一刀がいなくなった世界の乙女たち ―― 魏国再臨 前日譚 ―― 作:無月
『私は・・・・ 私は、あなたや雪蓮さんが羨ましかったのかもしれない・・・・』
『強くて、優しくて、何でも出来て・・・っ!
私・・・ 何にも出来ないから・・・っ!』
『みんなで笑って、仲良く過ごせれば良かった!』
『――― だから、私は作りたいと思ったの!
みんなが笑って暮らせる、優しい国を!』
あの方が曹操と向き合い、剣をとり、立ち向かう姿を見た時、私はただ見ていることしか許されず、あの方のために何もすることが出来なかった。
傷つくあの方の元へ、これほどまで近くにいるというのに駆けつけることが出来ないことがもどかしかった。
『将』である私には絶対に届かぬところへいる
あの方の矛である私があの方を守ることの出来ない事実が、辛かった。
『現実なんか朱里ちゃんや雛里ちゃんがいくらでも見てくれる!
なら、上に立つ者はもっと遠くを見るべきでしょうっ!?』
だが、そこには・・・・ 私達が知らない
全ての感情を、想いを、嘘偽りなく叫び、子どものように曝け出す。
対等な王たる曹操だからこそ、あの方は多くの言葉をぶつけ、懸命に剣を振るった姿は痛々しくすら感じられた。
私達には向けられることのなかった、されることのなかったその行為に、私はただ嫉妬にも似た感情が湧き上がるのを否定し続けていた。
『愛紗ちゃんや、朱里ちゃんの仕事のお手伝い、したいんだよ・・・
桃香様なんて言われなくていい・・・ 桃香様がいてくれて助かった、って言ってほしいだけなんだよ・・・・ だから・・・ 王様なんて・・・』
王になんて、なりたくなかった?
私はその時ようやく、自分が桃香様の想いを気づくことが出来ていなかったことを知った。
あの方は自分が王になることなど、望んでいなかった。
ただ私達と楽しい日々を過ごせたらいいと願い、それだけで立っていた。
旅をして、世界を知り、あの方はどこまでも純粋な御心で、見た者全ての幸せを望んだ。
その願いは尊く、望みは美しい。
だから私達は、あの方のために・・・・ その夢の実現のために・・・・
「いいや・・・ 違う、な。
あの方の言葉を良いようにとり、私達がただ勝手に動いていただけだったのだろう」
あの方の想いの全てを理解せず、あの方の夢を実現させるために場を用意し、策を巡らせ、武を捧げ、これ以上あの方が悲しまぬように包み込み、大切に守ろうとした。
だが、それは全て間違っていた。
私がしてきたことは・・・・ 『あの方のため』と語って行っていたことは、すべきではなかった。
あの方から出来ることを奪い、成したいことを奪い、夢を捻じ曲げたのは他ならぬ私自身だった。
「桃香様・・・・」
矛が意志など、持つべきではなかったのだ。
ならば私は、あの方が望むことを行うしかない。
あの方の振るう矛となり、あの方の思うように動くモノであればいい。
私はもう、間違えてはいけない。
ただ日々を過ごし、この国のために在り、矛として、将として、この国に尽くせばいい。
そしてあの方の盾となり、矛となり、いずれ錆びつき、埃を被るその日まで、あの方の傍に在ればいい。
その存在を忘れ、使われず、倉庫で錆びて朽ちていくことになろうとも、私にそれを拒む権利などありはしないのだから。
あの日から、一体どれほどの時が流れただろうか。
ただ日々を過ごし、仕事のみに精を出し、必要以上に人と関わることすら避け続けた。
何もする気には、なれなかった。
何をしていいか、わからなかった。
どんな顔をして人と接すればいいか、わからなくなった。
何をしても無意味で、自分の行いは間違っているのではないかと思ってしまった。
それらを抱いてなお、前を向こうとすらすることは偽りでしかなく、己が信じていた
自棄になり、何かをすることすら自らを慰めているようにしか感じられず、日々を淡々と過ごすことを選んだ。
この無為の日々に何度か星が訪れた気がしたが、星が私へと語りかけるという一方的なものだった。
幾度も繰り返された言葉に私はいつしか相手にすることをやめ、ただ書簡に向き合うだけとなっても彼女は諦めることもなく、訪れ続けた。
ここ数か月ほど姿を見ていないが、ついに諦めたか。
それでいい。私などに関わらずとも、お前はお前で在れる。
その名が示す通り、星のように瞬いて、悪戯に流れ、人の希望であればいい。
矛であることしか知らぬ私は、誰かの花になどなれはしない。
「桃香様・・・・」
それでも気にかけるのはあの方だけ。
