルは前に出て、二人の間に立った。

「じゃあ僕が立会人になるよ。制限時間は10分。体力ゲージが尽きるか、時間切れなら残りの多い方が勝ち。……それでいい?」

 

「構わん」

「いいぜ」

 

ティンクルが腕を上げ、システムに登録を送る。目の前に淡い光のカウントが浮かび上がった。

 

「――10、9、8……」

 

剣を抜く音。

 キリトは黒剣と透明に近い緑剣――エリュシデータとダークリパルサーを持ち、腰を落とす。ヒースクリフは十字盾を正面に構え、直剣を静かに引いた。

 

「遠慮はいらん。君の力を見せてくれ」

「そっちこそ」

 

「……3、2、1――」

 

カウントゼロ。

 

最初に飛び出したのはキリトだった。砂を蹴り、一直線に踏み込む。黒剣が風を裂き、盾の角を狙う。

 

ヒースクリフは一歩も退かず、十字盾を傾けた。鋼鉄同士が激しく噛み合い、砂が爆ぜる。

 

「素晴らしい反応速度だ」

「そっちこそ……硬すぎるぜ!」

 

二人の剣と盾が火花を散らす。

 キリトは角度を変えて斬り上げ、ヒースクリフは盾の縁で受け流す。その瞬間にはすでに逆袈裟が走り、ヒースクリフの剣が迎え撃つ。

 

ティンクルは息を呑んだ。

(速い……!いや、速さじゃない。軌道を読む“精度”が常軌を逸してる)

 

砂上で二人の影が交差し、火花が弧を描いた。

 剣戟の音は重なり合い、まるで戦場の合唱のように訓練場を満たしていく。

 

黒剣と緑剣が火花を散らす。

 踏み込みと同時に振り抜かれた一撃を、ヒースクリフはまるで予見していたかのように盾で受け止めていた。衝撃が訓練場の砂を震わせ、互いの靴底がめり込む。

 

「ぐっ……!」

 押し返しながら、キリトはすぐさま二刀を交差させる。盾の隙間を狙って、細かく速い連撃を畳み掛ける。

 

ヒースクリフの盾が音を立て、角度をわずかにずらすだけでその全てを受け流す。無理に弾き飛ばすのではない。流れるように、予めそこにいたかのように、刃を受け止める。

 

(……本当に、全部読まれてる!)

 キリトは一瞬だけ歯を食いしばる。

 速さで勝っているはずなのに、どの一撃も決定打にならない。いや、速さすら吸収されているようだ。

 

ティンクルの灰色の瞳が鋭く揺れる。

(キリトの剣速は確かに群を抜いてる。でも――団長は一手先を“知っている”。反応じゃなく、“予測”で捌いてる……!)

 

黒剣が斜めに振り下ろされる。ヒースクリフは盾で受け流しながら、逆の手の直剣を突き込む。

 刹那、キリトは二刀を交差させて強引に受け止める。火花が弾け、両者の顔が間近に迫る。

 

「……やっぱり化け物だな、あんた」

「ほう。君にそう言わせるとは、光栄だ」

 

互いに笑みを浮かべながらも、その瞳には一切の緩みがない。

 

次の瞬間、ヒースクリフの十字盾を淡い光が包んだ。

「――《神聖剣》」

 

盾の縁が金色に輝き、そこからまるで結界のような光が広がる。

 

「来い。二刀流の力を」

 

挑発に近い静かな声。

 キリトの口角がさらに上がる。

 

「望むところだ――!」

 

二刀が交錯する。

 まるで嵐が訓練場に吹き荒れるように、斬撃の連打が迸った。

 

スターバースト・ストリーム――。

 キリトの代名詞とも言える連撃スキルが発動する。

 

連撃、連撃、連撃。

 音速に迫る剣速がヒースクリフへ殺到し、訓練場の砂が爆ぜるように舞い上がる。

 

だが――その全てを、十字盾が捉えていた。

 

「なっ……!」

 

ヒースクリフの姿は、光の奔流の中心にありながら、一歩も退かない。

 金色の輝きが、まるで大地に根を張るように揺るがず、剣を、刃を、突きを受け止める。

 

ティンクルが目を見開く。

(スターバーストを……防ぎ切った!?)

 

残り数秒。キリトは全身の力を振り絞り、最後の二撃を叩き込む。

 しかしその瞬間、ヒースクリフの盾が僅かに傾き、反動を殺すように角度を変えた。

 黒剣と緑剣の軌道が、霧散するように弾かれた。

 

砂煙が二人を包み込む。

 

数拍の沈黙。

 

やがて煙の中から、低い声が響いた。

「……見事だ。だが――まだ足りない」

 

煙が晴れ、ヒースクリフが立っていた。体力ゲージの減りは、ほんの僅か。

 一方のキリトは肩で荒く息をつきながら、二刀を構え直していた。

 

(……化け物。これを突破しないと、勝ちはない)

 

互いの瞳が、再び火花を散らした。

 

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