魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
私立ウィエーテル学院の校門前で、ゲキは車を停めた。
助手席のエミカは、松葉杖を手に持つ。
退院したばかりの体には、まだ学校の鞄は少し重い。右脚にも、肋骨にも、完全には消えていない痛みがある。
それでも、エミカは制服を着た。
魔法少女ではなく、一人の高校生として、日常に戻ろうとしている。
「本当に大丈夫か」
「大丈夫」
エミカは苦笑し、松葉杖をついて車を降りた。
ゲキは鞄を持とうとしたが、エミカに視線で止められる。
「校門まででいいから」
「昇降口までは」
「校門まで」
「教室までは」
「絶対だって過保護」
「う……分かった」
ゲキは渋々うなずいた。
そこへ、校門の向こうから数人のクラスメイトが駆け寄ってくる。
「エミカ!」
「大丈夫?」
「鞄持つよ!」
エミカは少し照れたように笑った。
「ありがと。助かる」
彼女は友人たちに囲まれながら、ゆっくりと校門をくぐっていく。
その背中を、ゲキはしばらく見送った。
学校にも娘を助けてくれる人がいる。
そのことに、ゲキは少しだけ救われた。
「……とりあえず大丈夫そうだな」
ぽつりと呟いた時、スマートフォンが震えた。
画面には、赤司良介の名前が表示されている。
ゲキは車に戻り、スピーカーモードで通話をつないだ。
「五月女だ」
『赤司です。朝からすみません』
「何かあったのか」
『はい。少し厄介な報告です』
赤司の声は、いつもより硬かった。
『先日、デビガノイドから救出された少年が、病院から連れ去られました』
ゲキの手が、ハンドルの上で止まる。
「なに。連れ去られた?」
『はい。隔離病棟で監視中でしたが、何者かが襲撃しました。警備員、護衛、C.H.A.R.M.の調査主任が負傷。少年は行方不明です』
「……デビデヴィ・クライシスか」
『可能性は高いです。ただ、襲撃者はタカワラーイ婦人でもイタヴリ博士でもないようです』
「じゃあ誰だ」
『目撃証言では、猫のような人型の影。日本甲冑を着ていた、と』
「
『はい』
「……ミププの親戚か?」
『おそらく違います』
「だろうな」
冗談めかして返したが、ゲキの顔は笑っていなかった。
助けたはずの少年が、また敵の手に落ちた。
その事実は、腹の奥に重く沈んだ。
『五月女さん、警戒してください。相手は、浄化されたはずの人間を再利用できる可能性があります』
「本当か?」
『ええ、単独行動をなるべく控えてください。C.H.A.R.M.でも情報を集めています』
「敵が出たら?」
『連絡します』
「分かった」
『何かあればすぐ連絡します』
「ああ」
通話が切れた。
ゲキはしばらくスマートフォンを見つめていた。
――ちゃんと救えてなかった。
ゲキは小さく息を吐き、車を出す。
Θ
帰り道、ゲキはスーパーに寄った。
夕食の材料を買うためだ。
退院明けのエミカに合わせて、消化のいい魚と野菜を選ぶ。
ついでにプリンを四つカゴに入れた。エミカの分、自分の分、ミププの分。そして、なぜか予備で一つ。
買い物を済ませると、ゲキはSAOTOME GYMへ戻った。
午後には、体験予約が一件入っている。
エイコーから聞いていた名前は、井原壮吉。
備考欄には、こう書かれていた。
――どうしても五月女店長に会いたい。
少し引っかかる文面だった。
だが、ジムには時々、妙に熱意のある客が来る。
健康診断の結果に衝撃を受けた者。昔の服が着られなくなった者。
急に筋肉に目覚めた者。理由はさまざまだ。
だからゲキは、その時点では深く考えなかった。
少なくとも、その予約客が自分の人生に新しい面倒を持ち込んでくるとは、まだ知らなかった。
Θ
昼過ぎのSAOTOME GYMは、朝よりも落ち着いていた。
ランニングマシンの規則的な音。ダンベルをラックに戻す金属音。