他に名が浮かんでも、守りたいのも、生涯を捧げたいと願ったのはあの方だけだった。
「私は・・・ どうすればよかったのですか?」
誰に向けるでもない問いは閉め切った部屋の中に吸い込まれ、闇にまぎれて消えていく。
向けるべき相手は誰なのか。誰にこそ問いたいのか。そんなことはとうにわかりきっていても、あの方を利用し、無意識に自分の都合のいい傀儡としてしまった私が、一体どの面を下げてあの方の元へ行くというのだろう。
「私は・・・」
ただ・・・
「愛紗さん、失礼します」
私が思考の渦へと飲み込まれそうになったその時、扉を数度叩く規則的な音が響き、一拍の間をおいてから暗い部屋に光りが差し込んだ。
「何だ、月」
冷たい、威圧感のある厳しい声。
かつては嫌っていた筈の声だが、今は感謝している。
「私は今日非番であり、侍女たる者が訪れる用などなかった筈だが?」
人を威圧し、退ける。声だけでそれが容易に出来てしまえる。今の私には、なんと都合の良いものだろう。
「はい、本日愛紗さんは非番ですし、侍女である私が来る用など確かにありません」
「ならば、早々に出てい・・・・」
「ねぇ、愛紗さん」
私の言葉の途中で割り込み、彼女はいつものように笑っている気がした。もっとも彼女へと視線を向けていないため、予想でしかないのだが。
「嘘つきですよね、桃香様は」
その口から発せられたのは、とても彼女らしからぬ内容であった。
驚いて視線を向ければ彼女は扉の近くに立ち、逆光となって表情こそ見えないが、声はどこか笑っている気配がした。
「月・・・?」
何が言いたい? と問おうとすれば、彼女は言葉を続ける。
「力のない人を苛める世の中を変えたいというのも、嘘。
民の暮らしを守りたいというのも、嘘。
この国を笑顔で満たし、優しい世界にしたいというのも、嘘。
掲げていた『漢王朝の復興』も、嘘。
たった一本の剣を頼りにしている劉家との繋がりも、王家の許可もなく名乗っている『蜀の王』という立場も、嘘。
世の中を変える力もなく、民の暮らしを守ることなんて一度も出来たことなんてない。
それどころか今こうして俯いて、閉じこもっている妹にすら気づくこともありません。笑顔にするどころか、見てすらいないですよね?
『漢王朝の復興』を掲げながら劉協様を蔑ろにし、保護するどころか探そうとする気配すらありませんでした。
『靖王伝家』を『劉家の証』としていますが、記憶すれば模倣することも、購入することも、たった剣一本盗むことなんて容易に出来てしまうんですよ?
そして当然、乱世という混乱を利用して用意した『蜀の王』という偽りの称号。
ほら、少しあげただけで桃香様の言葉には嘘ばかり」
嘘?
あの方が口にした、行動に移し、これまで行ってきた全てのことが、嘘だと?
「洛陽を救ってくれるという言葉も嘘、土地を守ると言ったのも嘘。
変わりたいという思いも嘘、みんなと仲良く過ごせばいいというのも嘘。
洛陽を燃やすことも止められず、何度も土地を捨てて、この土地に居た劉璋さんも追い出して、結局何も知らずに、今もずっと何も変わってなんかいません」
そこで月は呼吸を整えるように間をおいて、深く息を吸った。
「桃香様のことを曹操さんはかつて『優しい』と評されましたが、はたしてこれは本当に優しさなんでしょうか?」
目が慣れ、徐々に見えてくる彼女の表情はやはりいつものように笑っていた。
まるで思っていることを素直に口にしているだけ、とでも言うかのように。
「月、貴様・・・ 何が言いたい?!」
おもわず怒鳴る私へと月は心なしか寂しげに笑い、私を見ていた。
「『
あの乱が起こってしまったことによって、私も詠ちゃんも家族から貰った大切な名前をもう二度と名乗ることは出来ません。
心を許し、情を向け、信頼を寄せ、何らかの愛を向けた相手にしか託したくない、呼ばれたくない大切な
深い紫を宿した瞳は悲しみに揺れることもなく、まるで私が目を離すことを許さないようにこちらを見つめ続けていた。
「ねぇ、愛紗さん。
皆さんは何を守りたかったのですか?
剣をとり、平原から功績を持って成り上がり、乱世の果てに・・・ 何を、変えたかったんですか?」
「何を守りたかった・・・ だと?
そんなものは決まっているだろう?!
虐げられた民を守り、強き者のみが支配するこの大陸を変えるために桃香様は立ち上がられたのだ!!
そんなこともわかっていないで貴様は・・・!!」
たとえ、私達がしてしまったことが間違っていても。
あの方の成したかった願いだけは、否定などさせない!
