ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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      第3部「夜を越える声」

 

 

 

 

 

 

 

戦場の中央。

 キリトの動きは、もはや常識の外にあった。

 

「うおぉぉぉぉぉぉッ!」

 

雄叫びと共に黒と緑の剣が交差する。最初の一体の顎を裂き、振り抜いた勢いのまま二体目の腕を斬り落とす。返す刀で三体目を薙ぎ払い、突っ込んできた四体目を直撃の衝撃で弾き飛ばす。

 

剣の動きには寸分の無駄もなかった。攻撃と防御、回避と反撃、その全てが一つの流れの中に組み込まれ、止まることなく繋がっていく。

 

寄生体の群れは単なる数の暴力ではなかった。敵は巧妙に角度を変え、死角を突こうと狙いすましていた。

 だがキリトは、まるでそれを予知しているかのように動いた。二刀が織りなす軌跡は防壁であり、捕食者の牙を逆に断ち切る刃でもあった。

 

ジョンは唸るように言った。

 「……あいつ……人間かよ」

 

リオは声を失い、ただ剣を握る手に力を込めた。目の前の戦いが常識を超えていることを、本能で理解してしまったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

――――

 

 

敵は群れを組み替え、次の波を作ろうとしていた。

 だが黒衣の剣士は止まらない。二刀は絶え間なく閃き、迫る敵を一体、また一体と削り取っていく。

 

戦場に舞うのは血ではなく、黒い靄。

 刃の軌跡が空気を裂き、地面に砂煙を巻き上げるたび、そこにいたはずの敵が消えていく。

 

もはや孤立しているのではなかった。

 むしろ、敵を惹きつけ、そのすべてを削り尽くしている。

 

「キリト君……」

 アスナの胸が締め付けられる。

 彼がどれほどの覚悟でこの場に立っているのか、彼女は痛いほど理解していた。

 

その背中は――孤独な矛だった。

 戦場全体を守るために、たった一人で突き立てられた、鋭く、折れない矛。

 

 

寄生体は次の波を作り、さらに密度を高めて迫ってくる。

 けれど黒衣の剣士の動きは、なおも加速し続けていた。

 

そして――その背中を見守る仲間たちは、確かに感じていた。

 「孤立」ではなく「突破口」。

 敵の流れを引き寄せ、戦場を切り裂く一人の剣士の姿を。

 

黒衣の剣が閃くたび、寄生体の群れが裂かれては地へと崩れ落ちた。

 

 

 

――――

 

 

だが敵の波は衰えない。むしろ、キリトの存在を危険と認識したかのように、周囲の寄生体が次々と彼の方へと向かっていく。

 

喉が焼ける。視界が揺れる。

 (……このままじゃ、持たない……!)

 剣を握る腕に痺れが走り、体力ゲージがじわじわと削られていく。

 一歩でも止まれば、押し潰される――その極限の渦中で。

 

 

 

――(もし私が死んでも、キリトは頑張って生きてね)

――(生きて、この世界の最後を見届けて)

――(そして、私と君が出会った意味を見つけてください)

 

 

 

脳裏に、あの夜のサチの声が蘇る。

 あの日、胸の奥に深く沈んで消えなかった痛み。

 逃げたくなるたびに思い出す、決して消えない声。

 

(……サチ)

 奥歯を強く噛みしめ、黒衣の剣士は足を踏み出した。

 

「やってみろ……俺を殺せるものなら――殺してみろッ!」

 

叫びと同時に、二本の剣が交差する。

 爆ぜるような光が広がり、剣速が一段と跳ね上がった。

 黒と緑の残像が幾重にも重なり、寄生体の群れが追いつく間もなく切り裂かれていく。

 

 

後方で見守るティンクルが、鋭い声を上げた。

「敵の損耗率、加速度的に上がってる!」

 灰色の瞳が計測するように光を捉え、数字を弾き出す。

 

「す……すごい」

 リオが息を詰めながら呟いた。拳を握りしめ、目を逸らせない。

 隣でシリカも祈るように胸に手を当てる。

「お願い、キリトさん……!」

 

アスナは細剣を握りしめ、ただまっすぐにその背中を見ていた。

 「……キリト君」

 その声は震えていない。ただ強い光を帯びていた。

 

 

黒衣の剣士は止まらなかった。

 斬り、突き、弾き、返す。

 その動きは誰よりも速く、鋭く、迷いがなかった。

 サチの言葉が胸に灯火となり、燃えるように体を突き動かしていた。

 

