ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
誰も、口を開けなかった。
重たい沈黙。
まるで空気そのものが冷えていくようだった。
リオは拳を握りしめたまま俯き、唇を噛んでいる。
シリカは言葉を失い、視線を落としたまま、ただ小さく肩を震わせた。
リズは眉を寄せ、悔しそうにテーブルの一点を睨んでいた。
ほんの少し、目の縁が赤くなっている。
キリトもまた、腕を組んだまま動かない。
瞳の奥に浮かぶのは――どうしようもない無力感。
誰もが、アルゴの言葉の意味を理解していた。
そして、その“妄想”が、ありえない話ではないことも。
時計の針が進む音だけが、部屋の隅で静かに響く。
小さな音がやけに大きく聞こえるほど、沈黙は深かった。
そんな中で、キリトだけが小さく息を吸った。
そして、胸の奥に、ある声が蘇る。
――聖龍連合の人たちも、ここにいるみんなも、根っこは同じ。
――ただ、ほんの少しすれ違ってるだけ。
――そこをなんとかすれば、みんなで力を合わせられる。
――私は、そう信じてる。
アスナの声だった。
静かで、けれど確かな温もりを持った声。
その言葉が胸に灯りをともす。
暗闇の中に、一筋の光が見えた気がした。
キリトは深く息を吸い、両手で自分の頬を叩いた。
ぱしん。
乾いた音が、張り詰めた空気を割った。
「……ふぅ」
アルゴが首を傾げる。
「ん? なんや」
キリトはゆっくりと顔を上げた。
その表情には、さっきまでの影がなかった。
「リズ、悪かったな。……一人でカッコつけさせて」
リズが目を丸くする。涙の残る瞳で、ぽかんとキリトを見つめた。
「今度、飯でも奢らせろよ」
「……え?」
かすかな声。リズは何か言おうとして、言葉にならなかった。
キリトは、シリカとリオの方へ視線を向けた。俯いていた二人の肩がわずかに動く。
「シリカ、リオ。――顔を上げろ」
ゆっくりと、二人が顔を上げた。
「今、一番思い詰めてるのはアスナだ。俺たちが下向いて落ち込んでちゃダメだろ。
それに、アルゴも言ってただろ――これは“妄想”だって」
リオが唇を震わせながら言った。
「で、でも……このままじゃ、血盟騎士団は……」
「……聖龍連合の全員がそう思ってるとは、俺は思わない」
キリトの声が静かに響く。
「向こうにも、なんとかしたいって思ってる人はいるはずだ。どんな小さなことでもいい。何かできることを探して……今度は、俺たちがアスナの背中を押すんだ」
しばしの沈黙。
その言葉が、ゆっくりとみんなの中に染み込んでいく。
やがて――リズが両手を自分の太ももに叩きつけた。
パンッ、パンッ。
「……あー、やめやめ! くよくよ考えるのは性に合わないわ!」
明るい声。
涙の跡がまだ残っているのに、その笑顔は強かった。
シリカも小さく笑って頷き、リオも力なく笑った。
ほんの少しずつ、みんなの顔に色が戻っていく。
キリトはアルゴの方へ向き直った。
「アルゴ。……助かった。いい勉強になったよ」
アルゴは紅茶のカップを指で回しながら、鼻で笑った。
「なんや、まさか……まだ諦めとらんのか?」
「諦めるわけないだろ」
キリトの声には、迷いがなかった。
アルゴが軽く肩をすくめる。
「無駄や無駄。聖龍と組むのは諦めて、もっと違う手を――」
「俺はアスナを信じる。それだけだ」
その一言で、空気が変わった。
アルゴの口が一瞬、止まる。
リズ、シリカ、リオが立ち上がり、キリトのあとに続く。
椅子の軋む音、扉の前で一瞬の振り返り。
アルゴは何も言わず、ただ目を細めた。
扉が閉まりかけたとき――
「キー坊」
アルゴの声がかかった。
キリトが立ち止まり、振り返る。
「……なんだ」
アルゴは、帽子のつばを軽く押さえて笑った。
「“灯台下暗し”や」
キリトが目を細める。何かを感じ取ろうとしたが、アルゴの表情は読み取れない。
「ま、頑張りや」
バタン。
扉が閉じる音。
その背中を見送ったあと、アルゴはしばらく無言で紅茶を見つめていた。
湯気はもう消えていた。
冷めきったカップの底に、微かに映る自分の顔。
アルゴは小さく笑って、ぽつりと呟く。
「……灯台の下が一番暗い、か。――さて、誰が光で、誰が影やろな」
