一刀がいなくなった世界の乙女たち ―― 魏国再臨 前日譚 ―― 作:無月
「秋蘭?」
私を呼ぶ声が聞こえ、ゆっくりと目を開ける。
「秋蘭がうたた寝なんて珍しいなぁ」
ぼんやりとした思考と視界の中、映ったのは声の主である北郷一刀。
おもわず目の前にいた一刀の背中へと腕を回し、子どもが親に甘えるように回した腕を結ぶ。
「秋蘭?!」
一刀の温もりと鼓動を感じる、ただそれだけがどうして安心してしまうのだろうか。
「一刀・・・・ もう少しこのままでもいいか?」
頬が触れ合い、耳元でそっと囁くように呟く。
一刀の温もりがここに在る。傍に居る、こんなにも傍に居てくれる。
「秋蘭?
どうしたんだよ、なんか怖い夢でも見たのか?」
「あぁ・・・ とても恐ろしい夢を、な」
額に流れた汗を回した手で触れながら、先程まで見ていた筈の夢の名残なのかわずかに体が震えていた。
夢の内容を思い出せないというのに、ただ『恐ろしい』ということだけが胸に残り、言い様のない感情が溢れてきた。
「そっか・・・」
一刀もそれ以上は聞かず、黙って受け止めてくれる。
互いに抱き合い、他に何をするわけでもない穏やかな時間は、とても一人の人間が生み出しているは思えないほど大きな足音によって中断された。
もっとも私はその音の源が誰であるかがわかり、苦笑してしまったが。
「一刀!
き~さ~ま~あ~! 公衆の面前で、秋蘭に何をしているか!!」
「どこをどう見たら、俺が一方的に何かしてるように見えるんだよ?!」
「うるさい!
どう見ても貴様が嫌がる秋蘭を抱きしめ、辱めていたようにしか見えん!!」
「だー! ちっげぇーーー!
秋蘭も笑ってないで、春蘭に説明するのを手伝ってくれよ!」
反射的に怒鳴り返す一刀と、状況をわからずともとりあえず一刀に責任を押し付ける姉者が微笑ましく見守っていると、こちらへと火の粉が飛んでくる。
「姉者、一刀は何もしていないさ。
私が少々寝ぼけてしまってな、掛け布代わりに叩いてしまっていた」
姉者の納得し、北郷は胸をなでおろしたが、私はもう少しだけ言葉を続ける。
「もっとも・・・・ 北郷がこうして腕を回し返すことは想定外だったがな」
「か~ず~と~?」
「ちょっ?! 秋蘭!」
一度閉じかけた怒りの釜を開けようとする姉者と、顔を青くさせ焦りだす北郷を見ながら、私は笑う。
「フフッ。
さぁ、逃げろ逃げろ。一刀。
怒りを露わにした姉者が向かってくるぞ? 捕まったらどうなるか、とてもおもしろ・・・おっと間違えた、大惨事となるぞ?」
「秋蘭の性だよな?! ていうか、本音漏れてるから!
あーもう! こうなりゃ、秋蘭も道連れだ!!」
頭を抱えるようなこともなく、絡めていた腕から私を抱えて走り出そうとする北郷に少々驚きながら、私は自分の口元が弧を描いていることに気づいた。
「あぁ、かまわん。
私がしたことなのだからな」
北郷の腕の中、流れてゆく景色。喧しく、慌ただしい日々。
穏やかとは程遠い筈だというのに、私は何故こんなにも安らかな気持ちなのだろうな。
北郷が来てからというのも、私の中で多くが変わっていくことを自覚する。
華琳様と姉者だけだった世界に、多くの者が関わった乱世。
そして、その中で私の心へと先陣を切って入ってきたのがこの男だった。
出会いは突然、当初は笑って全てを済ます適当な男とすら思ったこともあり、失望しかけたこともあった。だが、諦めることを知らず、努力を続ける北郷の姿を認め、少しずつ惹かれていった己が居たことに気づいていた。
必死な顔で走っている北郷を見れば、私へと不思議そうな顔をかえしてくる。
「秋蘭?」
『華琳様と姉者の次』と言っても、『その二人を除けば一番って事だろ? 十分すぎるよ』などと返してくる女心に鈍い男。
あの言葉の意味を理解しているようで、わずかに取り違えるこの男を好いてしまう自分をかつての自分が見たらなんというのだろう。
「いや・・・ なんでもないさ。一刀」
そう、ただ幸せだと思っただけ。
華琳様と姉者と、乱世を共に駆けた同朋たち。そして、
あの言葉の意味、それは『この世のどの男よりも、お前を一番愛している』。
あの時の私の精一杯の告白つもりだったそれを、あぁも受け流されると私といえど少々落ち込んだものだった。
「あぁ・・・ やはりそちらが夢だったのか」
再び目を開けたとき、私は寝台の上であり、どこまでもいつも通りの自分の部屋が広がっていた。
「一刀・・・ ありがとう」
幸福な夢だった。とても、とても。
こうあれたらどれほど幸せだったのだろうと思うような、満ち足りたひとときだった。
「秋蘭! 朝だぞ!!」
元気な姉者の声を聞きながら、私は寝台から起き上がる。
北郷が消えてから半年、誰かが居なくなっても日々は続き、何かが起こっても人々の生活は終わらない。
そんな当たり前が、今はただ苦しい。
「あぁ、起きているさ。姉者」
今日は私の見合いの日。
食事も含め、少々急いで用意をしなければな。
私の化粧を施すために来てくれた沙和に服を選んでもらい、体を任せている中で姉者は私をじっと眺めいていた。
「姉者・・・ あまりじっと見られると困るのだが・・・・」
「秋蘭、嫌だったら断ってもいいんだぞ?