そして――。

「陽動成功! 敵の壁に穴が空いた!」

 斥候役の叫びが響く。

 

ティンクルがすぐさま数字を重ねる。

「右翼の敵密度、四割に低下! 突破可能!」

 

 

アスナが一歩前へ出た。

 栗色の髪が翻り、細剣が空を切る。

「全員反転! 一気に突破する!」

 

「了解!」

「突撃だ!」

 

赤白の列が一斉に踵を返し、キリトの切り拓いた穴へと突き進む。

 盾が前に出て、槍が続き、後衛が矢と魔法で道を固める。

 退却線は攻撃線に変わり、戦場の空気が一気に反転した。

 

 

 

ティンクル、リオ、シリカが前線に合流し、突破口をさらに広げていく。

 「リオ君、右を抑えて!」

 「了解!」

 「シリカ、後方支援!」

 「ピナ、風を!」

 

 

 

戦場の奥、黒水晶が揺れ、呻き声のような音を響かせる。

 

「クリスタルまであと五十!」

 斥候の報告に、列がさらに速度を増す。

 

ティンクルの刃が床を一度、そして間を置いて二度叩く――寄生体の呼吸を外す合図。

 直後、アスナの細剣がその「間」を正確に突き、流れ込んでいた二体をまとめて断った。

 

「本体との繋がりが痩せてきてる! 今なら!」

 ティンクルの冷静な声に、アスナが頷く。

 「――破壊班、前へ!」

 

 

結晶の前に出たのはリオとシリカ。

 

 

 

 

二人の剣が同時に振り下ろされる。

 結晶に衝撃を与え、その隙間に剣閃が走った。

 「砕けろ!」リオの叫びと共に、黒水晶の表面がひび割れる。

 

次の瞬間――轟音。

 黒い光を帯びた水晶は粉々に砕け、寄生体の流れが途絶えた。

 部屋全体が震動し、群れの動きが一瞬にして鈍る。

 

「クリスタル、破壊成功!」

 歓声が響く。

 

 

だが戦闘は終わらない。

 なおも群がる寄生体を捌き切る必要があった。

 

「残敵、各個撃破! 気を抜くな!」

 ジョンの吠える声が響き、盾が突き上がる。

 エギルの補給線が最後まで崩れず、セラフィナが倒れそうな者を引き戻していく。

 

キリトはなお、孤立した位置で剣を振り続けていた。

 だが敵の流れはもはや細く、退路は確保されている。

 

「キリト君!」

 アスナが駆け寄る。細剣が寄生体を貫き、その横をティンクルが刃で払う。

 シリカとリオも追いつき、四人が黒衣の剣士を囲むように立った。

 

「……お疲れ様」

 栗色の瞳が見つめる。

 キリトは短く息を吐き、わずかに笑った。

 「……間に合ったか」

 

 

戦場に、静寂が訪れた。

 最後の寄生体が崩れ落ち、広大な部屋には仲間の荒い息遣いだけが残る。

 

「勝利だ」

 ヒースクリフの声が低く響く。十字盾を地に突き、ゆっくりと剣を下ろした。

 

「犠牲者なし。全員、生還」

 セラフィナが確認を告げる。

 その瞬間、あちこちから歓声が上がった。泣き笑いする者、抱き合う者、ただ座り込む者。

 

 

アスナは深く息を吐き、額の汗を拭った。

 隣に立つキリトを見て、静かに言った。

 「……無茶しすぎ」

 「でも、やっただろ」黒衣の剣士は笑う。

 「次は許さないんだから」

 小さく呟いたその言葉は、戦場の喧騒に紛れて彼にしか届かなかった。

 

ティンクルが歩み寄り、灰色の瞳で黒衣を見た。

 「陽動の意味は充分だった。数字が証明してる」

 「へえ、褒められるなんて珍しいな」

 「一度だけだよ」淡い微笑みが返る。

 

 

広場へ戻る列の先で、クラインが声を張り上げた。

 「よーし! 今日はアスナのスープで祝勝だ!」

 「もう……塩多めにしてやるわ」

 アスナが笑い、仲間たちの笑いが続いた。

 

赤白の旗が揺れる。

 第八十層は突破された。

 それはただの数字の勝利ではなく――大切な者を失わずに手にした、生き残りの勝利だった。

 

 

 

 

―――

 

 

夜の帳が降りた街外には、冷たい星明かりが広がっていた。

 草むらを渡る風は乾いて澄んでいるのに、どこか切ない響きを含んでいる。

 

