魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
悪魔空間の中で、雨玻町はもはや別の町になっていた。
夜の住宅街だった場所は、紫色の空に覆われている。
空気が重い。
息を吸うだけで、胸の奥に不安が入り込んでくるようだった。
遠くで悲鳴が上がり、続いて爆発音。
砕けたガラスが路面に降り注ぎ、車の警報音がいくつも重なった。
その中心に、黒い人型の悪魔兵器——エリゴスがいた。
胸部の赤いコアは、不規則に脈打っていた。
まるで心臓のように。
だが、それは命の鼓動ではない。
怒り。
恐怖。
劣等感。
見下されたくないという叫び。
それらが混ざり合い、兵器の体を動かしていた。
『俺を……見るな……』
エリゴスの声が、悪魔空間に響く。
『俺を……笑うな……!』
槍を横に振るった。
赤黒い光が道路沿いのビルを斜めに裂く。
壁面が大きく砕け、上階のコンクリート片が崩れ落ちた。
その真下に、親子がいた。
若い母親と、小さな男の子。
避難しようとしていたのだろう。
母親は子供の手を引き、必死に走っていた。
しかし、悪魔空間の圧に足を取られたのか、子供が転んだ。
「はると!」
母親がしゃがみ込む。
その頭上に、巨大な瓦礫が落ちてくる。
普通なら、間に合わない。
誰もがそう思う瞬間だった。
赤い長髪が、紫の空気を切った。
ローズが走っていた。
魔法少女ではない。魔力もない。
ただ鍛え上げられた肉体だけで、ローズは瓦礫の落下点へ飛び込んだ。
「
叫ぶより早く、ローズは親子を抱き寄せた。
片腕で子供を抱え、もう片方の腕で母親の肩を押す。
そのまま、地面を蹴った。
普通の人間なら、二人を抱えて横へ飛ぶなど不可能だ。
だがローズの体は動いた。
長年、夢だけを燃料に鍛えてきた肉体。
魔法少女に憧れ、いつか誰かを守るために積み上げてきた筋肉。
そのすべてが、この一瞬に働いた。
ローズは親子を抱えたまま、道路脇へ転がり込んだ。
直後、さっきまで三人がいた場所に瓦礫が落ちた。
轟音。
砕けたコンクリートが飛び散る。
母親は子供を抱きしめたまま、震えていた。
「……大丈夫?」
ローズは膝をつきながら尋ねた。
息が少し乱れている。
着地の衝撃を完全には逃がしきれなかった。
肩に小さな破片が当たり、血がにじんでいる。
それでも、ローズは笑った。
「怪我はない?」
「大丈夫です……! ありがとうございます!」
「よかった」
ローズは立ち上がる。
男の子が、涙で濡れた顔を上げた。
「お、おじさん……
「え?」
ローズは一瞬だけ固まった。
胸の奥が、きゅっと痛む。
けれど、すぐに微笑んだ。
「いいえ……違うわ」
ローズは男の子の頭を軽く撫でた。
「でもね、助けることはできるの」
その時、赤黒い光弾が飛んできた。
エリゴスの放ったエネルギー弾だった。
狙いは親子ではない。
悪魔空間の中で暴れるエリゴスに、精密な狙いなど必要なかった。
破壊できればいい。恐怖を生めればいい。
自分を見ている者を、すべて黙らせられればいい。
ローズは周囲を見た。
逃げるには間に合わない。
……なら、防ぐしかない。
近くに落ちていた
普通なら持ち上げることすら難しい重さだ。
だが、ローズは歯を食いしばり、それを盾のように構えた。
「下がって!」
禍々しい光弾が直撃する。
衝撃が、両腕を通して全身に走った。
コンクリートの盾が砕け、破片が頬をかすめる。
足元のアスファルトが削れたが、ローズは倒れなかった。
背後の親子に、光弾は届かなかった。
「早く、逃げて!」
ローズが叫ぶ。
母親は何度も頭を下げ、子供を抱えて走り出した。
ローズはその背中を見送り、それからエリゴスへ振り返る。
黒い人型兵器は、少し離れた交差点にいた。
その周囲で、人々が逃げ惑っている。
エリゴスはそのすべてを敵のように見ていた。
いや、敵というよりも、観客のように見ているのかもしれない。
自分を評価する者。
自分を笑う者。
自分を見下す者。
そう思い込んでいる。
ローズは直感した。
あれは、ただの兵器ではない。
——苦しんでいる。
胸の赤いコアが、痛々しいほど激しく脈打っている。
そのたびにエリゴスの動きが乱れ、怒りが噴き出す。
『俺は……弱くない……!』
叫ぶ。
『俺を……見下すなァ!』
槍が振るわれ、また別の建物が砕けた。
ローズは拳を握る。
……怖くないわけではない。
相手は怪物だ。
自分は魔法少女ではない。
直撃を受ければ、ただでは済まない。
だが、今ここで動かなければ、逃げ遅れた人々が巻き込まれる。
ローズは道路の真ん中へ走った。