「えぇ、わかりません。
自分が望んだからこそ行動し、望まなかったとはいえ一国を・・・ 土地を治める王となった者が自分の責務を果たすこともなく夢を語るなんて、理解することが出来ません」
怒りから強く睨みつけ怒鳴る私を、彼女は恐れる様子など全く見せず、それどころか一歩前へ歩み寄ってきた。
「王になった者が足元を見ることもなく、彼方ばかりを見て、何を守ることが出来るというのですか?
その足元に居るのは、あなた方が守りたいと言った民ではないのですか?
誰かに任せては実現できないと思ったから、皆さんは立ちあがったんじゃないんですか?!
だから! 何も知ろうともせず、功績を得るために
逃亡を繰り返し、土地を奪い、徳を語って人を集い、戦い続けたんでしょう!」
「違う・・・」
違う違う違う違う違う・・・・ 違う!
「違う!! そうではない!
あの方が彼方を見ているからこそ、私達は前を向ける!
あの方が守りたいと言ったものを、私達が守ればいい!」
あの方が指す未来に、私達の光りがあったんだ。私達は、その光をただ追いかけて・・・
「それはかつての漢王朝と一体何が違うというのですか!
桃香様は、どうして王となったんです?!
王となった者が『王となりたくない』と望むなんて、誰もが思ってることなのに!
でも、その思いを抱いていても! 王になることでしか出来ないことがあったから、立ち上がったんじゃないんですか!!」
「なんだ・・・ と?」
王となった者が、『王となりたくない』と望む? 誰もが思ってる?
あの孫策も? 曹操も? 王になることを望んでなど、いなかった?
「月、それは一体、どういうことだ・・・?
王は王になるがために、立ち上がったのではないのか?」
私の言葉を受けて、私が発言を予測していたのか、落胆したように月は悲しげに目を閉じた。
「あれほど多くの戦で向き合っていながら、知ろうとすらしないんですね。
愛紗さんも、桃香様も、そして多分、朱里さんや雛里さんも。
『王のことは王にしかわからない』
そう決めつけて、自分から考えることも放棄して、ただ『王』という名称に縋っていただけなんですね・・・」
「月! 私の問いに答えろ!!
ならば、貴様に王たる者の何がわかるというのだ!
曹操が、孫策は一体何のために王になったと・・・」
「愛紗さんにとって、王とは桃香様を含めてたった三人だけなんですね・・・
いいえ、きっとこの大陸の多くの方にとって、王は三人だけなのかもしれません」
苦笑する彼女へと、私は鋭い視線だけを向け続ける。だが、彼女が気にした様子は一切なく、ただ静かに立っていた。
「愛紗さんがおっしゃられた方々は確かに王です。
才あるものを見出し、相応の仕事を出来るようにと大陸に大きな変革を望んだ魏の曹操さん。
一族の復興を目指し、そのために立ち上がることを選んだ呉の孫家。
ですがお二人は乱世を潜り抜け、勝ち残った王でしかありません。
土地を守ろうと孤軍奮闘した白蓮さんも、自らの身分からさらに上へと手を伸ばそうとした袁紹さんも、西涼で病に侵されながらも立ち向かっていた馬騰さんも、漢王朝が崩壊したあの時、大陸に居た全ての諸侯が王とも言えるのです」
大陸に居た、全ての諸侯が王?
たったそれだけのために、あの二人は王となったというのか?
一族と、才ある者を正しく評価するために?
白蓮殿も、あの袁紹も、王だと?
「ならば・・・ ならば!
そう思うことが必然だというのなら! 私はあの方のためにどう動けばよかった?!
幸せを、平和を望むあの方のために私は・・・!!」
どうすることが正解だった?
どうしたら、あの方に・・・・
「愛紗さんは、『将』として『王』を支えられないことで苦しんでいるんですか?
それとも、『妹』として『姉』に何もすることが出来ないことが辛いんですか?
お二人の関係は『王』と『将』というには近すぎ、『姉妹』というにはあまりにも遠すぎます。
今、愛紗さんが苦しんでいるのはその境が明確でなかったからこそ、そのどちらの想いにも潰されそうになっているのではないんですか?」
「私、は・・・ あの方の・・・・」
【桃園の誓い】
桃の花咲く木の下で、私達が誓ったことは・・・
『姓は違えども、姉妹の契りを結びしからは』
剣としてあることではなかった。ならば、私は一体いつから・・・
「愛紗さん、あなたは桃香様の『将』ですか?
