ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
第62層攻略・「突入前」
塔内の空気は乾いて冷たい。広い前庭に整列した部隊の靴底が、石を薄く鳴らすたび、その冷たさが足裏から脛へと上ってくる。篝火は最低限。炎の赤は隊列の金具を一瞬だけ照らし、すぐ闇に沈めた。
長卓での作戦会議は、すでに終わっている。配置は固まった。速度・角度・声――三つを揃える。割った直後に壊さない。中衛は“退きの一拍”を置く。その理屈は、地図上で充分に確認した。理屈は理屈。ここからは、体温のある現場に落とし込む時間だ。
整列の列を小さく横切って、アスナは前衛の定位置から半歩だけ下がる。中衛先頭、彼女の真後ろに立つ銀髪の少女が目に入る。いつもと同じ、柔らかな微笑。どの団員に向けるのとも同じ温度で、アスナにも向けられる。
「――ティンクル」
呼びかけると、彼女は頷いた
「うん。どうしたの、アスナ」
「さっきの確認、もう一度だけ。割った直後、私が“止める”を出したら――」
「僕が“退きの一拍”を置く。側面の芽を摘んで、後ろに息を返す」
「ありがとう。私が速くなりすぎたら?」
「右足が三歩目に乗る直前で、肩を一度だけ止める合図をする。わかりやすくするね」
「頼りにしてる」
「うん。合わせるよ、アスナ」
それだけで十分だった。会議で決めた理論が、目の前の“人”との約束に置き換わる。アスナは前へ戻り、レイピアの柄に軽く触れる。柄の革が、指先の汗を柔らかく受け止めた。
列の端から、小さなざわめきが風に乗って流れてくる。
「……本当に中衛なのか?」
「前じゃないの、もったいなくね」
「押し切るなら前の方が――」
声は低いが、熱はある。アスナが振り返るより先に、前衛左のジョンが一歩だけ出た。睨むでも、怒鳴るでもない。顔を動かさず、肩の向きだけで「黙れ」を示す。視線が一斉に引き下がり、ざわめきは石の目地に吸い込まれていった。
中衛列のティンクルは、何事もないように隊列の呼吸だけを見ている。前、横、後ろ。三方向の足音が一つにまとまる瞬間に、彼女の顎がごくわずかに沈む。それだけで、中衛全体の肩が同じ高さに揃うのが分かった。彼女は気にしていない。周りも、彼女が気にしていないことを一拍で理解して、気にするのをやめる。
右手の列で、リオが拳を握りしめるのが見えた。緊張で肩が少し上がっている。アスナが視線だけ送ると、ティンクルが彼へ目をやり、唇だけ「大丈夫」と形を作る。リオの肩がすっと落ちる。後列ではシリカがポーチの紐を締め直し、薬瓶の並びを整えているセラフィナの指先は、いつも通り滑らかだ。補給線を担うエギルが荷を一度揺すり、重さの偏りを確かめる。キリトは後列の端で、アスナとティンクルの背中を見比べると、口の端だけで小さく笑ってうなずいた。
篝火が一つ、薪を落として火の背を低くする。代わりに、塔内へ続く巨大扉の継ぎ目から、薄い冷気が流れ込んだ。扉番がヒースクリフへ目で合図を送る。団長は十字盾をわずかに傾け、全体を一度見渡しただけで頷く。声は短く、乾いた石に染み込むように落ちる。
「突入。――速度、角度、声。三つを揃えろ」
アスナは右手を肩の高さまで上げる。掌を見せてから、空を掴むように前へ送る。
「前」
最小限の一語が、隊列の芯をつくる。前衛の三列が同じ歩幅で動き出し、石床に規則的な音を刻む。中衛先頭――ティンクルが半拍遅れて滑り込み、前衛の進角と角度をなぞる。後衛の靴音はさらに半拍遅れて重なり、音の層が厚みを増す。
扉が軋む。冷気が一段強くなる。アスナの背に、ふっと柔らかな声が届いた。
「“退きの一拍”、僕に任せて」
「お願い」
それだけ。交わされたのは二語ずつの会話。けれど、前庭に漂っていた余計な熱が、すうっと引いていくのがわかる。理屈ではなく、現場の安心。中衛が“そこにいる”という事実が、前衛の視野を広げ、後衛の手元を軽くする。
