ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
ざわざわざわ――
会議室の外、廊下の向こうまで人のざわめきが波のように広がっていく。
誰かが慌ててホロウィンドウを閉じ、また別の誰かが震える指で更新を繰り返していた。
マークが椅子の肘掛けを握りしめ、うつむいたまま低く問う。
「…………何をしたんだ?」
シンカーは首を傾げる。
「ん?」
「風林火山はこちらにつくと決まっていた。……いったい何をした?」
その声には焦りと怒りと、ほんのわずかな恐怖が混じっていた。
シンカーはあくまで穏やかに答える。
「ああ、簡単なことだよ」
シンカーは両手を軽く組みながら言った。
「アインクラッド解放軍の総資産の半分。鉄鉱石の採掘権の半分。そして、風林火山が担当している補給線維持任務の全てを――僕らが請け負う、と伝えたんだ」
沈黙。
マークの唇がかすかに震える。
「……は、はは……そんなこと、できるわけが……!」
どこかの聖龍傘下ギルドの団長が叫んだ。
「ア、アルゴもグルなんだ! 嘘の速報を流すよう手を組んでるんだ!」
その言葉に、シンカーがゆっくりと首を振る。
「アルゴ君が出した速報に、今まで嘘が一つでもあったかい?」
誰も何も言えなかった。静かな声が続く。
「それに……確かめたいなら、このあと風林火山に聞いてみるといい。彼らは――もう準備を始めているはずだ」
団長たちの顔色が変わった。誰かが喉の奥でつぶやく。
「……め、めちゃくちゃだ……!」
「なんの得があって、そんなこと……!」
その混乱を切り裂くように、リンドの低い声が響いた。
「……シンカー」
呼ばれた名に、シンカーはゆっくりと視線を向けた。
「すまない、リンド」
彼の表情はどこまでも静かだった。
「でも僕は、どうしても君たちに――“ともに戦ってほしい”んだ」
その声音は柔らかく、それでいて、何よりも強かった。
「これ以上、誰一人欠けることなく、この世界から出るために。そのためなら――僕は“悪魔に魂だって売る”覚悟だ」
会議室が再び静まり返る。
アスナがわずかに息をのんだ。
「……シンカーさん……」
シオンが一歩前に出る。その瞳には複雑な光が宿っていた。
「……シンカー団長。なぜです?なぜ、あなたはそこまで……血盟騎士団に肩入れするであります?」
シンカーは首を振る。
「僕は血盟騎士団に肩入れなんてしてないよ」
そして、まっすぐアスナを見る。
「僕が肩入れしてるのは――アスナ君だ」
室内が静まる。
誰も笑わなかった。
彼の声には、理屈ではない真実があった。
「……彼女はね。どんなに周りに“聖龍連合とは無理だ”と言われても、決して諦めなかった。周囲がどんなに説得しても、僕がどんなに“甘い条件”を出しても、彼女は――頑として“ティンクル君”を差し出そうとしなかった」
リンドの眉がわずかに動く。
アスナは目を伏せ、拳を握った。
「……最後には、自分の剣を聖龍連合に差し出すことを望んでいた。僕は、あの言葉に“嘘”は一つも感じなかったよ」
誰も息をする音すら立てられない。
そして――シオンの体が、びくりと震えた。
「……っ!!」
拳が白くなるほど握り締められる。
瞳が一瞬、わずかに揺れた。
だが、すぐに表情を引き締める。唇を噛み、低く息を吐く。
シンカーは静かに微笑む。
「だから僕は、アスナ君を信じたい。アスナ君の理想を――この目で見届けたい。……それだけだよ」
聖龍連合の面々は、互いに顔を見合わせた。
ライドだけが、ゆっくりと腕を組み、口の端を上げる。
「フン……さすがアスナ! 俺が認めた女だ!」
ニコが無言で睨む。
「……ライド」
「……はっ!」
その緊張を、再びシンカーが断ち切るように声を発した。
「とはいえ、このまま“手を組んで戦え”と言っても、みんなが納得はしないだろう。そこで――僕から、一つ“提案”がある」
その言葉に、全員の視線が再び中央へ集まる。
重い空気の奥で、何かがゆっくりと形を成し始めていた。
ーーーーー
重苦しい空気が、再び会議室を満たした。
誰もが次の言葉を待っている。
そして――シンカーが、ゆっくりと口を開いた。
「この世界の原則を、みんな忘れていないかい?」
静かな声が、空間の隅々まで響いた。
