ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
翌朝。
まだ外の空気が冷たい時間。
血盟騎士団本部の執務室には、整然とした光が差し込んでいた。
窓際の時計が六時を少し過ぎたところで、控えめなノック音が響く。
「入りたまえ」
書類に目を通していたヒースクリフが顔を上げる。
扉が静かに開き、アスナが一歩踏み込んだ。
姿勢は正しいが、その瞳には明確な意志の光が宿っていた。
「失礼します」
軽い返事のあと、ヒースクリフはペンを置いた。
「それで、要件とは?」
「団の方針について、お話があります」
アスナは真っ直ぐにヒースクリフを見つめた。
その気配に、室内の空気が少しだけ引き締まる。
「昨日決めた通りだ。風林火山、あるいはアインクラッド解放軍との同盟を最優先。これが現時点での最善手だ」
アスナは短く息を吸い――そして言った。
「進言します。――聖龍連合との同盟。これ以外、ありません」
ヒースクリフの手が止まる。
静かな沈黙。
冷たい鋼色の瞳が、ゆっくりとアスナを見据えた。
「……理由を」
「それが、血盟騎士団が生き残る唯一の道だからです」
アスナの声には、迷いがなかった。
ヒースクリフは指先で机を軽く叩く。
「聞こう」
アスナは一歩前へ進み、光のウィンドウを展開した。
戦略図と、各ギルドの勢力分布が表示される。
「いま、私たちが取れる方法は三つ。
一つ、風林火山と組む。
二つ、アインクラッド解放軍と組む。
三つ、聖龍連合と組む」
アスナは順に指を動かしながら、淡々と話す。
「まず一つ目――風林火山と組む。
意味がありません。戦略的にも、政略的にも。
彼らはいま、“見極めている”段階です。
血盟騎士団につくか、聖龍連合につくか。
こちらがアインクラッド解放軍と組む可能性がある限り、動けない。
いま声をかけても、彼らの答えは“静観”です」
ヒースクリフは無言で頷いた。
「二つ目――アインクラッド解放軍。
不可能です。
シンカー団長は“組織の利益”では動かない。
彼が見るのは、この世界全体の均衡――人々の利益です。
いま私たちが声をかければ、“焦り”と見なされる。
攻略に詰まった、聖龍連合に追い詰められている。
そう判断され、信用を失うだけです」
「……ふむ」
ヒースクリフは静かに目を細めた。
アスナの言葉は感情ではなく、冷静な分析だった。
「三つ目――聖龍連合。これも現状では、同盟の可能性は限りなく低い。唯一の突破口は、“ティンクルを差し出す”こと。
……ですが、そんな選択をすれば――私たちは仲間を売るギルドとして、遠からず崩壊します。血盟騎士団という名が誇りを失ってしまう」
静かな言葉の中に、強い決意があった。
ヒースクリフは長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「打つ手はない。それが、君の答えかね?」
「いいえ」
アスナはまっすぐ立ち、光のウィンドウを閉じた。
その仕草は、ひとつの決断を示すように静かだった。
「“攻め方”を変えます」
「……説明を」
ヒースクリフの声が低く落ちる。
その視線の奥には、明らかに興味があった。
ーーーー
アスナは一度姿勢を正し、はっきりと言い切った。
「我々の第一目標を――聖龍連合との同盟に定めます」
ヒースクリフの指先が止まる。
空気が少しだけ重くなるのを感じながら、アスナは続けた。
「その上で、アインクラッド解放軍のシンカー団長に“仲介”を依頼します。血盟騎士団と聖龍連合が手を組むこと。それは、この世界の人々にとって最大の“利益”です」
言葉には一切のためらいがなかった。
ヒースクリフが腕を組み、視線を細める。
「……ふむ。リンド団長の目的が達成されれば、同じことだ。これにどう反論する?」
「我々は“個”ではなく、“組織”で戦います」
アスナの声は凛としていた。
「仮に聖龍連合が血盟騎士団の主力を取り込んだとしても、それは“個”の寄せ集めに過ぎません。組織としての呼吸は失われ、互いの信頼関係も薄れる。