扉が開き切る直前、列の右端から再び小さな声が漏れた。
「なあ、本当に前じゃ――」
ジョンが今度は首だけわずかに傾けた。言葉は出ない。だが十分だった。空気は乱れない。ティンクルは前へ半歩寄り、アスナの利き手側の死角に自分の肩を滑り込ませる。前へ出たい誰かの足が、無意識にその“肩”の存在で速度を合わせる。
扉が開く。暗い広間。六つの外殻を持つ巨体の影が、遠い火の色を背にゆっくり呼吸している。天井は高く、音は乾いて返る。視界の端で、セラフィナの回復隊が巻きを解き、エギルの補給線が列の密度を一定に保つ。中衛の二列目が弓をわずかに下げ、狙いの高さだけを確認する。
ヒースクリフの声がもう一度。
「角度、五十五から三十の間――」
アスナは右へ滑る。前衛の骨組みがつられて同角度に回り、刃先が同じ扇を描く。ティンクルはその扇の“開きすぎる縁”へ肩を置き、踏み越えそうな足を一瞬だけ止める。止めるというより、迷わせない。足は自然に正しい位置に落ちる。
アスナは振り向かない。けれど、背中の向こうで何が起きているかは、音で分かる。中衛の靴音が、前衛のそれと“重なる場所”を選んで進んでいる。だから、自分は死角を気にしないでいい。目の前の速度と角度だけに、全集中を割ける。
「押す」
アスナの二語目。列が一段深く沈み、前へ。ティンクルの足音が半拍だけ遅れて重なり、側面から入ろうとした細い影を刈り取る音が小さく弾ける。
――これなら、いける。
言葉にしない確信が、隊列全体の肩の高さを揃える。初撃のための距離が縮まり、刃の軌道が互いの風を殺さない角度に収束する。ヒースクリフがわずかに盾を引いた。合図は要らない。合図はもう、ここに揃っている。
最後の一歩。アスナの喉が、次の一語を整える。
「止める」
扉の影の向こうで、巨体の外殻がわずかに開いた。初手の“割り”に最適な角度。前衛の刃が、同じ軸を通って伸びる。中衛のティンクルは、前衛の背と背の間に生まれる細い隙間へ正確に入り、後衛へ“退きの一拍”を返す準備を終えていた。
理屈は、もう理屈じゃない。声と足と金具の鳴る音で確かめ合った“現場”になっている。
巨体が咆哮する直前、アスナはほんの少しだけ肩を後ろへ引いた。振り返らずに、確信だけを置く。
「ティンクル」
「うん」
短い相槌。十分だ。
前衛の靴が、同じ音で床を打つ。刃が光を拾い、六分割の外殻へ、最初の線を刻みにいく。
――突入。
ーーーーーー
巨体の外殻が音を立てて開いた。六枚の黒い殻板が互い違いにめくれ、中心に赤い核が脈打つ。床面には円環状の文様——踏み込み時に“滑り”を生む罠刻が淡く点る。
「右三、角度三十で“割る”。声は短く」
アスナの合図に、前衛列が扇状に展開する。刃が同じ高さで弧を描き、最初の外殻へ“面”で圧を乗せた。金属の芯が鳴る、乾いた良い音。殻板の関節に微細な亀裂が走る。
その背後——中衛先頭のティンクルは、前衛の“弧”が開きすぎる縁に肩を滑らせ、踏み越えそうな足へ、ごく短い「待って」の気圧を置く。声は要らない。足の置き直しが自然に揃う。
殻板が反動で跳ね、床の文様が一斉に強く光った。滑り罠。アスナが右足を着き替えるより早く、ティンクルの靴先が文様の縁を一度だけ“踏み潰す”。光が一段弱まり、前衛の踏み込みが失われない。
(——助かる)
アスナは前だけを見る。死角を気にせず、速度と角度に全集中を割ける。二手目の合図。
「押す。——いま」
前衛の三列が同時に一歩、深く沈む。核の赤が脈動し、外殻裏から針状の射出体が弾けた。中衛のティンクルが半身で受け流し、当たり損ねた針を足甲で撥ね返して後衛の射線から外す。続けざま、側面から湧いた分裂個体へ短い直剣の一閃。派手な音ではないが、確実に“芽”だけを摘む角度。
