魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
ローズがSAOTOME GYMを出てから、しばらく後。
ジムの中には、まだ重い空気が残っていた。
ローズの願い。
そして、諦めたように笑って帰っていった彼の背中。
ゲキは休憩スペースの椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。
魔法少女になる。
その言葉の響きは、華やかだ。
だが、実際には違う。
戦場に立つということ。
敵に狙われるということ。
傷つく可能性を背負うということ。
ゲキはすでに、その重さを知っていた。
エミカが病院のベッドで目を覚ました時のことを思い出す。
痛みに顔を歪めながら、それでも町を守れなかったことを謝った娘の顔。
あれを、もう誰にも味わわせたくはない。
ミププがローズを拒絶した理由も、分からないわけではない。
だが——。
ゲキの胸には何かが引っかかっていた。
夢を笑われることに慣れてしまった男の顔。
諦める準備をしながら、それでもまだ完全には諦めきれていない目。
あの目を、ゲキは簡単に忘れられなかった。
軽いため息をついた瞬間。
空気が変わった。
ジムの中にいるはずなのに、外から冷たいものが流れ込んできたような感覚。
肌の表面をざらつかせる、嫌な気配。
それは、ゲキがすでに何度か経験したものだった。
ミププが二階から急いで降りてくる。
「ゲキ! 悪魔空間ミプ!」
休憩スペースの窓から外を見ると、遠くの空が紫色に濁り始めていた。
夜空に、染みのような闇が広がっていく。
前回よりも濃い。
ゲキは直感でそう感じた。
ただ空間が歪んでいるだけではない。
町そのものが、何か巨大な手に握り潰されようとしているような圧迫感がある。
「場所は」
「近いミプ。たぶん、ここから数区画先ミプ」
「方角的に、ローズが歩いて行った場所かもしれない」
ゲキは立ち上がり、ミププもすぐにゲキの肩へ飛び乗る。
「ゲキ、今回は気をつけるミプ。悪魔空間の濃度がかなり高いミプ」
「ああ、そのようだな」
「前の重機型より危ない気配ミプ」
「なおさら急がなくては」
ゲキは出入口へ向かおうとした。
その時、二階へ続く階段から、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「お父さん!」
エミカだった。
自室にいたはずの彼女が、松葉杖をつきながら階段の途中に立っていた。
制服ではなく、部屋着姿。
顔には、学校での疲れが残っている。
だが、……その目だけは戦場へ向かおうとしていた。
「悪魔空間だよね」
エミカは言った。
「私も――」
「だ、駄目ミプ!」
その声は、ゲキより早かった。
ミププが、エミカの前へ飛ぶ。
小さな体で、歩みを止めるように。
「エミカは家にいるミプ」
「でも!」
「絶対駄目ミプ!」
ミププの声は、いつになく強かった。
エミカは一瞬、言葉を失う。
ゲキもミププを見る。
普段のミププなら、エミカに対してここまで厳しく言うことは少ない。
けれど今のミププは、明らかに譲る気がなかった。
「エミカはまだ治ってないミプ。体も、魔力回路も、全部まだボロボロミプ」
「分かってる。でも、町が――」
「分かってないミプ!」
ミププの声が震えた。
「エミカが無理したら、今度こそ取り返しがつかなくなるミプ!」
階段の途中で、エミカの手が松葉杖を強く握った。
反論したい。
行きたい。
自分の町を守りたい。
その気持ちは痛いほど分かる。
だが、今のエミカは戦えない。
変身すれば、魔力回路がさらに傷つくかもしれない。
最悪、二度と魔法少女に戻れなくなるかもしれない。
ゲキもエミカの前に立つ。
「エミカ」
「……」
「ここにいてくれ」
「お父さんまで」
「頼む」
その一言で、エミカは黙った。
命令ではない。
説教でもない。
頼む、とゲキは言った。
それが、かえって重かった。
「……分かった」
エミカは悔しそうに唇を噛む。
「でも、絶対帰ってきて」
「もちろんだ。パパを信じろ」
ゲキは短く答えた。
エミカはミププを見る。
「ミププ」
「何ミプ」
「お父さんをお願い」
「任せてミプ」
ミププはうなずいた。
