ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
八十層の戦いから、数日が経った。
街の喧騒はいつも通りに戻りつつある。だが、最前線を知る者たちの心には、まだ熱と痛みの残滓が残っていた。
血盟騎士団の仮設拠点。
窓辺の光が斜めに差し込み、テーブルの上の回復ポーションがきらりと反射する。
「キリトさん、本当に……無事でよかった」
シリカの声は小さく、けれど心の底からの安堵がにじんでいた。
肩口のピナが小さく鳴いて、主の想いに同調するように羽を震わせる。
「ったくさぁ」
リズベットが腕を組み、ため息をつく。
「あんた一人で敵に突っ込んだんですって?そんな無茶して、よく無事だったわね」
「なんとかな……」
キリトは頬をかきながら視線を逸らす。
「もう絶対するなって、アスナにこっぴどく怒られたけど」
「ダメ。絶対」
後ろから静かに響く声。
アスナは腕を組み、ぴしりとした口調で言った。
「もしまたそんな真似したら――」
「わ、わかってるって」
キリトが苦笑して頭をかく。
空気が少しだけ和む。
だが、笑いの中にある緊張は、誰もが感じていた。
「でも本当にすごかったです」
リオがふっと表情を緩めた。
「あの数相手に……キリトさんじゃなきゃ無理でしたよ」
「キリトの強さ、わかってるつもりだったけど――」
ティンクルが言葉を継ぐ。
「予想以上だったよ。あの場であの判断、誰にでもできることじゃない」
キリトは黙って聞いていたが、やがて小さく息をついた。
「……」
「どうしたの?」
リズベットが首を傾げる。
「いや……ほら、今回の戦い。かなりギリギリだっただろ」
キリトは視線を落とし、テーブルに指をトントンと当てた。
「次の八十一層――担当は聖龍連合、だろ。……大丈夫なのかって、ちょっと思ってな」
アスナが静かにまぶたを伏せた。
「……そうだね」
声のトーンが少し落ちる。
「八十層になって、敵の強さがまた一段跳ね上がった。損害こそ最小限に抑えられたけど……」
彼女は一拍おいて、キリトに目を向ける。
「あなたが陽動してくれなかったら、同じ結果だったかどうかはわからない」
静寂。
部屋の外から聞こえる風の音が、やけに遠く感じられた。
「聖龍連合……大丈夫でしょうか」
リオがぽつりと呟く。
両手を膝に置いたまま、不安げに眉を寄せていた。
「かなり苦戦するんじゃ……。もし万が一、何かあったら……」
アスナは言葉を継がなかった。
けれど、その沈黙こそが答えだった。
「……」
やがて、彼女が顔を上げる。
その瞳には、副団長としての決意の色が宿っていた。
「キリト君、シリカ」
「ん?」
「はい?」
「今日このあと、八十層の報告会があるの」
アスナは二人を見つめたまま、静かに言った。
「二人にも出席してほしい。――聞いておいてほしいことがあるの」
キリトは短く頷いた。
「わかった」
その目は、いつものように真っ直ぐだった。
「はい、私も……」
シリカが小さく拳を握る。
ピナがその肩で鳴き、羽を広げた。
「私はもちろん参加決まってるけどね」
リズベットが肩をすくめ、にやりと笑う。
「ま、血盟騎士団の一番重要な報告会。面白い話が聞けそうじゃない?」
アスナは微かに笑みを返した。
「……そうね」
その言葉の奥に、緊張がひっそりと滲んでいた。
――八十層を越えた今。
誰もが感じていた。
“次の戦い”は、ただの攻略戦では終わらない。
――――
血盟騎士団 本部。
会議室の天井は高く、磨かれた石壁には血盟の紋章が掲げられている。
その下、長円の会議卓を囲むのは――団長ヒースクリフ、副団長アスナ、幹部のジョン、ブリュノ、セラフィナ。
さらに、その背後の列にはティンクル、キリト、リズベット、シリカ、リオが並んでいた。