「プレイヤー同士のいざこざは、“神聖なデュエル”によって解決する。……この世界が始まったその日から、ずっとそうだったはずだ」
誰も口を挟まない。
リンドもヒースクリフも、ただその続きを待っていた。
「――ならば、原則に立ち戻ろうじゃないか」
シンカーは一歩、前へ進み出た。
「聖龍連合と血盟騎士団、それぞれ三名を代表として出す。その勝敗によって、結論を決める。ただし――今この瞬間に、正式に団に所属している者だけ。外部プレイヤーの参加は禁止だ」
空気がぴしりと裂ける。
そして、静かに続ける。
「さらに……リンド、ヒースクリフ。君たちの参加も禁止とする。団長同士の戦いなど、本当の抗争になってしまうし――万が一のこともあるからね」
リンドの表情は動かない。ただ、腕を組んだまま黙って聞いていた。
ヒースクリフは視線だけで促す。
シンカーは息を整え、淡々と条件を並べた。
「血盟騎士団が勝った場合、聖龍連合は手を組み、これからともに戦うこと。
……そして、聖龍連合が勝った場合も、血盟騎士団とともに戦うこと。ただし――“ティンクル君”を派遣という形で、以降、聖龍連合の部隊に配置する。」
小さなどよめきが起こる。
それでもシンカーは止まらない。
「そして、前提条件がある。勝敗に関係なく、まずは聖龍連合と黄金林檎が81層を攻略すること。……82層担当の血盟騎士団が“申し込んだ”という形にするんだ。」
その言葉に、アスナがはっと顔を上げた。
シンカーはわずかに目を細めて続ける。
「“氷姫”を横から奪い取り、助けを求めた恥さらしなギルド――。そう呼ばれても、甘んじて受け入れてもらう。“暗黙の了解”を破った代償としてね」
ヒースクリフが小さく目を閉じた。
リオは唇を噛み、机の下で拳を握りしめる。
誰もが、その条件の厳しさを理解していた。
「代表メンバーは二日後に決めてほしい。……万が一、聖龍側の代表に負傷者が出た場合は、要相談とする。勝負は、81層攻略後の二週間後だ」
シンカーは一呼吸置いて、最後の一文を告げた。
「――引き分けを挟んで勝敗数が同じ場合は、大将戦の結果で勝敗を決める」
その場に、再び沈黙が落ちた。
誰も動かない。
シンカーの声だけが、真昼の光の中に残響していた。
「さて……どちらにも“利”のある話だと思うんだけどね。リンド、ヒースクリフ。今ここで、返事を聞かせてほしい」
一拍の間。
そして――ヒースクリフが立ち上がる。
「かまわん」
「だ、団長!?」
団員が慌てて声を上げるが、ヒースクリフはただ静かに振り返った。
「アスナ君」
「はい――必ず勝ちます」
短く、しかし力強い声だった。
その声に、血盟騎士団の団員たちの胸が一斉に震えた。
ざわざわざわ……
沈黙が、波のように揺れ始める。
ニコが杖をくるくると回しながら、軽く肩をすくめた。
「どうしますー、団長?」
リンドはしばらく何も言わなかった。
沈黙の中で、瞳だけが鋭く光る。
そして、低く静かに告げた。
「いいだろう。受けよう」
その瞬間、場の空気が切り替わった。
シンカーが小さく頷く。
「では――本日の会談は、ここまでとする」
議場を包む静寂の中、聖龍連合の面々が立ち上がる。
扉が開かれ、重い足音が廊下に消えていった。
ーーーーーーーー
――残されたのは、血盟騎士団とアインクラッド解放軍だけだった。
キリトが一歩、前に出る。
「……シンカー。本当に大丈夫なのか。風林火山に、あんな条件を出して」
シンカーは苦笑した。
「ははは。僕はね、組織を立て直すのは得意なんだ」
少し肩をすくめ、冗談めかして続ける。
「それに――最前線から離れてた間に、新しい人脈と資源も見つけてね。心配いらないよ」
アスナが静かに尋ねた。
「……シンカーさん」
シンカーはその視線を受け止め、真剣な声で言った。
「一つ忠告しておく。勝敗によって生じる取り決めは――何一つ、齟齬なく実行させてもらう。いいね?」
その言葉に、アスナはまっすぐ頷いた。
「……はい」
シンカーはわずかに微笑む。
「……僕にできるのは、ここまでだ。あとは――君たちが自分の力で、切り開くんだ」
アスナは静かに頭を下げた。
「……はい。必ず」
光が、ゆっくりと窓から差し込む。
長い影が会議室を横切る。
それはまるで、夜明けの前に射す一筋の光――
次の“決闘”の幕開けを告げるようだった。