魔法少女のパパだが、娘が怪我をしたら俺が出るしかないだろ。 作:ワタリ3@ぼちぼち浮上
人気のない廃工場の薄暗い空間に、二つの影が並んでいた。
いや、正確には、並んで土下座していた。
タカワラーイ婦人とイタヴリ博士。
デビデヴィ・クライシス先行部隊の二人は、またも額が床につきそうなほど深く身を伏せていた。
前回よりも角度が深い。
背筋は不自然なほど伸びており、指先まで美しく揃えられ、膝の位置も完璧だった。
敗北と恐怖と保身が磨き上げた、芸術的”土下座”である。
……だが、芸術で命が助かるとは限らない。
「……博士」
タカワラーイ婦人が、床に顔を向けたまま小声で言った。
「何ですか、婦人」
「今回こそ終わりですわね」
「終わりですね」
「本部最新鋭を無許可で使用」
「そして破壊」
「悪魔空間形成の失敗」
「デモンコアも浄化」
「しかも男の魔法少女が増えましたわ」
「どう報告しても死にますね」
「だから土下座しているのですわ」
「土下座で済みますかね」
「済ませるのですわ!」
二人の前には、金属製の兎の仮面を被った、小柄な影がいた。
イヴィト副大隊長。
タカワラーイ婦人とイタヴリ博士にとって、逆らうという選択肢すら存在しない相手。
以前なら、この時点でイヴィトは怒っていてもおかしくなかった。
失敗を責め、言い訳を聞き、飽きたところで次の罰を告げる。
そういう相手だ。
だが、今回は違った。
イヴィトは、怒っていなかった。
少なくとも、表面上は。
「ふーん」
彼は資料を見ていた。
ユーギ・ザムライ・ニャンタがまとめ上げた、報告書と証拠データ。
ユーギは密かにデータ収集を行っており、今回の作戦の全記録が綺麗にまとめられていた。
D-15エリゴスの起動記録。
悪魔空間の展開推移。
ゲキ・マキシマムの戦闘データ。
ローズ・アンリミテッドの出現記録。
二人による同時浄化反応。
悪魔空間の崩壊過程。
さらに、シータアースにおける不確定要素の一覧。
普通なら、そこに並んだ情報は失敗の証拠、処罰の材料だった。
彼らの首を刎ねる理由としては、十分すぎるほど。
しかし、イヴィトはその報告書を、興味深い玩具でも見るように眺めている。
「
イヴィトが言った。
タカワラーイ婦人とイタヴリ博士は、床に額をつけたまま固まる。
「……面白い、ですの?」
婦人が恐る恐る聞いた。
「うん。だって、男の魔法少女が二人だよ?」
イヴィトは楽しそうに言う。
「一人目は偶然かもしれない。でも二人目が出た。これはもう、ただの事故じゃないよね」
博士が、思わず小さく顔を上げかける。
「副大隊長、つまりこれは研究価値が――」
「博士」
「はい」
「まだ顔を上げていいって言ってないよ」
「す、すみません」
博士の額が再び床についた。
イヴィトは、くすくす笑った。
「でも、君の言う通り。研究価値はある。シータアースは凄く変だね」
「変、で済みますの?」
「済まないよ」
イヴィトの声が、少しだけ冷たくなった。
たったそれだけで、廃工場の温度が下がったように感じられた。
婦人と博士の背中に、じわりと汗が浮かぶ。
「だから上も判断を変えたんだ」
タカワラーイ婦人の肩がわずかに動く。
「上層部が……ですの?」
「うん。最初の襲撃の失敗で、不確定要素が多いと判断したみたい」
イヴィトは報告書を軽く振った。
「だから、本格侵略は
博士が小さく呟く。
「後回し……」
「つまり、我々は」
婦人が恐る恐る聞く。
イヴィトは、明るい声で言った。
「支援は減るね」
「やっぱりですの!?」
「うん。だって失敗したし、D-15もなくしたし」
「それは、その……」
「無許可だったしね」
婦人と博士の背中に、さらに冷や汗が流れる。
しかし、イヴィトは怒鳴らなかった。
声を荒らげもしない。兎の仮面の奥で、笑っているように見えるだけだった。