外部の傘下ギルド団長たちも数名、観覧席のような位置で静かに様子を見守っている。
八十層攻略戦の報告会。
その空気は、いつもの作戦会議とは明らかに違っていた。
――張り詰めた緊張と、言葉にならない期待。
ヒースクリフが立ち上がる。
全員の視線が自然とそこへ集まる。
「……以上が八十層攻略戦の報告だ」
彼の声は穏やかだが、響きの芯に確かな重みがあった。
「各班の連携は良好。負傷者も最小限。――諸君、よくやってくれた」
幾人かが小さくうなずく。緊張と安堵の入り混じる表情。
ヒースクリフはしばし沈黙したのち、視線を巡らせた。
「さて……今後の方針だが」
誰もが息を詰める。
「諸君も感じているはずだ。八十層に入り、敵の強さは格段に上がった。
今回こそ大きな損害なく乗り越えたが――次も同じとは限らない」
ブリュノが腕を組む。
「……確かに、前線班はギリギリだった。支援が一歩遅れれば崩れていたかもしれない」
「だからこそだ」
ヒースクリフの声が静かに重なる。
「その前に、手を打つ必要がある」
場にわずかな緊張が走る。
「それは――」
一呼吸置いて、ヒースクリフは言った。
「――聖龍連合と手を組む、ということだ」
その瞬間、空気が弾けた。
「……え?」
最初に声を漏らしたのはリオだった。
隣でシリカも目を丸くする。
「せ、聖龍……ですか?」
リズベットが思わず椅子から身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと待って。聖龍連合って――あの、リンド団長の!?」
ティンクルは何も言わず、ただまっすぐにヒースクリフを見つめていた。
瞳の奥で、何かが静かに揺れている。
ジョンが低くうなる。
「聖龍……確かに力はあるが、あそこは気位の塊だ。過去に一度、共同遠征を断ってきた連中ですよ」
ブリュノが頬を引きつらせる。
「正直、信頼関係どころか、思想もまったく違うかと」
セラフィナは小さくため息をつき、静かに言った。
「……けれど、団長がこう言うということは――理由がある、ということですね」
ざわざわと、空気が揺れる。
ヒースクリフは片手を軽く上げた。
その仕草ひとつで、場が静まり返る。
「説明しよう」
ヒースクリフの声が落ち着いたまま響く。
「現在、最前線に立つトップギルドは五つ――血盟騎士団、聖龍連合、風林火山、アインクラッド解放軍、黄金林檎」
彼はウィンドウを展開し、それぞれのギルドの紋章を順に映し出した。
「まず、“風林火山”。高い防御力と持久戦能力を誇るが……血盟騎士団と同じく“守り”に重きを置く。互いの短所を補えない以上、戦略的価値は薄い」
「次に、“アインクラッド解放軍”。一時的に後退していたが、最近ようやく再始動した。だが――最前線の勘を取り戻すには、まだ時間が必要だ」
「“黄金林檎”。攻守のバランスは良い。だが純粋な戦力では聖龍連合に劣る。そして、連続した層攻略に耐えうる持久力がない」
「――最後に、聖龍連合だ」
ヒースクリフの言葉と同時に、正面の大型ウィンドウが切り替わった。
表示されたのは、翼を広げた竜を象った《聖龍連合》のギルドエンブレム。
その横には所属人数、主力メンバー、前衛・中衛・後衛の構成比率。そして過去の攻略戦から算出された戦闘データが次々と展開されていく。
会議室にいる全員の視線が、自然と画面へ集まった。
「聖龍連合は、我々《血盟騎士団》とは対極に位置する存在だ」
ヒースクリフが淡々と告げる。
「俗に――《攻めの聖龍、守りの血盟》と評されることがある。これは単なる印象論ではない。過去の攻略記録を比較しても、その傾向は明確に表れている」
画面が切り替わる。
表示されたのは、聖龍連合が過去の攻略戦で記録した戦闘時間と敵撃破数。
