ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
午前の光が、石畳の街路を白く照らしていた。
市場の喧噪。露店の声。果実の香りと金属の匂いが混じり合い、人々の笑い声が絶えない。
その中を、一人の少女が歩いていた。
黒髪を短く切りそろえ、白いマントを羽織った姿。腰には小型の短剣――聖龍連合の紋章が刻まれている。
そして、その瞳の奥に宿る光は年齢よりもずっと落ち着いていた。
彼女は、聖龍の少女。ロニエ直属の副官であり、将来を嘱望される存在だった。
買い物袋を抱えながら、彼女は市場の中心を歩いていた。
通りを抜ける風が、衣の裾を揺らす。
そのときだった――耳に入ってきたのは、軽い笑い声だった。
「なぁ、今いちばん勢いあるのって、やっぱ聖龍連合だよな」
「だよな。黄金林檎と組んだんだろ? 81層のボス戦、楽勝だったらしいぜ」
「血盟騎士団ですら80層で苦戦したのに、さすがだよなぁ」
「いっときは“もう終わりだ”なんて言われてたけど、やっぱり聖龍だよねぇ」
人々の声は、どこか誇らしげだった。
少女も、少しだけ口元をゆるめた。
――誇り。
彼女の胸にも確かに、それはあった。
けれど、次の瞬間。
「それに比べて血盟騎士団は何してんだ? 聞いた話じゃ、82層を攻略できないから聖龍に泣きついたってよ」
「なっさけねぇよな! “氷姫”を奪っておいて、それでこのザマだ」
「ほんっと、とんでもない恥さらし。プライドもないのかしら」
「トップギルドの面汚しってやつだな。あはははは!」
笑い声が、刃のように突き刺さる。
少女の足が止まった。
指先が震えた。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
「いいかげんに……やめてください!」
その声は市場のざわめきを一瞬止めた。
振り向いた人々の視線が、少女に集まる。
驚きと、戸惑いと、少しの嘲り。
「……なんだ、聖龍の子か?」
「まさか血盟の味方でもすんの? “氷姫”が恋しいとか?」
笑いが再び広がった。
少女は、何も言い返せなかった。
悔しさと怒りが入り混じり、声にならなかった。
――ただ、目を伏せて立ち尽くした。
小さな拳が、買い物袋の取っ手をきしませる。
――――
聖龍連合本部。
廊下を歩く足音が響く。
ロニエ・聖龍連合副団長。
黒いローブに身を包み、整然とした足取りで歩いていた。
その横顔には、静かな理性と威厳があった。
廊下の突き当たり、木製の扉の前。
そこには一人の団員が立っていた。
「あ、ロニエさん」
団員が姿勢を正す。
「本当なの?」
ロニエの声は静かだが、鋭かった。
「コハルが住民とトラブルになったというのは」
「はい。ただ……少し口論になっただけのようです。ですが、理由を聞いても何も話さないもので」
「そう。わかったわ。あとは私に任せて」
「了解しました」
団員が一礼し、去っていく。
ロニエは静かに扉の前に立ち、ノックした。
「……入るわよ」
――ガチャ。
部屋の中には、少女がいた。
ベッドの端に座り、うつむいたまま手を握っている。
窓から射す橙の光が、肩を照らしていた。
「……ロニエさん」
「コハル」
ロニエは穏やかな声で言い、部屋の中へ入った。
少女――コハルが顔を上げる。
まだ泣いた跡が残っていた。
「珍しいわね。あなたがトラブルなんて」
「……」
「心配しないで。大きな問題ではないわ」
ロニエはベッドのそばに立ち、ゆっくりと腰を下ろした。
その眼差しは、叱るでも慰めるでもない。ただ、静かに見つめていた。
「理由を話さないのが、少し気になるけれど」
ロニエの声に、コハルの肩がわずかに揺れる。
「……」
しばしの沈黙。
ロニエはゆっくり息を吐いた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「――いま、街で噂になってるわね」
「……え?」
「血盟騎士団が聖龍連合に泣きついた。恥さらしなギルド……と」
コハルが、はっと息をのむ。