その声は柔らかく、どこか寂しげだった。
アジトの外では、風が吹き抜け、遠くで鐘の音が響く。
新しい層の始まりを告げるように。
ーーーーー
夕刻。
空の端がゆっくりと茜に染まり、血盟騎士団本部の中庭にも柔らかな光が差していた。
静かな風が吹き抜け、石畳の上を落ち葉がひとつ転がっていく。
アスナはベンチに腰を下ろしていた。
膝の上で両手を組み、ぼんやりと沈む太陽を見つめている。
昼の会議の疲れがまだ抜けず、肩が小さく上下していた。
そこへ――足音。
アスナが顔を上げると、黒衣の少年が立っていた。
「……キリト君」
キリトは軽く手を上げ、隣に腰を下ろす。
「アスナ。今日、アルゴと会ってな」
「……アルゴと?」
アスナが首を傾げる。
キリトは静かにうなずき、アルゴの話をひと通り伝えた。
聖龍連合の真意、黄金林檎との同盟、そして――“妄想”とされた警告。
アスナはしばらく黙っていた。
やがて小さく息をつき、視線を落とす。
「そう……やっぱり、そうなのね」
「知ってたのか?」
「ええ。あのあと団長たちとも話したの」
アスナの声は落ち着いていたが、その奥に疲れが滲んでいた。
「おおよそ、アルゴと同じ考えだったわ。……結論も」
「結論?」
「――今は、アインクラッド解放軍か、風林火山と手を組むことを最優先にする。もちろん聖龍連合と組むのを諦めたわけじゃないけど……。
でも今はこれが、みんなを守るためにも、いちばんいい手だと思うの」
静かに話すその声の奥には、理性と迷いが同居していた。
夕陽が石畳に長い影を落とす。
アスナの横顔を照らす光は美しく、それと同時にどこか儚かった。
キリトはしばらく何も言わなかった。
ただその横顔を見つめ、何かを飲み込むように深呼吸をした。
「……それでいいのか?」
アスナがゆっくりとこちらを向く。
「え?」
「逃げるなよ、アスナ。――そんなの、お前らしくない」
その言葉は静かだったが、真っすぐに心を射抜く力を持っていた。
アスナの瞳が揺れる。
まるで胸の奥を見透かされたように。
「俺の知ってるアスナは、誰が“無理だ”って言っても、“やめろ”って言っても――自分の信じた道を、バカみたいに真っ直ぐ進むやつだ」
夕風が二人の間を通り抜ける。
アスナは視線を落とし、かすかに呟いた。
「……でも、今回は……みんなを巻き込むことになるのよ。私ひとりの……わがままで」
「巻き込めよ」
アスナが顔を上げる。
キリトの目は、まっすぐだった。
「なんで一人で全部背負い込むんだ。
俺たちは、そんなに頼りないのか?」
その言葉は、優しさよりもむしろ“叱るような温度”を帯びていた。
けれどその中には、確かな信頼があった。
アスナは一瞬だけ目を伏せ、そして息を吐いた。
その時――
「……やれやれ、こっそり抜け出して語り合いとは、ずいぶんロマンチックね」
背後から、聞き慣れた声。
振り向けば、リズが腕を組んで立っていた。
その後ろに、シリカとリオの姿。
「り、リズ……どうしてここに」
「さっき通りがかったら見えたのよ。“なんかいい雰囲気~”って思ったら、説教タイムだったのね」
リズがにやりと笑う。
シリカが少し頬を赤らめながら、前へ出た。
「アスナさん。……一人で抱え込まないでください。
わたしも、アスナさんのために戦いたいです」
リオも真剣な表情で言葉を続ける。
「僕だって、そうです。
僕は……そのために血盟騎士団に入ったんですから」
その真っ直ぐな声に、アスナの胸が熱くなった。
しばらく何も言えなかった。
そして――ふっと笑う。
「……はぁ。まさか、キリト君に背中を押される日が来るとはね」
「おいおい」
キリトが頭をかく。
「ふふっ、冗談よ」
アスナはようやく、柔らかく笑った。
その笑顔は、さっきまでの翳りをすっかり消していた。
「ありがとう。……みんな」
その声には、決意が宿っていた。
夕陽が沈みきり、薄紫の空が夜の色に溶けていく。
石畳の上に並ぶ五人の影が、長く伸びて重なる。
その影はまるで、ひとつの道のようだった。
同じ方向を見据える、仲間たちの足跡。
――その先にあるのは、戦いか、希望か。
それはまだ、誰にもわからなかった。
けれどその夕暮れの光だけは、確かに温かかった。