ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記―   作:へーちょ

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     焦燥の朝

 

 

 

 

 

 

夜明け前の空気はまだ冷たく、訓練場の地面には霜がうっすらと残っていた。

 空の端が白く滲み始める頃、金属の擦れる音が静寂を切り裂いた。

 

アスナとリオが、向かい合っていた。

 互いに抜いたのは実剣――ただし訓練用のセーフティをかけた状態だ。

 それでも、刃がぶつかるたびに空気が鳴る。

 

「リオ君、もっと集中して」

 アスナの声は張り詰めた糸のように鋭い。

 

「私の剣、そして自分と自分の剣だけに意識を向けて。上半身と下半身、動きを分断しないで」

 

「はい、アスナさん!」

 

リオの返事は力強かった。

 だがその腕には、わずかな震えが宿っていた。

 攻撃を受けるたびに、筋肉の反発が遅れ、重心が揺れる。

 それでも彼は止まらない――止まることを、自分に許していなかった。

 

剣と剣がぶつかる音が、朝靄の中で響き渡る。

 汗が飛び、呼吸が荒くなる。

 だがその顔には、迷いよりも“焦り”が刻まれていた。

 

訓練場の外周。

 ティンクルとキリトが並んで、その様子を黙って見ていた。

 

ティンクルの表情はいつものように穏やかで、何も語らない。

 ただ、リオの動きを追う視線の奥に、かすかな憂いの影が見えた。

 キリトは腕を組み、目の奥に計算の光を宿しながら、

 剣筋の流れを一つひとつ読み取っていた。

 

「……朝からやってるのねー」

 

背後から聞こえた声に、キリトが肩越しに振り返る。

 

リズとシリカが小走りでやって来た。

 シリカは寝癖の残る髪を押さえながら、あくびを噛み殺している。

 

「お、リズ。それにシリカか」

 

「どうなの、リオの調子は?」

 

キリトはわずかに口角を上げた。

「悪くない。最近は特に動きが良くなってきた。……真剣だからな」

 

訓練は続く。

 アスナの剣筋は迷いがなく、すべてが指導と試験を兼ねた軌道だった。

 リオはそれを必死に追いかける。

 刃と刃が火花を散らし、空気が焦げるような緊張が場を包む。

 

キリトは腰のポーチから一枚の紙を取り出した。

 視線を落とすと、そこには整然と記された名前が並んでいた。

 

 

 

 

血盟騎士団代表

先鋒:ティンクル

中堅:リオ

大将:アスナ

 

 

 

聖龍連合代表

先鋒:ロニエ

中堅:ライド

大将:ニコ

 

 

 

 

 

「ロニエが先鋒、大将がニコ、か……」

 

「ニコが大将って、思い切ったわね」

 

リズが顎に指を当ててつぶやく。

 

「ロニエが先鋒ってのも意外だけど」

 

「リオさんの相手は、ライドさんですね」

 シリカが紙を覗き込みながら言う。

 

キリトは頷き、戦う二人へ目を戻す。

「実力を出し切れれば、勝機はある。……ただ――」

 

「ただ?」

 リズが眉を上げる。

 

キリトは息を吸い、低く答えた。

「焦ってる。剣が、それを隠しきれてない」

 

リオの剣は確かに速かった。だが、速すぎた。

 “勝たなきゃ”という思いが、動きを乱している。

 

「なぁティンクル。昨日もこの調子だったのか?」

 

「うん。時間のある限り、ずっと特訓してる。昨日だけじゃない。代表に選ばれてから毎日」

 

「そうか……」

 キリトが短く息を吐く。

 

「ただでさえ努力家なのにな」

 

リズが小さくため息をつく。

「頑張り屋も、時々は休まなきゃね」

 

 

 

⸻

 

 

 

アスナの剣が弾かれ、リオの攻撃が止まる。

「……ここまでにしましょう」

 アスナが剣を下ろす。

 

「少し休んで。無理をしても、感覚は鈍るだけよ」

 

「まだ、大丈夫です」

 リオは息を荒げながらも、足を引かなかった。

 

「もう一度、お願いします!」

 

アスナは一瞬、言葉を探すように彼を見つめた。

 そして、ゆるく首を振る。

「ダメ。今日はここまで」

 

「……」

 リオは唇を噛み、視線を落とした。

 その姿を見ていたキリトが、静かに声をかけた。

 

「リオ、俺とやるか?」

 

リオがはっと顔を上げる。

「お願いします!」

 

「おいおい、本気か? かなり疲れてるだろ」

 

「大丈夫です! お願いします、キリトさん!」

 

その瞳はまっすぐだった。

 挑戦というより、縋るような光が宿っていた。

 

キリトは少しだけ笑って肩をすくめる。

「……わかった。でも無理だと思ったら止めるぞ」

 