会員たちの短い会話。空調の低い駆動音。
小規模な地域密着型ジムらしい、穏やかな時間だった。
ゲキが入口をくぐると、受付のエイコーが顔を上げた。
「店長、おかえりなさい」
「ああ。予約の人は?」
「もう来てます」
「……早いな」
「十五分前には来てました」
「真面目だな」
「真面目というか……濃いです」
「濃い?」
ゲキは眉をひそめた。
その時、ジムの奥から低く艶のある声が聞こえた。
「――
ゲキが振り向く。
そこに、一人の男が立っていた。
まず目に入るのは、暗い赤色の長い髪だった。
肩を越えて流れる癖のあるロングヘア。
前髪は片目を覆い、残った片方の目はたれ気味で、どこか柔らかい。
顔立ちは美形というより、骨格のしっかりした男前だった。顎の線が強く、鼻筋も通っている。だが仕草には、妙に優雅な艶がある。
身長は高い。
ゲキより、ほんの少しだけ上だ。
だが、筋肉量だけで言えば、ゲキほどの怪物じみた迫力はない。
ゲキが岩の塊のような筋肉だとすれば、その男の筋肉は磨かれた鋼だった。
無駄が少ない。
筋繊維の走りが綺麗で、関節の可動域を邪魔していない。
タンクトップから覗く肩や腕は、太さ以上に密度と質を感じさせた。
一般の会員と比べれば、間違いなくトップクラスの肉体美。
大会に出しても十分に戦える体だ。
タンクトップとジャージというラフな服装なのに、なぜか舞台衣装のように見える。
筋肉の圧とオネエの気配。そして妙な華やかさ。
それらが一人の体に同居していた。
「……予約の井原さん?」
ゲキが尋ねる。
男はゆっくりとうなずいた。
「ええ。井原壮吉」
そして、胸に手を当てた。
「けれど、アタシのことは
「ローズ」
「そう。咲き誇る薔薇のローズよ」
ゲキは無言でエイコーを見る。
エイコーは困ったように笑った。
どう扱えばいいのか、彼にも分からないらしい。
ローズは一歩前へ出た。
そして、突然深く頭を下げた。
「どうか、アタシを弟子にしてください」
ジム内の空気が止まる。
ランニングマシンに乗っていた会員が、思わず速度を落とす。
ダンベルを持ち上げていた会員も、腕を途中で止めた。
エイコーの手も、受付端末の上で固まっている。
ゲキは数秒考えた。
そして、真面目に言った。
「……えっと、会員登録ということか?」
「違うわ」
「体験トレーニングだろうか?」
「それも違うわ」
「パーソナル指導?」
「近いけれど、違うの」
「じゃあ何なんだ?」
「弟子入りよ」
「ジムに?」
「あなたによ」
ローズは顔を上げ、まっすぐゲキを見た。
ゲキは腕を組み、目の前の男の体を見る。
普通の初心者ではない。
ただ鍛えているだけでもない。
筋肉の付き方がいい。姿勢もいい。
見ただけで分かる――体を作るには、相当な年月がかかったはずだ。
「井原さん」
「ローズでいいわ」
「……ローズ」
「ええ」
「見たところ、かなり鍛えられている」
「そうね」
「正直、俺が教えることがあるようには見えなが」
「あら」
ローズは目を細めた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
「褒めてはいる。だが、同時に困っている」
「なら、まずは見てもらえるかしら」
「何を」
「アタシの体を」
ジム内の空気が、また微妙に止まった。
エイコーが小声で言う。
「言い方……」
ゲキも眉をひそめる。
「トレーニングフォームのことだな?」
「もちろんよ」
「オッケー」
ゲキは少しだけ安心した。
「なら、軽く動いてもらう。無理はするな」
「分かったわ」
「エイコー、体験用のメニューを」
「はい。初心者向けでいいですか?」
ゲキはローズの体を改めて見る。
初心者向けのメニューでは、たぶん退屈する。
「いや、中級者向けで」
ローズが微笑む。
「遠慮しなくていいのよ」