足元に、外れかけた
悪魔空間の影響で、路面が歪み、蓋が半分浮いていたのだ。
ローズはそれに手をかける。
彼は腰を落とし、背中と脚を使って蓋を引き抜いた。
近くで逃げていた男性が、思わず足を止めた。
「う、うそだろ……」
ローズは息を整えた。
相手はこちらを見ていない。
まだ逃げる人々に槍を向けている。
「こっちを見なさい」
ローズは呟いた。
そして、全身を使ってマンホールの蓋を投げた。
鉄の円盤が、紫の空気を切って飛ぶ。
それはエリゴスの肩に直撃した。
鈍い金属音。エリゴスの体が、わずかに傾く。
攻撃そのものは、大きなダメージにはなっていない。
だが、注意を引くには十分だった。
エリゴスの顔が、ゆっくりとローズへ向く。
赤い光が、仮面の奥で激しく灯った。
『……誰だ』
ローズは両手を広げ、わざと優雅に一礼した。
「通りすがりの、咲いていない薔薇よ」
『笑ったな』
「笑ってないわ」
『俺を……馬鹿にしたな』
「していない」
『見下したなァ!』
エリゴスの声が、怒りに染まる。
胸のデモンコアが強く脈打ち、悪魔エネルギーが噴き出した。
ローズはその瞬間、理解した。
言葉が届く状態ではない。
……少なくとも、今は。
エリゴスが地面を蹴った。
速い。
巨体の黒い人型兵器が、一瞬で距離を詰める。
禍々しい槍が、ローズの胴を狙って突き出された。
ローズは横へ跳ぶ。
槍の穂先が、彼の髪を数本散らす。
着地。
すぐに後ろへ下がる。
エリゴスは追ってくる。
連続の突き。
横薙ぎ。
上段からの振り下ろし。
どれも、人間の反応速度で避けるにはぎりぎりだった。
だが、ローズは避けた。
力任せではない。
踊るように。
舞台の上でステップを踏むように。
槍の軌道を見極め、紙一重で身をかわしていく。
長い赤髪が、紫の空気に流れる。
エリゴスの槍が道路を割り、ガードレールを砕き、街灯をへし折る。
そのたびに破片が飛ぶ。
ローズはその中を、華麗にすり抜けた。
逃げているだけではない。
避けながら、少しずつエリゴスを人のいない場所へ誘導している。
背後に人がいない方向へ。
建物の倒壊が少ない場所へ。
少しでも被害が少なくなるように。
それは、彼が無意識に選んだ動きだった。
魔法少女になりたいと願い続けた男の体に染みついた、誰かを守るための動き。
『避けるな……!』
エリゴスが叫ぶ。
『俺を見るな! 笑うな! 逃げるな!』
「忙しい注文ね……!」
ローズは息を切らしながら言った。
「見るなと言ったり、逃げるなと言ったり」
『黙れェ!』
エリゴスが、槍を地面に突き立てた。
そこから赤黒い衝撃波が広がる。
ローズは跳んだ。
だが、衝撃波は空中にも歪みを生んだ。
体勢が崩れる。
着地が少し乱れ、膝に衝撃が走る。
そこへ、エリゴスの追撃。
槍の柄が横から迫る。
ローズは腕で受けた。
重い。
体が吹き飛ばされ、道路を転がる。
「っ……!」
背中を打ち、息が詰まった。
だが、すぐに起き上がる。
痛い。
当然だ。
魔法少女ではない体で悪魔兵器の攻撃を受けているのだから。
それでも、立った。
ローズは唇の端についた血を拭う。
「まだ……踊れるわ」
……エリゴスが止まった。
わずかに。ほんの一瞬だけ。
その胸のコアが、不自然に明滅する。
『……痛い』
小さな声が漏れた。
それは機械音ではなかった。
少年の声だった。
ローズは目を見開く。
「今……」
『痛い……苦しい……』
エリゴスの体が震える。
槍を握る手が、ぎちぎちと音を立てた。
『でも……負けたくない……』
『見下されたくない……』
『俺は……弱くない……』
ローズはゆっくりと息を吸った。
怒りの奥に、別のものがある。
怯え。痛み。
誰にも見てもらえなかった寂しさ。
それを、ローズは感じ取った。
なぜ分かるのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥に引っかかった。
夢を笑われた時の痛み。
諦めろと言われた時の悔しさ。
誰にも本気にしてもらえなかった夜の寂しさ。
それに少しだけ似ていた。
「あなた……苦しいのね」
ローズが言った。
エリゴスの赤い目が揺れる。
『苦しく……ない……』
「嘘よ」
『俺は……強い……』
「強い人だって、苦しい時はあるわ」
『黙れ……』
「あなたの中にいるのは、誰?」
エリゴスの槍が震える。
ローズは一歩、近づいた。
危険だと分かっている。
だが、今の一瞬だけは、言葉が届くかもしれないと思った。
「ねえ、聞こえているんでしょう?」
『黙れ』
「あなたは兵器じゃない」
『黙れ……』
