ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
夕刻。
主街区の西縁は、塔壁に沈む光で長い影がのびていた。石畳は日中の熱をわずかに握りしめ、風はそれを指先でなぞるみたいに奪っていく。喧噪の中心である本部の中庭からは少し外れた、古い噴水の縁——いまは水が止められ、皿の底に薄暮の色だけが溜まっている。
キリトはそこに腰をおろし、黒い外套の裾を片手でまとめた。
目は遠くの灯りを見ているのに、視線の焦点はどこにも結ばれていない。耳に入るのは、鍛冶場の火が時おり吐く息と、遅い時間に走る連絡員の足音。いつもなら落ち着くはずの静けさが、今日は少しだけ形の悪い影を作っている。
(……受けた、か)
さっきの会議室での視線。誰が言葉にしなくても、答えはひとつだった。
火力。機動。連携。埋めるべき穴に、黒衣はちょうどいい形をしているらしい。
わかってる。わかってるさ。
背後の石を踏む、軽い足音。気配を隠そうとしていない。
キリトは首だけで振り向く前に、相手の呼吸で誰かを察していた。
「——ここにいたのね」
アスナが日の名残りを背に立っていた。赤白の団服の肩章が薄闇に淡く浮かび、金の留め具が最後の光をひとつ弾く。いつものように姿勢は凛として、でも声には少しだけ昼の疲れが混じっている。
「副団長さまの見回りか?」
キリトは噴水の縁を半分譲るように身をずらした。
「見回り半分、……お礼半分かな」
アスナは隣に腰を下ろす。石の冷たさに肩が小さく震え、それから息を整えた。
「さっきは、ありがとう。受けてくれて」
「ん? あぁ」
キリトは肩をすくめる。
「普段から勝手に出入りさせてもらってるし、世話にもなってるし。……それに」
言葉を継ぐ前に、風が一度入れ替わった。遠くで鐘がひとつ。
アスナが横目で促す。
「それに?」
「——あの敵の量、さ。個で殴り合うゲームじゃないなって。力を合わせないと、突破は厳しい」
アスナは口角をやわらかく上げた。
「うん、正直に言ってくれて嬉しい」
少し間が空く。石畳の隙間に、小さな雑草が夕闇を吸っている。
アスナは両手を膝の上で組み直し、語尾を選ぶようにゆっくり話し始めた。
「副団長としてね、キリト君が一緒に来てくれるの、心強い。ほんとうに」
「でも?」
キリトが先に言って、アスナが苦笑する。
「でも」
彼女は小さくうなずいた。
「こんなことを言ったら、副団長失格なのかもしれないけど……無茶はしてほしくないの。あなたが前に出る距離、昔より少し“伸びてる”」
キリトは目を細める。
「……よく見てるなぁ」
「何年一緒に戦ってると思ってるの」
アスナの声が、ほんの少しだけ弾んだ。
「ね、キリト君。償いとか、背負うとか……もし、あの頃のことを引きずってるなら、私は——」
言葉が細く途切れる。
噴水の皿に落ちた光が、波紋にもならずに消えていった。
キリトは視線を空へ持ち上げ、答えを探すみたいにゆっくり息を吐いた。
「正直に言うと……不安なんだ」
アスナが横を向く。
「不安?」
「あの時みたいにさ、本気で命の危機って瞬間に。怖気づいて、足が止まるんじゃないかって」
言いながら、キリトは掌をひらく。指が一瞬だけ強張って、すぐ平らに戻る。
「でも、引きずってるとか、償いとか……そういう言葉よりも」
喉に引っかかる小さな棘を、言葉が越えていく。
「周りのみんなを守りたいって気持ちの方が、ずっと強い。……それは嘘じゃない」
アスナは目を伏せ、長い睫毛の影を頬に落とした。
塔の影がもう一段深くなる。二人の間に置かれた沈黙は、重いけれど居心地は悪くない。風が運ぶ鉄と油の匂いの向こうで、本部の夜番の交代が行われている。
「そっか」
アスナは短くそう言って、顔を上げる。色の戻った瞳が、まっすぐキリトを捉えた。
「じゃあ、指揮は任せて。あなたは戦闘だけに集中して。……無理だと思ったら、すぐ下がること。約束」
キリトは片手を挙げ、いつもの軽さにほんの少しの誠実を混ぜる。
「わかった。約束する」
「うん」