「コハル。あなたは正義感が強くて、まっすぐな子だわ」
ロニエはまっすぐに見つめる。
「あなたはそれを聞いて――すごく腹が立ったのね。でも理由を話すと、血盟騎士団に肩入れしたように見える。だから言えなかった。……そんなところかしら」
コハルの唇が震えた。
「……ロニエさん、見てたんですか?」
「いいえ。ただ、可能性が一番高いものを言っただけ」
ロニエは肩をすくめて小さく笑う。
「次に可能性が高いのは――変な男にナンパされた、だったけど」
「なっ……な、なに言ってるんですか! 冗談は――!」
「冗談ではないわ」
ロニエは静かに言う。
「コハルは可愛いもの」
「も、もう! ロニエさん……!」
ーーーー
部屋の空気は、まだわずかに張りつめていた。
橙色の光がゆっくりと揺れ、二人の間に長い沈黙が落ちる。
ロニエは黙ってコハルを見つめていた。
コハルは唇をかみ、両手をぎゅっと膝の上で握りしめていた。
「……ロニエさん」
「なにかしら」
コハルは、少し震える声で口を開いた。
「昔……聖龍が街中で悪く言われて、私が泣いてたの……覚えてますか?」
ロニエは少しだけ目を細めた。
「ええ、覚えているわ」
「私、あの時ほんとに悔しくて……」
コハルの声が少しずつ熱を帯びる。
「“血盟騎士団も同じ目に遭えばいい”って……本気でそう思ってたんです。なのに今日、みんなが噂してるのを聞いたら――全然嬉しくなくて。すごく……腹が立って。体が勝手に……動いてました」
その最後の言葉は、ほとんど囁くように消えた。
コハルはうつむいたまま、絞り出すように続ける。
「……ごめんなさい」
ロニエはしばらく何も言わなかった。
静かな時間が、二人の間を満たす。
そして――小さく息を吐いた。
「そうね。あなたがしたことは、組織の一員としては間違った判断よ」
「……はい」
「でも――ひとりの人間としては、何も間違っていないわ」
コハルが顔を上げる。
ロニエの瞳はやさしかった。
「誇りに思いなさい」
「ロニエさん……」
ロニエは立ち上がり、軽く手招きをした。
「こっちへ」
コハルは戸惑いながら立ち上がる。
「え?」
「座って。後ろを向いて」
「……はい」
ロニエは机の上から小さな櫛を取り出した。
光を受けて、銀色の歯がきらりと光る。
コハルが言われるまま椅子に腰を下ろすと、ロニエはその背後に立ち、優しく髪に手を伸ばした。
絡まった髪を梳く音が、部屋の中に静かに響く。
「あ、そんな……ロニエさん」
「いいから」
くしが髪を滑るたび、コハルの肩の力が少しずつ抜けていく。
頬が熱くなり、声がかすかに震えた。
「ロニエさん……やっぱり、上手ですね」
「痛くないかしら?」
「……気持ちいいです」
ロニエの動きはゆるやかで、まるで祈るようだった。
「噂なんて、放っておけばいいわ。すぐにおさまるから」
コハルは小さく頷いた。
「……はい」
しばらく、二人の間には言葉がなかった。
ただ、くしの音と、風がカーテンを揺らす音だけがあった。
やがて、コハルがふっと口を開く。
「でも……次のデュエルの勝負、聖龍にはぜーーったい勝ってほしいです。勝つって信じてます!」
その言葉には、先ほどまでの涙の気配がもうなかった。
ロニエは口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「ええ、もちろんよ」
――――
「コハル」
「はい」
「最近のあなたの成長ぶりは、目を見張るものがあるわ」
「そ、そんな……」
「81層の戦いでも、私たちの動きについてきていたし。団長も、あなたに目をかけている」
コハルは耳まで赤くしながら俯いた。
「そんな……この前も団長に“まだまだだな”って、たくさん指摘されて……」
ロニエは小さく笑う。
「……あの人は不器用だから。自分の気持ちをうまく伝えられないのよ」
「え?」
「中衛はあなたに任せたい。そう思っているはず」
「でも、氷姫さんが来てくれたら……彼女の方が適任じゃないですか?」
「そうね。でも、一人に頼りすぎるのはよいことではないわ」
ロニエはくしを止め、軽くコハルの肩に触れた。
