ソードアート・オンライン ―アインクラッド戦記― 作:へーちょ
石畳の通りには露店が並び、プレイヤーたちが思い思いに買い物や雑談を楽しんでいる。
キリトはその人波の中を歩いていた。
今日はアスナとシリカと共にフィールド探索へ向かう予定だった。
しかし朝になってアスナから急な連絡が入った。
血盟騎士団の副団長として処理しなければならない案件が発生したらしい。
そのため今日はシリカと二人。
無理に危険な場所へ向かうつもりはない。
安全なエリアを中心に回りながら素材集めでもしよう――そんな予定だった。
血盟騎士団本部へ向かう道を歩いていると、不意に背後から声がかかる。
「すみません、“黒の剣士”ですよね?」
聞き慣れた呼び名だった。
キリトは足を止めて振り返る。
そこには40代ほどの男が立っていた。
高価そうな服装。
人当たりの良さそうな笑顔。
だが――。
キリトは一瞬で警戒心を抱いた。
理由は説明できない。
ただ、その目だ。
笑っているようで笑っていない。
相手を値踏みするような視線が妙に気に障った。
「……そうですけど、どちら様です?」
男は胸に手を当て、芝居がかった仕草で軽く頭を下げた。
「これは失敬。私はマクスウェルと申します」
どこか慇懃な口調。
だがキリトの警戒は薄れなかった。
「実はですね、あなたにお聞きしたい事がありまして」
「聞きたい事?」
「ええ。ほら……血盟騎士団に氷姫が入団されたでしょう? その件についてちょっと――」
そこでキリトは即座に話を切った。
「悪いけど俺は団員じゃないんでね。聞く相手を間違えてるよ」
そう言い残し、そのまま歩き出す。
普通ならこれで終わる話だった。
だが。
「いやいや、あなたの事も知っていますよキリトさん」
横から声が追いかけてくる。
マクスウェルは平然と隣に並んできた。
「よーく血盟騎士団に出入りしているではありませんか」
「……」
キリトは返事をしない。
だが男は気にした様子もなかった。
「ほんの少し教えていただけるだけでいいのです」
笑顔のまま続ける。
「なぜ、あの氷姫が急に血盟騎士団に入団したのか事情を知りませんかね?」
歩調を合わせながら。
距離を詰めながら。
まるで世間話でもするかのような軽い調子で。
「入団した時の周りの反応は?」
「何か特別な条件の提示があったとか?」
「その辺の事を少しでいいのです。教えていただきたく――」
キリトは立ち止まった。
街の喧騒の中。
黒い瞳が静かにマクスウェルを見る。
「これ以上付き纏うなら解放軍に通報するぞ」
一切の感情を乗せない声だった。
しかし、その言葉に含まれた拒絶は十分伝わったらしい。
マクスウェルは肩をすくめる。
「これはこれは……」
困ったように笑う。
「すっかり警戒されてしまったようで残念です」
そして少しだけ目を細めた。
「私はあなたに好印象を持っていたのですが」
キリトは即答した。
「そうか」
一拍。
「俺はあんたの事が嫌いになったよ」
周囲を歩いていたプレイヤーが何人かこちらを見る。
だがキリトは気にしない。
マクスウェルも怒る様子はなかった。
むしろ楽しそうですらある。
「ははは。これは手厳しい」
そう言うと懐から一枚のカードを取り出した。
「今日は一旦引き上げますよ」
差し出される。
「これを」
キリトは無言で受け取った。
名刺だった。
プレイヤーネーム。
連絡先。
簡単な肩書き。
どれも整然と記載されている。
「気が向いたらいつでも連絡ください」
マクスウェルはにこやかに笑う。
「もちろん……ただで教えてほしいなんて事は言いません」
その笑みだけが妙に冷たかった。
「相応の対価を支払いますよ」
「……」
「では」
軽く一礼すると、マクスウェルは人混みの中へ消えていった。
キリトはしばらくその背中を見送る。
胸の奥に残る不快感は消えない。
ただ情報を集めているだけの男。
そう言われればそれまでだ。
だが。
何か違う。
言葉では説明できないが、本能が警鐘を鳴らしていた。
ああいう手合いには関わらない方がいい。
キリトは視線を落とす。
手の中には先ほど渡された名刺。
数秒見つめた後、それをポケットへ押し込んだ。
そして――。
ポケットの中で握り潰す。
紙がくしゃりと音を立てた。
それだけで少し気分が晴れた。
「……気持ち悪い奴だな」
誰にも聞こえない声で呟く。