そして、いつものような軽さを少しだけ取り戻す。
「ゲキは放っておくとすぐ無茶するミプ。しっかり見張るミプ」
「ハハハ、それは状況次第だ」
「否定してよ、お父さん」
エミカが小さく言う。
ほんのわずかに、場の空気が緩んだ。
だが、それも一瞬だった。
遠くで爆発音がした。
窓ガラスがびりびりと震え、スマホには避難勧告とC.H.A.R.M.からの通知が届く。
ゲキはメイクアップ・リグを握りしめる。
「エミカ。行く前にハグをさせてくれ」
「もうそういうのは……」
「——お前の思いを、
「……はぁ、仕方がないな」
ゲキはエミカを軽く抱きしめる。
「よし、行くぞ、ミププ」
「ミプ!」
ゲキはジムの出入口へ走り、エミカは、その背中を見送った。
……何もできない自分が悔しい。
だが、今ここで飛び出せば、父の足を引っ張るだけ。それも分かっている。
だからエミカは、強く松葉杖を握ったまま、ただ願うしかなかった。
「お願い……無事で帰ってきて」
Θ
悪魔空間の中心部に、エリゴスは立っていた。
紫色に歪んだ夜の町。
ビルの壁は黒い血管のような模様に覆われ、道路には赤黒い亀裂が走っている。
街灯は点滅を繰り返し、空は重く垂れ込めた雲のような悪魔エネルギーで覆われていた。
その中央で、黒い人型兵器が槍を振るう。
D-15エリゴス。
デビデヴィ・クライシス本部製の最新鋭悪魔兵器。
これまでイタヴリ博士が作ってきたデビガノイドとは、存在感が違う。
重機を組み合わせたような粗さはない。
無理やり作った兵器のいびつさもない。
滑らかな黒い装甲。赤く光る関節。
人間に近いシルエット。無機質な顔。
そして右手に握られた禍々しい槍。
その姿は、悪魔兵器というよりも、悪魔そのものを人型の鎧に閉じ込めたようだった。
槍が振るわれるたび、赤黒い光が空気を裂く。
路面が爆ぜ、建物の外壁が砕ける。
駐車されていた車が玩具のように吹き飛ぶ。
エリゴスはただ暴れているわけではない。
その破壊の一つ一つが、悪魔空間を濃くする。
壊れた建物から流れる恐怖。逃げ惑う人々の悲鳴。
それらを、エリゴスの胸に埋め込まれたデモンコアが吸い上げていく。
そして吸い上げた恐怖を、さらに濃い悪魔エネルギーとして吐き出す。
——悪循環。
破壊が恐怖を生み、恐怖が悪魔空間を濃くし、濃くなった悪魔空間がエリゴスの出力を高めていく。
その様子を、少し離れたビルの屋上から三つの影が見下ろしていた。
タカワラーイ婦人。
イタヴリ博士。
そして、ユーギ・ザムライ・ニャンタ。
婦人は扇子で口元を隠しながら、エリゴスの暴れぶりを見つめていた。
「……すさまじいですわね」
その声には、驚きがあった。
だが、それ以上に濃いのは歓喜だった。
町が壊れ、人々が逃げ惑う。
悪魔空間が次第に濃くなっていく。
その光景を見下ろすタカワラーイ婦人の瞳には、悪の幹部としての冷たい輝きが戻っていた。
「前回までとは、まるで違いますわ。これが本部最新鋭……これが、正規の悪魔兵器の力」
イタヴリ博士の即席兵器では到達できなかった出力。
デヴィ・リグを失った彼女たちでは作れなかった、濃密な悪魔空間。
エリゴスが槍を振るうたび、空間の色が濃くなる。
紫は黒に近づき、町の輪郭がさらに歪む。
「おーっほっほっほ……! いいですわ。実にいい。雨玻町が悲鳴を上げていますわ」
婦人は扇子を広げ、優雅に笑った。
「このまま恐怖を吸い上げなさい、エリゴス。人間どもの心ごと、この町を悪魔空間へ沈めておしまいなさい」
隣でイタヴリ博士は、端末を片手にD-15エリゴスの出力を測定していた。
いつものような騒がしい笑いはない。
画面に流れる数値を見つめる表情は、珍しく真剣だった。
だが、それは良心から来るものではない。
未知の兵器。
限界を超えて燃えるデモンコア。
そして、負の感情が数値として跳ね上がっていく様。
それらを前にした研究者の、下卑た興奮を必死に抑え込んでいる顔だった。
「博士?」
婦人が気づく。
「何ですの、その顔は。勝利の前に青ざめるなど、興が削がれますわよ」
「……出力が高すぎます」
「結構なことではありませんの?」
「普通なら、そうです」
博士は端末を操作した。