黒猫団の墓標が並ぶ場所。

 その中の1つの石碑。

 そこには、今もはっきりと「サチ」の名が刻まれている。

 

キリトは黙って立っていた。

 指先で石碑に触れ、その感触を確かめる。冷たい石の硬さは、彼にとっては優しさの裏返しのようにも思えた。

 ――あの日の笑顔、あの日の言葉。どれも忘れたことはない。

 

ほんの数日前、彼はまた「一人で突っ込んだ」。

 だが今回は、あの日の自分とは違う。

 後悔を背負うだけではなく、仲間を守るために。

 ――その違いを、黒猫団のみんなに……サチに伝えたくてここに来ていた。

 

石碑の前で静かに目を閉じる。

 胸の奥から小さな声が漏れる。

 「……見てたか? 俺は……」

 

その声は、夜の風に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり、ここにいた」

 

背後から声がした。

 

栗色の髪が風に揺れる音が、近づいてきた。

 彼女は横に立ち、同じように石碑を見上げる。

 

「……無事だったからいいけど」

 アスナの声は静かだったが、どこか震えていた。

 「一人で突っ込むなんて……心臓止まるかと思ったんだから」

 

キリトは肩をすくめ、小さな笑みを浮かべる。

「心配かけて、悪かった」

 

「……悪かった、で済むと思ってる?」

 アスナの横顔がわずかに強張る。

 けれどその瞳には、怒りよりも涙の気配が近かった。

 

「……ごめん」

 キリトの声は、石碑の前でだけ許される弱さを帯びていた。

 

アスナはしばらく黙っていた。

 だがやがて、静かに首を振り、深く息を吐いた。

 「……いい。無事だったから」

 

けれど次の言葉は、彼女らしく強かった。

 「でも、次は許さないんだからね」

 

「……ああ。気をつけるよ」

 短い返答だった。だがその裏には、「必ず守る」という決意が込められていた。

 

 

 

 

 

 

二人はしばらく黙って立ち尽くした。

 夜の風が頬を撫で、草原の匂いを運んでくる。

 

アスナがぽつりと呟いた。

 「……怖かった」

 

「え?」

 

「……キリト君が囲まれて、剣を振るうたびに……心臓が張り裂けそうで」

 その声は、戦場の副団長のものではなく、一人の少女の本音だった。

 

キリトは俯き、小さな声で答えた。

 「俺も、怖かったよ。……でも、あの時は、ああするしかなかった」

 

「分かってる。作戦としては正しかった。……でも」

 アスナは唇を噛んだ。

 「もし、もしもキリト君が戻ってこなかったら……って考えたら」

 

声が震える。

 キリトはその言葉を遮らなかった。

 静かに受け止めるように、ただ彼女の隣で立ち続けた。

 

 

 

 

 

 

やがてアスナは石碑に目を落とし、ふっと笑った。

 「サチ、きっと怒ってるよ。『無茶するな』って」

 

「だろうな」

 キリトも苦笑する。

 「でも同時に……背中を押してくれた気もするんだ」

 

アスナが振り返る。

 「……あの日のこと、まだ後悔してるの?」

 

「後悔が消える事は、この先もないと思う」

 キリトの声は真剣だった。

 「でも、だからこそ、前に進めるんだ」

 

その言葉に、アスナは少しだけ微笑んだ。

 「……そうだね」

 

長い沈黙が流れる。

 やがてアスナは墓碑に一礼し、背筋を伸ばした。

 「帰ろう、キリト君」

 

「……ああ」

 

二人は石碑から離れ、歩き出す。

 街の明かりが遠くに揺れていた。

 

分かれ道に差しかかり、アスナが先に歩き出す。

 

その時だった。

 

――(頑張ってね、キリト)

 

確かに耳に届いた。

 風の音ではない。錯覚でもない。

 あの日と同じ、優しい声。

 

はっとして振り返る。

 だが、そこには誰もいない。

 草原を渡る風が、石碑を揺らすだけ。

 

「……サチ」

 呟いた声に、自分でも驚くほど優しい響きが混じっていた。

 

キリトは静かに墓碑へ頭を垂れる。

 そして顔を上げ、わずかに微笑む。

 

もう後悔だけで立ち止まる自分ではない。

 守りたい仲間がいて、共に戦う未来がある。

 

長い夜を抜けるように、彼は再び歩き出した。

 背にはもう、あの日の重さだけではなく――仲間の温もりと、少女の声が確かに残っていた。

 

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