そのままキリトは再び歩き出した。
前方には血盟騎士団本部の建物が見えている。
何事もなかったかのように街は賑わっていた。
ーーーーー
血盟騎士団本部の石段に、朝の斜光が斜めに差していた。
入口前、黒衣の少年が腕を組んで立っている。キリトだ。
「お待たせしました、キリトさん!」
軽やかな声と一緒に、シリカが駆けてくる。肩口に小さな影――蒼い羽根竜《ピナ》がぴたりと寄り添っていた。
続いてアスナが姿を見せる。
「ごめんなさい、二人とも。急用が入っちゃって」
アスナは申し訳なさそうに頭を下げる。
「団のほうで資料の確認があるの。キリト君、シリカをお願いね」
「任せとけ。昼過ぎには戻る予定だ」
「助かるわ。帰ったら報告、聞かせて」
「はい、行ってきます!」
手を振るアスナを見送ると、ピナが小さく一声鳴いた。
ーーーーーー
転移門を抜け、最前線の63層に降り立つ。
――水音が、世界の背景になっていた。
段丘状に広がる湿地と浅瀬、緩やかに蛇行する清流、そこかしこに口を開ける泉の湧き口。青白い鉱脈が河岸の岩に縫い込まれ、光源結晶の反射を受けて、足元の水面がゆらゆらと天井のように揺れている。鼻先に触れるのは、冷えた石の匂いと、苔の甘い湿り。
「わぁ……きれい」
シリカの頬がゆるむ。ピナが嬉しそうに旋回し、水面すれすれを滑空しては戻ってくる。
「足場は悪い。滑り藻があるから、踏み切る角は浅めに。――シリカ、先導頼む」
「はい!」
二人は浅瀬沿いに歩を進める。シリカは常に十歩先を見て、五歩先で足を置き、三歩先で次の逃げ道を作る――そんな歩き方をしていた。
腰の短剣は軽く抜き差しできる角度で吊り、もう片手はいつでも投擲具に伸ばせるよう空けてある。ピナはその肩に止まり、ふい、と鼻面を上げて風向きを読む。
「よし、シリカ。今日は予定通り“水源エリア”の外周から。地形に慣れて、午前は安全圏のサンプル取り、午後にちょっと奥へ行こう」
「はい、任せてください! 索敵は私が持ちますね」
ピナが翼を一振り。薄膜のような揺らぎが周囲に広がり、空気の層が一段静かになる。気配の波――小型の索敵スキル《ノイズ・タッチ》をピナ流にアレンジした合図だ。
「右岸、葦むらの陰、弱い反応。大型はなし……たぶん《ウォーター・クランブ》が三」
「了解。接敵は避けて、地形のマーク優先」
「はい。あ、あそこの湧き口、目印になる岩がありますね。帰路で使えそうです」
記録はキリトが受け持つ。簡潔なメモと、視界に落とした針路線――二人の連携は手慣れたものだ。
やがて浅い段差を降りて、小さな滝壺の脇に出る。滝の飛沫が霧になって、光の粒が漂っている。
「ここ、いい休憩ポイントになりそうだ」
「同感です。帰りにもう一度寄りましょう」
ピナがぽこぽこと水面をつつく。シリカが笑って頬を撫でる。
「後で“ヒールブレス”の試射もやります。水辺だと回復効率、ちょっと上がりますから」
「助かる。俺の前の張りが長くなる」
さらに外周を回り、岩棚の陰から谷側を見る。
水源エリアの奥には、薄青い靄の帯が横切っている。――午後に寄る予定の“小規模湧水群”だ。足場は悪いが、素材の密度と小型モンスターの湧きが安定している。初日としては手頃な深度。
「じゃ、午前のうちに一回だけ“釣り”。索敵兼ねて様子見ておきます」
「頼んだ」
シリカは腰のポーチから仕掛けを取り出す。標準の釣り具だが、鈎の手前に小さな鳴子玉《ビーンズ・ベル》を噛ませてある。水中の微弱な振動を拾って“音”に変える、彼女の工夫だ。
糸を流し、三呼吸数えて――指先で軽く張力を調整。
わずかに鳴子が鳴り、彼女の目が細くなる。
「……うん、やっぱり下層より“鈍い”。でも、群れの密度は悪くないです」
「午後のルート、予定通りでよさそうだな」
シリカは糸を上げ、手早く仕掛けを巻き戻す。
「それじゃ、外周の逆サイドに回ってから、軽く“追い込み”一回。実戦の感触、合わせておきたいです」
「了解。前は俺が取る。ピナの“バディ・フォース”は二回目の寄せで」
「はい!」
水音に紛れて、二人の足音は静かに流れていく。
63層の光は柔らかく、けれど底には鋭い冷たさを隠している。
その境目を踏むように、黒衣の前衛と小柄なテイマーは、息を合わせて水源の迷路へ溶けていった。
ーーーーーー
