ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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      第4部「灯台下暗し」

 

 

 

誰も、口を開けなかった。

 

重たい沈黙。

 まるで空気そのものが冷えていくようだった。

 

リオは拳を握りしめたまま俯き、唇を噛んでいる。

 シリカは言葉を失い、視線を落としたまま、ただ小さく肩を震わせた。

 リズは眉を寄せ、悔しそうにテーブルの一点を睨んでいた。

 ほんの少し、目の縁が赤くなっている。

 キリトもまた、腕を組んだまま動かない。

 瞳の奥に浮かぶのは――どうしようもない無力感。

 

誰もが、アルゴの言葉の意味を理解していた。

 そして、その“妄想”が、ありえない話ではないことも。

 

時計の針が進む音だけが、部屋の隅で静かに響く。

 小さな音がやけに大きく聞こえるほど、沈黙は深かった。

 

そんな中で、キリトだけが小さく息を吸った。

そして、胸の奥に、ある声が蘇る。

 

 

 

――聖龍連合の人たちも、ここにいるみんなも、根っこは同じ。

――ただ、ほんの少しすれ違ってるだけ。

――そこをなんとかすれば、みんなで力を合わせられる。

――私は、そう信じてる。

 

 

 

アスナの声だった。

 静かで、けれど確かな温もりを持った声。

 その言葉が胸に灯りをともす。

 暗闇の中に、一筋の光が見えた気がした。

 

キリトは深く息を吸い、両手で自分の頬を叩いた。

 ぱしん。

 乾いた音が、張り詰めた空気を割った。

 

「……ふぅ」

 

アルゴが首を傾げる。

「ん? なんや」

 

キリトはゆっくりと顔を上げた。

 その表情には、さっきまでの影がなかった。

「リズ、悪かったな。……一人でカッコつけさせて」

 

 リズが目を丸くする。涙の残る瞳で、ぽかんとキリトを見つめた。

 

「今度、飯でも奢らせろよ」

「……え?」

 かすかな声。リズは何か言おうとして、言葉にならなかった。

 

キリトは、シリカとリオの方へ視線を向けた。俯いていた二人の肩がわずかに動く。

「シリカ、リオ。――顔を上げろ」

 

ゆっくりと、二人が顔を上げた。

 

「今、一番思い詰めてるのはアスナだ。俺たちが下向いて落ち込んでちゃダメだろ。

 それに、アルゴも言ってただろ――これは“妄想”だって」

 

リオが唇を震わせながら言った。

「で、でも……このままじゃ、血盟騎士団は……」

 

「……聖龍連合の全員がそう思ってるとは、俺は思わない」

 

 キリトの声が静かに響く。

 

「向こうにも、なんとかしたいって思ってる人はいるはずだ。どんな小さなことでもいい。何かできることを探して……今度は、俺たちがアスナの背中を押すんだ」

 

しばしの沈黙。

 その言葉が、ゆっくりとみんなの中に染み込んでいく。

 

やがて――リズが両手を自分の太ももに叩きつけた。

 パンッ、パンッ。

 

「……あー、やめやめ! くよくよ考えるのは性に合わないわ!」

 

明るい声。

 涙の跡がまだ残っているのに、その笑顔は強かった。

 シリカも小さく笑って頷き、リオも力なく笑った。

 ほんの少しずつ、みんなの顔に色が戻っていく。

 

キリトはアルゴの方へ向き直った。

「アルゴ。……助かった。いい勉強になったよ」

 

アルゴは紅茶のカップを指で回しながら、鼻で笑った。

「なんや、まさか……まだ諦めとらんのか?」

「諦めるわけないだろ」

 キリトの声には、迷いがなかった。

 

アルゴが軽く肩をすくめる。

「無駄や無駄。聖龍と組むのは諦めて、もっと違う手を――」

「俺はアスナを信じる。それだけだ」

 

 その一言で、空気が変わった。

 アルゴの口が一瞬、止まる。

 

リズ、シリカ、リオが立ち上がり、キリトのあとに続く。

 椅子の軋む音、扉の前で一瞬の振り返り。

 アルゴは何も言わず、ただ目を細めた。

 

扉が閉まりかけたとき――

 

「キー坊」

 

アルゴの声がかかった。

 キリトが立ち止まり、振り返る。

「……なんだ」

 

アルゴは、帽子のつばを軽く押さえて笑った。

「“灯台下暗し”や」

 

キリトが目を細める。何かを感じ取ろうとしたが、アルゴの表情は読み取れない。

 

「ま、頑張りや」

 

バタン。

 

扉が閉じる音。

 その背中を見送ったあと、アルゴはしばらく無言で紅茶を見つめていた。

 

湯気はもう消えていた。

 冷めきったカップの底に、微かに映る自分の顔。

 アルゴは小さく笑って、ぽつりと呟く。

 

「……灯台の下が一番暗い、か。――さて、誰が光で、誰が影やろな」

 