「でも、処分は保留」
二人の動きが止まった。
「……保留?」
「そう」
イヴィトは少し離れた位置に控えているユーギへ目を向けた。
猫武者は、静かに片膝をついていた。
甲冑の隙間から覗く目は、いつものように落ち着いている。
だが、彼もこの場の空気が危険なものであることは理解していた。
「ユーギがまとめた情報が、思ったより使える。ゲキ・マキシマム、ローズ・アンリミテッド。シータアースを確実に落とすなら、こういう情報は必要だからね」
ユーギは渋い声で言った。
「恐れ入るでござる」
「無断持ち出しと、抜け出しは駄目だけどね」
「面目次第もござらぬ」
「でも、結果的に面白いものは見えた」
イヴィトは再び、土下座する二人へ視線を戻した。
「だから、今回は怒らない」
沈黙。
婦人と博士が、同時にわずかに顔を上げた。
「怒らない……?」
「本当に……?」
「うん」
イヴィトは首を傾ける。
「え、怒ってほしかった?」
「いえ! まったく!」
「怒られないのは素晴らしいことです!」
二人は即座に額を床へ戻した。
イヴィトは楽しそうに笑う。
「ただし、支援は減るよ」
「そ、それはもう、覚悟していますわ」
「デヴィ・リグの再支給もなし。今のところはね」
「うっ……」
「軍資金も最低限」
「ぐっ……」
「デビルキーも制限」
「博士、泣いてますの?」
「研究予算が……」
そのやり取りだけなら、いつもの悪の幹部たちの情けない会話だった。
だが、廃工場の空気は少しも軽くならなかった。
イヴィトの声が明るいからこそ、誰も安心できない。
彼が怒っていないのは、許したからではない。
別の何かを見ているからだ。
タカワラーイ婦人は、それを肌で感じていた。
「まあ、個人的には応援してるよ」
イヴィトが言った。
婦人の動きが止まる。
「応援、ですの?」
「うん」
兎仮面の奥で、視線が細くなった気がした。
「男の魔法少女……ああいう変わったものは、——目立つからね」
イヴィトは報告書の一枚を指で弾いた。
紙面には、ゲキ・マキシマムがエリゴスの外殻を砕こうと踏み込む瞬間が印刷されていた。
もう一枚には、ローズ・アンリミテッドが薔薇の魔法陣を咲かせながら少年の心へ語りかける姿が映っている。
「……変わったものを、好きな人がいる」
その言葉に、廃工場の空気が変わった。
タカワラーイ婦人も。
イタヴリ博士も。
ユーギでさえも。
誰も、すぐには口を開かなかった。
——変わったものを好きな人。
その言葉が指す相手を、ここにいる全員が知っていた。
「副大隊長」
婦人が、慎重に聞いた。
「——大隊長への報告は……?」
イヴィトの指が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
本当に、瞬きほどの間だけ。
兎の仮面の奥から、笑みが消えたように見えた。
「……ぼくがやっておくよ」
「副大隊長が?」
「うん」
声は明るかった。
明るいままだった。
だからこそ、婦人はそれ以上踏み込めなかった。
「ですが、大隊長は今回の失敗を知れば……」
「……タカワラーイ」
「は、はい」
「ぼくが報告するって言ったよね」
軽い声。
だが、その場にいる全員が黙った。
イヴィトは報告書を閉じる。
その表紙を、指先でとん、と叩いた。
「この資料には、必要なことだけ書く」
「必要なこと……ですの?」
「うん。シータアースは不安定。ゆえに、現段階では観測継続が妥当」
イヴィトは、まるで報告文を読み上げるように言った。
「それで十分」
博士が、ごくりと喉を鳴らす。
「ゲキ・マキシマムやローズ・アンリミテッドの戦闘記録は……」
「
即答だった。
「出さない、のですか」
「出さないよ」
イヴィトは首を傾けた。
「博士は、出したいの?」
「い、いえ! まったく!」
「……ならいいね」
イヴィトは楽しそうに笑う。