「はい!」

 

二人が向かい合う。

 訓練場の空気が、再び張り詰める。

 

金属が擦れ、踏み込みの音が響く。

 キリトの剣が弾き、リオの剣が跳ね上がる。

 連続する斬撃と防御。

 だがキリトの目は、少年の“技”ではなく“焦り”を見ていた。

 

「……あちゃー」

 リズが肩を落とす。

「完全に無理してる顔ね」

 

アスナが静かに頷く。

「普段は素直に言うことを聞く子なんだけど、こういうときは止まらないの」

 

「本番までに倒れたらどうするんですか……」

 シリカが不安げに呟く。

 

「…」

 ティンクルはただ、静かにその光景を見ていた。

 

 

 

 

――――

 

 

 

昼下がり。

 食堂にはスープと焼きパンの香りが広がっていた。

 テーブルの上には六人分の食器が並び、会話の音が穏やかに響く。

 

アスナが端末を見ながら言った。

「聖龍連合と黄金林檎、81層ボスを攻略したみたい」

 

キリトがスプーンを止める。

「無事か?」

 

「ええ。損害もほとんどなし。完勝、ね」

 

「へぇ……やるじゃない」

 リズが感心したように笑う。

 

「さすが聖龍、調整の早さが違うわね」

 

「まぁ、あのメンツだからな。無事でよかった」

 キリトが頷く。

 

その隣で、リオは黙々とスープをすくっていた。

 話に加わることもなく、ただ視線を落としたまま。

 

「リオ君?」

 アスナが呼ぶが、反応がない。

 

 キリトが肩を叩いた。

「おい、リオ。聞いてるか?」

 

「……え? あ、はい。なんですか?」

 

「聖龍と黄金林檎の話。聞いてたか?」

 

「はい、81層を攻略できたんですよね」

 

リズが苦笑する。

「ぼーっとしてたわよ。疲れてるんじゃない?」

 

「全然です。ちょっと考え事をしてて……」

 リオは曖昧に笑い、パンを口に運ぶ。

 その手はわずかに震えていた。

 

ティンクルは何も言わなかった。

 ただ、少年の背に落ちる光を見つめていた。

 

「食べ終わったので、僕はお先に失礼します」

 

「リオ君、また特訓するつもり?」

アスナの声に、少年は少しだけ迷って頷いた。

 

「はい」

 

「無理しないでね。倒れたら意味ないわよ」

 

「大丈夫です。それじゃ」

 

リオは静かに席を立ち、出口へ向かう。

 キリトがその背を目で追いながら、ぽつりと呟いた。

 

「……焦ってるな」

 

リズもシリカも、何も言わなかった。

 ただ、スプーンの音が静かに響く。

 

“焦燥”という名の炎が、誰にも見えないところで燃えていた。

 

 

 

昼下がりの食堂。

 差し込む光が淡く、机の上に落ちた影がゆっくりと伸びていた。

 六人のうち五人――キリト、アスナ、リズ、シリカ、ティンクル――が、

 それぞれ椅子に腰かけていた。

 

テーブルの上には、半分飲みかけの紅茶とスコーン。

 だが誰も手をつけようとしない。

 先ほどまでの食堂の静けさが、まだ空気に残っていた。

 

「……たぶん、責任を感じてるんです」

 沈黙を破ったのは、シリカだった。

 小さく俯いたまま、手をぎゅっと握っている。

 

「責任?」

 リズが片眉を上げる。

 

「だって……アスナさんとティンクルさん、その二人に並んで代表に選ばれたんですよ?私だったら、絶対焦ります。“自分が足を引っ張るかもしれない”って、怖くなると思います」

 

リズは腕を組んで、椅子の背にもたれた。

「うーん、まぁ、確かに……」

 

キリトが腕をほどき、静かに言葉を継ぐ。

「でもリオは、本当に強くなった。そこらのプレイヤーじゃ相手にもならない。

 焦る必要なんて、ないんだけどな」

 

シリカがうなずく。

「それでも……本人がそう思えないんですよね、きっと」

 

室内に沈黙が戻る。

 窓の外では、風に揺れた木の影が壁に模様を描いていた。

 

リズが勢いよく立ち上がる。

「――よっし、しょうがない!ここは私に任せなさい!」

 

全員が顔を上げた。

 

リズは腰に手を当て、どや顔で答えた。

「息抜き作戦よ! このままだとあの子、潰れちゃう!」

 

キリトが半眼で言う。

「……どうする気だ?」

 

リズの口元がにやりと上がった。

「ふふふふ。リズベットの名にかけて、必ず笑顔を取り戻させてみせる!」

 

 

 

――――

 

 

 

――訓練場。

 

剣の打ち合う音が遠くで響く中、リズとシリカは物陰に隠れて様子をうかがっていた。

 