浅瀬を抜け、二人は峡谷のように狭まった水脈の中へ入っていった。
両側の岩壁は淡く光り、染み出す水が糸のように垂れている。地形の狭さと反響音が、索敵にも戦闘にも不利に働く。けれどシリカの表情は落ち着いていた。
「正面、岩陰の手前。三体……いえ、四体ですね」
声を落として、シリカが短く報告する。
彼女の右肩のピナがかすかに羽を鳴らし、霧を掻き分けて舞い上がる。
「配置、中央一点に俺。右側へ流れるように“ヒールブレス”の射線を通してくれ」
「はい。ピナ、準備」
キリトが前へ出た瞬間、波紋が立つ。
水面から飛び出したのは半透明の爪を持つ甲殻獣――《ウォーター・クランブ》。甲羅の内側が水晶のように輝き、関節部に青白い光素が点滅している。
四体、左右に散開。
狭い水路を塞ぐように陣を組み、中央の個体が攻撃動作に入った。
「来るぞ!」
叫ぶと同時に、キリトの両剣が水面を裂く。
一閃目で前脚の一対を切り払い、二閃目で左側の個体へ角度を変える。
反撃の水弾が飛ぶが、刃の返しで弾き落とす。
右後方から、淡い水色の光弾が広がった――ピナの《バブルブレス》。
高圧の水泡が弾け、甲殻の関節を一瞬凍らせる。
「今です、キリトさん!」
「了解!」
弾けた水泡の向こうに閃光が走った。
黒剣が、一直線に青白い甲羅を貫く。金属音が響き、ひとつのエネミーが砕け散った。
その間にシリカが滑り込み、短剣を反転。
ピナが小さく鳴き、シリカの体表が淡く光を帯びる。――《バディ・フォース》。
二人の連携が発動した瞬間、ステータス補正が重なり、動きに残像がつく。
「左、任せてください!」
シリカが水面を蹴る。短剣が弧を描き、前方の敵の脚部を一閃。
甲殻にヒビが走る。ピナのブレスが重なり、弾けるように破壊される。
反撃を受けるより早く、キリトが右側から切り込む。
二体目、三体目――連撃の軌跡が水煙の中を走った。
残る一体は後退し、水流の中に潜る。
シリカが膝をつき、水面に手を当てる。
「逃がしません。ピナ!」
ピナが翼を広げ、短く叫ぶ。
淡い光が水底へ吸い込まれ、即座に泡が弾けた。
跳ね上がるように敵影が露出する。
そこにキリトの黒剣が一閃――乾いた破裂音が響いた。
破片が水面を散り、やがて静寂が戻る。
息を吐いたのはシリカよりも先、キリトだった。
「……うん、悪くない。ピナ、良い判断だ」
ピナが誇らしげに小さく鳴く。シリカは微笑んで頷いた。
「ありがとうございます。前に比べて、ピナの反応が早くなりました」
「戦闘中の索敵も安定してた。視線の誘導も、もう完璧だ」
「えへへ……嬉しいです。ピナ、褒めてもらえたよ」
ピナがシリカの頬に小さく鼻先を寄せ、光の粒を一つ散らす。
戦闘の余熱と滝の水気が混ざり合い、霧のような気配が漂っていた。
だが、足元の水流にわずかな異音が混じる。
キリトが即座に反応する。
「もう一群か……」
浅瀬の奥、光る岩陰に新たな影。
甲殻獣ではない。四足で、体の一部が透けるような質感。
《アクア・シェード》。水属性の幻獣型。攻撃は鋭いが、数は少ない。
「ピナ、ブレス準備。シリカ、右斜面の段差を取ってくれ!」
「はい!」
シリカが跳び上がり、岩肌に足をかける。短剣を逆手に構え、ピナと呼吸を合わせる。
対してキリトは正面で剣を構えた。敵が跳躍するのを読み、着地の瞬間に一閃。
幻獣の身体が一瞬ゆらめく――が、致命傷には至らない。霧のように分裂し、背後を取る。
「シリカ!」
「わかってます――ピナ、いまだ!」
ピナの喉奥から淡青の光が放たれる。《ヒールブレス》の回復光線を、あえて敵の軌跡に重ねた。
治癒の光は生体を透過せず、幻想構造のエネミーにだけ干渉する。
――一瞬で、敵の姿が歪む。
そこにキリトが踏み込み、二連撃を叩き込む。
水煙の中、閃光が走る。
黒剣の残光と短剣の銀線が交差し、最後の敵が崩れ落ちた。
「ふぅ……」
シリカが息を吐く。ピナが頭上を一回転して着地した。
キリトは剣を収めながら、笑みを漏らす。
「やっぱりシリカがいると断然戦いやすい」
「いえ、キリトさんが前に立ってくれたからです」
戦闘の残響が静まり、あたりには水の音だけが残る。
二人は視線を交わし、小さく頷き合った。
「休憩、取ろう。向こうの滝壺、風も通る」
「はい。ピナ、行こっか」
ピナが一声鳴いて飛び立ち、二人は水辺を抜けていった。
ーーーーーー