「……上級者向けで」
エイコーが端末を操作しながら、少し笑った。
「分かりました。では、まずベンチプレスから」
Θ
数分後。
SAOTOME GYMの会員たちは、誰もがローズを見ていた。
最初は物珍しさだった。
濃い客が来た、という程度の好奇心。
しかし、バーベルを握った瞬間、その視線は変わった。
ローズは、力任せに挙げていなかった。
肩甲骨の寄せ方。
肘の角度。
手首の安定。
下ろす速度と、押し上げる瞬間の爆発力。
どれも綺麗だった。
一回。
二回。
三回。
重さに対して、動きが滑らかすぎる。
ゲキは補助に立ちながら、無言で見ていた。
筋肉量だけなら、自分の方が明らかに上だ。
だが、この男の筋肉は、よく練られている。
ただ大きいのではない。
使える形で、丁寧に鍛えられている。
「十七、十八、十九、二十」
ローズは涼しい顔でバーベルをラックに戻した。
「こんな感じでいいかしら」
エイコーが目を丸くする。
「店長……」
「ああ」
「この重量、体験でやる重さじゃないです」
「分かってる。だが彼は明らかに初心者ではない」
ゲキは少し考えた。
「……少し上げるか」
「あら、嬉しい」
会員の一人が小声で呟く。
「今の、少し?」
「俺、あれ一回も上がらないんだけど」
「店長の顔が真面目になったぞ」
次はスクワット。
ローズはバーベルを担いだ。
沈む。
上がる。
膝がぶれない。
腰も逃げない。
足裏の圧が安定している。
筋肉の量よりも、体の使い方がいい。
「フォームがいい」
ゲキが言う。
ローズは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「誰に習った」
「独学よ」
「独学で?」
「ええ。鏡と動画と情熱で」
「情熱でフォームは安定しない」
「するのよ。愛があれば」
「しない」
「したわ」
「……しているな」
ゲキは少しだけ悔しそうに認めた。
会員たちがざわつく。
「あの店長が認めた」
「すごい人なのか?」
「というか、何者?」
ローズはその視線に気づいているのかいないのか、優雅に髪を払った。
片目を隠していた赤い髪が、わずかに揺れる。
その仕草だけなら華やかだ。
だが、担いでいる重量はまったく華やかではない。
次は懸垂だった。
ローズはバーにぶら下がり、ゆっくり体を引き上げる。
一回。
二回。
三回。
反動を使っていない。
背中の筋肉が綺麗に動く。
ゲキは腕を組んだ。
「背中もいい」
「褒め上手ね」
ローズはそのまま数回続け、最後に片手を離して前髪を払った。
「危ないことをするな」
ゲキが即座に言う。
「ごめんなさい。髪が目に入ったの」
「片手懸垂中に髪を払うな」
「身だしなみは大事よ」
「懸垂を優先しろ」
「あら、どちらも大事よ」
「優先順位を間違えるな」
エイコーが真剣な顔でメモを取っていた。
「エイコー」
「はい」
「何を書いている」
「観察記録です。筋力、柔軟性、フォーム、あと謎の華やかさ」
「最後はいらないと思うぞ」
「でも、この方を説明するには必要です」
「むう、否定しにくいな」
最後に、ローズは軽いジャンプ動作を見せた。
大きな体が、ふわりと浮く。
そして、静かに着地する。
ゲキはそこで、わずかに目を細めた。
力があるだけではない。
体が重さに振り回されていない。
関節の柔らかさと、軸の強さが同居している。
見た目の派手さに反して、基礎が恐ろしく丁寧だった。
「……本当に俺が必要か?」
ゲキは思わず言った。
ローズはタオルで汗を拭きながら、にこりと笑う。
「必要よ」
「今のを見る限り、普通のトレーナーなら逃げるぞ」
「あなたは逃げないでしょう?」
「仕事だからな」
「なら、お願いできるわね」
「あんたは何を求めてる?」
ゲキが尋ねると、ローズは少しだけ目を細めた。