「あなたがサポートに入れば、もっと安定するはず」
コハルは顔を上げ、まっすぐ頷いた。
「はい! がんばります!」
「ふふ、いい返事ね」
ロニエはくしを収め、軽く手を払った。
「さあ、できたわ。髪も整ったし、気持ちもね」
コハルは手で髪を触れ、恥ずかしそうに微笑む。
「ありがとうございます、ロニエさん」
「何かあったら、いつでも相談しなさい」
「はい!」
ロニエは立ち上がり、扉へと向かった。
コハルも元気よく頭を下げて部屋を出ていく。
その背中には、もうさっきまでの影がなかった。
――――
廊下。
橙色の灯りがゆらめく中、二人は並んで歩いた。
分かれ道に差しかかったところで、ロニエが足を止める。
「ここまででいいわ。休みなさい」
「はい!」
コハルが明るい声で返事をして去っていく。
その姿を見送っていたロニエの耳に、少し軽い声が届いた。
「ローニエっ!」
振り向けば、ニコが手を振っていた。
彼女は杖を肩に担ぎながら、にやにやと笑っている。
「ニコ」
「やっほー。ねぇねぇ、コハルったら、部屋に入るときは真っ暗な顔してたのに、ずいぶん機嫌よさそうに出てったじゃない。なにかしたの?」
ロニエは首を横に振る。
「いいえ、何も。ただ少し話をしただけよ」
ニコはじーっとロニエを見た。
そして、口の端を上げてぼそり。
「……まーた自覚なく女の子、口説いたんだろうけど」
「……?」
「なんでもない! ま、解決したならいいや!」
ロニエはその様子を見つめながら、しばらく黙っていた。
やがて、ふと目を細める。
「……」
「な、なによ、その目」
「ニコ。あなた、コハルが心配で様子を見てたのね」
「は、はあ!? ち、違うわよ! なんで私があの子を!」
「いつの間にか仲良くなってて、嬉しいわ」
「だ、だから違うってば!」
ニコの頬が赤く染まり、杖で床をトンと突いた。
ロニエはそんな彼女の横顔を見て、静かに微笑む。
――温度が戻っていた。
聖龍の館の空気に、柔らかな灯がともる。
ーーーーー
重厚な扉が閉まる音が響いた。
会議室の中は静まり返っている。
壁に掛けられた紋章が、薄い光の中で金色に沈んでいた。
「――いよいよ、一週間後だ」
リンドの声が、低く広がる。
誰もが息を詰める。
彼の言葉は短く、だがその一語一語が、鋼のように重かった。
「わかっていると思うが――負けるわけにはいかない」
しんとした空気を破ったのは、軽い笑い声だった。
「心配いらないよ、団長」
ニコが頬杖をつき、指先で杖の先をコツコツと叩く。
「私たちが負けるわけないじゃん」
「当然であります」
シオンの凛とした声が響く。
「勝利し、聖龍連合が最強であることを、知らしめるであります」
その隣で、ライドが拳を鳴らした。
「アスナと戦いたかった! だが――誰が相手であろうと、全力で相手をしてやろう!」
少しざわめく空気。
だがすぐにニコが片手を上げて制した。
「“閃光”と“氷姫”は問題なし。データあるしね。……で、この“リオ”って子の情報、集まったの?」
報告係の団員が、緊張した面持ちで立ち上がる。
「はい、ある程度は……」
ニコが目だけで笑う。
「ある程度って、どの程度?」
「え、えっと……基本的な戦闘データと、使用武器、直近の配置、ぐらいで……」
「スキルは?」
「え?」
「装備は? どんなオプション? 得意な戦術は? 苦手な武器種は? デュエルの戦績は?」
畳みかけるような質問に、団員の額に汗が浮かぶ。
「も、申し訳ありません! ノーマークだったもので……情報が少なく……」
「……ふうん」
ニコは短く息を吐いた。
「ま、無名の少年だし、ライドが相手なら問題ない――」
小さな間。
そして、ゆっくりと笑みを深める。
「――なんて、言うと思ったの?」
室内の空気が凍った。
ニコは椅子から立ち上がり、杖をトンと床についた。
「仮にも血盟騎士団の代表だよ? 理由もなく選ばれるわけないじゃん」
団員たちが息をのむ。
リンドは黙ってその様子を見ていた。
彼女の言葉に無駄はない。
一つひとつが、研ぎ澄まされた刃だった。