親族も今回の見合いは以前の借りを返すためだけのものだと言っていたし、見合いなど無理にするものではないだろう」
まったく、姉者は・・・ どうしてこうも鋭いのだろうな。
「姉者、私はこの見合いの機会をくれた親族に限らず、この半年私を支えてくれた皆にとても感謝している」
過剰なほど仕事をし、食事もまともにとらなかった結果倒れるということもあった。
たまに休みをもらったかと思えばふらりと森へ入り、そのまま夜になったことも気づかず、警邏隊に捜索をされてしまったこともあった。
眠れぬ夜は一人あてもなく彷徨い、一刀の残したものを眺めて回ったこともあった。
俯き、顔を上げることも出来ず、ただ日々を過ごしたかと思えば奇行に走った私を華琳様も、魏の将も、親族すらも見捨てることもなく、好きにさせてくれていた。
「前を向くことは出来ずとも、家のために役に立ち、俯いたままでも進めるというのなら、私はその道を進もう」
「秋蘭・・・ 無理はしてないか?」
「していない。
それに話を聞いている限りでは相手は権力にも興味はなく、ある理由から多くの見合いを断っていると聞く。
今更私など、どんな男であろうと歯牙にもかけることはないだろう」
その理由は知らないが、我々が一刀を愛していたことは周知の事実。
各地に脚色された噂から見ても、高位にある人間が『天の遣い』というだけで魏の重鎮たちに愛された男などさぞ気に入らなかったに違いない。まして、その男のお古など自尊心の高い者たちが耐えられるはずがないだろう。
「そうか・・・ うむ、そうだな」
私の言葉に納得し、何度も頷く姉者はもう一度私を見て、満足げに笑った。
「綺麗だな、秋蘭。
一刀にも見せたかったぞ」
そう言って去っていく姉者を見送りながら、化粧をしてくれていた沙和が仕上げとして鏡を持ち、今の私を見せてくれる。
「秋蘭様、どうですかー?」
「あぁ、感謝する。
そう言えば奴の前では化粧など、一度もしたことがなかったな」
「えー? 秋蘭様、いつもすっぴんであんなに綺麗だったの?!」
「あぁ、あまり化粧をすることも得意ではないからな。
だが、こうまで違うとは・・・
私もせめて一度くらいは一刀のために紅をさし、白粉を纏ってやればよかった。
いや、違う・・・ 正しくは」
一度くらいは奴の前で着飾ってやればよかった、だろうな。
「きっと隊長、こんな綺麗な秋蘭様を見れなかったことを悔しがってると思うの!」
「あぁ、かもしれん」
沙和の言葉に私はわずかに笑って、立ち上がる。
「それでは、行ってくる」
「いってらっしゃいなの、秋蘭様」
沙和にそう言って、私は親族が用意しているだろう馬車へと向かった。
「見合い相手殿よ。
まず、初めに言っておくことがある」
数名の親族が立ち会う見合いの席、決まり文句ともいえる両家の挨拶が済んだ時、言葉を促された私の口から紡ぎだされたそれは感情をまるで感じさせないもの。
たとえこの場が親族のみならず多くの者の気遣いによって成り立ち、この婚姻を受け入れることを了承していても、一つだけ伝えておかなければならないことがある。
「私は今でも天の遣い・北郷一刀に恋をし、生涯奴以外にこの想いを捧げることはない」
誰に体を許そうとも、この想いだけは一刀に捧げたもの。
この心は、この想いを向ける相手は、どれほどの時が経とうとも相手が変わることなどありえない。
この想いを抱いて私は生き、死んでいくことを受け入れることが出来ないのなら、どんな婚姻であろうと破棄しよう。
私の発言に場が凍りつくが、少々の違和感があった。
こちらの親族はこういう事態も考えていたためかどこか諦めた様子もあるが、あちらも同様とはどういうことだ?
「奇遇ですね、夏侯淵殿。
では、私も同じ言葉を返しましょう。
私は今でも亡き婚約者を深く愛し、生涯彼女以外にこの想いを捧げることはないでしょう」
私の発言に一切表情を変えることもない男はまっすぐに見据え、言いきった。
その目はここに居ない一人の存在だけを想い続ける、私のよく見慣れた目をしていた。
「ですがだからこそ、私たちは似合いの仮面夫婦になるとは思いませんか?」
突然の男の提案に親族たちがざわつくが男が相手にする様子はなく、私はただ黙って耳を傾ける。
「家という義務、想い人をなくしたという境遇。
互いを想い合うこともなく、愛し合うこともない。関心もなければ、興味もない。
実に最適だとは思いませんか?」
「そう、だな」
互いに最高の想い人をなくし、愛し合うことも、想い合うこともない関係。
歪で、傍から見れば互いの傷をなめ合って生きるような婚姻だろうが、私たちは憐みも、優しさも欲さない。まして、理解など求めているわけでもない。
恐らくこの男が断ってきた者たちは皆、権力のみを求めた者か、あるいはその傷につけこもうとしたのだろう。
最高ではなく、最善の関係。
互いを理解できるがゆえに、混ざり合うことのない我々の関係はそう言えるだろう。
「では、結婚するとしようか。夫殿よ」
「えぇ、そうですね。妻殿」
そうしてここに仮面夫婦が生まれ、話について行けずただ呆然とする親族たちが慌ただしく部屋を出て行ったのは、そのしばらく後のことだった。