「あなたは――」
『黙れェェェ!』
エリゴスが咆哮した。
胸のコアが、激しく光る。
届きかけたものが、黒い怒りに押し潰された。
ローズは歯を食いしばる。
……やはり、まだ届かない。
言葉だけでは足りない。
怒りが厚すぎる。
悪魔エネルギーが濃すぎる。
黒い棘が覆っているようだ。
エリゴスが槍を掲げる。
周囲の悪魔エネルギーが、槍の穂先へ集まり始めた。
空間が歪む。
道路の亀裂から黒い光が立ち上り、ビルの壁に浮かんだ赤い模様が脈動する。
最大出力。
ローズは直感した。
これは避けられない。
エリゴスの声が、悪魔空間全体に響いた。
『俺を……否定するなァァァ!』
赤黒い光が、槍から放たれる。
巨大な奔流だった。ローズは逃げなかった。
背後には、まだ逃げ遅れた人々がいる。
ここで避ければ、光はそのまま彼らを飲み込む。
……なら、受けるしかない。
ローズは足を開き、両腕を前に構えた。
防げるはずがない。
それでも、構えた。
「……まったく」
彼は小さく笑った。
「まだ魔法少女でもないのに、無茶ばかりね」
光が迫る。
その瞬間。
ピンクの魔力が、ローズの前に割り込んだ。
轟音。
赤黒い光の奔流が、何かに受け止められる。
ローズの長い髪が、衝撃で後ろへ流れた。
目の前に、巨大な背中があった。
ピンクの魔法少女衣装。
ハートの装飾。
鍛え上げられた筋骨隆々の体。
——魔法少女ゲキ・マキシマム。
彼はその
「ぐ……!」
ゲキ・マキシマムの足元のアスファルトが砕ける。
光の奔流が、彼の体を押し込もうとする。
だが、ゲキ・マキシマムは退かない。
背後にローズがいる。
さらにその後ろには、逃げ遅れた人々がいる。
退けるはずがなかった。
「ミププ!」
「分かってるミプ!」
ミププが肩の上で叫ぶ。
ゲキ・マキシマムの胸に、ピンクの魔力が集中する。
「マジカル……!」
筋肉が軋む。
魔力が爆ぜる。
「マキシマム・マッスル・ガードォォォオ!」
ピンクの光が広がり、赤黒い奔流を押し返した。
爆発。
光が弾け、周囲に衝撃波が広がる。
瓦礫が吹き飛び、紫の霧が揺れた。
攻撃が消える。
ゲキ・マキシマムはゆっくりと振り返った。
「無事か、ローズ」
ローズは数秒、言葉を失っていた。
その背中を見ていた。
自分の夢をもう一度信じさせてくれた背中。
ピンクの衣装をまとった、男の魔法少女。
……やはり、そこにいた。
どんな姿でも、誰かを守るために立つ者。
ローズは小さく息を吐き、笑った。
「……遅いわよ、魔法少女ゲキ・マキシマム」
「悪いな」
「でも、登場は満点ね」
「ハハハ、ならよかった」
ゲキ・マキシマムはエリゴスへ向き直る。
その目が鋭くなる。
「デビデヴィ・クライシスか」
「敵であることは間違いないわ」
ローズは立ち上がった。
体のあちこちが痛む。
腕も、背中も、膝も悲鳴を上げている。
だが、まだ立てる。
ゲキ・マキシマムはそんなローズを横目で見た。
「随分無茶したな」
「あら、あなたに言われたくないわ。胸で攻撃を受け止めたもの」
「ハハハ、鍛えてるからな」
「アタシも負けてないわ」
「二人ともミプ」
ミププが叫ぶ。
「二人とも反省するミプ!」
だが、ローズはエリゴスの胸を見ていた。
赤く脈打つコア。
あれが痛みの中心だ。
あの中に、誰かがいる。
兵器として暴れているのではない。
苦しみながら、怒りながら、助けを求める方法も分からずに暴れている。
……ローズはそれを確信していた。
「ゲキ」
「なんだ」
「あの赤いコアに、触れさせて」
ゲキ・マキシマムが振り返る。
「本気か? 冗談はよせ」
「お願いよ」
ローズの声は真剣だった。
「一度でいい。あの心に、触れさせて」
「心に……どういうことだ?」
「あの子は苦しんでる。助けてあげないと」
「ただ触れればどうにかなる相手じゃないと思うが」
「……それでも」
ローズはエリゴスを見つめた。
再び槍を構えようとしている。
胸のコアは、今にも割れそうなほど激しく脈打っていた。
「怒っているだけじゃない。痛がってる。助けてほしいって、言えないだけなの」
ゲキ・マキシマムは黙った。
ローズの横顔には、微かに恐怖があった。
無謀さもある。
だが、それ以上に、助けたいという願いがあった。
魔法少女になれなかった男。
それでも、誰かを救おうとしている男。
ゲキ・マキシマムは拳を握る。
エリゴスが咆哮する。
『ゲキ……マキシマム……!』
悪魔兵器の赤い目が、二人を睨んだ。
ローズはもう一度言った。
「お願い。あの子に、触れさせて」
その声は、悪魔空間の重さの中でも、まっすぐに響いた。