「彼らの戦術思想は一貫している。敵の攻撃を受け止めることよりも、敵が攻撃能力を発揮する前に戦力そのものを削り取ることを優先する」
ヒースクリフが指を動かす。
複数の赤いマーカーが現れ、それらが凄まじい速度で消えていく簡略化された戦闘記録が再生された。
「前衛による突破。中衛による戦線拡大。そして後衛からの広範囲攻撃。これらを短時間に集中させることで、敵集団そのものを戦場から消滅させる」
そこで一度、映像が停止した。
「その殲滅能力は、現在の攻略組でも群を抜いている」
ヒースクリフは次の資料を開いた。
表示されたのは――第八十層。
室内の空気がわずかに変わった。
「例えば、我々が八十層攻略時に遭遇した増援部隊だ」
次々と出現する敵影。
あの戦場に参加していた者なら、それがどれほど厄介だったかを覚えている。
「血盟騎士団は陣形を維持し、敵を受け止めながら一体ずつ確実に処理した。その結果、戦線そのものは崩壊しなかったが、突破には相応の時間を要した」
ヒースクリフが画面上の敵集団を指し示す。
「だが――あの増援部隊を聖龍連合にぶつけた場合、結果は大きく異なるだろう」
敵の密集地点にいくつもの攻撃範囲が重ねられていく。
「彼らは陣形を固定しない。前衛を敵陣へ食い込ませ、敵を一ヶ所へ圧縮し、そこへ中衛と後衛の火力を集中させる」
赤いマーカーが、一斉に消えた。
「そして、短時間で敵戦力そのものを消滅させる。あの増援部隊であっても、聖龍連合ならば我々より遥かに短い時間で殲滅できる可能性が高い」
「……そんなに違うんですか」
リオが画面を見つめたまま呟いた。
「そうだ」
ヒースクリフは即答した。
「敵の数が増えれば増えるほど、彼らの強みは際立つ。広範囲攻撃と瞬間火力に優れた人材が多く、複数の敵を同時に処理する能力が極めて高い」
次の資料が表示される。
今度は長時間戦闘における各種数値だった。
「だが当然、長所だけではない」
ヒースクリフの声がわずかに低くなる。
「聖龍連合最大の弱点は――その戦術を長時間維持できないことだ」
消費アイテム。
スキル使用頻度。
後衛職のリソース消費量。
時間経過とともに、それぞれの数値が急激に悪化していく。
「彼らの戦術は大量のリソースを消費する。当然、消耗も我々より大きい」
ヒースクリフが続ける。
「そして、もう一つ」
画面に大型モンスターが表示された。
「耐久力の高いモンスターとの戦闘だ」
今度は先ほどとは逆に、敵のHPゲージがなかなか減らない。
「短時間で押し切れない敵。防御力が高く、こちらの攻撃を耐え続ける敵。あるいは戦闘そのものを長期化させる特殊能力を持つ敵――そうした相手に対しては、聖龍連合の戦術は徐々に不安定になる」
「戦闘が長くなると、火力が落ちるからよね?」
リズが訊いた。
「それだけではない」
ヒースクリフは首を横に振った。
「彼らは敵を短時間で撃破することを前提として戦線を構築している。戦闘が長引けばスキルの再使用待機、リソースの枯渇、前衛への負担が同時に発生する」
そこで画面に、新たな図が表示された。
二つのギルドの特性を比較したものだった。
《COMBAT PERFORMANCE ANALYSIS》
【血盟騎士団】
瞬間火力 ■■■■■■□□□□
範囲殲滅 ■■■■■□□□□□
継戦能力 ■■■■■■■■■□
戦線維持 ■■■■■■■■■■
【聖龍連合】
瞬間火力 ■■■■■■■■■■
範囲殲滅 ■■■■■■■■■□
継戦能力 ■■■■■□□□□□
戦線維持 ■■■■■■□□□□
「……本当に」
リオが二つのデータを見比べる。
「血盟騎士団の真逆なんですね」
ヒースクリフは静かに頷いた。
「我々は敵の攻撃を受け止め、戦線を維持し、時間をかけてでも確実に勝利することを得意とする。対して聖龍連合は、戦線そのものを長く維持する必要が生じる前に敵を殲滅する」