それまでの華やかな空気が、ほんの少しだけ変わる。
「休憩中に話したいわ。人の少ないところで」
その言い方に、ゲキは警戒した。
だが、敵意は感じない。
少なくとも、デビデヴィ・クライシスの気配ではない。
「分かった」
Θ
ジム奥の休憩スペース。
小さなテーブルと椅子がある。
ゲキは水のペットボトルを二本持ってきて、一本をローズへ渡した。
「飲め」
「ありがとう」
ローズはボトルを受け取り、静かに口をつけた。
体格に似合わず、動きがいちいち優雅だった。
ゲキは正面に座る。
「それで」
「ええ」
「さっきも言ったが、あんたは相当鍛えている。筋力もフォームも十分だ。正直、俺が教えることはあまりない」
「普通のトレーニングなら、そうかもしれないわね」
「なら、何の弟子入りだ」
ローズは水のボトルを置いた。
その表情から、ふざけた気配が消える。
「魔法少女よ」
ゲキの目が止まった。
「……なんだと?」
「アタシ、
ゲキは数秒、黙った。
それから、周囲を確認する。
会員はいない。
エイコーも受付にいる。
声は届かない。
「ローズ」
「ええ」
「なぜ俺に言う」
「あなたが、魔法少女ゲキ・マキシマムだからよ」
ゲキの表情が変わった。
「……何の話だ」
「誤魔化さなくていいわ」
「人違いだ」
「違わない」
「認識阻害の魔法は――」
そこまで言って、ゲキは口を閉じた。
ローズの口元が、ふっと笑う。
「今、自分で言ったわね」
「……誘導か」
「あなたの口が軽いだけよ」
ゲキは深く息を吐いた。
「なぜ分かった」
「筋肉よ」
「……筋肉?」
「そう」
ローズは真剣だった。
冗談ではなかった。
「アタシ、一度見た筋肉は忘れないの」
「その能力は何だ」
「愛よ」
「おいおい、愛で片づけるな」
「でも事実だもの」
ローズは椅子に座り直した。
「去年、雨玻町の海水浴場でボディービル大会があったでしょう?」
「あったな」
「四十代の部で優勝した男の記事を、地元新聞で読んだわ」
ゲキの顔が、少しだけ気まずくなる。
「……そんな記事、よく覚えていたな」
「忘れられるわけないじゃない」
ローズの目が輝く。
「あの大胸筋。あの広背筋。あの僧帽筋。鍛えすぎているのに、生活感がある。見せるためだけじゃない、誰かを守るために積み上げられた筋肉」
「そこまで読むな」
「読めるのよ」
「恐ろしいな」
「褒め言葉として受け取るわ」
ローズは気にしなかった。
「そして、動画で見たゲキ・マキシマム」
彼はまっすぐゲキを見た。
「髪も衣装も違った。顔や声は、認識阻害のせいか曖昧だった。でも、体だけは分かった」
「体だけ」
「ええ。筋肉の形、肩の幅、背中の厚み、腕の付き方。全部、新聞で見た五月女ゲキと同じだった」
「認識阻害、筋肉には弱いのか……?」
「たぶん、アタシの目が良すぎたのかも」
ゲキは頭を抱えた。
エイコーも少し引っかかっていた。
そして目の前のローズは、完全に看破していた。
魔法の認識阻害は働いている。
だが、筋肉を日常的に見ている者、あるいは異常なほど筋肉に執着している者には、別の形で違和感が残るらしい。
どういう理屈かは分からない。
ただ、現実としてローズは気づいた。
「このことを誰かに話したか」
「話してないわ」
「本当だな」
「ええ。魔法少女の正体を軽々しく漏らすほど、無粋じゃないもの」
ローズの声は穏やかだった。
だが、そこには真剣さがあった。
「アタシにとって魔法少女は、憧れなの。茶化す対象じゃないわ」
ゲキは、その言葉に少しだけ目を細めた。
ふざけているわけではない。
――この男は、本気だ。
「なぜ、魔法少女になりたい」
ゲキが聞く。
ローズはすぐには答えなかった。
長い赤髪が、片目を隠す。
残った目が、静かに揺れていた。
「話すと長くなるわ」
「ああ」
「子供の頃からの夢なの」
ゲキは黙っていた。
ローズは続ける。