「後ろ、息返す」
声が一つ。セラフィナの回復が必要なところへだけ届き、余計な投薬が起きない。エギルの補給線が一本、前へ寄っては戻り、列の密度が崩れない。
右端で誰かが小さく呟いた。
「……やっぱ前に出した方が——」
言葉は最後まで出なかった。ジョンが視線を一度だけ送る。中衛の呼吸は乱れず、ティンクルは平然とその視線さえ“空気のノイズ”として吸い込み、隊列の足並みを同じ高さにそろえ直す。
外殻が第二段階。隙間風のような振動が床を走る。アスナは核への“直線”を捨て、斜めの連突へ切り替える。
「角度、二十——“止める”!」
刃先が核の前で寸止めし、その手前で殻の関節だけを断つ。前衛の風が乱れない。ティンクルはその“止め”の瞬間に退路を一本、薄く敷く。右の肩越しに戻る空気の道——後衛の詠唱者がそこへ重心を逃し、詠唱を切らずに済む。
(わかってはいたけど、やっぱり——中衛)
アスナは胸の内で短く頷き、速度を一段上げる。死角を気にしない世界は、こんなにも静かに速い。刃の“次”を組み替える余白がある。隊の温度は一定のまま、熱だけが前へ。
分裂個体が中段から飛び、リオの肩口へ食いつこうとした。ティンクルの直剣が、ほとんど音もなくそこだけを払う。リオが「ありがとうございます!」と弾む声を出しかけ、ティンクルは微笑のまま親指だけ小さく立てる。声は出さない。列は走る。
「三拍後、“割り直し”。合図は——」
「僕が出す」
ティンクルの返答と同時に、外殻の継ぎ目で小さな氷片がはぜる。音が合図になる。前衛の足元がその“音”を追って、遅れも先走りもなく、同じ場所へ落ちる。
核が一瞬だけ露出した。
「——いま」
アスナの突きが、赤の鼓動の“間”を穿つ。金属ではない、柔肉に似た手応え。核が痙攣し、外殻が一枚、力を失って垂れた。
「速度、維持。角度、二十五で掃く」
声は短い。列は軽い。中衛のティンクルは、さっきアスナが通した“道”の端にだけ残ったささくれを一本ずつ削り、後衛に飛ぶ細かい破片を払ってから、すぐ前の肩へ戻る。やっていることは地味だが、列の誰もがそれを“楽さ”として受け取っていた。
針の雨。床の罠刻が一斉に強光。視界が白む。アスナが目を細めるより早く、ティンクルが短く告げる。
「右二、目を閉じないで。僕の肩だけ見て」
言葉と同時に、彼女の肩が一度だけ上下する。右二列の視線が“肩”へ集まり、白光の中でも足が迷わない。アスナは笑みの気配だけを口元に置き、核へもう一段“深い”線を刻む。
前衛が崩れない。中衛が騒がない。後衛が焦らない。——温度が一定のまま、戦闘は確実に“終わり”へ収束していく。
ーーーーー
核の鼓動が、一拍、二拍と間延びして、やがて沈む。最後の外殻が自重で落ち、石床に鈍い音を残した。アスナは刃を引き、肩で一度だけ呼吸を整える。
「止め。——終わり」
その一語で、全体の動きがほどける。武具の金具が小さく触れ合い、安堵の笑いが点々と生まれる。セラフィナが「出血、ゼロ確認」と短く言い、エギルが補給線を巻き取りながら「崩れなし」と付け加える。たリオは胸を押さえて大きく息を吐き、「やりました……!」と弾む声。シリカは仲間の装備の埃をはたきながら、ほっと笑った。
「……見たかよ。中衛でこれだぞ」
「前に置く理由、なくなったな」
「いや最初から“中衛”って決まってたらしい……団長と副団長の読み、すげぇ」
列の端で飛び交ったささやきに、ジョンは何も言わない。言わない代わりに、隊全体を一度ぐるりと見回し、その視線で“よし”を配る。視線が合った者から順に頷き返し、音もなく胸が軽くなる。
ティンクルは、いつも通りのやわらかな笑みで周囲の顔を見ていく。派手な言葉はない。剣を拭き、鞘に戻す手つきは落ち着いている。リオが駆け寄って深く頭を下げかけるのを、彼女は手のひらを立てて「大丈夫」を示す——その仕草だけで、礼の言葉は自然と短くなる。