そこには、エリゴスの悪魔エネルギー反応と、デモンコアの負荷値が表示されていた。
負荷値は、赤い警告域に入りかけている。
「悪魔空間の濃度は急速に上がっています。D-15の戦闘能力も想定以上です。正直、今のゲキ・マキシマム相手でも十分に戦えるでしょう」
「ならば笑いなさいな。あなた、こういう下品な数字が大好きでしょう?」
「ええ、大好きですとも!」
博士の口元が、にたりと歪んだ。
「人間の恐怖が吸い上げられて、悪魔エネルギーに変換されていく。この波形、この濁り、この粘つき……ああ、実に美しい。普通なら涎が出るところです」
「……本当に下品ですわね」
「言っといて、引かないでくださいよ」
「で、なぜ青ざめてますの?」
「……
博士はエリゴスの胸部を見る。
そこには、赤く脈打つデモンコアが埋め込まれている。
元は一人の少年だったもの。
一度はゲキ・マキシマムに浄化されかけ、ユーギによって再びデモンコアへ戻されたもの。
その核が、エリゴスの出力に耐えきれないほど激しく脈打っていた。
「もしかしたら、持たないかもしれません」
博士が言った。
タカワラーイ婦人の眉が動く。
「持たない?」
「デモンコアです」
博士は淡々と答える。
「D-15は高効率です。効率が良すぎる。デモンコアから悪魔エネルギーを吸い上げ、増幅し、戦闘と悪魔空間形成に回している」
「それは本部製として優秀ということではなくて?」
「優秀です。兵器としては最高です」
博士は、舌なめずりでもしそうな顔で続けた。
「ですが、今回のデモンコアは完全な新品ではありません。一度浄化されかけたものを、再変換して使っている。悪魔エネルギーの密度は高い。憎悪も、劣等感も、支配欲も、実に濃厚です。濃くて、臭くて、腐りかけの果実みたいに甘い」
「表現が気色悪いですわ」
「婦人。人間の心なんて、少し腐りかけたくらいが一番よく燃える」
博士は端末を見ながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「ただし、安定性は低い。燃料としては極上ですが、器としては脆い。つまり今の彼は、上質な薪を小さな炉に詰め込みすぎた状態です」
エリゴスが遠くで咆哮している。
機械の声と、少年の怒りが混ざったような叫びだった。
『俺を……見下すなァァァ!』
槍が振るわれ、道路脇の街路樹がまとめてなぎ倒される。
その破壊に巻き込まれそうになった人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
エリゴスの胸のコアが、さらに強く光った。
博士の端末に警告音が鳴る。
「ほらね」
博士は短く言った。
「今の一撃で、また負荷が跳ね上がりました。怒れば怒るほど燃える。暴れれば暴れるほど削れる。いやあ、実に見事な自壊式感情エンジンだ」
「自壊式など、笑えませんわね」
「僕は少し笑えます」
「博士」
「はい、黙ります」
タカワラーイ婦人はエリゴスを見下ろした。
……D-15エリゴスは強い。
だが、その強さはデモンコアを燃料として燃やし尽くすことで成立している。
悪魔兵器としては、ある意味で正しい。
核となった人間の心など、デビデヴィ・クライシスにとっては資源でしかない。
恐怖も、怒りも、劣等感も、絶望も。
すべて奪い、燃やし、支配のために使う。
それが悪のやり方だ。
だが、今回に限っては事情が違う。
彼女たちには余裕がない。
失敗できない。
このエリゴスで成果を出さなければ、後がない。
そのためには、デモンコアが途中で燃え尽きるのは困る。
「空間の完成まで、どれほどですの」
「計算が出ました。このペースなら、かなり早いです。ですが……」
「ですが?」
「完成と同時に、デモンコアが事切れる可能性があります」
婦人は黙った。
博士は端末から目を離さない。
「悪魔空間を完成させるには、膨大な負の感情と悪魔エネルギーが必要です。D-15はそれを無理やり引き出している。……まるで、心を燃やしているようなものですね」
心を燃やしている。
その表現は、兵器開発者らしからぬものだった。
タカワラーイ婦人は、少しだけ博士を見た。
「博士。あなた、珍しく詩人のようなことを言いますのね」
「詩ですよ。とびきり悪趣味な詩です」
博士は薄く笑った。