その声は柔らかく、どこか寂しげだった。

 アジトの外では、風が吹き抜け、遠くで鐘の音が響く。

 新しい層の始まりを告げるように。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

夕刻。

 空の端がゆっくりと茜に染まり、血盟騎士団本部の中庭にも柔らかな光が差していた。

 静かな風が吹き抜け、石畳の上を落ち葉がひとつ転がっていく。

 

アスナはベンチに腰を下ろしていた。

 膝の上で両手を組み、ぼんやりと沈む太陽を見つめている。

 昼の会議の疲れがまだ抜けず、肩が小さく上下していた。

 

そこへ――足音。

 アスナが顔を上げると、黒衣の少年が立っていた。

 

「……キリト君」

 

キリトは軽く手を上げ、隣に腰を下ろす。

「アスナ。今日、アルゴと会ってな」

 

「……アルゴと?」

 

 アスナが首を傾げる。

 キリトは静かにうなずき、アルゴの話をひと通り伝えた。

 聖龍連合の真意、黄金林檎との同盟、そして――“妄想”とされた警告。

 

アスナはしばらく黙っていた。

 やがて小さく息をつき、視線を落とす。

「そう……やっぱり、そうなのね」

 

「知ってたのか?」

 

「ええ。あのあと団長たちとも話したの」

 

 アスナの声は落ち着いていたが、その奥に疲れが滲んでいた。

「おおよそ、アルゴと同じ考えだったわ。……結論も」

 

「結論?」

 

「――今は、アインクラッド解放軍か、風林火山と手を組むことを最優先にする。もちろん聖龍連合と組むのを諦めたわけじゃないけど……。

 でも今はこれが、みんなを守るためにも、いちばんいい手だと思うの」

 

静かに話すその声の奥には、理性と迷いが同居していた。

 夕陽が石畳に長い影を落とす。

 アスナの横顔を照らす光は美しく、それと同時にどこか儚かった。

 

キリトはしばらく何も言わなかった。

 ただその横顔を見つめ、何かを飲み込むように深呼吸をした。

 

「……それでいいのか?」

 

アスナがゆっくりとこちらを向く。

「え?」

 

「逃げるなよ、アスナ。――そんなの、お前らしくない」

 

その言葉は静かだったが、真っすぐに心を射抜く力を持っていた。

 

アスナの瞳が揺れる。

 まるで胸の奥を見透かされたように。

 

「俺の知ってるアスナは、誰が“無理だ”って言っても、“やめろ”って言っても――自分の信じた道を、バカみたいに真っ直ぐ進むやつだ」

 

夕風が二人の間を通り抜ける。

 アスナは視線を落とし、かすかに呟いた。

 

「……でも、今回は……みんなを巻き込むことになるのよ。私ひとりの……わがままで」

 

「巻き込めよ」

 

アスナが顔を上げる。

 キリトの目は、まっすぐだった。

 

「なんで一人で全部背負い込むんだ。

 俺たちは、そんなに頼りないのか?」

 

その言葉は、優しさよりもむしろ“叱るような温度”を帯びていた。

 けれどその中には、確かな信頼があった。

 

アスナは一瞬だけ目を伏せ、そして息を吐いた。

 その時――

 

「……やれやれ、こっそり抜け出して語り合いとは、ずいぶんロマンチックね」

 

背後から、聞き慣れた声。

 振り向けば、リズが腕を組んで立っていた。

 その後ろに、シリカとリオの姿。

 

「り、リズ……どうしてここに」

 

「さっき通りがかったら見えたのよ。“なんかいい雰囲気~”って思ったら、説教タイムだったのね」

 

 リズがにやりと笑う。

 

シリカが少し頬を赤らめながら、前へ出た。

「アスナさん。……一人で抱え込まないでください。

 わたしも、アスナさんのために戦いたいです」

 

リオも真剣な表情で言葉を続ける。

「僕だって、そうです。

 僕は……そのために血盟騎士団に入ったんですから」

 

その真っ直ぐな声に、アスナの胸が熱くなった。

 しばらく何も言えなかった。

 そして――ふっと笑う。

 

「……はぁ。まさか、キリト君に背中を押される日が来るとはね」

 

「おいおい」

 キリトが頭をかく。

 

「ふふっ、冗談よ」

 アスナはようやく、柔らかく笑った。

 その笑顔は、さっきまでの翳りをすっかり消していた。

 

「ありがとう。……みんな」

 

その声には、決意が宿っていた。

 夕陽が沈みきり、薄紫の空が夜の色に溶けていく。

 石畳の上に並ぶ五人の影が、長く伸びて重なる。

 

その影はまるで、ひとつの道のようだった。

 同じ方向を見据える、仲間たちの足跡。

 

――その先にあるのは、戦いか、希望か。

 それはまだ、誰にもわからなかった。

 けれどその夕暮れの光だけは、確かに温かかった。

 

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