「ありがとう、ティンクルさん! その……その……」
「うん。よく見えてたよ、リオ君。次も、同じ場所に立とう」
短い言葉で、十分に満ちる。リオは顔を真っ赤にしながらも、背筋を伸ばして「はい!」と答えた。シリカも「おつかれさまです」と頭を下げ、ティンクルは「シリカの回し、助かったよ」と同じ温度で返す。温度が同じだから、輪が乱れない。
アスナはレイピアの柄を軽く叩いて鞘に収め、振り返る。視線が合うと、ティンクルはいつもの笑みで一度だけ頷いた。
「お見事、アスナ」
「あなたのおかげ。——死角を一つも気にしなかったの、久しぶりだわ」
「うん。次は、もっと楽にするよ」
互いの言葉は短い。けれど、会議室の理屈で整えた関係が、戦場の空気で確かな“現場”へ変わったことを、二人ともよく分かっていた。
撤収の合図がかかる。戦利品の確認、罠刻の消去、負傷者の最終チェック。全てが手順通りに運び、誰一人取りこぼさない。ヒースクリフは隊列の最後尾を静かに歩きながら、崩れのない足並みを一度だけ見渡し、十字盾をわずかに傾けた。それだけで充分だった。
出口の大扉を抜け、冷たい外気が肺を洗う。塔外の篝火が一段明るく見える。戻る途中、列の後ろでまた誰かが囁いた。
「……それにしても、なんで最初に“前じゃないのか”なんて言ったんだ俺ら」
「見えてなかったんだよ。あの“退きの一拍”が、どれだけ前を軽くしてるか」
「次からは最初から黙っとくわ……」
ジョンが横から「最初から黙っとけ」とだけ言って、小さく笑いが走る。張り詰めていたものが、完全にほどけた。
隊列が本部へと流れ込み、報告の列が整う。アスナは短い総括をまとめ、ヒースクリフへ提出する前に、中庭の影でティンクルにだけ一言だけ付け足した。
「——ありがとう。あの“退き”、完璧だった」
「うん。次は、アスナの“押す”を、もう一段速くする準備をするね」
柔らかな微笑。誰に向けるのとも同じ温度。けれどアスナは、自分の肩が一段と軽くなっているのを確かに感じた。
完勝。大きな歓声も、誇張もない。それでも、全員の足取りは帰路で自然に揃っていた。速度・角度・声——三つは、突入前よりもさらに同じ高さで揃っている。
62層は抜けた。次の階へ、同じ温度で進む準備は整っている。
ーーーーーー
鐘の余韻がまだ天井に残っていた。勝利の表示が消え、転移結晶で拠点へ戻った部隊は、石造りの広間へ三々五々集まる。油灯が一段明るさを増し、疲労と達成感が混ざる匂いが漂った。
「副団長、こっちで回復液の補充を」「了解、ありがとう」
アスナは短く礼を返し、視線を巡らせる。負傷は軽微。崩れた陣形もなし。前衛の刃は一度も鈍らず、後衛の詠唱は中断ゼロ。――要所要所で、前後の“間”を受け止めていた銀髪が目に入る。
「お疲れさま、アスナ」
透き通る声。振り向けば、ティンクルが柔らかい笑みで立っていた。汗で額の髪がわずかに貼りつき、呼吸は落ち着いている。剣は既に納められ、柄頭が淡く光を返す。
「ティンクルも。完璧だったわ」
「みんなが動きやすいように、少しだけ間を整えただけだよ」
その言い方はいつも謙虚で、温度が揺れない。アスナは頷き、声を潜める。
「……“理論通り”が、“手触り”になった。今日の中衛配置で」
「うん。アスナの足が、一度も詰まらなかった。とても綺麗だったよ」
交わす言葉は短い。けれどその一往復で、会議室の図上にあった線が、血の通った実感へ着地する。
と――。
「まいどー! いやぁ、圧勝やったんやって?」
広間の入口から、からりと明るい声。フードを軽く弾ませ、情報屋アルゴが手を振って入ってくる。ざわ、と空気が緩み、笑いが散った。
「アルゴ」
「アルゴさん、こんにちは」
「久々やな、クルちゃん。……お、すっかり“血盟の白”が似合っとるやん」