アスナは安堵と決意をごく薄く同居させて、短くうなずいた。
二人の視線が、同時に主街区の空へ流れる。
塔の内側に仕込まれた街灯がひとつ、またひとつと灯り、店の暖簾が軋む。遠くの屋台から、出汁とソースの匂いが紛れ込んでくる。戦いの話から日常の話へ、街は自然に喋る話題を変えていく。
キリトが肩の力を抜いた。
「なぁ、アスナ」
「なに?」
「今晩、飯——作ってくれよ」
子どものような、でも長い戦いの合間にしか見せない笑い方で言う。
アスナは一拍おいて、ふっと笑った。
「……ふふ。わかった」
「やった」
「代わりに、皿洗いは全部ね」
「戦場より過酷じゃないか?」
「甘えないの」
二人は立ち上がる。噴水の縁に残った体温が、もう夜の側へと流れ始めている。
アスナが先に歩き出し、キリトが半歩後ろを並ぶ。石畳に二人分の足音が交互に落ちて、角を曲がる頃には、さっきまでの影の形がどこかへ消えていた。
背後で、止められていた噴水が小さくひと鳴りしたような気がした。
気のせいだ。けれど、そんな気のせいが——黄昏から夜への境目に、少しだけ灯りを足してくれる。
――――
早朝。
霧の残る訓練場はまだ静まり返っていた。砂地に立つ二人の影だけが、朝焼けの光を細く伸ばしている。
「……やっぱり反応速度がすごいね、キリトは」
直剣を軽く振り払いながら、ティンクルが言った。氷のように冷たい灰色の瞳は、それでいて楽しげな光を宿している。
「そっちこそ、フェイントの種類多すぎてさ。目が追いつかない」
キリトは黒衣を揺らし、肩で息を整える。互いに既に何度も打ち合っていた。砂に刻まれた踏み跡は蜘蛛の巣のように入り乱れ、訓練の濃度を物語っていた。
ティンクルは剣を収めながら軽く笑った。
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいよ。――じゃあ次は、歩法の崩し合いにしようか」
応じる前に、背後から声が割って入る。
「――おはよう、ティンクル君。キリト君」
低く、よく通る声。十字の盾を背にしたヒースクリフが、朝の光を遮る。
「ヒースクリフ団長……!」
ティンクルが驚きと共に姿勢を正す。
「早いですね」
キリトも剣を下げ、苦笑交じりに言った。
「君たちこそだ。どうやら熱心にやっていたようだね」
ヒースクリフは歩を進め、二人の間に立った。表情は柔和。だがその瞳だけが鋭く、すべてを見透かしているようだった。
「俺が無理を言って付き合ってもらってるんですよ」
キリトは肩をすくめる。
「みんなの癖とかスタイルとか、もっと理解しておきたくて。今までは外部の協力者だった。でも今回は、作戦を共にするから」
「ふむ」
ヒースクリフは短く声を漏らした。
「ジョンやブリュノとは明日手合わせの予定です。今日の昼間はリオと一緒に。ひとりずつでもいいから、確かめておきたいんです」
ティンクルがからかうように口を挟む。
「へぇ……見かけによらず、真面目なんだねキリトは」
「おいおい。俺ほど真面目な男はいないぜ」
キリトが鼻を鳴らす。
「ふふ。そういうことにしておくよ」
ティンクルは肩を揺らし、小さく笑った。
そのやり取りを見ながら、ヒースクリフは顎に手を当てる。
「部隊の仲間の実力を正確に把握する。……大切なことだ。少しの判断ミスが、取り返しのつかない結果になる」
「ええ、全く」
キリトが即座に応じる。
ヒースクリフは数歩、砂を踏みしめて前に出た。
「ならば、提案がある」
「?」
「私と――決闘(デュエル)したまえ」
空気が止まった。
ティンクルの瞳が、わずかに大きく開かれる。
「……え?」
キリトの口から、素っ頓狂な声が漏れる。
ヒースクリフの真鍮色の瞳が、朝陽を映した。
「今までと違い、私は君の命を預かる身となる。その力、正確に知る必要がある」
短い沈黙。
次いで、キリトの口元がにやりと上がる。
「……そうですね。俺も正直、あんたとは戦ってみたいと思ってた」
「では、話が早い」
ティンクルは前に出て、二人の間に立った。