「作戦その1。好きなことで誘う作戦!」

 リズが胸を張る。

 

「リオ、絵を描くのが好きでしょ? なら、見るのも好きなはず!」

 リズは自慢げにポケットから小さなカードを取り出した。

 

「じゃーん!絵画展の入場券! しかも抽選じゃないと手に入らないやつよ!」

 

「すごい……! どうやって入手したんですか?」

 シリカが目を丸くする。

 

リズは得意げにウインクした。

「ふっふっふ。日頃の行い、ってやつ!」

 

「……日頃の行いで絵画展チケットが出てくる世界、聞いたことないですけど」

 シリカが半分呆れたように突っ込む。

 

そこへ、汗を拭きながらリオが訓練を終えて歩いてきた。

 

リズは小走りで駆け寄り、勢いよく差し出した。

「ねえリオ!これ見て!」

 

「えっ?」

 

「絵画展のチケット! ちょうど明日までなの! 一緒に行こうよ!」

 

リオは目を瞬かせ、少し困ったように笑った。

「ありがとうございます。でも……今は、訓練で手一杯で……」

 

「えぇー!? でも、好きなんでしょ?絵!」

 

「……はい。でも、今は鍛錬に集中したいんです」

 

リズが口をぱくぱくさせる。

 シリカが小声で「リズさん……失敗です」と囁いた。

 

「……ま、まだ次があるわ!」

 

 

 

――――

 

 

 

――血盟騎士団、本部前。

 

「作戦その2! レア素材で釣る作戦!」

 リズが気合いを入れて拳を握る。

 

「今、限定モンスターが湧いてるの知ってる? 最前線のプレイヤーなら、あの素材は喉から手が出るほどほしいはず!」

 

「……でも、単に“釣る”って言い方、なんかいやな予感しかしないですけど」

 

「いいのいいの! とにかく外に連れ出すのが目的よ!」

 

二人がわくわくと構えていると、またリオが通りかかった。

 リズが勢いよく声をかける。

 

「リオ!今ね、限定レアモンスター出てるの! 一緒に行かない?」

 

「えっ、今からですか?」

 

「うん、今から! 軽く素材集めのつもりで!」

 

リオは一瞬だけ考えたが、すぐに首を横に振った。

「……ありがとうございます。でも、僕はまだ修練が足りません」

 

リズの肩がずるりと落ちる。

 シリカがそっと背中を叩いた。

「……失敗ですね」

 

「な、なんでこうなるのよー!」

 リズが頭を抱える。

 

「絵でもダメ、レア素材でもダメ……もうこうなったら――」

 

 

 

――――

 

 

 

――談話室。

 

「作戦その3! ティンクルに誘ってもらう!」

 リズが机を叩く。

 

「え、僕が?」

 ティンクルが少し驚いたように首を傾げる。

 

「そう! あの子、ティンクルには心開いてる感じするでしょ?みんなでどこか行こうって、ティンクルから“誘う”の!」

 

キリトが腕を組みながらぼそっと言う。

「……成功率100パーって顔してるな」

 

「当然!」

 リズは胸を張る。

 

 

 

数十分後。

 ティンクルが廊下の奥から戻ってきた。

 リズたちはそわそわと立ち上がる。

 

「どうだった?成功でしょ!?」

 

ティンクルは静かに首を振った。

「だめだね。断られたよ」

 

「えーーー! なんでぇぇ!」

 リズが机に突っ伏す。

 

キリトは苦笑しながら肩を竦めた。

「……重症だな、こりゃ」

 

アスナも腕を組み、目を伏せる。

「……気持ちはわかるけど、このままじゃ倒れるわ」

 

 

 

 

 

 

――――

 

 

 

夕刻、再び食堂。

 窓の外は橙に染まり、遠くで鐘が鳴っていた。

 五人は同じ席につき、誰も言葉を発しないまま時間だけが過ぎていく。

 

「……なんてこったい」

 リズが頭を抱える。

 

「どの作戦も全部失敗なんて、初めてよ……」

 

「そっとしておく方がいいんじゃないか?」

 キリトが静かに言う。

 

「でも……今朝の動き、普段より少し鈍かったわ」

 アスナの声は低く、けれど揺らぎがなかった。

 

「いい傾向じゃない」

 

「どうすれば……」

 シリカの声が小さくこぼれる。

 

静寂。

 ティンクルはカップの中の紅茶を見つめたまま、

 ゆっくりと息を吐いた。

 

やがて顔を上げる。

「ねぇ、みんな――」

 

その声に全員が振り向いた。

 ティンクルの表情は穏やかだったが、瞳の奥には強い光が宿っていた。

 

「僕に任せてくれない?」

 

空気が、静かに揺れた。

 その声には、不思議と誰も逆らえなかった。

 

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