守り続ける血盟騎士団。
攻め続ける聖龍連合。
戦い方は正反対だった。
ヒースクリフは二つのギルドエンブレムを画面中央へ移動させた。
血盟騎士団と聖龍連合。
二つの紋章が並ぶ。
「この二つのギルドが同一戦線で機能した場合」
画面上に一本の戦線が形成された。
その中央を血盟騎士団が支え、その背後と側面から聖龍連合が展開していく。
「血盟騎士団が戦線を固定する」
敵の進軍が止まる。
「聖龍連合が殲滅する」
直後、敵影が一斉に消えた。
「敵の攻撃はこちらが受け持つ。彼らは防御に割いていた戦力を攻撃へ回せる。逆に我々が不得手とする大規模な増援や物量戦は、彼らの火力で処理できる」
ヒースクリフは淡々と説明を続ける。
「そして聖龍連合の火力が落ちる時間帯を、我々の防御力で支えることができる。彼らが立て直す時間を作り、再び攻勢へ転じさせる」
会議室の全員が小さく息を呑んだ。
それが意味するものを理解したのだろう。
「互いの長所を伸ばすだけではない」
ヒースクリフが言った。
「互いの短所を、もう一方の長所で補完できる」
画面上で二つの戦力曲線が重なる。
そして――一つの大きな戦力として表示された。
「個々の実力も申し分ない。指揮系統にも大きな問題はなく、我々と同じく最前線での戦闘経験も豊富だ」
ヒースクリフはウィンドウを閉じた。
室内に静寂が落ちる。
「結論として――血盟騎士団と組むに値するのは“聖龍連合”しかない」
再び、ざわりと空気が揺れる。
ティンクルは黙っていたが、その指先がわずかに震えた。
キリトは椅子の背にもたれ、腕を組んだまま視線を逸らす。
「……聖龍、ね」
その声には、複雑な響きがあった。
ヒースクリフは淡々と続ける。
「これは我々の側から見た場合だけではない。
――聖龍連合から見ても、同じ結論に至る」
「……で、でも」
ひとりの幹部が手を挙げる。
「その前に、外部ギルドをもっと多く巻き込んで支援体制を整えるべきでは?
あるいは、風林火山や黄金林檎と連携を――」
ヒースクリフは首を横に振った。
「諸君らも見たはずだ。今回の八十層戦。
我ら血盟騎士団は崩れなかった。だが――外部ギルドたちは違った。
連携が乱れ、足並みが揃わず、いくつかの隊は途中で撤退を余儀なくされた」
誰も反論できなかった。
その光景を、皆が目にしていたからだ。
「この先、敵はさらに強くなる。
その時になってから聖龍連合と手を組もうとしても遅い」
ヒースクリフの声が低く響く。
「今のうちから“連携”と“信頼”を築かねばならない。
それがなければ、いざという時、我々は瓦解する」
沈黙が落ちる。
彼の言葉は、冷静で、揺るぎなかった。
ジョンが口を開く。
「……つまり、互いが手を取り合う時期が来ていると?」
「その通りだ」
ヒースクリフの声が低く響く。
「今はまだ互いに独立を保てる。だが……この先、八十一層、八十二層と進めば、“単独での攻略”という形は、いずれ限界を迎えるだろう」
ブリュノが唸るように呟く。
「……現実的だな」
セラフィナも静かに頷く。
ヒースクリフは視線を巡らせ、続けた。
「外部ギルドの増援や、支援ネットワークの拡充も必要だ。だが、それは我らの“骨格”を強化するものではない」
彼は一拍おき、言葉を切り替える。
「どんな戦術を立てても、基礎の足並みが揃わなければ全体が崩れる。
――その現実を見たはずだ」
会議室が静まり返る。
誰も反論できない。
ヒースクリフはアスナへと視線を向けた。
「アスナ君。――あとは君から説明を」
「……わかりました」
アスナが立ち上がる。
腰まで流れる栗色の髪が、光を反射して揺れる。
キリトがそっと視線を向ける。
アスナの表情は穏やかだった。
けれど、その瞳の奥には――副団長としての覚悟と、何か深い“信念”が宿っていた。