「じゃあ僕が立会人になるよ。制限時間は10分。体力ゲージが尽きるか、時間切れなら残りの多い方が勝ち。……それでいい?」
「構わん」
「いいぜ」
ティンクルが腕を上げ、システムに登録を送る。目の前に淡い光のカウントが浮かび上がった。
「――10、9、8……」
剣を抜く音。
キリトは黒剣と透明に近い緑剣――エリュシデータとダークリパルサーを持ち、腰を落とす。ヒースクリフは十字盾を正面に構え、直剣を静かに引いた。
「遠慮はいらん。君の力を見せてくれ」
「そっちこそ」
「……3、2、1――」
カウントゼロ。
最初に飛び出したのはキリトだった。砂を蹴り、一直線に踏み込む。黒剣が風を裂き、盾の角を狙う。
ヒースクリフは一歩も退かず、十字盾を傾けた。鋼鉄同士が激しく噛み合い、砂が爆ぜる。
「素晴らしい反応速度だ」
「そっちこそ……硬すぎるぜ!」
二人の剣と盾が火花を散らす。
キリトは角度を変えて斬り上げ、ヒースクリフは盾の縁で受け流す。その瞬間にはすでに逆袈裟が走り、ヒースクリフの剣が迎え撃つ。
ティンクルは息を呑んだ。
(速い……!いや、速さじゃない。軌道を読む“精度”が常軌を逸してる)
砂上で二人の影が交差し、火花が弧を描いた。
剣戟の音は重なり合い、まるで戦場の合唱のように訓練場を満たしていく。
黒剣と緑剣が火花を散らす。
踏み込みと同時に振り抜かれた一撃を、ヒースクリフはまるで予見していたかのように盾で受け止めていた。衝撃が訓練場の砂を震わせ、互いの靴底がめり込む。
「ぐっ……!」
押し返しながら、キリトはすぐさま二刀を交差させる。盾の隙間を狙って、細かく速い連撃を畳み掛ける。
ヒースクリフの盾が音を立て、角度をわずかにずらすだけでその全てを受け流す。無理に弾き飛ばすのではない。流れるように、予めそこにいたかのように、刃を受け止める。
(……本当に、全部読まれてる!)
キリトは一瞬だけ歯を食いしばる。
速さで勝っているはずなのに、どの一撃も決定打にならない。いや、速さすら吸収されているようだ。
ティンクルの灰色の瞳が鋭く揺れる。
(キリトの剣速は確かに群を抜いてる。でも――団長は一手先を“知っている”。反応じゃなく、“予測”で捌いてる……!)
黒剣が斜めに振り下ろされる。ヒースクリフは盾で受け流しながら、逆の手の直剣を突き込む。
刹那、キリトは二刀を交差させて強引に受け止める。火花が弾け、両者の顔が間近に迫る。
「……やっぱり化け物だな、あんた」
「ほう。君にそう言わせるとは、光栄だ」
互いに笑みを浮かべながらも、その瞳には一切の緩みがない。
次の瞬間、ヒースクリフの十字盾を淡い光が包んだ。
「――《神聖剣》」
盾の縁が金色に輝き、そこからまるで結界のような光が広がる。
「来い。二刀流の力を」
挑発に近い静かな声。
キリトの口角がさらに上がる。
「望むところだ――!」
二刀が交錯する。
まるで嵐が訓練場に吹き荒れるように、斬撃の連打が迸った。
スターバースト・ストリーム――。
キリトの代名詞とも言える連撃スキルが発動する。
連撃、連撃、連撃。
音速に迫る剣速がヒースクリフへ殺到し、訓練場の砂が爆ぜるように舞い上がる。
だが――その全てを、十字盾が捉えていた。
「なっ……!」
ヒースクリフの姿は、光の奔流の中心にありながら、一歩も退かない。
金色の輝きが、まるで大地に根を張るように揺るがず、剣を、刃を、突きを受け止める。
ティンクルが目を見開く。
(スターバーストを……防ぎ切った!?)
残り数秒。キリトは全身の力を振り絞り、最後の二撃を叩き込む。
しかしその瞬間、ヒースクリフの盾が僅かに傾き、反動を殺すように角度を変えた。
黒剣と緑剣の軌道が、霧散するように弾かれた。
砂煙が二人を包み込む。
数拍の沈黙。
やがて煙の中から、低い声が響いた。
「……見事だ。だが――まだ足りない」
煙が晴れ、ヒースクリフが立っていた。体力ゲージの減りは、ほんの僅か。
一方のキリトは肩で荒く息をつきながら、二刀を構え直していた。
(……化け物。これを突破しないと、勝ちはない)
互いの瞳が、再び火花を散らした。