それとも『妹』ですか?」
私は・・・・ あの方の・・・・
「私の用はこれで終わりです。
お気に障りましたら、申し訳ありません」
月はそう言ってから、少しの間動くこともなく、その場に立っていた。
まるで、何かを待っているかのように。
何かを、覚悟していたかのように。
「それでは、失礼いたします」
綺麗に一礼しながら外へと出て、扉を閉めていく彼女を見送れば、室内はまた暗闇へと包まれた。そして音も・・・
「何やってんのよ! 月!!」
頬を叩く音と、詠の大声が扉越しにもはっきりと聞こえた。
扉の向こうで聞こえる二人の言い合いを聞きながら、私は天井を仰いだ。
「詠は、親友を叱ることが出来るのだな・・・」
王と軍師であった筈の二人は、ずっとそんな括りに縛られてなどいなかったのだな。
「羨ましい、な・・・」
周囲から音がだんだんと聞こえなくなり、日が暮れたことを知りながら、私はただ月の言葉を考え続けていた。
「たっだいまーーーなのだ!!
うわっ、相変わらず暗いのだ!
もう夜なのに灯りもつけないで、愛紗は何をしてるのだ!?」
「鈴々・・・」
「まったく、こんな暗い部屋で一人でいたら茸生えちゃうのだ!
人がいる部屋も、書庫でもいっぱい陽がさしてる荊州を見習うのだ!!
仕事ばっかりじゃなくて、お陽様に当たらないと体にもよくないらしいってことも、七乃が言ってたのだ。
だから、愛紗は明日仕事が終わったら鈴々と街に行くのだ!」
荊州・・・ そう言えば、鈴々が荊州へ向かうという話がいつかの書簡に書かれていた。私は仕事を理由に見送りにもいかず、会うのはいつ振りになるだろうか。
「なぁ、鈴々よ。
お前にとって桃香様とは、どんな存在だ?」
突拍子もなく向けた問いに、鈴々は少しだけ不思議そうな顔をしながらも口を開いた。
「駄目なお姉ちゃんなのだ!
仕事もしないし、すぐさぼろうとするし、書簡仕事は出来ないし、力も弱くて、駄目駄目なのだ!
でも、明るくて、笑顔が優しい大事なお姉ちゃんでもあるのだ!」
「そうか、駄目駄目なのか・・・」
鈴々らしい元気で、容赦のない答えを聞き、何も眩しくもない筈だというのに、私は目を細めてしまう。
何故だろう。今はその答えが、お前の笑顔が酷く眩しい。
「ならば私は、お前にとってどんな存在だ?」
「駄目なお姉ちゃん弐号なのだ!
部屋は暗いし、休日は引き籠っちゃうし、誰とも話さないし、桃香お姉ちゃんをお姉ちゃんと呼ばないし、駄目駄目なのだ!
でも、一人だった鈴々と最初に居てくれて、たくさん叱ってくれたお姉ちゃんなのだ!」
「そうか・・・ 駄目か・・・
あぁ、本当に駄目だな。私は」
でもお前は、そんな駄目な私達のことを『姉』と呼んでくれるのか。
「何がおかしいのら? 愛紗」
指摘されて、私は自分が笑っていることに気づいた。
「いや・・・ 私はあまりにも愚かで、未熟なのだと実感しただけだ」
月に多くを言われ、妹にここまで想われていたことを気づかないで・・・・ 何も見てなどいなかった。
「荊州はどんなところだった?
魏の者と、呉の者と・・・・ 共に仕事をしてみて、どうだった?」
話を逸らすように問うと、鈴々は満面の笑みを向けてくる。
「毎日、とーっても楽しいのだ!
今は季衣と鈴々がそれぞれ報告に帰って、次は入れ違いで小蓮が呉に戻るって言ってたのだ。
毎日たくさん話し合って、領内のいろいろなところを回って、一緒になって書簡仕事をして、前よりもずぅーっと三人のことが好きになったのだ! それに仲間も出来たのだ!」
「わかり合えるのか?
かつて敵だった、剣を向けた相手と・・・・」
「何言ってるのだ!」
鈴々は怒鳴り、突然飛び上がって、私の頭の上に軽い拳が落ちた。
「合える、合えないじゃなくて、わかろうとするのだ!
それは初めて会った誰かでも、名前だけ知ってる誰かでも、ついさっきまで喧嘩してた人でもおんなじなのだ!」
『わかり合えるか』ではなく、『わかろうとする』か・・・
子ども、子どもと思っていた筈のお前に私は今日、どれほど教えられるのだろう。
「・・・私でもまだ、間に合うだろうか?」
まだ、取り返せるのだろうか?
この俯いていた時間に見ようとしなかった、全てを。
「とーぜんなのだ!!
愛紗の傍には仲間も、友達もちゃんといるのだ!」
鈴々に手を掴まれ、引きずられるようにしながら、私は外へと連れ出されていく。だが、もう拒みはしない。
私は、ようやく立ち向かう覚悟が出来たのだから。