「少年の劣等感を芯にして、怒りを油にして、恐怖を酸素にして燃やす。燃え尽きる瞬間まで泣き叫ばせれば、悪魔空間はより濃くなる。ああ、最悪だ。最低だ。だからこそ、悪魔兵器としてはたまらない」
「……ホント下品。あなたは本当に救いようがありませんわね」
「救われたいと思ったことがありませんので」
いつもなら、ここでくだらない言い合いになる。
だが、今の婦人は笑わなかった。
エリゴスの咆哮が、また町に響く。
『俺は……弱くない……!』
『誰も……俺を……笑うな……!』
赤黒い光線が放たれ、ビルの側面を削る。
瓦礫が落ち、道路に砕け散る。
人々の悲鳴。
悪魔空間の濃度が、さらに上がる。
――いける。
タカワラーイ婦人は扇子を握りしめた。
少年の心が燃え尽きようとしている。
人間としての意識が、悲鳴を上げながら削られている。
それは理解している。
理解した上で、婦人は扇子を広げた。
「……
その声は冷たかった。
「デモンコアが燃え尽きようと、少年の心が壊れようと、この町が落ちれば我々の勝利です。勝利のために燃えるなら、素材としては本望でしょう」
博士が横目で婦人を見る。
「おや、悪の幹部らしい」
「わたくしは最初から悪の幹部ですわ」
婦人は夜の町を見下ろし、口元を歪めた。
「同情など、勝ってから好きなだけしてあげます。墓標の一つくらいは用意して差し上げてもよくてよ。ですが今は違う」
扇子の先が、暴れ狂うエリゴスを指す。
「エリゴス。燃やしなさい。あの子の怒りも、劣等感も、惨めな自尊心も。すべて悪魔空間の糧にしなさい」
その命令に応えるように、エリゴスの胸のコアが赤く脈打った。
『俺は……下じゃない……!』
咆哮が町を揺らす。
その声に、タカワラーイ婦人は満足げに目を細めた。
「いい声ですわ。負け犬の遠吠えも、使い方次第では上等な戦場音楽になりますのね」
「婦人もなかなか下品じゃないですか」
「あなたに言われると非常に不愉快ですわ。……ユーギ!」
「御意」
猫武者は、屋上の縁に立っていた。
日本甲冑を着た人型猫。腰には刀。
見た目は奇妙で愛嬌がある。
だが、その背中には妙な落ち着きがあった。
エリゴスの暴走を見ても、彼だけは動じていない。
「悪魔空間が完成すれば、シータアースのこの一帯は姫様の支配下に落ちるでござる」
「燃え尽きる前に完成させればいい。雨玻町を堕とせば、本部から支援もたんまり戻りますよ婦人」
「あら、簡単に言いますね」
「戦とは、そういうもの」
ユーギは淡々と言った。
「兵は消耗する。武器は壊れる。だが、城を落とせば勝ちでござる」
タカワラーイ婦人は、扇子の陰で笑った。
デモンコアは道具。
D-15は兵器。
目的はシータアース侵略。
ならば迷う理由はない。
あのデモンコアには人間の心が残っている。残り過ぎている。
ゲキ・マキシマムに一度救われた少年が、今また無理やり燃やされている。
だから何だというのか。
タカワラーイ婦人は少年をデモンコアにした実行犯だ。
同情はある。
理解もある。
——それを踏み潰して進むからこそ、悪の幹部なのだ。
「博士」
「はいはい」
「完成までの時間を正確に計算しなさい。デモンコアが燃え尽きる寸前まで使いますわ」
「寸前ですか」
「ええ。燃え尽きてからでは困ります。燃え尽きる前に、この町を堕とすのです」
「いやあ、素晴らしい判断です」
「あなたに褒められると品位が下がりますわね」
婦人はユーギを見る。
「ユーギ」
「はっ」
「エリゴスが完全に制御不能になりそうなら、あなたが抑えなさい。ただし、止めるのは最後の最後です。使えるうちは使い潰しますわ」
「御意」
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。
だが、屋上の空気は重いままだった。
エリゴスは強い。あまりにも強い。
その強さは、婦人たちに勝利の可能性を見せていると同時に、いつ破裂してもおかしくない爆弾でもあった。
博士の端末に、また警告音が鳴り、赤い表示が点滅する。
デモンコア負荷、上昇。
悪魔空間濃度、上昇。
D-15戦闘出力、上昇。
すべての数値が、破滅へ向かって加速する。
そこには、燃え尽きようとしている一つの心が、救いを待っていた。