「ふふ、おかげさまで」
アルゴは顎でバトルホールの奥を指し、「で、今日はちょいと伝言持ってきただけでな」と言いかけたところで、近習が駆けてくる。
「副団長、団長が執務室へ。至急とのことです」
「わかりました」
アスナはアルゴに向き直る。「――ティンクルを質問攻めにしないでね」
「りょーかいりょーかい。今日は“氷姫の自慢話”は一問だけにしとくわ」
アスナは微笑み、駆け足で広間を後にした。背後でアルゴの声が弾む。
「しかし中衛とはびっくりやで……ローちゃん――《聖龍連合》のロニエちゃんからの伝言もあってな、クルちゃん――」
言い切る前に、扉が閉まり、音は遠ざかった。
◆
血盟騎士団本部・執務室。石壁の静けさが耳を洗う。
「入れ」
低く落ち着いた声に押され、アスナは扉を閉める。机上の記録、壁の地図、整然と置かれた十字盾。ヒースクリフは羽ペンを置き、視線で座るよう促した。
「ご苦労だった。負傷ゼロ、撤退なし、殲滅時間は想定内だ」
「はい」
報告とともに、先ほどの戦闘が脳裏で巻き戻る。前衛の切っ先が空気を割り、背後で紡がれる詠唱が音の層を重ねる。その間を、銀の影が静かに繋ぎ留めていた。
「……何か、吹っ切れたようだな」
唐突に、その一言。アスナは目を瞬く。
「団長?」
「表情が良い。今日の前衛は“打つために立っていた”。守るためにではなく、進むために。――中衛に置いた意味が、ようやく君の筋肉にまで落ちた」
言葉は乾いているのに、不思議と温度がある。アスナはわずかに笑み、素直に頷く。
「彼女がいる意味に、身体が気づきました。……私の死角は、今日、一度も怖くなかった」
「良い答えだ」
ヒースクリフは椅子に深く背を預け、指先を軽く組む。
「多くは“氷姫の刃”を前に置きたがる。だが彼女の最大値は、刃を増やすことではない。――“温度を保つ”ことだ」
「温度……」
「戦場に熱を上げるのは容易い。勝ちを焦がすのも容易い。だが温度が荒れれば、兵の肺は乱れ、詠唱は震え、剣は鈍る。今日、前線が最後まで呼吸を乱さなかったのは、あの一人が“間”を受けたからだ」
アスナは深く息を吸い、静かに吐いた。自分の鼓動が、説明のリズムに重なる。
「――はい」
「次の層でも同様に運用する。だが一つ、勘違いをするな」
「……?」
「“頼る”と“預ける”は違う。ティンクル君に頼るな。預けろ。役割を、だ」
アスナの瞳がすっと強くなる。ヒースクリフは短く頷いた。
「頼れば、責任は曖昧になる。預ければ、責任は分解される。君は前衛の“軸”を置け。彼女は“間”を置く。――それだけだ」
「了解しました」
立ち上がろうとしたアスナに、ヒースクリフはもう一言。
「副団長」
「はい」
「君の“嫉妬”は適温だ。上げるな。下げるな。――今日の温度を保て」
アスナは微笑み、敬礼した。
「維持します」
扉が閉まる。廊下の空気が少し甘く感じられた。階段を降りる足取りは、戦前よりも軽い。言葉が、骨に変わった気がしている。
ーーーーーー
広間へ戻ると、人の輪の中心にティンクルがいた。取り囲むでも、崇めるでもなく――ただ自然に“そこ”に彼女がいる、という形の輪。アルゴは既に姿を消している。
「アルゴは?」
「少し話したら、別のところへ行ったよ」
ティンクルが答える隣に、黒衣の少年がいる。キリトだ。腕を組み、少し困ったように笑ってこちらを見た。
「今回はすんなり終わってよかったよ。お疲れ、アスナ」
「キリト君もね。後衛の盾、助かったわ」
「いや、ティンクルが“間”を作ってくれたおかげで詠唱の隙が消えた。……それにしてもさ」
キリトはティンクルを振り向く。
「いつもはティンクルと写真撮りたい連中が押し寄せるのに、今日は全然だな。さすが血盟の結界、ってやつか」
「ふふ、そうだね。落ち着けるから助かるよ」
「なぁティンクル。今度、全力で手合わせしよう」