滝壺のほとりは、戦闘の気配が抜け落ちたように静かだった。
岩陰に腰を下ろすと、シリカがそっと靴を脱ぎ、水面に足先をつける。澄んだ水がすぐに反射して、白い足首をやさしく包んだ。
ピナがその横で翼をたたみ、鼻先で水をすくうように遊ぶ。
キリトは数歩離れた場所に腰を下ろし、剣を膝の上に置いた。光を吸うような黒刃が、静かな波紋を映す。
「やっぱり、シリカがいると全体の動きが締まるな」
キリトの声は穏やかだった。
「俺一人だと、索敵の“耳”がどうしても鈍る。ピナがいると気配の変化がすぐに拾える」
「ありがとうございます。ピナも喜んでます」
シリカが微笑むと、ピナは誇らしげに一鳴きした。
「“ヒールブレス”も、“バディ・フォース”も、今日はすごく安定してたな。前より発動のラグが少なかった」
「はい。最近ずっと練習してたんです。ピナとの呼吸を合わせるっていうか……。私が焦ると、ピナも同じように焦っちゃうので」
「なるほどな。連携って、結局そこだよな」
少しの間、二人の間に水音だけが流れる。
風が抜けるたび、霧の粒が光をまとって揺れた。
やがてシリカが、ためらいがちに口を開く。
「……あの、キリトさん」
「ん?」
「戦ってるときに……今までと違う、って感じたこと、ありますか?」
「違う?」
キリトは首を傾げ、剣を軽く持ち上げて水滴を払う。
「いや、特には。いつも通りだと思うけど……。どうした?」
「いえ……私が、ってわけじゃないんですけど」
シリカは視線を伏せ、少し言葉を探すように間を置いた。
「最近ピナの好物集めで中間層に行くことが多くて…30層とか40層あたりの街でも、プレイヤーたちが『最前線に行く壁が高くなった』って、そんな話をよくしてるんです」
「……あぁ」
キリトの目が少しだけ細くなる。
「確かに、50層を超えたあたりから敵の強さが急に上がった。今じゃ、攻略組でも準備を怠ると簡単に全滅しかねないレベルだ」
「そうですよね……。キリトさんやアスナさんたちと一緒にいると、つい忘れちゃうんです。けど……本当は、どんどん難しくなってる」
シリカは指先で小石を弾いた。水面に小さな輪が広がる。
「このまま進んでいったら……私、いつかついていけなくなるかも、って思うと、少し不安になって」
キリトは少しの間、言葉を探すように黙っていた。
滝の音がその沈黙を埋める。やがて彼は、穏やかな声で言った。
「……シリカ。それは、怖がることじゃない」
「え?」
「進んでるってことだ。誰だって、前に進んでるときは不安になる。でも、それが普通だ」
シリカはその言葉に小さく目を見張り、そして息を吐いた。
「……はい。ありがとうございます」
「それに、俺たちは一人じゃない。シリカもピナも、ちゃんと俺たちの仲間だ。無理して全部の層を一緒に走る必要なんてない。自分のペースでやればいい」
キリトの声は穏やかで、どこか兄のようだった。
しばらく沈黙が流れる。ピナが翼を広げて、滝の飛沫を受けながら鳴く。
シリカはその小さな声に微笑んだが、ふと表情を曇らせた。
「……あと、噂なんですけど」
「ん?」
「アインクラッド解放軍が――最前線から撤退する、って」
その言葉に、キリトの眉がわずかに動いた。
「撤退? 本隊が?」
「はい。まだ確定じゃないみたいですけど、街の宿屋とか、雑貨屋の人たちがそんな話をしてました。物資の注文も減ってるって」
「……そういえば、最近、解放軍の連中をほとんど見ないな」
キリトは腕を組み、滝の向こうを見つめる。
「前は最前線の補給ルートにいつも彼らがいた。運搬班も救護班も。でも――確かに、この数層は姿を見てない」
「もしそれが本当だったら……」
「攻略組の全体が縮小する。代わりに、血盟騎士団や聖龍連合の負担が一気に増えるな」
「そんな……」
シリカは唇を噛む。ピナが心配そうに首を傾げた。
キリトは立ち上がり、剣を背に戻した。
「でもな、心配しすぎるな。俺たちができるのは、目の前の戦いを確実にこなすことだけだ。」
「……はい」
シリカも立ち上がる。
「よし、そろそろ戻ろう。アスナに報告もしないとな」
「はい。ピナ、帰ろう」
ピナが一声鳴き、シリカの肩へ戻る。
二人は滝壺を背に、ゆっくりと水路を登っていった。
光が流れ込む先、63層の空は少しだけ霞んでいた。
その霞が、これからの不安を映すように淡く揺れている――。