「……大隊長はね、退屈が嫌いなんだ」
誰も答えない。
「強そうなものを見ると、すぐに試したがる。壊れるかどうか。耐えられるかどうか。自分の前に立てるかどうか」
イヴィトは、ゲキの写真の上に指を置いた。
「こういうのをあの人に見せたら、——メンドクサイでしょ?」
その言い方は軽かった。
だが、タカワラーイ婦人の背中に、冷たいものが走った。
面倒。
イヴィトはそう言った。
だが、その一言の奥にあるものを、婦人は知っている。
大隊長が動く。
それは、単に戦力が増えるという意味ではない。
戦況が有利になるという意味でもない。
戦場そのものが、大隊長の遊び場になるという意味だ。
敵も味方も関係ない。
作戦も、損害も、すべて後回しになる。
それが、どれほど危険なことなのかを、婦人は知っていた。
「君たちの任務は続行。ただし、上手くやって」
イヴィトは明るく言った。
「静かに、確実に、シータアースを堕とすんだ」
タカワラーイ婦人の唇が乾く。
「……静かに?」
「そう」
イヴィトは笑う。
「支援は減る。上からのはね」
「……?」
婦人が反応する。
イヴィトは、報告書の端を指で撫でた。
「デビルキーも、デビドールも、軍資金も、正式な補給は厳しくなる……けど、正式じゃなければいい」
イヴィトの声は、ひどく軽かった。
その一言で、婦人と博士は顔を上げられなくなった。
正式ではない補給。記録に残らない支援。上に通さない任務。
……それは、救いではない。首輪だ。
イヴィトが、彼らを使い続けるという意思表示だった。
ユーギだけが、兜の奥で静かに目を細める。
「副大隊長殿。それはつまり」
「ユーギ」
「はっ」
「言わなくていいことは、言わない方が長生きできるよ」
「……承知」
ユーギは深く頭を下げた。
イヴィトは満足そうに頷き、婦人と博士へ視線を戻す。
「タカワラーイ」
「は、はい」
「博士」
「はい」
「期限は
「もちろんですわ!」
「次こそは必ず!」
「それとユーギ」
「はっ」
「勝手に本部兵器を持ち出すのは、次からは駄目だよ」
「承知」
「それから君は、このままシータアースでの任務にあたって。前いた場所はどうにかする」
「御意」
「……次からは、ちゃんと、ぼくに言ってね」
ユーギは一瞬だけ沈黙した。
そして、深く頭を垂れる。
「心得たでござる」
「うん。いい子」
イヴィトは笑った。
廃工場の中には、まだ冷たい風が吹き込んでいる。
処分は保留された。首はつながった。
支援も、完全に絶たれたわけではない。
だが、タカワラーイ婦人は少しも安心できなかった。
イヴィト副大隊長は、怒っていない。
怒っていないからこそ、恐ろしかった。
彼は失敗を許したのではない。
何かを隠し。何かを避け。
何かが来る前に、終わらせようとしている。
その何かの名を、婦人は知っていた。
しかし、この場でその名を呼ぶことすら、ひどく危険な気がしたからだ。
イヴィトは、閉じた報告書を脇に抱える。
「じゃあ、ぼくは行くね」
その声は、最後まで明るかった。
「次の支援は一週間後。君たちの成果、楽しみにしてるよ」
黒い霧が、兎の仮面を包んだ。
イヴィト副大隊長の姿が、静かに消えていく。
廃工場に残されたのは、土下座したまま動けない二人の悪と、片膝をついた猫武者だけだった。
やがて、博士がかすれた声で呟いた。
「……婦人」
「何ですの」
「生きていますね、我々」
「ええ、なんとか」
「でも、厄介なことになりましたね」
「ええ」
婦人は、ようやく顔を上げた。
美しい銀の縦ロールが、わずかに乱れている。
その顔からは、いつもの高笑いの余裕が消えていた。
「博士。ユーギ」
「はい」
「はっ」
タカワラーイ婦人は、ゆっくりと立ち上がる。
膝が少し震えていた。
それでも、彼女は悪の幹部として扇子を広げた。
「次は失敗できませんわ」