不意の誘い。アスナは即座に横から割って入る。
「キリト君。ティンクルはやっと団に馴染んで、落ち着いてきたところなのよ」
「いや、強いやつとは剣を交えたいんだよ。……それにさ、昔のアスナなんて、強い奴を見つけたらそりゃもう――」
「キ・リ・ト・君?」
「……わ、わかった! すまん、ティンクル」
「ふふ、いいよ。今度やろうか」
「ほんとか? 約束だぞ」
軽口に、ティンクルの微笑は崩れない。その穏やかさに、キリトも肩の力を抜いた。
「アスナさん、すごかったです!」
澄んだ声が駆けてくる。シリカだ。翼の影のように軽い足取りで近づき、目を輝かせる。
「前に出たアスナさんの一歩目、いつもより迷いがなかった。ティンクルさんが右の回り込みを全部消してくれてたから」
「ありがとう、シリカ。後ろを守ってくれて助かったわ」
「いえっ。キリトさんと二人で、“安全第一”の指差し確認、ばっちりでした!」
キリトが苦笑で頷く。
「シリカが“詠唱ライン、クリア!”って毎回言うんだよ。あれ、クセになるな」
「安全第一は大事です!」
微笑ましいやり取りに、ティンクルが頷く。
「シリカの声、すごく良かった。あれがあると、全員の呼吸が揃う」
「ほ、本当ですか? よかった……!」
その時――。
「ティンクルさん!」
駆け寄ってきた若者が、つい声を少し上ずらせた。リオ君だ。頬は紅潮、目は真っ直ぐ。
「本当に……本当に、すごかったです! 中衛って、あんなに前も後ろも見えるんですね」
「リオ君の左足の踏み替え、良かったよ。あれで前衛の回転が一段上がった」
「えっ、見えてたんですか!? ぼ、僕、もっと練習します!」
横から、分厚い影が差す。ジョンが腕を組み、口角だけで笑った。
「隊列、乱れなし。……終わってから言うのもなんだが、良い中衛だった」
「ジョンの声が前に届いてた。助かった」
続いて、白衣の裾を揺らしながらセラフィナが歩み寄る。薬瓶の香りがかすかに残る。
「治癒魔法、今日は“温存”が成立したわ。あなたが小さく潰してくれた“芽”のおかげ。ありがと」
「セラフィナの判断が早いから、安心して前に渡せたよ」
最後に、寡黙な巨躯が影を落とす。ブリュノだ。言葉は短い。
「……よかった」
「うん」
それだけで十分に伝わる会話もある。アスナは少し離れた位置から、その一人一人の顔と、ティンクルの返す言葉の温度を見ていた。称賛を受けても、彼女は決して上に立たない。相手の働きを挟んで返す。その在り方が、広間の温度を静かに整えていく。
「アスナ」
名を呼ばれて向き直ると、ティンクルがいつもの微笑で立っている。
「さっきの続き。……ありがとう」
「こちらこそ。――ねえ、今度、みんなで食事をしましょう。温かいのを、ちゃんと」
「うん。僕、運ぶの得意だよ」
「落とさないでね?」
「落とさない。たぶん」
「“たぶん”は外して」
「努力するよ」
二人のやり取りに、キリトが肩で笑う。シリカは両手を合わせて「わぁ、やった!」とはしゃぎ、リオは「配膳、手伝わせてください!」と挙手した。ジョンは無言で親指を立て、セラフィナは「胃腸薬も用意しておくわ」と涼しく囁き、ブリュノは小さく「……食う」とだけ言った。
どこかで誰かが冗談を言い、笑いが波紋のように広がる。勝利の夜は、喧噪ではなく、静かな満ち足りた気配で満たされていく。
アスナはその中心に立つティンクルを見つめ、柔らかな眼差しを送った。今日の戦いで、彼女の“意味”は、はっきりと皆の身体に刻まれた。会議で決めた理論は現場の呼吸となり、次の一歩のための自信へと変わった。
――大丈夫。揺れない。
灯りが一段明るくなる。明日の準備が始まる合図だ。血盟騎士団の夜は、規律の中に、ささやかな幸福を溶かして流れていく。アスナはその流れに歩幅を合わせ、皆と同じ方向へ歩き出した。