“守り”を軸にした戦いでは、阿吽の連携がすべて。その状態では、本来の力の六割も引き出せないでしょう」
ヒースクリフの唇が、わずかに動いた。
「……面白い考えだ」
低く呟き、机に指を組む。
「だが、問題が二つある」
アスナが静かに頷く。
ヒースクリフはひとつひとつを指で折りながら言った。
「まず一つ。――シンカー団長が協力する保証はない。彼は理でなく、信義で動く男だ。説得は容易ではない」
「承知しています」
「そして二つ目」
ヒースクリフは瞳を細め、真っ直ぐアスナを見た。
「仮に協力が得られ、聖龍連合と会談の場を持てたとしよう。――その時、彼らは間違いなく“ティンクル君”を要求してくる」
アスナの瞳が微かに揺れた。
しかし、すぐに静かに息を整える。
「その覚悟が、君にあるのか?」
短い沈黙。
そして、アスナはしっかりと顔を上げた。
「“差し出す”など――毛頭、考えておりません」
言葉は、刃のように鋭く、しかしまっすぐだった。
「そんな手を使わずとも、聖龍連合とは“手を組めます”」
ヒースクリフの視線が動く。
「……説明を」
ーーーーー
執務室の空気は、朝の冷たさをまだ残していた。
ヒースクリフは机の上の報告書を閉じ、静かにアスナを見た。
「続けたまえ」
促されるように、アスナは一歩前へ進み出た。
まっすぐ立つその姿は、緊張ではなく“覚悟”を纏っている。
「まず、聖龍連合のほうからティンクルを“直接”要求することは不可能です」
ヒースクリフの眉がわずかに動いた。
アスナは淡々と続ける。
「彼らがティンクルを求めた瞬間、世間はこう見ます。――協力の見返りに“氷姫”という少女を要求する、野蛮で浅ましいギルドだと」
「……ふむ」
ヒースクリフの反応は淡い。
だが、その沈黙は明らかに“考えている沈黙”だった。
「その屈辱に、彼らは耐えられません。だからこそ――“こちらから差し出す形”を望むはずです」
アスナの声が静かに落ちる。
彼女の語り口は冷静だったが、その奥には確かな読みと決意が滲んでいた。
「ですが、こちらもそんなことは口にしません。……おそらく会談は平行線のまま、終わるでしょう。その場合、シンカー団長は――間違いなく血盟騎士団の側につきます」
ヒースクリフが顔を上げた。
その目は試すように光る。
「なぜそう思う?」
「血盟騎士団と聖龍連合が“共に戦う”こと。彼はいま、それを誰よりも望んでいます」
「……なぜ言い切れる?」
「彼は――そういう人だからです」
アスナははっきりと答えた。
その瞳は、まっすぐにヒースクリフを射抜いている。
「団長のほうが、よくご存じのはずです」
静寂。
時計の針が一つ進む音が、やけに大きく響いた。
「そして……アインクラッド解放軍と手を組むことで、ようやく私たちは聖龍連合と対等に交渉できる立場になります」
アスナは一拍置き、話を続ける。
「将来的に、互いに手を組む必要があることは向こうも理解しているはずです。長期戦は、彼らも望んではいないかと」
ヒースクリフはしばしアスナを見つめ、やがて小さく息を吐く。
その表情は読めない。
だが、その瞳の奥で――何かが確かに動いた。
「……5日だ」
「!」
「それまでに、シンカー団長の協力を取りつけたまえ」
声は穏やか。だがその奥に、血盟騎士団の未来を賭ける重みがあった。
アスナは一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頷いた。
「はい」
「同行者は君に一任する。“団外部”の者でも構わん」
「了解しました。必ず、結果を出します」
その背筋は、どこまでも真っすぐだった。
彼女が踵を返すと、朝の光が肩口の赤い紋章を照らした。
扉が静かに閉まる。
その音を聞きながら、ヒースクリフは小さく呟いた。
「……さて。局面が、ひとつ動くか」
彼の表情に、感情らしきものはない。
ただ、淡い光を映す瞳が、遠い未来を見ていた。