「……勘違いしてる人が何人かいるみたいだから、はっきり言っとくね」
ニコの声が落ちる。
静かに、しかし鋭く。
「私たちの目的は“勝つ”ことじゃない。三つの試合、全部で“圧勝”して――叩き潰すこと」
静寂。
そして、ライドの豪快な笑い声が爆ぜた。
「当然だ! 全て圧勝する! はっはっはっはっ!」
「……」
ニコは笑わない。
視線を落とし、机に手を置いた。
「――あの日、私たちが受けた屈辱。忘れたわけじゃないよね?」
声は柔らかい。
けれど、刃よりも冷たい。
「あなたたちが頼りなんだから、気を抜いちゃダメよ」
目を上げる。
その瞳には、氷のような静けさと、炎のような熱が同時に宿っていた。
「もう一度、徹底的に調べて。どんな小さなことでもいい。拾い上げて」
「は、はい!」
団員たちが一斉に立ち上がり、返事をする。
その声にかすかな焦りと、熱が混じっていた。
ニコは軽く手を振った。
「いい子たち。――じゃ、頼んだよ」
再び座り直すと、杖の先で机の地図を軽く突いた。
ーーーー
シオンの真っ直ぐな声が、張り詰めた空気をわずかに震わせた。
「ニコ殿。わかってると思いますが、アスナ殿とあなたの相性は良いとは言えないであります」
ニコは小さく首を傾げ、指先で杖をくるりと回した。
唇の端がゆるく上がる。
「もっちろんだよ、シオン。その相性の悪さ――逆手に取って、ボッコボコにしてあげるんだから」
シオンが少しだけ息を吐き、笑う。
「それは頼もしいでありますね」
その一瞬、場の緊張がわずかに緩んだ。
だが、すぐに別の声が勢いよくそれを吹き飛ばす。
「む、ロニエよ!」
ライドが椅子を軋ませて立ち上がる。
「そういえば昔、氷姫と戦って引き分けだったそうだな! こんな大舞台で決着をつけるとは、心がたぎるだろう!」
ロニエは視線だけを向けた。
その瞳は、まるで凍てついた刃のように静かだった。
「……いいえ、全く。興味もありません」
「なんだと! ライバルとの対決、楽しみではないのか!」
「昔の話です。それに――ライバルとすら思っていません。それほど脅威でもありませんから」
ライドの口が一瞬開くが、次の瞬間には破顔する。
「はっはっはっ! さすがロニエ、いい返事だな!」
その笑い声が響く中、ニコは軽くため息をつき、目だけで彼を見る。
「それより、あんたの方が心配よ、ライド。戦いを楽しみすぎて、目的を忘れるんじゃないわよ」
「もちろんだ!」
ライドは拳を打ち合わせた。
「全力で叩き潰してやろう! 慢心などない!」
ニコはその勢いに一度まばたきし、口角をわずかに上げる。
「……戦闘に関してだけは認めてるんだから。ちゃんと圧勝しなさいよね」
その声に、わずかな信頼と挑発が混ざっていた。
リンドが椅子から立ち上がる。
青い髪が燭光に照らされ、穏やかに揺れた。
「傘下ギルドの団長たちに向けて言っておく」
低く、しかし鋼のような声音。
「試合中、ヤジを飛ばすな。特にティンクル君に対しては――絶対だ。いいな」
数人の団長が小さくうなずく。
その中で、マークが一歩前に出た。
「リンドさん、聖龍連合が勝つのは当然だが、そのあと……血盟騎士団とうまく連携できるのか?連中からすれば、“仲間を取られた”あとなのだから、内心穏やかじゃないだろう」
リンドは短く息を吐いた。
その表情に浮かぶのは、計算ではなく、確信。
「連中とて、そこはわきまえているだろう。それに――そんな幼稚な嫌がらせをすれば、アインクラッド解放軍は離れていく。彼らと同盟を組んだ風林火山もな」
地図の上に指を落とし、静かに告げる。
「そのあと、血盟騎士団を吸収すればいいだけのことだ」
沈黙が訪れる。
燭火がぱちりと音を立てた。
ニコが椅子の背にもたれ、からかうように笑う。
「ま、戦闘中以外の時間で、たまには“帰省”させてあげればいいんじゃない?これが器の違いってやつだよ――ね、団長?」
リンドは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を下げる。
机の上で、彼の影が長く伸びていった。